2013年5月31日 第93回「トピックス」
ガジュマルの大木

●(1)今年の5月4日、NHKスペシャルで「井上ひさしの遺言」が放映されました。

 何気なく見ていると、内容に何か、見たことのあるような、読んだことのあるような淡い記憶が甦ってきました。記憶のどこかに馴染みのある内容でしたので、新聞の番組表をみると、「残された肉声とメモ」「よみがえる幻の作品」「日本人へ!珠玉の言葉」とありました。

 さらに、私(藤森)の資料を調べてみると、ピッタリの新聞記事を発見しました。まさに、この資料の内容が井上ひさし氏原作の芝居になっているのでした。その切抜きは、私が戦争の悲惨さにショックを受けて残したものでした。 しかも、私が担当する「三日月会」(5月31日)でこの資料を使う予定でコピーまでしていました。

 何か深いところで響いた8年前の記事を紹介します。

●(2)平成17年6月21日、読売新聞「戦後60年 6・23沖縄戦終結」

 <樹上で2年 兵士は生きた>

 沖縄本島の北西に浮かぶ周囲22キロの伊江島に、ガジュマルの大木がある。高さは10メートルもあろうか。こんもりと茂った緑葉が強烈な日差しを受けている。
「この木が、私の父の命を救ってくれたんだよ。何度見てもまぶしい」。佐次田勉さん(65)は、地元の小学6年生約30人を前に感慨深げに語った。

 島で平和祈願祭が開かれた4月21日。勉さんは小学校に招かれて、風邪で体調を崩した父、秀順(しゅうじゅん)さん(87)に代わって講話をした。
 秀順さんは元陸軍1等兵。終戦を知らないまま、山口静雄さん(1988年、77歳で死去)と、ガジュマルの木の上で2年近くを過ごした。

 「昼はセミのようにくっついて、夜は木から下りて食料を探したんだよ」
 勉さんの話に、子どもたちは目を丸くした。
 「人が手を結び合って生きることの尊さを子どもたちに伝えたかった」と玉城睦子教諭(45)は言う。

 *

 1945年4月16日、米軍は、当時「東洋一」の飛行場を持っていた伊江島に上陸を開始した。すでに沖縄本島との航路は遮断されていた。島民は島に取り残され、守備隊と運命を共にすることになった。
女性や子どもまでもが小銃や竹やりを取り、斬り込みに参加した。爆雷を抱えて戦車に飛び込んだ女性もいた。避難壕では集団自決もあった。6日間の戦闘の末、島民の4割、約1500人が死亡した。

 足に被弾した秀順さんは壕から壕へと逃げ惑い、追い詰められた末に木へ登った。重傷を負った同じ部隊の山口さんを別の木に担ぎ上げ、それぞれの木に葉や枝で“巣”を作った。
 米軍は占領した飛行場を本土出撃基地にするために、生き残った島民約2100人を近くの慶良間列島に強制移住させ、敗残兵を掃討した。

 2人は未明のわずかな時間に木から下り、イモの根やサトウキビをあさった。雨でずぶぬれになり、高熱が出た。「見つかれば殺される。いっそ、手投げ弾で自決しようか」。なえそうな気持ちを山口さんの励ましが押しとどめた。
 毎夜、木の下で落ち合い、家族や少年時代の思い出を語り合った。「生き延びればきっと道が開ける。無事戻れる日までお守りください」。秀順さんと山口さんは、それぞれの郷里の沖縄本島と宮崎県に向かって手を合わせた。

 *

 山口さんが破傷風で衰弱していた夜、食べ物を探しに出た秀順さんは足を滑らせ、尻もちをついた。プーンと揚げ物のにおいがした。目をこらすと、ソーセージや缶詰が転がっている。米軍のごみ捨て場だった。
拾った砂糖を水で溶かして山口さんの口に含ませると、「うまい、うまい」と、息を吹き返した。

 樹上生活を始めて2度目の冬が過ぎたある日、突然、木の下で日本語が聞こえた。帰還を許された島民たちが米兵とともに畑を見回っていたのだった。
 穴の中に隠していた食料がなくなり始めた。<持っていかないで>と置き手紙をした。数日後、同じ場所に置かれた返事に、2人は絶句した。

 <戦争は終わった。安心して出てきなさい>
 「信じていいのか。敵の謀略じゃないか」。何度か手紙でやり取りした末、「もしかしたら助かるのでは・・・・・」と決意し、ガジュマルから下りた。島民は2人を温かく迎えた。47年3月のことだった。

 *

 伊江島は今、約3分の1を米軍用地が占める。2003年春、地域振興策としてゴルフ場がオープンした。島民約100人が集団自決した壕「アハシャガマ」の目の前だ。
 島民と交流を続ける秀順さんは危惧する。
 「つらい体験が忘れ去られそうで心配だ。何があっても戦争は嫌だ」

<文責:藤森弘司>

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