2014年2月15日 第108回「トピックス」
(補足)
●(1)「私説・曽野綾子・論」<第99回(④ー①)を2013年9月30日> <第100回(④ー②)を10月15日> <第101回(④ー③)を10月31日> <第102回(④ー④)を12月15日>4回書きました。 「補足」をすぐに書く予定でいましたが、2014年に入って「癌とは何か?」の資料作りを始めて、ほぼ1年がかり、私(藤森)のライフワークになりました。ほぼ1年ぶりになりましたが、「完結編」を書きたいと思います。 「補足」として、「完結編」を書きたい理由は、実は、曽野先生のある著書の中で、大変気になるところがありました。私としては、私の専門の分野に関わるその周辺をどうしても書きたいというのが理由です。まずその前に、私は面識の無い曽野綾子先生を尊敬していることを、このHPでしばしば述べています。しかし、どのように尊敬していると言うのか、私自身、適切な表現がありませんでしたが、「癌とは何か?」を書きながら、適切な表現が見つかりましたので、まず、それを紹介したいと思います。 |
●(2)「癌とは何か?」(藤森)より。
<知行一如とは何か?> 「知行一如」は、「ちこう・いちにょ」と読みます。 これを、私(藤森)流に言い換えたもので、意味はほぼ同じです。 しかし、同じ東洋人である王陽明に言うのは妙ですが、東洋には「一如」という優れた言葉がありあます。 「心」と「体」という明らかに違うもの、別個のものがありますが、しかし、それぞれが独立しては存在しません。 コインを考えてみると分かりやすいです。コインには「表」と「裏」があります。「表」という独立したものがあり、「裏」という独立したものがあります。しかし、「表」だけ、あるいは、「裏」だけを取り出すことはできません。あくまでも「裏」があっての「表」です。 例えば、「危機」です。 私が思うに、「知的」に分かったことを、如何にして「行動」に結びつけるか、「知識(分かる)」と「行動(分かったことができる)」は別物であることをしっかり認識できることが重要だと思っています。 しかし、「心理・精神世界」は、見えないものですから、言いたい放題、やりたい放題の分野になってしまっている気がします。 ■空海先生は・・・・・ ■私が尊敬する作家の曽野綾子先生は、この点において抜群に素晴らしい方です。 |
●(3)さて、曽野綾子先生が「宿命の子 笹川一族の神話と真実」(高山文彦著、週刊ポスト)に紹介されたことは、以前、書きました。その「宿命の子」の中で、曽野先生が素晴らしい活躍をされたことが書かれていますので、まず、それを紹介します。
<「宿命の子 笹川一族の神話と真実」(高山文彦著、週刊ポスト平成25年8月30日号、第60回)> <略> 曽野は週3回のペースで振興会にやって来た。陽平が言う。 そして彼女は莫大な予算の存在に驚き、その使われかたにも驚いて、大鉈を振るうのだった。(文中敬称略、つづく) <「宿命の子」平成25年9月6日号、第61回> 新会長に就任した曽野綾子は、運輸省記者クラブで記者会見をおこなっている。そこで彼女は、ボートレースから振興会に集まるお金がいかに巨額なもので、それをどう使っているかということで論議があるようだが、たとえ泥棒のお金でもヤクザのお金でも、いかにそれをきれいに使うかということが問題なのであって、こんなときは自分のような「マンガチックな女」がつとめるのがいいのではないかと思い会長を引きうけることにした、と述べた。 「博打のお金」「競艇のお金は不浄のお金」という言葉をつかったので、ボートレースの現場にいる人びとはがっかりしたらしいが、しかし曽野は記者のひとりに「クリスチャンであるのに、なぜ博打の金をつかう仕事に就いたのか」と問われて、聖書の「ルカによる福音書」第16章第9節に「不正にまみれた富で友達を作りなさい」の一節があり、「友人というのは天国の友人のことで、現世でワイロを使って誰かと仲よくなれ、ということではありません」と、ことわったうえで、このように述べた。 「お札にはそれまでの歴史は書かれていないけれど、歴史をたどればカミサンに隠して愛人に握らせた金もあるだろうし、闇献金に使われたこともあるかもしれない。泥棒が懐に入れていた場合もある。一般的に言って、金は不正な富である場合が多い、と聖書は言うんです。しかし、その金が自分のところに来た時から、正しく慈悲の心で使って神に喜んでもらいなさい、ということなんです。 つまり、どんな金であろうと過去のことはどうでもいいんですね。ただ今から誠実に使いなさい、ということ」(曽野綾子『日本財団9年半の日々』) これまでジャーナリズムがさかんに流布してきた言説・・・・・「右手で汚れたテラ銭を集め左手で浄財として配る」(加賀孝英「最後のドン・笹川一族の暗闘」『文藝春秋』1993年8月号)・・・・・にたいして、ストレートな正論をあびせたのだった。 <略> <全雑誌に「短冊広告」を入れた> そこでまず彼女が驚いたのは、1年間で47億5000万円という広報費の額だった。そのうちのおよそ8億円は競艇支援に使うことが決められているので、実質は40億円を割っていることになるが、それでもやはり巨額ではある。これが狩野広報室長時代には、60億円から70億円もあったのだった。 <それにしても、とんでもない金額でした。感覚的に言って、予算の5パーセントも広報に使っていいわけがない。また、お金をかけさえすれば、いい広報ができるものではありません。誰に言われたわけでもありませんが、広報は私の管轄だと思って、広報部員に「どんどん予算を削ります。無駄を減らして、今の半分の費用で効果を倍に上げることをめざしてください」と言いました> と、曽野は前掲書で語っている。 <略> <略> 広渡が言う。 |
●(4)とにもかくにも、曽野先生の剛速球に周囲は面食らっていますが、私(藤森)が説明するまでもなく、抜群に素晴らしい成果を上げていらっしゃいます。 官僚が天下りをする時、まず求めるのが個室らしいです。威厳を保つには、そして大した仕事をしない人間には個室が必要でしょう。しかし、曽野先生はドアを開け放っていたとのことです。また、広報誌に多額の費用をかけていたものを、上記のように大幅に削ると同時に、効果的な使い方をしています。<<<「お札にはそれまでの歴史は書かれていないけれど、歴史をたどればカミサンに隠して愛人に握らせた金もあるだろうし、闇献金に使われたこともあるかもしれない。泥棒が懐に入れていた場合もある。一般的に言って、金は不正な富である場合が多い、と聖書は言うんです。しかし、その金が自分のところに来た時から、正しく慈悲の心で使って神に喜んでもらいなさい、ということなんです。つまり、どんな金であろうと過去のことはどうでもいいんですね。ただ今から誠実に使いなさい、ということ」>> こういう直球勝負も素晴らしいですね。本音をズバッ!ズバッ!と投げ込むボールに戸惑う周囲の反応が手に取るように分かります。嘘ハッタリのない、そのものズバリを言えるのは、自信があることは当然ですが、 誠心誠意のお気持ちがあるから、本音の直球が投げられるものと思われます。以上、曽野先生の素晴らしさは<④ー①>~<④ー④>、そして今回の<補足>で十分にご理解いただけたことと思います。 今回、「補足」として特に紹介したいことは、下記の少々不思議なお話です。 |
●(5)本をあまり読まない私ですが、ある日、偶然、書店で曽野先生の「人間の基本」(新潮新書)を目にし、購入しました。
この本を読んでいて、あるページが引っかかってしまって、先に進めないのです。下記の部分を読んで次のページに進むのですが、何故か、その先が読めないのです。数回、くり返しましたが、先に進めず、残念ですが、読むのを止めました。 しかし、やがて理由が分かりました。 <<< 「人間の基本」(曽野綾子著、新潮新書) <大宅壮一の実験>P49 かつて大宅壮一さんは、こんな実験をしたことがあるそうです。朝、孫に新聞を自分の所に持って来させて「ありがとう、と言いなさい」と教えると、初めのうちは孫はその通りにした。かわいいですね。しかしだんだんと孫の方が変だと思い始める。この場合は、おじいちゃんの方が礼を言うべきじゃないのかな・・・・・。そうやって、一つ一つの人間関係をはっきりさせていくという方法です。 人間は、どんな教えられ方をしても、それに反発する強力な免疫力を生まれながらに備えているものです。(後略)>>> 先ほども述べましたが、私(藤森)はこの部分を読んだ後、その先が読めなくなりました。 やがて、その理由が分かりました。 さて、上記の<大宅壮一の実験>の中で、曽野先生は「孫」とありますが、私の記憶では「子」であったと思います。万一、私の記憶が間違っていたら申し訳ありませんが、私(藤森)は「子」である「大宅歩(あゆむ)」氏の著作「詩と反逆と死」を40年以上前に読みました。私自身の人生が、こういうタイトルに惹かれるものを内面に抱えていたからだと思います。 この本の中に出てきた上記のエピソードは、とても印象深かったのでよく覚えています。私なりの記憶で述べさせていただきますと、大宅氏が近くの友人宅(?)で将棋をしている時に、赤ちゃんが生まれたという連絡が入りました。 ここで、私がいろいろ述べたいのですが、記憶があいまいであり、個人的な見解になりますので控えますが、私の専門の立場からこのことを重視する理由は、歩氏はその後「自殺」しています(記憶では)。詳しくは、下記のウィキペディアをご参照いただくとして、私の専門的な立場から推測しますと、上記の出来事は、その後の歩氏の人生に大きな(悪)影響を与えたと思っています。だからこそ、本の題名が意味深長なのです。 もし、ウィキペディアにあるように、中学、高校とラグビーをし、しばしば負傷したことなどから、高校の頃から脳に障害を抱いて発作を起こすようになった・・・・・だけの理由ならば、「詩と反逆と死」というタイトルは、あまりにも不自然です。上記のエピソードとタイトルは意味があり、そして、私の記憶通りの「自殺」だと仮定するならば、曽野先生が書いていらっしゃる出来事は、極め付きに重要な(悪い)意味を含んでいます。 <ウィキペディアより>・・・・・大宅 歩(おおや あゆむ、男性、1932年 – 1966年)は、日本の詩人。評論家、大宅壮一の長男。 日比谷高等学校、東京大学卒。中学、高校とラグビーをしており、しばしば負傷したことなどから、高校の頃から脳に障害を抱いて発作を起こすようになった。ノートに詩文などを書き残していたが、33歳で死去した。その遺稿は『詩と反逆と死』として刊行され、高野悦子『二十歳の原点』などとともに、夭折した若者の手記として広く読まれた。1978年には、大宅をモデルとし、その手記を素材として、映画『残照』(河崎義祐監督、三浦友和主演)が制作された[2]。 著書[編集] |
●(6)また、大宅壮一氏は、マスコミ界の大御所と言われていました。その弟子で有名な草柳大蔵(くさやなぎ・だいぞう)氏は、 インターネットのデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.によれば、・・・1924-2002 昭和後期-平成時代の評論家。 大正13年7月18日生まれ。大宅壮一に師事。「週刊新潮」「女性自身」の創刊にくわわり,集団執筆によるトップ記事をつくる。雑誌連載の「山河に芸術ありて」「現代王国論」以降,評論家として人物論,組織論,女性論を手がけた。平成14年7月22日死去。78歳。神奈川県出身。東大卒。著作に「官僚王国論」「実録 満鉄調査部」など。とあります。 ところが、誠に不思議ながら、昨年、驚くべき発見がありました。下記のエッセイをじっくりご覧ください。一見、無関係のように思われますが、大いに関係があります。◆平成25年5月3~10日、週刊ポスト 「やむを得ず早起き」(関川夏央著) <略>長髪の、すっきりした和風ハンサムで知られた真部一男は、10歳の頃、20歳の米長邦雄四段に飛車角二枚落ちの指導対局をしてもらった。 71年、プロ棋士を相手に山口瞳が角落ちで戦う『血涙十番勝負』の記録係になり、山口瞳に愛された。しかし、19歳でディレッタントにひいきにされるのはむしろ不運だろう。もっとも私は真部一男の名前を、この連載で知った。 78年、26歳でB2昇級して六段、結婚もした。相手は 草柳文恵、高名な評論家・草柳大蔵の娘である。青山学院大学在学中にミス東京に選ばれた人で、明るい印象の美人だった。 病的なほど凝り性の彼は、将棋の先手後手を決めるための5枚の駒を投げる振り駒の公平性を疑い、表の「歩」と裏の「と」どちらが多く出たか、千五百余局を調べたりした。結果は「歩」がわずかに多かったが、有意な差ではなかった。この頃から首が回らなくなる奇病にかかり、85年に離婚した。<略> 真部には将棋連盟から九段が追贈され、この4二角の一手に、新手を顕彰する升田幸三賞が贈られた。実際に指しはしなかったものの、状況と周囲の証言から指したと同然とみなされたのだった。 真部の死の1年後、 前妻草柳文恵が亡くなった。中央区の自宅マンションの高層階ベランダに結んだ紐を首に巻き付け、そのまま飛び降りるという壮絶な自殺で、享年54だった。 |
●(7)以上の内容をどのように解釈したら良いのでしょうか?
マスコミ界の大御所・大宅壮一氏の長男で秀才の大宅歩氏は自殺。そして、恐らく、大宅壮一氏の秘蔵子のような存在で、今でいうイケメン風の秀才・草柳大蔵氏の娘・草柳文恵氏も壮絶な自殺。 この事実をどのように理解したら良いのだろうか? 大宅氏や草柳氏の個人生活は全く分かりませんので、一切、解説できる材料はありませんが、唯一のエピソード・・・・・。 <<<かつて大宅壮一さんは、こんな実験をしたことがあるそうです。朝、孫に新聞を自分の所に持って来させて「ありがとう、と言いなさい」と教えると、初めのうちは孫はその通りにした。かわいいですね。しかしだんだんと孫の方が変だと思い始める。この場合は、おじいちゃんの方が礼を言うべきじゃないのかな・・・・・。そうやって、一つ一つの人間関係をはっきりさせていくという方法です。 人間は、どんな教えられ方をしても、それに反発する強力な免疫力を生まれながらに備えているものです。(後略)>>> これは、私の専門の立場から見て、恐ろしいほど最低の父親像です。吐き気がするほどの・・・絶対にやってはいけないことを、能天気にやる大宅壮一氏の人間性・・・そのフテブテシイ人間性だからこそ、大物になれたであろうし、政治家を相手に毒舌も吐けたことと思います。 しかし、育児は繊細さも必要で、恐らく、繊細さのかけらも育児に発揮できない人間性であったであろうことは想像に難くありません。だから、「詩と反逆と死」というタイトルが相応しいのです。 そして、世の中のこういう理不尽というか、バカバカしさを数多く見ている私(藤森)には、全く、驚くには足りません。 むしろ、当然と思われるほど普遍的な出来事です。 しかし、こういう馬鹿げた大宅氏のやり方を賞賛している曽野綾子先生にびっくり仰天しました。 やはり育児というのは、世の中の多くの価値観とは相容れない特殊な分野なのでしょう。 これらがワッと頭をよぎり、本の先が読めなくなったことが判明した次第です。<完> |
<文責:藤森弘司>
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