2014年4月25日 第106回「トピックス」
袴田事件と深層心理③-②

●(1)警察や検察、裁判所がグルになって、善良なる市民を犯罪者に仕立て上げる慄然とする事件です。

 戦前の恐ろしい時代ならばともかく、戦後20年も経った昭和41年という時代、東京オリンピックもあったほど文明開化(?)した日本で、警察や検察、裁判所がグルになって善良なる市民を犯罪者に仕立て上げて平気でいられる神経が私には全く理解できません。

 本来ならば、嫌な言い方ですが、袴田さんは死刑になっていました。

 袴田さんが死刑になった後、関係者はどんな神経で生きて行くのでしょうか?それが私には理解できません。間違いはありますが、「捏造」して、一人の人間を死刑にしようという神経は、一体全体、どういうものなんでしょうか?

 当時の裁判官の一人は無罪を主張したが、多数決で死刑の判決をしなければならなかったと、テレビで涙ながらにおっしゃっていました。
 いろいろな問題があるにしても、証拠を開示しない、証言者の証言を捏造する、証拠をデッチ上げる等々、ハチャメチャな事件です。

 リクルート事件の元会長・江副浩正氏は、以前、テレビに登場したときにおっしゃっていましたが、何時間も壁に向かって立たされたとのことです。これでは誰でも、心が折れてしまいます。

 戦後の文明開化した時代でもそうですから、戦前は凄まじいことが行なわれていたのでしょうね、アゼン・ボウゼンです。

●(2)平成26年4月2日、東京新聞「48年目の光・袴田事件再審開始決定④」

 <失敗恐れた捜査当局>

 1966年6月30日未明、旧静岡県清水市(現静岡市清水区)のみそ製造会社専務方が放火され、一家4人が刺殺体で見つかった袴田事件。発生からほどなく、清水署捜査本部に一つの情報が入る。「左手にけがをした従業員がいる」

 同署元巡査(73)らは近くの交番で従業員から順番に話を聞いた。袴田巌さん(78)はバイクやボクシングの雑談には応じたが、事件については話をそらし、左手の傷は消火活動の際に切ったと説明した。「犯行時に負った傷じゃないのか」。捜査本部は尾行などの内偵捜査を始めた。

 袴田さんは中学卒業後にボクシングを始め、57年には静岡国体に出場。プロボクサーに転向し、日本フェザー級6位まで上がったが、体を壊して事件当時はリングを離れていた。

 犯人は30分弱で4人を計40ヶ所以上刺して殺害。被害者の男性専務は柔道2段の腕前といわれていた。「ボクサー崩れの袴田の仕業だとなった」。同署元巡査部長(86)は当時の捜査本部の空気を代弁する。

 「ボクサーだからお金がなくて暴力を振るう。捜査当局の差別と偏見が犯人視を進めた」。袴田事件に詳しいフリージャーナリスト高杉晋吾さん(81)=埼玉県入間市=は指摘する。「従業員『H』浮かぶ」「身持ちくずした元ボクサー」。逮捕前の任意捜査の段階から袴田さんを顔写真付きで犯人と決めつけた当時の報道も「警察の情報操作にまんまと乗ってしまった」と批判する。

 静岡県では戦後間もない48~50年に幸浦、二俣、小島という3つの強盗殺人事件が起きた。いずれも一、二審の死刑や無期懲役が最高裁で破棄され、60年前後に無罪が確定した冤罪だ。

 66年当時、県警には世間の厳しい目が向けられていた。袴田事件の弁護団は「何が何でも袴田さんを有罪にし、三事件のような失敗は絶対に許されない状況にあった」と指摘する。

 静岡地裁は27日「捜査機関により捏造された疑いのある重要証拠で有罪とされ、死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた」と再審開始にとどまらず、刑と拘置の停止も決めた。

 「これ以上拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」と当時の捜査を厳しく批判している。
逮捕の決め手は何だったのか。元捜査員は今も口を閉ざす。言えないのか、知らないのか、それとも・・・。高杉さんは言う。「真実は元捜査員らの胸の中にしかない。無罪なら国家の犯罪だ」

●(3)平成26年3月30日、東京新聞「48年目の光・袴田事件再審開始決定

<「有罪証拠」一転希望に>
 「やりようによっては、血液由来のDNA型を鑑定できる」。
2011年夏、静岡地裁。筑波大大学院の本田克也教授(法医学)が裁判長に宣言した。袴田巌さんの犯行時の着衣とされる「五点の衣類」は、みそ漬けにされ劣化した状態。抽出可能なDNAが残っているかも分からない。
 「努力する。できる」。再審無罪に導いた実績を持つ法医学者の力強い言葉に、弁護団の期待は高まった。
第一次再審請求でもDNA型鑑定は実施されたが、結果は「鑑定不能」。当時、弁護団事務局長の小川秀世弁護士は「再審開始への新証拠を求めていた。大変ショックだ」と肩を落とした。
<略>転機は、DNA型鑑定が決め手となって10年に再審無罪が確定した足利事件。鑑定人を務めたのが他でもない本田教授だった。

 <略> 11年、角替弁護士が動く。弁護団として本田教授に鑑定を依頼。鑑定不能に終わった前回のDNA型鑑定書を見せた。本田教授は一読してつぶやいた。「これ、おかしいですね」

 当時の技術の限界もあろうが、鑑定を途中で中止しているなど疑問点も多い。五点の衣類の写真にも「血の付き方が不自然」と疑問を呈した本田教授は「この10年で鑑定技術は進んだ。DNAの抽出はできる」と確信した。

 <略>

●(4)平成26年3月31日、東京新聞「48年目の光・袴田事件再審開始決定

 <みそ漬け実験>

血液を付けた半そでシャツやブリーフをみそに漬け込むと、半年ほどで血は黒ずみ、生地は濃い茶色に染まった。変色の度合いは、あの「五点の衣類」とは明らかに違っていた。

 袴田巌さんの無実を証明しようと、「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」事務局長の山崎俊樹さん(60)=静岡市清水区=らが、第一次再審請求の抗告審審理中の2000年から取り組んだ「五点の衣類」のみそ漬け実験。

 確定判決が犯行時の着衣と認めた衣類は1年以上みそに漬かっていたはずなのに、付着した血液は赤紫色のままで、生地も薄い茶色に変色しただけ。「捜査機関の捏造に違いない」。山崎さんは確信した。

 <略>
 県警は従業員だった袴田さんの寮の部屋から微量の血痕が付いたパジャマを押収。犯行時の着衣と断定したが、一審公判中の67年8月、麻袋に入った五点の衣類がみそ工場のタンク内から見つかった。検察が冒頭陳述を変更して犯行着衣を変更する異例の経過をたどった。

 山崎さんらが実験結果をまとめた報告書は、第二次再審請求で新証拠として弁護団から提出された。検察側は「当時のみその成分を忠実に再現しているとは言えない」と一蹴したが、27日の静岡地裁の決定は「みその色と比較して不自然に薄い可能性が高い上、血痕の赤みも強すぎ、長期間みその中に隠されたにしては不自然である」と認定。訴え続けた「捏造」の可能性にまで踏み込んでくれた。

 みそ漬け実験は当初、ニワトリの血を使った。だがより実態に迫ろうと、途中からは支援者らが自らの血液を抜き、シャツなどに付着させた。事件当時のみそタンクのあったみその成分も限りなく再現して重ねた実験だった。

 支援に携わって30年以上。一筋の光明を求めて取り組んだ実験が裁判所の決定を後押しした。「本当にうれしい。時間がたてば血液は黒くなるし、衣類も濃い茶色になる。一般常識だ。市民感覚で思いついた実験だった」と振り返る。

 なぜ、そこまで肩入れするのか。聞かれるたびに「死と常に隣り合わせの不安は、想像を絶するつらさだろう」と答え、』訴えてきた。「冤罪に巻き込まれる可能性は誰にでもある。人ごとじゃないんだ」

●(5)平成26年3月31日、東京新聞「48年目の光・袴田事件再審開始決定

 <ズボンの札「B」>

「五点の衣類」の一つ、ズボンの小さな布札に記された
「B」。その本当の意味が、40年以上の歳月をへて明らかになった。一つの英文字が、ズボンは袴田さんのものではない疑いがあることを告げていた。

 袴田事件の確定判決では、「B」が示すのはサイズだとされた。記号が肥満体を示す「B体」のサイズ表示であれば、当時の袴田さんのウエストサイズ(80センチ程度)と矛盾はしない。だが実際にはズボンは細身を示す「Y体」というサイズだった。

 「『Bは色』だとはっきり言った。それがなぜ公判でサイズになったのか、分からない」。名古屋市のアパレル会社専務の男性(78)は気色ばんだ。「B」は色の種類を表す記号だった。「夢にも思わないですよ。警察や検察を信じて証言したのに」

 男性の会社を静岡県警の捜査員が訪ねてきたのは、ズボンを含む五点の衣類の発見から間もない1967年9月。製品番号から会社を突き止めたようだった。男性は販売場所や生地の種類などを証言した。

 男性によると、当時販売したズボンはウエスト約76センチの商品。みそタンクから見つかったズボンは3センチ詰めてあった。男性は「ズボンがみそに漬かっていたとしても、1センチも縮まないはず。当時の袴田さんには明らかにサイズが小さい」と断言する。実際、71年11月に東京高裁がズボンの装着実験をした際、ズボンは袴田さんの太ももまでしか入らなかった(藤森注・・・実際の写真が掲載されていますが、ズボンはお尻の下までしか入っていません)。

「B」の意味がすり替わっていることに弁護団が気付いたのは、2010年9月。静岡地検が開示した県警の捜査報告書や関係者の供述調書など28点の中に、男性の証言があった。

 「サイズじゃなくて、色じゃないか」。戸舘圭之弁護士も間違いに気付き「袴田さんに有利な証拠を検察は意図的に隠していたんだ」と憤りを覚えると同時に、無実を確信した。

 地検は第二次再審請求審でサイズとの主張の誤りは認めたが、袴田さんがズボンをはけたことは別の証拠から明らかだと言い続けた。だが27日の静岡地裁決定は「事件当時の袴田さんにとって最適のサイズは74センチより大きかった可能性が高い。それより細いサイズに詰める処理は不自然。ズボンが袴田さんのものではなかったとの疑いに整合する」と認定した。

 「警察や検察が都合のいいように話を変えたのではないか。なぜ私の証言を変えたのか、明らかにしてもらいたい」。男性の不信感は募るばかりだ。

●(6)平成26年4月3日、東京新聞48年目の光・袴田事件再審開始決定

 <可視化、証拠開示急げ>

 <略>
強盗殺人容疑などで逮捕された袴田巌さんの取調べは1日平均約12時間に及んだ。

 袴田さんは拘留期限3日前に自白したが、公判では一貫して否認。確定判決は極刑を言い渡したものの、「自白は強制された可能性がある」として供述調書45通のうち44通を退けた。再審開始決定も「自白調書は証明力が弱い」と断じた。

 足利事件で再審無罪となった菅谷利和さん(67)は取調室で「おまえが犯人なのは分かっている。はけっ」と捜査員に迫られたと明かす。足で蹴るなどの暴力も振るわれ、認めるしかなかった。

 <略>

 第二次再審請求で静岡地検は、静岡地裁からの勧告を受け、新証拠約600点を新たに開示した。犯行着衣とされたズボンがはけなかったことを示す証拠や供述調書も含まれ、決定に大きな影響を与えた。ただ地検は「開示はあくまで任意。再審審理の前例となるわけではない」と今後踏襲されることに予防線を張る。

 <略>
 加藤克佳教授(名城大学法学部)は「証拠収集能力などの点で検察と弁護側では圧倒的な力の差がある。現在の再審制度では弁護側が反ばくする手がかりをつかむのも簡単ではない。検察は少なくとも手持ち証拠のリストを開示すべきだ」

 袴田さん逮捕から48年目。加藤教授は「もっと早く証拠開示が進んでいれば、これほど長引かず再審開始決定が出ていたのでは」との見方を示す。司法が抱える課題にどう向き合っていくかが問われる。

●(7)平成26年4月21日、東京新聞「冤罪の米ボクサー」

 <ルビン・カーター氏>

 国の冤罪事件で服役した黒人の元プロボクサー、映画「ハリケーン」のモデルが20日、カナダ・トロントで死去、76歳。

 米ニュージャージー州出身で「ハリケーン」の名前でボクサーとして活躍。66年に白人が殺された事件の容疑者として逮捕され、19年の獄中生活を送った。無罪となり、事件をめぐる経緯は「人種差別の象徴」として注目を浴びた。

 事件を取り上げた映画「ザ・ハリケーン」で主演のデンゼル・ワシントンさんがゴールデングローブ賞を受賞。ボブ・ディランさんが事件を題材に歌を作った。
 カーター氏は冤罪被害者の支援活動に取り組み、静岡地裁の再審開始決定を受けて釈放された元プロボクサーの袴田巌さんを励ましていた。

●(8)平成26年4月22日、東京新聞「筆洗」

 奇妙な一致や偶然を目の前にすると、人は考え込むものだ。天が何かを告げようとしているのではないか。ルビン・カーターさんが20日亡くなった。76歳。
 黒人の元ボクサー。冤罪事件を描いたデンゼル・ワシントン主演の映画「ザ・ハリケーン」のモデルといえば、思い出すだろうか。
 1966年6月、米ニュージャージー州のバーで3人が殺された。現場近くを車で走っていたカーターさんが逮捕された。無実を訴えたが、有罪の評決が下り、85年に釈放されるまで19年間服役した。冤罪事件の背景には人種差別もあった。

 袴田事件も同じ年同じ月だった。同じ元ボクサー。獄中にあった袴田巌さんは境遇に似たカーターさんが釈放された時、手紙を書いたという。「万歳万歳と叫びたい」。カーターさんの返事は「決してあきらめてはならない」だった。

 <生き地獄の無実の男 それがハリケーンの物語 彼に時間を返してやってくれ。世界チャンピオンにもなれたのに>。カーターさんの悲劇を歌手のボブ・ディランさん(72)は75年の「ハリケーン」でこう歌った。
 この1ヶ月の間に袴田さんが釈放され、カーターさんがこの世を去る。現在ボブ・ディランさんは来日中である。不思議なめぐり合わせに日本人が考えるべき「メッセージ」があるとすれば袴田事件を「絶対に忘れるな」に決まっている。

<文責:藤森弘司>

トピックスTOPへ