2015年6月13日 第113回「トピックス」
<対策編③>
●(1)前回③の下記の部分を再録します。今回の「癌とは何か?④」は、下記の(4)から始まります。
「癌とは何か?」の41ページから42ページにかけて・・・・・ <<<スポーツでも文芸でも学問や芸術でも、何でもそうですが、エネルギー一定の法則から考えて、ある分野の能力を極端に伸ばすということは、必ず、別の分野を犠牲にするものです(もちろん、例外的・天才的な人を除きます)。 以前にも書きましたが、モーツァルトもベートーベンもトルストイも・・・・・そして、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治などは精神の異常をきたしたり、自殺しています。 このように書きました。 そういう全体に目を向けてみる柔軟性や多様性が大切です。その上で、真似をしたければすれば良いのですが、学問(スポーツなり芸術なり)の優れた一面だけを見て、学問に秀でたけれど不幸になったというのでは残念です。 川端康成は文化勲章やノーベル賞を受賞しましたが、1972年に自殺しました。 また、相撲の横綱は格闘技的に見て最強だとも言われています。その横綱は60歳の還暦を迎えると赤いフンドシを締めて土俵入りをするそうですが、土俵入りをする横綱は少ないそうです。つまり、還暦を迎える前に亡くなってしまうのです。最大級に体を鍛えた横綱が早死にするということは、まさにそれが影の部分です。 それでも構わないから横綱を目指したいのは個人の好みです。 |
●(2)さて、「交流分析」という心理学をご存知の方は「P・A・C」の意味をご理解いただけると思います。
簡単にご説明しますと、「P・・・PARENT(両親)の略」で、父親的なPと母親的なPがあります。「A・・・ADULT(大人)の略」で、学問などで得られる知性を意味します。「C・・・CHILD(子ども)の略」で、情緒・情動や順応性を意味し、自由(FREE)なCと、順応(ADAPTED)したCがあります。 さて、上記の(1)で述べた例で、例えば、ノーベル賞を受賞するような学者タイプは、「A・・・ADULT(大人)」が肥大している傾向があります。そして、芸術家タイプは、「C・・・CHILD(子ども)」が肥大している強い傾向があります。 そのために、例えば、「C・・・CHILD(子ども)」が肥大した芸術家タイプは、芸術性が優れている代わりに、人間性がいかがかと思われる部分が大きいものです。 しかし、オリンピックのメダルと同じで、いくら頑張っても、圧倒的多数の私たちには届かないレベルです。せめて、メダルに届く可能性がわずかでもありそうであるとか、学問の業績が優れていて、わずかでも何か夢を見られそうであるならばともかくも、多分、ほとんどの人は、距離があるわけですから、欲望を、もう少し常識的なレベルに留める、妥協する、「足るを知る」(「癌とは何か?」のp51~52ご参照)ことも大事ではないかと思っていますが、皆さんはいかがでしょうか? 今回は、人格がハチャメチャで「C・・CHILD」が暴走する野口英世を取り上げてみたいと思います。 |
●(3)平成27年3月31日、東京新聞「B面科学史」
<野口英世③> <次から次へ 借金王> <略> 野口は医師免許を取得すると、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に勤め、清国に派遣されてペスト対策にあたる。そして米国留学を志し、北里にロックフェラー医学研究所のフレクスナー博士あて推薦状を書いてもらう。公費留学は、学歴のない野口には不可能だった。 資金はさまざまな手段でかき集めた。東京の居候先であった歯科医師・血脇守之助の縁から、ある家の娘と婚約して持参金200円(300円とも)を得る。当時の物価からみると200万円にも相当しよう。しかし野口は婚約を履行せず、血脇が肩代わりして持参金を返済するまでトラブルの種になった。 さらに故郷の恩師・小林栄や友人からも数百円の金をかき集めた。ところが出航前に横浜の料亭で友人たちと大宴会を開き、残金わずか30円に。泣き付かれた血脇は、金融業者から金を借り、切符や衣類は現物で渡した。 渡米後も同様だった・・・・・<続く> (この後も面白いです。典型的な天才肌で、人格破綻者だと思われます。次回は6月10日にアップします) |
●(4)ここからが今回④のスタートです。上記の③、野口のハチャメチャ振りの続きです。
平成27年3月31日、東京新聞「B面科学史」 <野口英世③> <次から次へ 借金王> <略> 渡米後も同様だった。借金してまで最高級の葉巻を買い、レストランに入ると「メニューにあるものを全部もってこい」と注文する。母が年老いたことを知り、帰国しようとしたが船賃がない。野口は同郷の製薬会社社長・星一に「カネオクレ」と打電し、5千円を送金させた。 「なくなればまた誰かに借りればいい」が野口流。不思議な魅力があって、次々に金を貸してくれる人が現われた。だが借金を踏み倒された人やその家族には魔力という方が適切だろう。東京歯科大の基礎を築いた血筋は、自分の子に「男にほれるなよ」と諭したという。 |
●(5)このハチャメチャ振りは、まともな人間には「魅力」や「魔力」と感じるのでしょうね。でも、残念ながら、そういう方はオカルトチックなことや、「姓名判断」的なことにも魅力や魔力を感じる人たちではないかと思われます<「今月の言葉」第154回「驚愕!江戸しぐさ②ー②」ご参照><◆企業経営者・コンサルタントのオカルト嗜好◆オカルト好きコンサルの代表・船井幸雄を特にご参照ください>。
しかし、面白いのは、自分の子には「男にほれるなよ」と諭したというのですから、ご自分のハチャメチャ振りは自覚していたのでしょうね。自覚してはいても、止められなかったのでしょう。野口英世先生ほどの知性・教養が溢れる方でも、麻薬に溺れる人のように。つまり、「人格」と「知性・教養」は別物だということです(「癌とは何か?」のp43「知性」と「品性」は別物をご参照)。 私(藤森)自身は、若いとき(今でも)、能力が無い「人格破綻者」的な人間でしたので、他人の悪口を言う資格の無い人間です。貧しくてお金にも困る生活をしていました・・・・・そして野口先生ご自身もお金が無い上に、実家には年老いた、しかも、経済的に十分でない母親がいるにもかかわらず、このようなことができるのは、「人格破綻者」(ここの部分だけ私と似ていて親しみを感じます)だと言わざるをえません。 それにしても、それにしても・・・婚約不履行はするは、巨額の不正(?)使用はするは、いかなるお金持ちでもしないであろう、しかし、丸っきりお金が無い野口が、「メニューにあるものを全部もってこい」と注文するは・・・これは狂気か喜劇か、童話か、お伽の国の話か、とにもかくにも、私のスケールの百倍です。医学者というよりも芸術家タイプですね。 こういう行動が取れる本人なり、家族なりが、何らかの病気にならないほうが不思議です。身体的な病気か、心理的な病気か、事件を起こすような出来ごとか、何があるかは不明ですが、まともな一生を送れるわけがありません(黄熱の研究中、同病に感染し、1928年死亡。52歳<電子辞書>とありますが、研究熱心だから感染したとも言えますが、研究の仕方がどうだったのかという疑問が私にはあります。まだまだ興味深い資料がありますが、今回は、さらに素晴らしい資料を発見しましたので、野口先生の続きは次回にします)。 そういう話を中心に書いた部分が「癌とは何か?」の第三部(p37~68-2「心理・精神世界について『一考察』」)です。 本来は、「癌とは何か?」を書いたので、癌にならない方法や、癌になった場合に、どうしたら治せるのかを書きたいものです。 そこで、最後に「朝顔に釣瓶とられてもらい水」(加賀千代、p68)という歌を紹介しました。 「癌」に限らず、全ての心理的・身体的な病気や、対人関係・・・夫婦の不仲、職場でのゴタゴタ、あるいは事件を起こしたりする問題などは、皆、「自律神経」の「交感神経」と「副交感神経」のアンバランスから生じます。 そういうことをいろいろ書きたいのですが、私ごときが述べることはウソっぽかったり、生意気っぽかったり、信頼していただけなかったりするので、「朝顔に釣瓶とられてもらい水」だけにしました。 しかし、今回、私が一番言いたいことを、尊敬する曽野綾子先生がズバッとおっしゃっていらっしゃるので、それを転載させていただきます。 |
●(6)平成27年6月12日週刊ポスト「昼寝するお化け」曽野綾子著 <不健康者向きの旅> 人生で、人は実に無力なものだと思う。たとえば、どこか知人の家庭でガンの患者が出た時、私たちは心の中で心配したりやきもきしたりするだけで、ほとんど何も手助けもできない。 ガンの治療法は、その人の哲学が大きく関与するように思う。 最近も、私の身近な二軒の家庭に、それぞれガンを病む家族が出た。偶然、共に男性、つまり「お父さん」の立場である。二人共いわゆる定年後の年齢で、仕事はしているが、いわゆる第一線からひいている。それ故に、治療方法も生き方も自由に選べる立場だ。一人は、時間やコネやチャンスやあらゆることを選んで、ガンと立ち向かった。ガンは複数の部位にできていたから、こちらを叩くのに二週間。次のをやっつける療法にまた三週間、と休む間もなかった。奥さんもその付き添いに疲れ切った。年齢は七十代後半、もう人生でいいとこを生きたとも言えるし、最近では九十代の人が健康で町を歩いている時代なのだからまだまだとも言える。 もう一人は、八十代半ば、やはり手術を受けた。学校時代から親しい友達の医師が「手術しなきゃいいのに」と呟いたのは、ガンのたちにもよるのだろう。放っておけば、たとえ悪くなるにしてものろのろで、そのうちに九十を越え、どう考えても寿命だと周囲も考えるようになる、ということのように私には聞こえた。しかしガンの治療に対する態度だけは、他人はもちろん、配偶者も決定的なことは言えない。どういう治療をするのかは、当人の選択を重く見る他はない。 実はガンだけではない、と私は思う。我が家の夫婦も、生き方が全く違う。夫は八十九歳で、軽い不調はあちこちにある。それらのドクターのところに、 誠実に通う。薬も掌いっぱいとは言わないが、朝夕は五、六種類は飲む。その中には降圧剤も含まれている。それに対して、私は年に一度の健康診断さえ六十代から受けない。高いお金がかかると聞いたし、そもそも 人為的に被曝しないのが一番いいという発想だからだ。それに最近は、若い人の重圧になる後期高齢者用の健康保険をできるだけ使わないという目的もある。まあ基本的には、私が健康だからなのだが、私は病気と付き合わないことにしたのである。私はもともと人付き合いがいいたちではない。人は社交的だと言うのだが。 遠ざかる相手とはどういうタイプの人かと言うと、権力志向型の人と、それと人道主義者であることを標榜している人だ。後はどんな性格でもいい。だらしがなくても、大酒のみでも、怠け者でも、友人としてなら誰でもおもしろい。 第一、自分はいい人だと信じている人とは、どんな話をしたらいいのだ。さだめし疲れて仕方がないだろう。第一それは人間性を直視していないことでもある。聖書にも、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書9・13)という非常に陰影の深いイエスの言葉が記されている。私はできれば、神とも「お親しくなりたい」から、正しい人になるより罪人になった方が有利かな、と考える。だから私はたいていの人と仲良くなれる。人の生き方は全く違う。同じ家族でも夫はしきりに薬を飲み、私は、痛かったり辛かったりする場合以外は、病気を放置する。 不養生をすることにした。ことに人は、動いていることが大切だ。昔は、少し病気になると、寝ていることが治療法だった。しかし今ではそうではない。心臓が苦しくならない限り、熱があっても入浴は構わないし、トイレに立つということは、どんなことがあってもしなければならない。二日立たないだけで、高齢者はもう歩けなくなる。ましてや少しでも遊べるくらいの元気がある状態なら、うちにいて、苦しいの痛いのと言って家族を困らせるよりも、外へ出て楽しく暮らす方がいい。今年春、私は前々からの約束通り、北イタリアの二週間の旅に出た。シェ-グレン症候群という病気のために、足はビッコを引くし、微熱も終始出る。体も痛む。しかし熱が出るなら寝ていなさい、とはどんなドクターも言わない。 幸い優しい同行者が三人もいたので、私は重いものは時々持って貰い、手すりのない階段はその人たちの肘に掴まる以外は、一応自分のことはすべて自分でして旅を終えた。家にいたら毎日、体中の痛みと微熱のだるさで、寝てばかりいたと思う。 しかし旅に出れば、感動することもあり、おいしいものや新しい発見に出会う。高齢者は、家にいて病気とだけ付き合うのは止めた方が得だと思う。そのために命を縮めることもあるかもしれないから、決してすすめはしないが、無茶をして少し命を縮めても、その分だけ濃厚な人生を送ったのだから、私は少しも悔いない。それに無理をすると寿命を縮めるということもないかもしれないのだ。楽しいから、長生きできるという展開になるかもしれないだろう。 しかし私がもう、重い荷物を持って長い距離をすたこら歩くという旅はできなくなっているのは事実だ。だから私はこういう不健康者向きの旅の方法を考えている。幸いにも私が見て楽しいものは、名所ではなくて人間と人生だ。それは一つ所にじっと座っていても見えることなのだ。だから私は一つの町に十日か二週間居すわる旅を考えている。 しかしそれでも私は社会の真っ只中にいるのだから、自宅にいるのとは全く違う。ちゃんと周囲のことも考え、辛くても少し我慢して仏頂面をせず、身仕舞いにも少し気をつけ、書類やお金などを失くさない緊張も続けることになる。病気と付き合わなければ、(死病以外の)病気はなかったのと同じことになるのだ。 |
●(7)このような生き方は、(僭越ではありますが)かなり「自律神経」の「交感神経」と「副交感神経」のバランスが取れていらっしゃることが推測できます。この「自律神経のバランス」が適切に取れていることこそが、癌にならない、あるいは、癌になっても克服できる最大のポイント=免疫力の高さを意味します。
私(藤森)自身、最晩年のトイレの始末は、這ってでも、可能な限り、自力で処理するつもりでいます(あくまでも「つもり」です)。 また、<<もう一人は、八十代半ば、やはり手術を受けた。学校時代から親しい友達の医師が「手術しなきゃいいのに」と呟いたのは、ガンのたちにもよるのだろう>> この意味を、素人の私なりに解釈しますと、高齢になると、細胞が衰えて不活発になりますので、癌の進行も遅くなります。しかし、手術は体に大きなダメージを与えます。恐らく、手術が一番大きいはずです。抗がん剤も同様です。 どう考えても、手術するケースではない・・・というのが、良心的な医師の言葉であろうと推測します。 しかし、「自我が未成熟」なタイプの方は、癌細胞を抱えていることが、ご自分の人格の許容範囲を超えてしまうようです。喩えて言いますと、幼稚園生が一人で夜、留守番をしているところに、知らないオジサンが尋ねてきて、上がり込まれたような感じと言えば良いでしょうか。不安で不安で仕方がないはずです。 仮に、この例え話が適切だとしますと、「知らないオジサン=癌細胞」で、医者(警察やお母さん)に早く処理してほしいと願う幼児的な心理状態が最優先されるはずです。 実例をお話しします。 しかし、その方のお母さんは、「ここ(肺)に癌があることが耐えられない」とおっしゃって手術をされました。その結果、心理的な状態(ウツ)がよろしくないようです。 さて、これからが重要です。 曽野先生の生き方=行動は、決して無理をしようとしているのではないはずです。自己責任、自己の責任性をしっかり理解していて、「幼児的な甘え」を排除して、必要に応じた「大人の甘え」を出していらっしゃる、というのが私の判断です。 大切なことは、「大人の甘え」と「幼児的な甘え」を区別できることが大切で、これはかなりしっかりした「自我の成熟性」が求められます。しかし残念ながら、日本人には大変少なく、一般に言われる「知性・教養」が豊かな人というのは、暗記的な学力があるだけで、人生は暗記力はあまり役に立ちません。瞬間々々の判断力です。特に、育児は、育児書片手にやっても、全くダメです。 仏教では三毒として「貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」と言い、「痴」は、一般に言う「知性・教養」ではなく、人間としての「道理」を知らないことを意味します。 曽野先生の上記の生き方は、決して無理をしているのではなく、(多分)人間としての道理に叶う生き方をされていらっしゃるのではないかと思います。仏教では、「痴」の反対を「慧」と言います。曽野先生は「慧」の生き方をされていらっしゃると私は理解しています。 |
●(8)さて、曽野先生の上記のような生き方を再考してみます。
禅の世界に求めてみますと、中国の百丈懐海(ひゃくじょう・えかい、唐代の高僧・814年没)禅師の・・・ 「百丈懐海禅師は、80歳を過ぎても作務(さむ)を怠りません。 それは、『働かざる者は食うべからず』とは次元を異にします。働くのは生活のためだけではなく、「作務」です。務を作すのです。禅者の務は『仏作仏行(ぶっさ・ぶつぎょう)』で、ほとけの願いを作し、務めるのです。仏作仏行は人をしあわせにすることにあります。」 ●(9)さて、「癌とは何か?」ですので、最後に、面白い言葉をご紹介しましょう。 数年前の私の手帳に残っていたもので、出典は分かりません。 「症状は疾病である」(現代西洋医学) 面白いですね。昔は、全体を診ていたから、「症状は療法である」ことが分かっていたのでしょう。 しかし、癌細胞を保有している人間全体を診れば、どうしたら良いかは多様な見方ができるはずです。患者の体力や年齢も考慮に入れるのは当然のことですが、癌細胞だけを顕微鏡で眺めれば、それは摘出したほうが良いに決まっていることです。 私の妻は、とても出来の悪い人間です。しかし、私は、さらに出来の悪い人間ですので、両者を勘案すれば、出来の悪い妻=私よりも少しはまともな妻に一緒に居てもらう方が良い・・・という理屈に似ていませんか? そして、自分の出来の悪さ・・・という判断を間違えると、離婚してから苦労するということはよくあることです。妻だけを見ると離婚したほうが良さそうですが、私を含めて考えると、ここは頭を下げて、妻に一緒に居てもらうほうが良さそうだという「自我の成熟」した判断が大事です??? |
<文責:藤森弘司>
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