2013年9月30日 第99回「トピックス」
私説・曽野綾子・論
④ー①

●(1)私(藤森)は読む力(読解力)は少しはついてきましたが、書く力は全く育たないですね。文才が無いのでしょう。ですから、あいも変わらず、どなたかの作品に仮託(便乗)して、自分の考えを述べさせていただいています。

 今回は、宿命の子 笹川一族の神話と真実」(高山文彦著、週刊ポスト)を利用させていただきます。

 この著書を使わせていただく理由は、この著書の連載が始まった第1回に、私が尊敬する曽野綾子先生のことが書かれていたからです。

 多くの方がご存知のことと思われますが、財団法人日本船舶振興会(現・日本財団)の会長を、私が尊敬している曽野綾子先生が務められ、その曽野先生のことが、この連載の第1回に登場し、しかも、わずか3行ですが、その内容が私にとっては、とても印象深いものでした。

<<<ただし、陽平にはひとつだけ誤算があったかもしれない。曽野会長時代は9年半におよんだ。陽平にとっては、あまりにも長かったのではなかろうか。>>>

この第1回が週刊ポストに掲載されたのが、実に、平成24年4月11号で、それ以来、毎号、高山氏の「宿命の子」を熟読してきました。それから延々、1年4ヶ月後、連載の第60回目(平成25年8月30日号)にやっと曽野先生が登場しました。

 60回、61回と読むうちに、これはいかがなものか「じぇ、じぇ、じぇ!」と感じていたところ、第62回で「・・・私のもとへ、曽野本人から手紙が送られてきた。」とありました。そうだろうなと当然に思いましたが、曽野先生は穏やかな書きかたですから、多分、真意は伝わらないだろうなとも思いました。
と同時に、ご本人自身がいろいろ言うのは言い訳がましくなってしまいますので、真意が十分に伝わらないであろうことも止むを得ないことだと思いました。

 さて、私が尊敬する曽野綾子先生と、上記の経緯が、タイトル「私説・曽野綾子・論」とどういう関係があるのかと思われるでしょう。

 実は、世の中は、ほとんどすべて「認知の歪み」で成り立っています。物事を、どの角度から眺めるかによって、「風景」はまったく違ってきます。著者の高山文彦氏とは違う角度からの「風景」を見ながら、私が尊敬する曽野先生の実像(?)に少しでも迫ることができればと思っています。

 私達は、自分が「見たもの」「聞いたもの」「感じたもの」、つまり、「五感」で感じたものは正しいという強い「思い込み」があります。この度が過ぎる場合、精神科医や心身医学者は、ある特定の「病名」をつけて、特別な扱いをしますが、程度はともかく、私達は、皆、異常人格であるという「謙虚さ」が大事であり、そして「事実」でもあります。

 世の中に「正しいもの」「正しいこと」は無いのです。それらの物事をどのように捉えるか、それに尽きます。パラリンピックの佐藤真海選手は義足で走り幅跳びをしていらっしゃいますが、先日、テレビで「失ったものではなくて、残ったものを大切にしよう・・・とスポーツから学んだ」と発言されました。

 禅では「得失一如」と言います。佐藤選手の例でいえば、片足を失って、得ているもの(持っているもの)に気づいたことと思います。Aをやろうと思えば、Bができません。Bをやろうと思えば、AやCができません。この場合、A、B、Cのどれに焦点を合わせるかによって、気持ちが全然違ってきます。つまり、自分が見る、あるいは、見える「風景」は、焦点の合わせ方次第でいかようにでもなるのです。

 特に「育児」では、親は、自分の見ている「風景」が絶対のものと「錯覚」し、それが正しいものと「思い込み」、その価値観を基にして、子供にいろいろなことを強要してしまう強い癖があります。その「思い込み」や「決め付け」が少しでも分かってくると、私(藤森)のような傲慢な人間でも、謙虚にならざるを得なくなってきます。
若い頃を思い出すと身が縮む思いがします・・・・・と言いながら、あいも変わらない傲慢さが顔を出してきます。こういう私のような人間を「業が深い」と言います。

●(2)さて、「宿命の子」「名著」です。

 手元に現在までの全号があります。大冊の単行本の量になりますが、笹川良一氏の型破りな人間性と共に、戦犯者への物心両面での支援、博愛精神、金銭に対する大らかさなど、多分、私だけでなく、多くの方々が抱いているであろう笹川良一氏のイメージとはまるっきり違う、超大物的な人間性には驚きました。しかも、笹川良一氏の三男・笹川陽平氏の大らかさと同時に、芯の強さ(正義感?)や温かさ、優しさなどを持ち合わせたスマートな品性は、私(藤森)にはまるっきり無いものだけに、羨望の眼差しで読ませていただいています。

 来年には「単行本」になることと思われますので、是非、ご覧ください。さて、これから、宿命の子 笹川一族の神話と真実」(高山文彦著、週刊ポスト)の中の「第62回」を中心に、「私説・曽野綾子・論」、つまり、いかに私(藤森)が曽野先生を尊敬しているか、そして、曽野先生がいかに素晴らしい方でいらっしゃるかを述べさせていただきます。「第62回」の全文を使わせていただきますが、その途中で、ところどころ、

【【【  】】】の中に、青い文字で、私の考えを述べさせていただきます。

●(3)平成25年9月13日、週刊ポスト「宿命の子」(高山文彦著)

 <笹川一族の神話と真実>(第62回)

 日本船舶振興会(通称「日本財団」)の新会長に就任した曽野綾子がまず手をつけたのは、50億円近くあった巨額の広報予算の削減だった。会報誌を廃止し、テレビ番組の提供から撤退し、40にのぼる雑誌に「日本財団とは何者だ」というコピーが躍る短冊広告の出稿をスタートさせた。また、新聞全面広告で決算と仕事の内容を発信するなど、振興会のイメージを一変させるような戦略を次々と展開した。

さて、ここまで曽野綾子の新会長就任にいたる経過と就任後の勇猛果敢な広報予算の削減、そして新たな広報戦略の展開などについて書いてきた私のもとへ、曽野本人から手紙が送られてきた。

 私は日本近代文学館が主催する夏の文学講演会で講師のひとりをつとめたとき、ちょうど同じ日に私のあとで講演をする彼女と控室で顔をあわせ、日本財団や陽平のことについて話を聞かせていただけないかと申し上げたことがあった。そのとき曽野は、自分は陽平や笹川家とはプライベートなつきあいがなかったからよく知らないのだと言い、『日本財団9年半の日々』という本でたいてい財団時代のことは書いているので、それを参考にしてほしいと、あくる日にはもう著書を送ってきてくれた。それで私は、忙しい彼女には財団の話をするのが煩わしいのだろうと解釈し、彼女に話を聞くのをあきらめて、陽平や尾形(藤森注・尾形武寿・現日本財団理事長、連載第52回)や日下公人ら当時新会長選出にかかわった人物たちに話を聞くのみで書かざるを得なかったのだが、この稿を書こうとしていた4、5日まえに『この世に恋して』(ワック)という自伝本とともに手紙が送られてきて、たいへん興味深く読ませていただいた。

【【【曽野先生は、「自分は陽平や笹川家とはプライベートなつきあいがなかったからよく知らない」とおっしゃっていらっしゃるので、文字通りの理由だと私(藤森)には思えます。私(藤森)自身、よく体験しますが、文字通り・言葉通りに受け止めてもらえるということが本当に少ないです。何か、その裏を読み取ることが多くの人は「習い性」になっているようです。裏の裏のを、自分固有の歪んだクセ(悪癖)で推測し、推測したものを相手の「真意」だと決め付ける傾向が強くあります。かく言う私自身が若い頃はそうでしたから、決して偉そうなことは言えませんが。】】】

 <お作の中で私の知らない話をたくさん拝読いたしました。そういう経緯だったのか、とほんとうにびっくりしています。男性は女性より知的なのでしょうか。「画策」「作戦」をお楽しみなのですね。私は日常生活以外、できるだけ余計なことはしたくない方ですから、男性的な世界を改めて新鮮に感じました>

 いかにも曽野らしい書き出しではじまるこの手紙には、事実関係をめぐっていくつか目を惹きつけられるところがあって、いまのうちに彼女の側から見た「男性的世界」と彼女自身のそのときどきの心象風景について書き添えておかなければと思った。

 ご本人に了解をとっているわけではないし、私信ゆえそのまま公開することは憚るべきではないかとも考えられるが、そこは「記録」をより正確な「記録」として後世に伝えるために作家が作家に送ってきたものという特殊な性格を鑑みて、曽野氏にはお許しいただけるものと思う。

 <「やる気がある」は誤解だった?>

 指摘を受けた大事な点だけ、いくつか紹介させてもらうと、まず最初に曽野は「忘れていたことも思い出しました」と書いて、
<私はたしかに会長を選出する立場の一人だったはずなのに、自分が選ばれる会にはいなかったこともまた確かなのです。どうしてその場にいなかったのか、わからないままでしたが、財団の方できちんと記録を取っていてくださったおかげで、私は講演だの雑用だので、急に日程がきまった新会長選出小委員会に、確かに初めの2回出席しなかったのです。その間に決まってしまったわけです。ですから当時、私ほど会長選出の経緯を知らなかった人間はいなかったのでしょう>

 と、率直に当時のことを回想している。
 日下公人を議長とする新会長選出小委員会が当時総務部長だった尾形武寿の尽力で生まれたとき、曽野もその委員に加えられていたことはすでに書いた。でも彼女は2度つづけて委員会を仕事のために欠席した。それについても私は書いたが、手紙はそれに言及するとともに、自分が欠席した2回の委員会で新会長に自分が推挙されることが決められてしまい、まったくそのような男どもの裏の動きについては知らなかった、と述べているわけである。

 最初の小委員会を曽野が欠席したので、会議の報告を兼ねて尾形総務部長は曽野に会った。尾形の記憶ではそのとき曽野は、「誰か陽平さんを守ってくれる人はいないかしら」と、内紛の余燼を心配しているらしくこのように言い、「こういうときは女性がいいのではないか」と、成り行きを案じているようすだったという(『日本財団50年史』)。

 曽野は尾形に聖心女子大学の先輩である緒方貞子の名前を出したり、三木武夫元首相の夫人睦子の名前をあげたりし、それを尾形のほうは「曽野さんに脈あり」と解釈し、小委員会のメンバーに伝え、新会長には曽野になってもらおうと意見をまとめた。

【【【「認知療法」における「認知の歪み」でみると、尾形氏が「曽野さんに脈あり」と解釈するのは、まったくの自由であり、また、そのように解釈した尾形氏にとっては、その解釈は正しいのです。
しかし、それはあくまでも尾形氏個人の
「思い」であって、それが正しい認識かのように決め付ける傾向が、私たちには強くあります。私たちの日常は、こういう自分独自の「思い込み」「決め付け」で成り立っています。高山文彦氏の曽野先生についての書き方は、そういう情報を集めて書き連ねているように私(藤森)には思えてなりません。それはおいおい書いていきます。】】】

 ところが手紙によると、尾形の受けとめかたは間違っており、自分はちっともそんな意志などもっていなかったと、曽野は私がこれまで尾形の文脈に沿って書いてきた内容に訂正を求めたきた。

 <尾形さんとお会いした時のことも思いだしました。

 しかしこの時のことだけは、お書きになっていらっしゃるニュアンスと違います。私は尾形さんが、漫然と、次期会長に女性がいいと考えておられて、私に女性の中で適任者はいるか、とお尋ねになったとばかり(今でも)思っていました。

 実はそういう質問は苦手だったのです。私は女性が社会に進出しなければならない、という意識があまりありません。1975年に、日本からの文化施設団の一人に加えていただいて初めて中国に行きましたが、その当時多分、ゆくゆくは江青女史を毛沢東の後に据えたかったのでしょう。一日に3、4回「天の半分は女性が支えています」という決まり文句を中国側から聞かされました。初めは私が女なので、その点に関する儀礼的挨拶なのかと思って聞き流していたのですが、あまり煩わしくなったのでつい「天は、男に支えていてもらっていた方が、手がだるくならなくていいんじゃありませんか」と言い返したことを覚えています。(中略)

 緒方貞子さんは上級生でしたから、ほんとうの優等生だということを知っていました。しかし三木夫人のことは、雑誌などで読む程度でよく知りません。しかし経歴といい、もって生まれたらしいほがらかなご性格といい、日本財団のようなところにはいいと思いました。でもそれは、尾形さんから現在どういう女性が働けるか、と聞かれたから、少し無理をしてお答えしたまでで、私はつまりそういうことに、ほとんど興味がありませんでした。

 サッチャー以来、何となく女性の社会進出が流行りになっていた頃ですから、私はそれを社会風俗の一つとして捉えていたのだと思います。私自身としては、流行りを追うのは、あまり好きではありません。その時、自分が財団の会長になってもいいなどと、(尾形さんがお考えのように)意図していたなどという発想は全く驚きです>

 風化した記憶がこのように語らせているのか、それとも当時のリアルな感情が生々しくよみがえってこのようなことを語らせているのか、私にはなんとも判定できないが、当時もいまも尾形が陽平や日下公人に「曽野にはやる気がある」と彼女の心理を見てとって報告したのは事実としてふたりの記憶のなかにも生きており、なにより曽野が会長就任を引き受けたという事実が当時の彼女の気持ちを雄弁に物語っているとは言えないだろうか。

 尾形の回想にあるように、「誰か陽平さんを守ってくれる人はいないかしら」と彼女が言い、次期会長は女性がいいのではないかと進言したのだとすれば、半分は自分がやってもいいと思う心があったのではないかと考えても、そんなに筋違いな話ではないだろう。彼女の母性が陽平を守ってやりたいという本能からの声をあげたものだから、尾形はそれを「やる気」と受け止めたのかもしれぬ。

 不思議な男と女の特性の違いをしめす心理の綾である。

【【【「私に女性の中で適任者はいるか、とお尋ねになったとばかり(今でも)思っていました。」「私は女性が社会に進出しなければならない、という意識があまりありません」「尾形さんから現在どういう女性が働けるか、と聞かれたから、少し無理をしてお答えしたまでで、私はつまりそういうことに、ほとんど興味がありませんでした。」と曽野先生はおっしゃっています。その通り、文字通りに受け止めたらよろしいのではないでしょうか。

 私(藤森)は、曽野先生がこのようにおっしゃっていらっしゃるのですから、文字通り、そうなのだろうなと感じます。特に、曽野先生ほどの高潔な方が、一般にいう「駆け引き」的に、さらには、ご自分がやりたいから・・・・・云々と解釈するのは、大変失礼ながら「ナンセンスの極み」だと私には思われます。人間は、どうしても、自分の人格のレベルに合った推測をしてしまうものです。昔の私(藤森)を思い出しますと、「邪推」「妄想」に溢れていました。
おいおい証明していきたいと思いますが、「認知療法」における
「認知の歪み」を体得することの大切さを改めて強く認識しました。

 また、緒方貞子氏は本当に素晴らしい方です。素晴らしい方というよりも、「傑出」した方で、曽野先生とともに、同じ時期に、同じ大学から登場したということは、ほとんど「奇跡」と言っても過言ではありません。
社会的に活躍したとか、会社を大きくしたとか、素晴らしい勲章や○○文学賞を受賞したとか、そういうことは、世の中には、たくさんの人がいらっしゃるのでしょう。そういう見てくれの問題ではなく、内面の人間性・・・つまり、
「高潔さ」という点で、曽野先生と緒方貞子氏は、抜群に素晴らしい方です。その緒方氏を推薦したのですから、下記の「NHKスペシャル」にも出てきますが、碌でもない人間を百人集めるよりも遥かに有効な提案だと思われます。

 NHKスペシャルで緒方貞子氏が特集されていました。60分番組の全体を文字化しましたので、緒方氏の素晴らしい人格をジックリとお味わいください。

 平成25年8月17日、NHKスペシャル緒方貞子特集」(正式なタイトルは失念しましたが、内容としては、ほぼ、間違いないと思います)

 緒方貞子、聖心女子学院、軍用機のタイヤを作る工場で、戦時中、働く。1945年、東京大空襲では、火の手が隣の家まで迫る。
 「余りにも多くのものが傷つけられ、失われる戦争」「負けるということはどういうことか知らなかった」「戦地にいれば分かるかもしれませんが」「自分の国が負けたら、負けた国がどういうことになるかなって思いました」

 1948(S23)年、聖心女子大学。戦後から3年、貞子21歳。一期生として入学。その後の人生に決定的な影響を与える人物、学長のマザー・ブリット。「凄い人でした」。戦前から教壇に立っていたが、戦争でアメリカに強制送還されたが、自ら望んで日本に戻る。
 ブリット氏「皆さん、頭を使って考えるのです。鍋の底を洗うだけの女性になってはいけません。結婚なんて一度すれば、一生していられるんです。結婚のことを考える暇があるならば、とにかく勉強しなさい。そう、私は、あなたたちに言いたいのです」

 その後、緒方氏は自治会の会長に選ばれた。
ブリット氏「リーダーシップをしっかり発揮するのです。そして学生たちのイニシアチブで活動しなさい」

緒方貞子氏「渡辺さんに提案していただいたもので、大学のモットーは“Excelsior”にしましょう」女性の新しい生き方を刻んだ。

ブリット氏「皆さん、自立しなさい、知的でありなさい、協力的でありなさい。あなたたちは、たとえ、社会のどんな場所にいようとも、そして、どんな立場にあろうとも、その場に灯火を掲げられる女性になるのです」

 1951年、アメリカ、ジョージタウン大学大学院に留学。多様性を身につける。
 「満州事変と政策形成過程」・・・軍の暴走に、なぜ、歯止めがかからなかったのかがテーマ。
1958(S33)年、31歳。帰国後、この論文を書くために、軍や政府の指導者たちに聞き取りを始めた。
元関東軍参謀・片倉タダシ「陸軍大臣は何も考えていない。我々は不満を持っていた。あの時、満州の関東軍にいた我々は、日本の国籍を
離脱しても、満州国を実現しようと覚悟していた」

 政府はどう対応したのか。
 曽祖父・犬養毅に起用された、貞子の祖父で元外務大臣・吉澤謙吉「陸軍と折衝した。独立を実行しようとすれば日本の国際的立場は非常に不利になる。当時は、国際的視点が欠けていた」

 満州事変から太平洋戦争へ、指導者の意思決定が孕む問題に、貞子は迫っていきました。
 「関東軍に対する日本政府の統制の弱さ、政府、及び、陸軍中央部がなんら、効果的解決策を持っていなかった」「彼らは日和見主義、あるいは、不決断、あるいは、消極性無責任」「ある程度、日本の陸軍中堅の一種の謀反だった。だから、最後に抑えられなくなった。だから、結果的に、太平洋戦争に突入した。陸軍を抑え切れなくなったから」

 満州事変の研究から、現代の日本や世界にも通じる教訓を得たと言います。

 「勝手によそへ入り込んでいって、自分にとってだけいいようなことはできません。こちらが勝手に、これは望まれていると押し付けることは、今でもやっています。いろんな所で」「内向きな上に、妙な確信を持って、それを実行しようとすると、それは押しつけになります」「内向きは無知につながっている」

 バングラディシュでの緒方貞子氏「あなたが自分の国で悲惨な経験をして、他国に逃げ出したとします。もし、自国に戻ろうと思えば、無事に戻れる保証が必要ですよね。それが私たちの仕事なんです」

ナレーション・・・内向きではいけない。人々の本当の願いを知らなければいけない。UNHCR時代、緒方さんは1年の半分以上を難民たちの現場に足を運んでいました。
 当時の高等弁務官補佐官、ヨハン・セルス氏・・・「彼女は、それまでのどの高等弁務官よりも現場主義を貫いていました<2005年11月15日「今月の言葉」第40回「現場力についてパート①」第41回「現場力についてパート②」第42回「現場力についてパート③」第43回「現場力についてパート④」ご参照>。

 プライベートな時間はほとんどなかったと思います。同行するスタッフの間からは、緒方さんのペースについていくのは大変だという声が出たほどです。彼女のスタミナ、意志の強さは信じがたいものでした。緒方さんは、難民たちがどんな経験をしてここに至ったのかを理解するために、ひたすら、彼らの声に耳を傾けていたのです。その姿は思いやりに溢れていました。
さらに、難民の話を十分に聞いた上で、その地域の政治的リーダーとの交渉をしました。こうして彼女は解決策を導いていったのです。

 1994(H6)年、UNHCRが、アフリカ・ザイール(現コンゴ民主共和国)に造ったゴマ難民キャンプ。緒方さんが難民高等弁務官として厳しい試練にさらされた場所でした。
 ここで避難生活を送っていたのは、隣国・ルワンダの内戦から逃れてきた人々です<2006年2月28日「今月の映画」第43回「ホテル・ルワンダ」ご参照>。

 1994年、ルワンダ虐殺。
 多数派部族であるフツ族の過激派が、少数派のツチ族を襲撃。80万人が殺されました。やがて、ツチ族は反撃し、敗れたフツ族は復讐を恐れ、隣国のザイールに逃れました。100万人もの難民の中には、多くの一般市民が含まれていました。

 ゴマ難民キャンプでは、病人や死者が続出していました。ルワンダにいた時から恐怖にさらされ、劣悪な環境に置かれていた人々。辛うじて辿り着いたキャンプでも、赤痢やコレラが発生していました。

 緒方貞子氏「頑張って下さい」「強い気持ちで・・・・・」

 コレラの蔓延を防ぐため、緒方さんはアメリカに協力を求めました。安全な水の確保につとめます。この時、難民キャンプの医療活動を支えていたのがNGOの国境なき医師団でした。
国境なき医師団・代表「申し上げにくいのですが、我々、国境なき医師団はこのキャンプからの撤退を考えている」
緒方貞子氏「なぜ?」
国境なき医師団・代表「犯罪者を救うのは、我々の任務に反するのです。難民の中には、虐殺にかかわった人たちが大量に紛れ込んでいますよね」

ナレーション・・・武力でキャンプを支配しようとしているフツ族の兵士たち。彼らを難民として救っていいのか。

緒方貞子氏「あなた方の言い分、よく分かります。引き上げるというなら、止めません。けれど、私たちは残ります。国連から難民保護の任務を与えられている我々は、犯罪者がいるからといって、立ち去りません。罪のない女性や子どもたちを見捨てるわけにはいかないのです」<藤森注・強いなあ!!!

 ナレーション・・・すべては、一人でも多くの命を救うために。しかし、キャンプの治安を取り戻すには、フツ族の兵士を引き離す必要がありました。緒方さんは、国連のガリ事務総長に、国際舞台を派遣するよう求めます。この日の回答に、大きな期待をかけていました。

ガリ事務総長「結論から申し上げましょう。私たちは39カ国に対し、難民キャンプに軍を派遣してほしいと要請をしていました。しかし、派遣すると答えてきたのは、たった1カ国でした」
緒方貞子氏「たった1カ国!?」
ガリ事務総長「何故だか言いましょうか。みんなウンザリしているんです。アフリカの出来事は、もう、みな、関心を持とうとしないのですよ。一種の差別と言えるでしょうが。誰もアフリカで起きている問題に、自分の国の若者を死なせたくないということです」

緒方貞子氏「きっとうまくいくわ。まず、やると決めて動き出しましょう」<藤森注・強いなあ!!!私ならば心が折れて「自滅!」です>
ナレーション・・・緒方さんは、これまで例がない形でキャンプの治安を回復しようとします。

緒方貞子氏「難民保護が使命であるUNHCRはザイール政府と交渉し、1500人の軍人を派遣してもらう合意に達しました」<藤森注・!!!
ナレーション・・・難民を受け入れているザイールの軍隊に、UNHCRが直接キャンプの治安維持を依頼する。それは国際社会の常識を覆す決断でした。国連の部隊以外は、紛争地で中立を守れないと考えられてきたからです。各国の協力を得られない中、緒方さんはザイールの軍人に訓練を行ない、難民保護に当たらせたのです。

 今、平和を取り戻したルワンダ。かつての難民たちは故郷に戻り、暮らしています。他の国の難民の受け入れにも、ルワンダは積極的です。
 ここは、UNHCRが運営する難民キャンプの一つ。隣国・コンゴの難民たちが暮らしています。不思議な名前の少女がいると聞きました。
 「私の名前はサダコ・オガタです」
 15歳の中学生。一体、何故、オガタ・サダコという名前になったのでしょうか。

 1997年末、内戦中だったコンゴから命がけで逃れてきた母親。この時、お腹の中にいたのがサダコ・オガタちゃんです。UNHCRの支援で、難民キャンプに無事に到着、出産できた。「1998年、難民キャンプの病院で娘が生まれた時のことは今でも忘れません。本当に幸せな気持ちでした。その時、緒方さんが、こちらのキャンプに来ていた。それで娘にサダコ・オガタの名前をいただいた」

ナレーション「ここルワンダだけではありません。アフリカでは各地に、何人ものサダコ・オガタちゃんがいるという」
 2000(H12)年、緒方さんは、この難民キャンプを再び訪ねました。内戦を乗り越えて生まれた命との再会。いくつもの世代を超えて語り継がれるオガタ・サダコの記憶です。

 緒方さんが作り上げた難民支援の新しい仕組み、UNHCR緊急事態対応チームの訓練。世界のどこで難民がうまれても、72時間以内に駆けつけることを目指します。難民を救うのは、時間との戦い。初動体制の強化が必要です。こうした訓練には、日本を含め、世界各国のUNHCRの事務所の職員が参加します。普段はデスクワークをしている人にも訓練を積ませ、いざというときの戦力に育て上げます。
 UNHCR組織の力を難民支援に向け、最大限、発揮させる、それが緒方さんの狙いです。

 当時のUNHCR官房長、ソーレン・ジェッセン=ピーターセン「緒方さんが一番大切にしていたのは『思いやり』を持つこと。つまり、何より難民のことを考えるということでした。UNHCRの中にも、キャリア組の官僚的な人間はいて、時々、自分の立場や昇進のことを優先する場合がありました。でも、正しい結果を出すには、難民に『思いやり』を持つしかないと緒方さんは教えてくれたのです。こうして、弱者を救うことに力を尽くせたのも、緒方さんが歩んできた人生が影響していたのかも知れません」

 時を再び遡って、貞子は1960年、同い年の四十郎と結婚。二人の子供に恵まれた。
 四十郎と結婚する時、貞子が出した条件は、学問を続けること。でも、子供は忙しく、楽しく、学問の道から、少し離れざるをえませんでした。家事や育児の合間をぬって、大学の非常勤講師を週に2回だけ務めていました。

 1968(S43)年夏、貞子の運命を変える人が現れます。貞子40歳。高名な婦人運動家、市川房江の突然の訪問でした。
緒方貞子氏「え!私を国連に?」
市川氏「日本の婦人団体の皆さんと努力を続けてまいりました。10年ほど前から、国連総会に参加する日本の政府代表団に、毎年、必ず、女性が参加できるようにしてきたんですよ。で、実は今年、参加を予定していた方が行けなくなってしまってね」

緒方貞子氏「でも、なぜ、私に?」
市川氏「緒方さんは国際基督教大学で、国際政治について教えていらっしゃるのでしょう」
緒方貞子氏「はい。でも、今は非常勤なんです。今は、この通り、子供がちいさいから」
市川氏「無理を申し上げていることは重々承知しています。が、どうかお考えになってみていただけないでしょうか。9月からニューヨークに3ヶ月」

夫「国連に行けるのは、またとないチャンスですからね」
緒方貞子氏「でも3ヶ月もよ」
母「育児の大変さ。私一人ではムリ」
父「貞子、こういうときは、まず、行くと決めてしまうんだ。方法は、それから、皆で考えればいい」

ナレーション・・・貞子の中で、しばらく、なりを潜めていたものが熱くよみがえります。貞子の背中を世界へと押した父の言葉。さらに時を遡ると、実は、父・豊一も、国際政治の困難な場に身を置いたことがありました。
 1938年、日中戦争。この時、豊一は香港で、日本政府の代表総領事を務めていました。父・中村豊一(42歳)に中国行政院長秘書・喬輔三が密使として会いに来た。
豊一氏「中国の責任ある立場の方が自ら接触を望んでこられるとは珍しい。ご用件は?」
喬輔三氏「我々も、和平の実現を望んでいて、あなたを通して、極秘に、日本政府の意向を承りたいのです」

 宇垣一成外務大臣と会うが拒否される<以下、略>

 しかし、自らの目で現実を見つめ、信ずるところを主張する生き方は、娘・貞子に受け継がれていくことになります。

 1968(S43)年ニューヨーク。貞子の世界を、幼い頃から広げてきたアメリカ。今、父の励ましをうけ、新しいステージに立ちます。
 48歳の国連デビュー。国連総会第3委員会。各国の代表と人権問題などを議論。以来、積極的な発言で、注目を集めます。
 1976年からは3年にわたり、国連の日本の政府代表部で働きます。パレスチナや南アフリカのアパルトヘイトなど、各国の思惑が絡み合う問題について、日本の代表として討議を重ねる毎日でした。

緒方貞子氏「討議をして、そこから決議案を通してまとめていきます、国連の仕事というのは。だから、人と話して、どこの国の人が、どんなことを考え、どういう形でこの決議案がいくかということを工夫して、いろいろ勉強しなければならない。国連に来て良かったのは、今まで、会ったこと、見たことのないような人と知り合ったことです。非常に素晴らしい理屈で、キチッと説明できる人がいるんだなあと。大きい国大きなお金持ちの国から来る人が優れているとは言えないな、ということを学びました」

 当時の同僚・加藤淳平氏「緒方さんを感心するのは、よく日本人にあるんですが、白人というか、大国の人ばかり感心してしまって、一方、アフリカの人たちの言うことは、初めから相手にしないというところが・・・。緒方さんには、一切、そういうところがない。偏見ということが全くない人だった。これは、案外、日本人には難しいことですが・・・」

ナレーション・・・加藤さんに強い印象を残した緒方さんの言葉があります。アフリカのブルキナファソから来た外交官が優秀ですよ。当時は無名だったディンボン・バンバさんは、後に、中東で大使を務め、環境問題の分野でも活躍しました。

加藤淳平氏「こういう人を、なかなか、普通の人は見つけてくれない。もう、本当に、一小国の全く下っ端の外交官に過ぎませんからね。だから、こういう人をキチッと見抜く目を持っておられた方だなあと思いましたね」

 <藤森注・・・江戸しぐさの中の重要な一つで、相手により態度を変える人間のことを「井蛙(せいあ)っぺい」と言います。「せいあっぺい・・・・・井戸の中の蛙は世間知らずで何でも自分が一番と思いがち。そういうことでは世間は渡れないよ、と戒めて呼んだ。今日では誤解をまねきやすく禁句の「いなかっぺい」はこの井の中の蛙がもとだという。つまり、学歴、職業、地位などで差をつけたがる根性の人を指している」(「江戸の繁盛しぐさ」越川禮子著、日経ビジネス文庫)

 ナレーション・・・緒方さんが1983年、始めた模擬国連。これまでの参加者は、延べ8000人。日本の大学生たちがそれぞれ、各国の代表の立場に立って、様々な国際問題を議論します。
利害が対立し、思惑がうずまく国際社会。紛争の火種を常に抱えています。その中を生きる若い世代に、緒方さんが望むこと。

緒方貞子氏「多様性への対応です。この頃は、多様性はポジティブなこととして出されていますが、多様性にどう対応するかということは、やはり、尊敬しなければいけないですね。尊敬とはオーバーかも、尊重かな・・・」「隣の人は、自分と同じとは思わない方がいいですよ。あなたと私は違うんですよね。それはそういう形で、違った部分についてはよく理解しようとするとか、より尊敬するとか、しなければいけない」「異人ということは、異なる人でしょう。本当は“ニンベン”の“偉人”でなければいけない」

 1992(H4)年、ユーゴスラビア。「高等弁務官、出発前に、これを着てください」

ナレーション・・・初めて身につけることになった防弾チョッキ。緒方さんはこの時、UNHCRの歴史に前例のない危険な任務に着こうとしてしました。

緒方貞子氏「かなり重いですね」
担当官「かなり重いですか。お気をつけて。決して無理はしないでください。いつ、どこから銃撃されるか、全くわかりませんから」
緒方貞子氏「わかったわ。でも、自分の目で、しっかり、現場を見ておかないと」

ナレーション・・・銃弾が飛び交う戦場で、初めての難民支援です。6つの共和国で構成されていた旧ユーゴスラビア、冷戦終結後、独立の動きが相次ぎました。その中でも、共に暮らしてきた民族同志が、互いの民族性の違いを理由に、殺戮や追放を始めたのです。この事態は、民族浄化というキーワードとともに、世界を震撼させました。

 国連の安全保障理事会は、大国の思惑が異なる中で、軍事介入を見送ります。一方で国連は、UNHCRにユーゴスラビア市民への人道支援を要請したのです。ここでも緒方さんは前例のない決断を下しました。各国の空軍に協力を要請。食糧や医薬品など支援物資を空から届ける作戦でした。人道機関が軍隊と共同作業を行なえば中立性を損なうという反対論がありました。

 しかし、緒方さんには、貫き続けた信念がありました。
緒方貞子氏「最終的には、人を生き延びさせる選択を取る他にはしょうがないじゃないか。生き延びれば、もう一回チャンスが出てくるかもしれない。そこで殺されたら、そこまでですから」

ナレーション・・・空輸作戦の開始から2ヶ月。ジュネーブに戻っていた緒方さんは、ユーゴ問題の会議に出ていました。
緒方貞子氏「これ本当なの?」・・・イタリアの救援機の墜落。4人の乗組員全員が死亡・・・「誰がやったの?」

ナレーション・・・その後、トラックも襲撃され、輸送作戦の犠牲者は増え続けました。支援物資を対立する民族に届けさせまいとする勢力が攻撃を繰り返したのです。この状態のままで人道支援を続けるわけにはいかないのです。緒方さんは行動を起こします。
 ユーゴの過酷な現実を、国連安全保障理事会で直接訴えることにしたのです。人道支援を続けるためにも、各国が協力して介入し、紛争を終わらせなければならない。難民 高等弁務官がこの場でメッセージを発するのは国連創設以来、初めてでした。

緒方貞子氏「民族浄化が今も続いています。人々は、毎日のように地雷原や前線を横切って逃げているのです。身の安全を必死に求めています。私は、民族浄化という忌まわしい行為を、国際社会全体と共に非難します。そして、私は、皆さんに強調しておきたいと思います。皆さんには、人々が安全に家に留まる権利を尊重する義務があるのです。幻想をいだいてはなりません。UNHCRだけでは多くの人々にもたらされる苦しみや死を防げないのです」

ナレーション・・・しかし、緒方さんの訴えにも安保理理事国の利害は一致せず、紛争解決に乗り出すことはありませんでした。UNHCRは、その後も人道支援を続けました。旧ユーゴでの紛争では7年後まで続き、犠牲者は20万人を超えたといわれています。

当時のUNHCR官房長、ソーレン・ジェッセン=ピーターセン「緒方さんは、安保理の対応に非常に不満を感じていました。私たちは孤独だわと言っていました」
ナレーション・・・紛争が解決しない限り、大量の難民が生まれ続け、何年たっても避難先から戻ることはできないのです。国際社会が手を差し伸べないまま失われていく命。辛い出来事が繰り返されたユーゴで、深く心に刻まれた出会いがありました。
 故郷を追われた避難場所で聞いた少年の言葉。

少年「ミセスオガタ、僕を家に・・・チャント自分の家に帰らせてね」
緒方貞子氏「約束するわ、もちろんよ」

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緒方貞子氏「やっぱり、今でも忘れないわね。それだけの信頼を私たちは受けている。それはそうでしょう。それだから、私たちは、本当に頑張らなければいけない。みんな自分の家を捨てて、どこかへ行くのはイヤなんです。一番イヤなことでしょ、家を捨ててどこかに避難することは。だから、避難しなければならない紛争を終えてください、と。そういう大変大きな願いをされているわけです」

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緒方貞子氏「家を追われ苦しむ難民を支援するために最前線で闘ったすべての人に尊厳を。そして、誰よりも難民に尊厳を。サンキューベリーマッチ」

 2000(平成12)年末、73歳で10年に及んだ国連難民高等弁務官を退任。その後も、緒方さんは人々の現場に足を運び続けました。日本のJICA(国際協力機構)のリーダーとして取り組んできた地道な活動。
 学校を運営し、人を育て、物作りの技術を広め、暮らしの基盤を整備することが、紛争を予防し、平和を定着させることにつながります。人間の安全保障。その大切さを世界に訴え続けています。

緒方貞子氏「人々です。人間です。人々というものを中心的に、安全、繁栄というものを考えていかないといけないと痛感しましたね」

ナレーション・・・今も戦争が終わらないこの世界。しかし、緒方貞子さんは諦めてはいません。
緒方貞子氏「紛争が無くなった地帯はないんでしょうね。だけども共存ということをもっとキチンと考えなければいけない。だって人間なんだもの。人間としての価値というものをお互いに認め合わなければいけない。相互依存だということを自分たちの生活の中にも見ていかなければいけない。持ちつ持たれつ・・・・・という言葉、あれは日本の言葉でしょう。持ちつ持たれつでいかないと、ね」】】】

<次回④ー②に続く>

<文責:藤森弘司>

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