2014年7月2日 第107回「トピックス」
袴田事件と深層心理③ー③

●(1)袴田事件に限りませんが、何故、このようなナンセンスな冤罪事件が起きるのか、決定的(?)な資料が発見されました。それを、下記の(2)でご紹介します。

 さて、特に、いわゆる「死刑囚」が長年にわたり「無実」を訴える場合、私(藤森)の独断と偏見で率直に述べるならば、全て、事実は「無罪」です。何故でしょうか?答えは簡単です。

 一般社会で普通に生活しながら裁判を受けたり、「無罪」を訴えるならばともかく、完全に閉じられた空間と言いましょうか、刑務所の中で、孤独に生きています。テレビや新聞が普通に見られるのかどうかわかりませんが、一般社会とは遮断された、閉じられた空間で生きる上に、巨大な検察を相手にするのです。
 その巨大な検察組織「証拠」を掴まれ、しかも、長年の裁判で、自分の犯罪を「立証」されているにもかかわらず、「無実」であることを訴えることは現実的には不可能です。

 このように絶対に不利な立場でありながら、完全に「徒労である無実」を訴えることは、精神が壊れない限り、絶対に不可能であると断言できます。このように絶対に不利であるにもかかわらず、長年に渡って「無実」を訴えられることそのものが、私(藤森)の立場から判断しますと、百パーセント「冤罪」であると断言できます。

●(2)平成26年5月28日、日刊ゲンダイ「二木啓孝の一服一話」<ゲスト 大谷昭宏さん(中)>

 <権威を守るために優れたアイデアをもつ人材をつぶす日本の悪弊

 ジャーナリスト大谷昭宏さんをゲストに迎えての対談。今回はSTAP細胞をめぐる小保方騒動、袴田事件をはじめとする冤罪、さらにはメディアの姿勢などを語り合った。

二木・・・STAP細胞をめぐる一連の騒動ですが、大谷さんはどう捉えていますか?

大谷・・・京大名誉教授(数学者)の森毅さんに「ノーベル賞受賞者はなぜ京大が多いのか」と尋ねたことがあります。森さんは「京大には“アホ”がいっぱいいるから」と言う。どういうことか。それは理論、学説をある程度まで突き詰めていくと教授の言うことなんか面白くなくなる。それでも東大の学生は真面目だから基礎から研究を続けるが、京大には「待てよ!教授の言っていることは本当なのか」と疑問を持つアホがいっぱいいる。で、1000件に1件ぐらいだけど、学説をひっくり返してしまうアホが出るという。この逆転の発想がノーベル賞につながっていると。小保方さんも、ある意味そういうタイプの研究者じゃないかなと思う。

二木・・・一連の対応を見ていると、理研の体質に問題があると思います。経営管理、組織運営と無縁の世界でやってきた科学者が、巨大組織の運営をやってうまくいくわけがない。

大谷・・・小保方さんの一件では、手続きを間違えたというだけで、そのアイデアまで潰していないのかな、という感じを持ちましたね。(あの研究で)諸先輩方の実績がゼロになるかもしれないということに対して、どうしたって権威のある人たちは拒絶感を持つわけですよ。
メディアもそうですが、幹部に昔手柄を立てた人物を持ってくる日本の組織は、いいものを持っている人材を潰しにかかっているんじゃないか。既得権益、利権、権威に浸っている連中、そこを変えていかないとダメだね。

二木・・・大谷さんは冤罪事件の報道にも関わってきましたが、今回の袴田さんの再審決定を踏まえて、問題の本質はどこにあるのでしょうか。

大谷・・・司法関係者やメディア関係者への叙勲をやめない限り冤罪はなくなりません。48年間拘禁されていた袴田さんは、第一次再審請求では28年間も先延ばしされた。裁判官たちが自分の代で先輩を傷つけるわけにはいかないと、先延ばししたわけです。
地検だって間違いが分かっていたのに、(有罪に)しがみついたのは、間違いを認めると歴代何十人もの検察官の勲章がパーになるからです。メディアも一緒。当時の報道が大誤報ということになってしまう。つまり、司法関係者やメディア関係者への叙勲という制度が、権威の間違いを指摘する声を封じ込めてしまうのです。

二木・・・小保方さんの一連の騒動に戻りますが、メディアの報道姿勢をどうご覧になっていますか。

大谷・・・1月の発表報道の時は、理研がつくった舞台装置にメディアがまんまと乗せられた形でした。そして問題が浮上したら理研は逃げて、大騒ぎしたメディアは振り回されるばかり。メディアは(最初の段階から)もう少し考えて報道すべきだし、乗せられた自分たちのことを棚に上げちゃいかんよ、という感じですね。

●(3)私の息子が小学生の頃、近くの施設(普通の一軒家)にいた同級生のA君と仲良くなりました。我が家にも遊びに来てくれて、私のことを「お父さん、お父さん」と親しく呼んでくれ、かなり友好的に触れ合うことができていました。

 小学生の時は、毎朝、自宅からそこそこの所まで見送ることになっていて、私は毎日、信号のあるところまで見送っていました。小学生の低学年の頃は、息子は、別れてからも振り返ってくれ、何度も何度も手を振り合ったのですが、高学年になると振り返ってくれなくなりました。

 ある雨の日のことです。A君が朝、息子を迎えに来てくれて、一緒に学校へ行くことになり、私は2人を途中まで見送りました。信号の所で別れてから、私はずっと、見えなくなるまで見送り、いよいよ見えなくなるという場所で、(多分、息子が囁いたからでしょう)A君が私の方に振り返ってくれました。

 私は大喜びで傘を大きく振りあげて合図をすると、A君も傘を振りあげて合図を返してくれました。とても嬉しい朝でした。

 そんな友好的なA君でしたが、中学生になってから見当たらなくなりました。どうやら何か悪さをしたらしいのです。多分、妹が同じ施設に移って来たので、何か、居心地が悪くなったのかもしれません。どうも少年院のようなところに入ったようです。

 ある日、その施設の責任者にA君に面会に行きたい旨を伝えると、なかなか難しそうです。そこで、私の職業を伝え、名刺を渡し、今までの友好的な関係を詳しく文書で提出しましたが、介護やこの種の関係の大きな組織の一員になったからか、その組織の責任者に話をしていただきましたが、残念ながら、面会することができませんでした。

 つまり、ここで何を言いたいのかと言いますと、多分、「面子」ではないかと推測するということです。

 昔の私の五行歌に・・・・・

  メンツ
プライド
意地に沽券
みんな命より
軽いものばかり

 というのがありますが、この世の中のいろいろなことの根底には「メンツ」や「プライド」「意地」「沽券」が悪さをしているように思えます。これが私たちの人生を生きにくくしている大本のように思えるのですがいかがでしょうか?

<文責:藤森弘司>

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