2015年8月8日 第114回「トピックス」
癌とは何か?
<対策編④>

●(1)「癌とは何か?」

 ②「老子」から学ぶ・・・51ページ

罪は欲す可(べ)きより大なるは莫(な)く、
咎(とが)は得んと欲するより大なるは莫く、
禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫し。
故に足るを知るの足るは、常に足る

●(2)平成27年7月15日、THE BIG ISSUE 「米国路上から」(岩田太郎)

 <ホームレスに扮するセレブ>

 著名で裕福なNFLフットボール選手2人がホームレスに扮し、路上生活者の体験を味わうドキュメンタリーが、スポーツ専門局ESPNで放映され、話題になっている。
セントルイス・ラムズのディフェンシブエンドを務めるウィリアム・ヘイズ選手(30歳)と、同チームで同ポジションの親友、クリス・ロング選手(30歳)はコンビを組み、セントルイス市の路上で一日を過ごした。

 二人を追跡する隠しカメラがまず捉えたのは、みすぼらしい格好と老けメークをしたヘイズ選手とロング選手を見つけた警察官が、職務質問する様子だった。「いつものちゃんとした身なりなら、止められない」と、ロング選手は回想する。

 彼らは4ドルずつしか渡されていなかったので、食事を買うために物乞いを始めた。段ボール紙に「ホームレスです。お金を恵んでください」と書かれたサインを持ち、路上に立つセレブな二人。誰も彼らが地元チームのスター選手だなどと気づかない。白人のロング選手は5ドルをもらえたが、黒人のヘイズ選手は収入なしだった。

 氷点下に近い夜、やっと見つけた廃墟。ドラム缶のたき火で暖をとる二人だが、先住者が来て、「ここは俺の場所だ」と宣言し、追い出された。その後、廃車になったトラックの貨物室に潜り込んで寝ることができた。「人生で最悪の夜だった」とヘイズ選手は言う。

 欧米には、有名人や聖職者がこのように路上生活者に扮して、人々を試す伝統がある。イエス・キリストが、「最も小さき者にしなかったのは、私にしなかったのである」(マタイ伝25章)と述べたことに由来する伝統だ。

 ソルトレークシティのモルモン教司祭、デイビッド・マッセルマン氏(47歳)は、白髪のかつらを着用して汚れた服装で教会に行き、礼拝に訪れた信者に声をかけた。お金を渡す人もいたが、大半は無視するか目を背け、「教会から出て行け」と言う人もいた。変装を取って正体を明かすと、信者らは驚き、中には泣く人もいた。

 最も小さき者に心を開くことは、誰にとっても難しい。変装のセレブや聖職者が教えてくれる現実だ。

 <いわた・たろう・・・京都市出身の在米ジャーナリスト。米NBCニュースの東京総局、読売新聞の英字新聞部などで報道の訓練を受ける。現在、米国の経済・司法・政治・社会を広く深く分析した記事を「週刊エコノミスト」誌などの紙媒体に発表する一方、ウェブメディアにも進出中>

●(3)平成27年8月4日、夕刊フジ「LA発 芸能WATCH」

 <似すぎた悲劇ホイットニー・ヒューストン一人娘22歳の死>

 有名でリッチなセレブの子の多くは、なぜ破滅的な人生を送ってしまうのか。ホイットニー・ヒューストンの一人娘、ボビー・クリスティーナ・ブラウンさんが先月26日、22歳の若さで死去したニュースには、やりきれなさが残った。

 米ジョージア州の自宅でクリスティーナさんが浴槽の中でうつぶせの状態で発見されたのが、今年1月31日。意識はなく、救急車で病院に運ばれた。
 昏睡状態が続いていたが、6月にはアトランタ近郊のホスピスに移された。回復は絶望的と判断され、家族の同意で生命維持装置が停止されていた。現在詳しい検視報告が待たれている。

 この悲劇は、2012年にビバリーヒルズのホテルの浴槽で溺死した母のホイットニーの状況に酷似しており、関係者やファンに大きなショックを与えている。
ホイットニーは、抜群の歌唱力と美貌で世界を魅了したスーパースターだった。絶頂期といえるのが1992年。初主演した映画「ボディガード」が、主題歌「オールウェイズ・ラヴ・ユー」と共に大ヒットする。

 同年、人気ラッパーのボビー・ブラウンと結婚。翌年にはクリスティーナさんが誕生した。「私の人生は変わった」と、母になった歓びをあふれさせ、愛娘を公の場やステージで紹介した。
 一方でボビーのキャリアは凋落。ホイットニー自身、夫と共に麻薬や酒に溺れる日々が続き、DVも明るみに出る。

 人気挽回を、と家庭をライブ中継風にTVで紹介するリアリティーショーが始まったが、ホイットニーの姿は惨めで歌姫のイメージは、もはやなかった。この家庭でクリスティーナさんはどう育ったのか。ホイットニーは2006年に離婚。リハビリを続け再起したかに見えたが溺死して3年が経つ。コカインによる心臓発作が引き金となった。

 当時、ロビーにいた18歳のクリスティーナさんは、母の死の知らせに錯乱状態になり、病院に運ばれたそうだ。
スポットライトを浴びて育ったプレッシャー、最愛の母の死・・・。恋人に心の安静を求めたが、彼はクリスティーナさんの預金を無断で使い、暴力をふるった。ピープル誌によると恋人は彼女の後見人から数十億円の訴訟を起こされていたという。

 精神的苦悩の中、両親と同様に麻薬とアルコールに溺れ、リハビリを繰り返したクリスティーナさんは、母とあまりに似通った無残な結末を迎えてしまった。米国の女の子が楽しみにする16歳の誕生パーティーを開いてもらえず、高校卒業のプロム(謝恩会)のパーティーにも出席できなかったことを悔やんでいたという。望んだのは普通の女の子の生活だったはずだ。

 「本当に優しい娘だった」とホイットニーのいとこにあたるベテラン歌手、ディオンヌ・ワーウィックが偲ぶ。「これで彼女はやっと平和になれる」と家族は語るが、天国で初めて安らげるたった22年の人生なんて、むごすぎる。(板垣眞理子)

●(4)平成27年7月28日、日刊ゲンダイ「山本晋也 死ぬまでずっと・・・」

 <極貧のマダガスカルを曽野綾子氏と歩いた>

 「自分がやってきたことは何だったんだろう」と山本晋也カントクは口にする。それが「やってこなかったことは何だったんだろう。それに挑戦したい」になった。自宅でほろ酔いのまま、電話をかけて参加を申し出た曽野綾子氏のマダガスカル医療支援。14年秋、アフリカ大陸の南東、インド洋に浮かぶ島国での2週間がカントクの人生の指針を変えたのだ。

 「ホテルを一歩出たら、たくさんの子どもたちが物をねだりに寄ってくる。外国人が珍しいのだろうけど、それだけじゃない。僕の革のブーツを見ていたんです。子どもたちはというと、ほとんどが裸足、ビニールの薄っぺらいサンダルがせいぜいで、電気も水道もガスも未整備なら病院もなく、そもそも医師に腕がない。マダガスカルで2番目に大きな街なのに、公共バスも自転車もなく学校もないという所なんですよ」

 日本の1・6倍の面積に2290万人が5万円程度の年収で暮らしていた。口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)という、上唇が裂けた状態で生まれてくる子どもが世の中にはいて、1回の手術で完治するところ、マダガスカルではそれも受けられない。発音はおろかおっぱいも飲めず、物乞いもできず、ただ生きていくことすらできずにいる子どもたちを集め、昭和大学の専門医による医療班が手術する姿にカントクはカメラを向けた。

 「半ば予想されていたんですが、停電になり、そのうえ、雨期による豪雨で空が割れるほどの雷が鳴って、生まれて初めて怖いと思ってしまった。そんな中、先生たちは懐中電灯をつけ、ローソクに火をつけて手術し続けていた。麻酔器は手動で動かしていたんです」

 子ども12人、14人きょうだいなんて当たり前、街には親に捨てられ、片道30分の水くみを10往復やって稼いだ75円で生きている14歳と7歳の兄妹がいたりした。

 <家に屋根がなく犬と濡れて寝ている>

「日本にいると、想像もできないけど、屋根がないんです。犬なんかと一緒に濡れて寝ている。今晩食べるものもないって言うんですね」
曽野氏とともにマーケットを歩き、足が棒のようになったときだった。

 「露店では何やら凄まじいものが売られ、食べていいものなのかどうかも疑わしいし、右も左も分からない。それでうなだれるといいますか、ふと足元のあたりをみて感心したのは、小学2~3年生くらいの女の子が空き箱か何かを机にして、勉強していたことですね。あのマララさんの言っている、ワンブック、ワンペン、ワンノートで。ティーチャーもいないというのに、明るくて目がキラキラして、笑うと揃ったばかりの白い歯がのぞくんです。今の日本にはいない。ああいう子は・・・・・」

 驚くカントクをみて、曽野氏が「幸せでしょ」と言った。
「幸福は学校だけじゃない。それぞれの幸せがあると発見しているだけで、日本より幸せ。大学に行かなかったら一生終わりなんて発想はここにはないんですよ」
カントクはトルストイの短編を思い出した。

 「人はどれだけ土地が欲しいかってんで、ある男が大地主から言われるんです。『おまえに土地をやる。日の出から日没まで歩いた分だ。日没までにここに戻って来い』って。喜んだ男は下男を連れてまあ必死に歩くわけですよ。それで日の沈むギリギリに帰ってきて、安心したんだけど無理したんですね。ポックリと死んでしまった。下男はご主人様の身長を測って、これくらいだなって穴を掘って埋めるんです」

 曽野氏は笑って、こう言った。
 「今の日本人ほど贅沢な国民はね、世界のどこを探したっていませんよ」
貧困率が右肩下がりの格差社会でも、だという。
<つづく>

●(5)平成27年7月29日、日刊ゲンダイ「山本晋也 死ぬまでずっと・・・」

 <世界で一番贅沢!>

 「日本は世界で一番、本当に最高の贅沢をしてます。庶民まで」
アフリカ大陸の南東、インド洋の島国マダガスカル共和国への医療支援活動を続ける作家の曽野綾子氏はそう言った。

 「先ず第一に水と電気が途絶えない。それから交通網が整備されている。銀行員がインチキをしない。お巡りさんが賄賂を取らない・・・。挙げていったら切りがないくらい。これだけ揃った国は本当にないんです」

 日本の相対的貧困率は今やOECD34カ国中29位の水準。全世帯の16・1%、およそ6人に1人が平均の半分にも満たない所得で喘いでいる。高齢者になるほど悲惨で、年金を打ち切られ、社会保障もカット。そのうえ増税ラッシュで食うや食わずだというのに、である。昨秋、曽野氏の医療支援団に同行し、衣食住もままならないマダガスカルを見た山本晋也カントクはこう言う。

 「片道4キロもの悪路をはだしで1日10往復も水汲みして、たった75円で生きている兄妹がいて、明日食べていけるかどうかも分からない。屋根もないところで寝なきゃいけないのに、その晩、食べ物にありつけたというだけで大喜びしている。それだけで本当に幸せだって言うんですよ。そういうのが世界の貧困の基準、ものさしだということを現地で知りました。物差しでいえば、日本の場合、もうダイエットする必要がないのに、まだ痩せなきゃとやったり、美味珍味を競うように取り寄せたりしているでしょ。物欲にしろ食欲にしろ、他人と比べたりして、満たされない。少欲知足ということを忘れているというのは、貧しさだと想いますね」

 <マダガスカルは平均年収5万円でも悲壮感ゼロ>

金があるに越したことはない。しかし、平均年収5万円で、子どもを学校に通わせることもできないというのに、マダガスカルの人々は子だくさんで、大家族を作り、悲壮感などまったくなかったという。

 「B29の隊列が空が見えないくらいに広がっているのを防空壕から見た東京大空襲の後、お婆ちゃんに手を引かれて上野駅を降りた時を思い出します。あふれんばかりの戦災孤児たちが物乞いするときの物凄い目ったらなかった。俺はこんな目に遭っているのに、おまえはまともな服を着て、のうのうと歩いているという凄まじい殺意を感じ、とても怖かった。そういう目つきの子がマダガスカルにはいないんですよね。物をねだるときも」

 文化の違いもあるだろうが、カントクは焼け野原から立ち上がり、働き育ててくれた両親の背中を思い出す。
 「考えてみれば、おふくろは150センチもない小さな体で長男の俺を筆頭に5人の子どもを産んでるんですよね。親父は夜中に帰って早朝に出ていく仕事漬けの人生を送っていた。それが当然のように思っていましたけど、よくもまあ、あそこまで身を粉にして、愚痴ひとつ言わずにやったもんです。何が欲しいとか、聞いたことないですね」

 そうした世代が日本を復興させ、経済大国にし、「世界一贅沢な社会」をのこしたのだろう。それらを食い散らかしてきた結果が今、目の前に広がっている。
「寅さんが旅に出ると、はがきをよこしますよね。汚い字でこう書いてある。反省と後悔の日々を過ごしております、と。俺みたいに完璧でない人間にとっては、それしかない。しみじみ思うのは、自分がやってきたことにこだわるんじゃなくて、やってこなかったことは何だろうってこと。できることは何かって・・・」

 76歳。体は衰え、酒も医者に止められている。それでも、マダガスカル医療支援では昭和大学の専門医らを同地へと送る医療船を出せないかとカントクは尽力している。

●(6)平成27年7月31日、週刊ポスト「昼寝するお化け」(曽野綾子)

 <昼食から学ぶ>

 <略>

 人は夕食についてはよく語るが、昼飯についてはあまり感傷的にはならない。しかし私は人間の昼飯から実に多くのことを学んだ。

 私が幼稚園から大学まで学んだ修道院経営の学校には、国際学部と言うべきか、戦前から日本に在住していた外国人や、海外の生活が長くて日本語ができないままに育ったいわゆる帰国子女たちが、全教科を英語で学ぶ「語学校」があった。

 私は外国の暮らしをしたことがないので、外国の弁当なるものは一体何を食べているのかわからないのだが、三、四十年前にアメリカで暮らしたことのある人によれば、子供の弁当は毎日サンドイッチと決まっていたという。食パンの一枚に苺ジャム、もう一枚にピーナッツ・バターを塗ってその二枚を合わせてサンドイッチ用の袋に入れる。メニューは毎日同じだから親は気楽なものだし、子供も文句など言わない(藤森注・・・長男が高校生になった時、年が離れた次男の育児で、妻の体調が不十分でした。私は、毎日、3年間、必死で、長男の弁当を作りました。一番難しかったのは、味や量の調整よりも、彩りでした。そのために、綺麗な色が出るゆで卵は必需品だったことが懐かしく思い出されます。慣れない料理に、弁当だけで、毎朝、1時間かけていましたが、サンドイッチならば簡単!!!)。このサンドイッチは、たとえ今日食べなくても腐らないので、私は3・11の地震の直後に都心に出かけた時には、大きな余震に備えて、このサンドイッチを持ち歩いていた。

 「語学校」の生徒は、昼には学校で食事が出た。シスターたちが作る家庭的な昼食である。そして普通の文部省令による私たち小学生でも、特別に食事代を出せばその中に加えてもらえた。そして私の母は、早速その制度を利用した。母は後年、テーブルマナーを躾けてもらいたかったからだと理屈をつけていたが、本当はお弁当を作るのが面倒だったからかもしれない。

 私は毎日、語学校の食堂に行って食事をした。お弁当組の子供たちは食事の後に休み時間があるが、私たちは食事前に時間があるので、食堂の傍らの裏道でドッジボールなどをして遊んだ。すると或る日、ボールが竹藪の中に飛び込んだ。私はそれを取りに行き、青ざめて出て来た。「人骨がある」と私は友達に言った。藪の中にはたしかに乾いた骨の山があったが、実は修道院が毎日スープに使っていた牛骨の出汁殻(だしがら)であった。

 しかし、我が家は古い典型的な日本の家庭だったので、牛の骨でスープストックを取るなどという料理法を当時は知らなかったから、骨と言えば私は人骨だと思ったのである。こういう体験を通して私は、農耕民族である日本人と、牧畜民族の末裔であるいわゆる西洋人との根本的な生活の姿勢の差を知った。

 シスターたちの作る料理は典型的なヨーロッパの家庭料理だった。肉とポテトやビーツ。週に一度は残り物の野菜を集めて作ったことがわかるスープが出た。それは「ご復活料理」というアダ名だったが、私はそれ以来今でも、週に一回は野菜籠の残り野菜すべてを整理しながらスープを作っている。

 食前に長い長いお祈りがあった。私たち子供は、早く終わればいいのにと思いながら待っている。しかし今日食事ができることを感謝することと、文化や信仰の違う人と共に暮らす時には、それぞれが譲り合い、相手の好む制度習慣を守ることを教えられたのである。

 食堂では、上級生と下級生が均等に割り当てられた食卓で、一種の擬似家庭を作って食事をさせられた。一番年上の上級生がお父さんとお母さん役で、私たち子供たちに、肉や野菜を取り分ける。私たちは食事の礼儀に適った態度を厳密に躾けられた。頬ばってはいけない。口に一杯食べ物を入れた状態で喋ってはいけない。頬づえをついて食べてはいけない。人の前に手を伸ばして、塩や胡椒の瓶を取ってはならない。その場合は、「どうぞ、お塩を廻してしただけますか?」と丁寧に頼まねばならない。お皿を持ち上げてはいけない。

 同じ頃私の夫は(もちろんお互いにその存在さえ知らなかったが)武蔵境の郊外で暮らしていた。当時その辺りは農村地帯と思われていたらしい。夫の家は、父がイタリア語学者で編集者。豊かではないが、特に貧乏ということもなかった。だから夫は毎日弁当を持って学校に通った。

 学校には雑種の犬を教室の中にまで連れて来る子や、教室でも妹をおぶったままの子などがいた。そして貧しい農家の子は、時々弁当を持って来られなかったり、正月の後には焼餅を弁当箱に入れて来たりしていた。焼き冷ましの餅は昼にはカチカチになっている。その子は昼休み中かかって固い餅を噛んだりしゃぶったりしていた。

 中には何も弁当を持って来られない子もいた。夫は自分の弁当を半分やろうか、とも思った。しかし一度それをやると、明日もその子に半分やらねばならない。とうていそんなことはできない。と夫は気がつかないふりをして自分の弁当を平然と食べた。

 助けたいと思っても、現実に人間にはできないことがある。夫はそれ以来、人道的なことは言わなくなった。弁当を半分に分け続ける決心さえつかなかった自分を知ったからだという。人間は昼食一つからもたくさん学ぶものだ。

●(7)私(藤森)が尊敬している故・大須賀発蔵先生に長年、ご指導いただきました。

 「心の架け橋・・・カウンセリングと東洋の智恵をつなぐ」(大須賀発蔵著、柏樹社)

 <祈ることだけは誰からも奪われない>・・・p120

 最近、私が教えられ、力を与えられたことをひと言お伝えしたいと思います。
 私がご一緒に歩いておりますお母さんから夜遅くお電話がありました。中学に行っている息子さんが非常に苦しんでいて、いま学校に行けない状態にあるわけなのです。その苦しみが、一つの極点といいますか、耐え難くなりますと言葉に表現できないから物に当たるということで苦しみを表現されることがあります。

 「今日は、そういうことで子どもが苦しんで、私もどうしていいかわからないのです。本当にどうしていいかわかりません。だから申し訳ないと思ったのですが、こんなに遅くお電話をしてしまったんです」とのことでした。

 私もそれをお聞きしながら、もちろんどうすることもできませんし、こうしたらいい、ああしたらいい、という方法などありません。そこで苦しんでいるお子さんの気持ちやお母さんの気持ちを、それを自分なりに精いっぱいに感じとりながらお電話を聞くだけしかできませんでした。そのうちにお母さんも気持ちをしずめられて、電話を切られたのですが、私は夜そのことが心にあって、どうなされたかなという思いが消えませんでした。

 翌朝、電話をしてみたんです。そうしましたら、ちょっとお声が元気なんです。「ああ、よかった」と思ってお聞きしましたら、「実は昨夜(ゆうべ)電話をかけた後、いろいろ考えているうちに、はっと気づきました。大きなことを私は忘れていました。それはいま自分がどうしていいかわからないという思いで電話をしたのですが、しかしどんな状況であっても、子どものために“祈る”ということだけは、誰からも奪われないで存在しているんだということに気がつきました。昨夜はそんな思いで子どもへの祈りをしながら休みました。そうしたら何か、自分の気持ちも本当に楽になりました。子どもはまだ休んでおりますが、きっと楽になっていると思います」という話だったのです。

 私はそれを聞いて、じーんと心を打たれ、本当にそうだと心からうなずきました。

 祈るということは、自分の心の極点というか、「一即一切」でいうならば、心の中のギリギリの極点としての“一”に立ってしまうことだと思います。そのとき、こちらのあるがままの姿を宇宙が寄ってたかって支えてくれていることが見えてまいります。“祈り”の一点に立ったとき、宇宙現象の一切が方便(救いの手立て)であることが感得されるのですね。それはまさしく、「一即一切」の華厳の世界を体験したことではないでしょうか。私は、お母さんの心をとおして深い智恵をとどけられたという思いがいたしました。

 <おおすが・はつぞう・・・1923年長野県に生まれ、7歳で茨城県へ移る。東洋大学文学部宗教学科を卒業後、家業の製材業を継ぎ、木材関係三社の代表取締役を勤めるかたわら、心の開拓に活動の中心を置き、茨城カウンセリグセンター理事長、茨城精神保健協会会長、茨城いのちの電話理事長などを兼務。常にカウンセリングの現場に身をおき、仏教の智恵を生かし、融合することを生涯の悲願として執筆、講演に全国を東奔西走している。1987年第21回仏教伝道文化賞を受賞>

●(8)さて、私(藤森)は、上記の内容とほとんどまったく同じ体験をしたことがあります。

 かなり前のことですが、私の知り合いが経営するお店で飲んでいるときのことでした。

 私がカウンセリングでお世話をしている方(お母さん)から、上記の大須賀先生に電話をされた方とほとんどまったく同様の電話が転送されてきました。
 このお母さんは、2階で大きな声で喚いている息子さんのことで、ほとんどパニック状態になり、「どうしたら良いか」ということで電話をして来られました。そのときの私は、大須賀先生と同じ心境になりました。

 そこで、先生から伺っていた「祈る」ことをお勧めしました。

 追い詰められたお母さんは、たぶん、必死になって祈ったことと思われます。
 お母さんが祈っていると、暫くして、騒いでいた息子さんが降りてきて、部屋を開け、穏やかに「お母さん」と話しかけてきたそうです。
 後日、この話をお聞きした私は、ただ、唸りました。

●(9)大須賀先生からは、同様の、しかし、別のタイプのお話しをお聞きしたことがあります。

 ある小学校の女の先生の話です。
 クラスのある生徒の扱いで困り切っていたこの先生は、大須賀先生のお話を聞いて、ハスの花の上に、この子の絵を描いたそうです。それでこの先生の心境が変わったのでしょう。
 その翌日、教室に入ると、扱いに困っていた男子生徒が教室の前に出てきて、先生の膝に泣き伏したとのことでした。

<<<祈るということは、自分の心の極点というか、「一即一切」でいうならば、心の中のギリギリの極点としての“一”に立ってしまうことだと思います。そのとき、こちらのあるがままの姿を宇宙が寄ってたかって支えてくれていることが見えてまいります。“祈り”の一点に立ったとき、宇宙現象の一切が方便(救いの手立て)であることが感得されるのですね。それはまさしく、「一即一切」の華厳の世界を体験したことではないでしょうか。私は、お母さんの心をとおして深い智恵をとどけられたという思いがいたしました。>>>

<<<ギリギリの極点としての“一”>>>に立つことの凄さを、私(藤森)は実感させていただきました。

●(10)私(藤森)は、宗教には詳しい者ではありませんが、キリスト教も仏教も祈りは大事なのでしょうね。

 「ひびきあう心・・・カウンセリングに生きる曼荼羅の智恵」(大須賀発蔵著、財団法人茨城カウンセリングセンター刊)

 <マンドルラ>・・・p36

 (略)

 キリスト教にもマンドルラというふうに呼ばれるものがあるというのです。語源だって曼荼羅と同じですよね。そんなのがあるんだよって篠田さん(藤森注・上智大学教授)は言うわけで、私は曼荼羅なんて仏教で始まったものだとばかり思っていたのですが、そのキリスト教のマンドルラと呼ばれる図は、真ん中が縦長のアーモンド型の枠で括(くく)りになっていて、そのアーモンド型の中にはキリストが、十字架ではなくて説教をなさっている姿、あるいはマリア様がキリストを抱いている姿とか、そういうことがアーモンド型の括りの中に描いてあって、そしてその括りの周りにちゃんと四天王と同じ存在が四人配置されているんだというわけなのです。

 <略>

 まずマンドルラというのをドイツ語の辞典で引きますと、アーモンド型光背(こうはい)とあります。この光背というのは、先ほどの立体曼荼羅の仏様にも全部光背があるのですが、仏様の背中に、明王やなんかは別だけれども、背中にみんなあるでしょう。よく「後光がさす」などともいいますが、後ろの光のことを光背といいます。

 <略>

 インドやイラン高原より北の中央アジアにアーリア人が、アーリア人でもいろいろ人種的に分かれるのかどうかは分かりませんが、とにかくそこで遊牧民として共住していた時代がありました。彼らは時代の経過とともに、今から四千年も五千年も前になりますけれど、民族の移動を始めるようになったといわれています。そのアーリア人たちは西や南へと、牛や羊を追っていったのではないでしょうか。

 西へ向かって移動した諸部族は、今のヨーロッパの諸民族に溶けいって、いろいろな国に展開しているわけです。だからヨーロッパの文明もアーリア人の影響を非常に受けているわけですよ。

 そしてアーリア人の中にはインドに入ってきた人たちもいたのです。その人たちがヒンズークシ山脈のあるインドの北、カイバル峠を越えてインドに侵入してインド文化を開いたのが三千五百年前から四千年前だということは、大学でずいぶん聞かされていたことです。移住してきたアーリア人の文化がもとで成立していったヴェーダの思想があって、そのヴェーダを中心としてバラモン教ができて、そしてそのバラモン教の否定として仏教ができましたから、歴史的に見て仏教は新しいほうなんです。

●(11)お釈迦様の最後の教えが「遺教経」の「八大人覚」。「①少欲」・・・・・「⑧知足」で、曹洞宗の始祖・道元も最後の教えとしたそうです。

 最後に、上記の著書心の架け橋」を大須賀先生にいただいたときにサインをしてくださいました。その時に揮毫してくださった言葉です。

 <お互いのちがいを大切にするとき みんなの心は一つになる

<文責:藤森弘司>

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