2013年12月15日 第102回「トピックス」
私説・曽野綾子・論
④ー④

●(1)<沽券についての一考察>

 「沽券」・・・・・(「沽」は売る意)①売り渡しの証文。売券(うりけん)。②売値。③人の値打ち。品位。体面。
「沽券に関わる」・・・・・評判・品位・体面などに差し障りとなる。(広辞苑)

 さて、高山文彦氏は「週刊ポスト」連載の「宿命の子」で、故・笹川良一氏の三男で、現在は日本財団会長の笹川陽平氏について・・・・・

 「陽平のやりかたは、こうしたきわめて政治的な人間にたいして、あまりにも無邪気で無垢にすぎたのかもしれない。私は陽平をベビーフェイスに描きすぎているだろうか。」

 と書いています。
 この「陽平をベビーフェイスに描きすぎているだろうか」という件は下記の次の部分です。

●(2)平成25年11月22日、週刊ポスト「宿命の子」(高山文彦著、第70回)

 日本人妻一時帰国をめぐる北朝鮮の張成沢と陽平の会談は11時間半にわたった。帰国の許可と引き替えに化学肥料を求める張に対し、陽平は無条件での里帰りを主張した。さらに彼は、ジャンボ機1機で500人を一度に帰国させることを迫った。ようやく張は陽平の説得に折れ、「1、2ヶ月以内に数百人単位」の一時帰国を約束した。

帰国した陽平は、日本赤十字社に知らせた。「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮への帰還運動がはじまったとき、その実施にあたったのが赤十字だったからだ。
昭和34年12月、第一次帰還船が新潟港を出港するとき、そこには在日朝鮮人と結婚したり、結婚を反対され駆け落ち同然に親元を離れた人びとが957人乗っていた。帰還事業は昭和59年までつづき、北へ渡った人びとの総数は9万3000人をこえた。

 外務省には正式に知らせるつもりはなかったが、ペルーからフジモリ大統領が来日し、その歓迎会がひらかれるので会場のホテルに行ってみると、事務次官の柳井俊二を見つけた。それで陽平は張成沢との交渉の中身を伝えたが、「ほう、そうですか」のひとことで済まされた。柳井の態度は、困惑というよりむしろ冷淡で、陽平は不吉な予感にとらわれた。

 さて、それからほどなくして、毎日新聞にスクープ記事が載る。これによって一挙に里帰り問題が大きな規模で解決に向けて動いていることが公になった。平成9年7月15日付朝刊で、「日本人妻、近く里帰り」「北朝鮮幹部が表明『300人から500人』」と大きな見出しを立て、つぎのように報じたのだ。

 在京の日朝関係筋は14日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、同国に渡ったまま帰国できないでいる日本人妻300人~500人を1~2ヶ月以内にも里帰りさせる方針であることを明らかにした。6月下旬に訪朝した日本財団の笹川陽平理事長に、北朝鮮の最高指導者、金正日(キムジョンイル)書記に極めて近い労働党幹部が約束した。また、同幹部は、金書記が9月9日の建国記念日から10月10日の朝鮮労働党創立記念日にかけて国家主席、党総書記に就任する方針である、と語ったという。15日にも笹川理事長が明らかにする予定。

 同筋によると、笹川理事長は6月21~24日に北朝鮮を訪問して労働党幹部と会談。この席で幹部が、日本人妻300~500人を1~2ヶ月以内に一時帰国させる・・金正日書記が、9月9日から10月10日にかけて国家主席、党総書記に就任する方針、と語ったという。
 日本人妻の帰国問題で日本政府は、北朝鮮に渡った約1800人全員の里帰りを求めているが、北朝鮮側は死亡したりして行方の確認できない人も多いとし、所在が確認できるのは半数以下だと語ったという。
笹川理事長は、これまで外国人を入れたことのない地方の食糧事情や病院などの医療施設なども視察。直後に北朝鮮入りした国連の明石康事務次長(人道問題局長)が、地方を視察できるように要請もしたという。

 記事にもあるとおり、同紙が出た7月15日、陽平は自民党外交調査会に呼ばれ、はじめて公に里帰り交渉の顛末について、話せる範囲で語った。その後、記者会見にも応じた。
7月17日には、北朝鮮のアジア太平洋平和委員会が、朝鮮中央通信を通じて正式に談話を発表した。時事通信によると、つぎのとおりである。

 日本人妻の一時帰国認める=北朝鮮の平和委が談話を発表
 <ソウル17日時事>17日の朝鮮中央通信によれば、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のアジア太平洋平和委員会スポークスマンは16日、北朝鮮在住日本人妻の一時帰国問題について談話を発表、「故郷訪問に必要な対策を講じる」と表明した。北朝鮮の関係機関が、日本人妻の一時帰国を認める方針を公式に明らかにしたのは初めて。

 談話は「アジア太平洋平和委員会は朝鮮労働党と共和国政府の人道的措置に沿って、高齢の在朝日本人女性が家族、親せきと面会したいと希望していることと、このほど日本の政治家や当局者が各ルートを通じて再三提案してきた点を考慮し、在朝日本女性の故郷訪問に必要な措置を講じることを決定した」と述べた。談話はさらに、「これに関連した実務問題を討議するため、共和国の該当機関が日本側と必要な接触を行なう見通しだ」とし、日本側に「誠実な姿勢で対処」するよう求めた。(以下略)

 財団に休暇届を出して、一私人としてタフな交渉にあたってきた陽平は、なにひとつ条件を求めず「人道的措置に沿って」と北朝鮮が発表したのを見て、万感の思いにひたった。毎日新聞が「300~500人を1~2ヶ月以内に一時帰国させる」と報じたことも、まったく否定していない。すべてとは言えないまでも、これで多くの日本人妻の長年の苦労が報われるだろう。そして、いよいよこれから新しい日朝関係がひらかれていくだろうと、陽平は期待に大きく胸をふくらませた。

 彼は産経新聞に「地球巷談」というコラムをもっていた。8月10日付のそれにこのように述べているのは、偽らざる真情であったろう。

 <絶えず私が考えていることに戦後処理問題があります。北朝鮮との関係改善、そして北方領土問題、このふたつの解決こそが、21世紀を迎えるにあたっての日本に課せられた大きな外交上の国民的課題だと考えています。(中略)決して、外交は政府、外務省に任せておけばそれでよしとの立場はとりません。
ともあれ、一私人としての私の役割は終りました。後は日本政府の仕事です。北京での政府間非公式折衝が成功し、早期に里帰り実現が日朝国交正常化という大きな最終目標に向かっての最初の第一歩となることを願ってやみません>

 しかし、人間というものは、計りがたい恐ろしさと愚かさを秘めている。秘めるだけならいいが、それを猛然とあらわにして平気な顔をして潰しにかかる者たちがいる。
北京ではじまった政府間非公式協議のなりゆきを、陽平は心配していた。どこかで政治的な力がはたらいて、せっかくの金正日の決断をひっこめさせてしまわなければいいのだが、と。それで陽平はコラムの前段で、このようにも述べていたのである。

 <ところで、わが国では、マスコミを含め、日本人妻の問題をどうも政治問題化して、み過ぎるのではないでしょうか。もっと人道上の問題、同胞の問題として素直に考えるべきではないでしょうか。海外で航空機事故が発生すると、日本人が巻き込まれていないかどうか一喜一憂する一方、この種の問題になると我関せずで、みな評論家になり、取り澄ましているように思えます。
国交のない北朝鮮との間の問題です。国益の絡んだ種々の問題が複雑に入り交じっていることは重々承知の上の話です。しかし、長きにわたり棚上げにされてきた日本人妻の里帰りは間違いなく人道上の問題なのです>

 陽平のもくろみは、日朝の赤十字で里帰り事業をすすめる、つまり政府間ではなく民間で同事業をすすめるということだったが、首相の橋本龍太郎が、「そういう話は、きちっと筋を通してやってほしい」との公式談話を発表するや、状況が一変した。橋本は陽平のしてきたことを政府の頭越しの手前勝手な個人プレイとみなし、「外交一元化」を大義名分に、政府=外務省に里帰り問題を引きもどそうとしたのである。

 日朝の非公式交渉は、審議官級へとレベルアップされた。そこでは「里帰りの実現で一致した」ことになったと伝えられたが、雲行きはあやしくなってきた。

 <外務省高官が告げた「冷酷な言葉」>

しばらくして陽平のもとに、こんな連絡が平壌からはいった。
「第一陣の100人の名簿はこちらは準備したが、日本側が第一陣では15人以上は絶対にうけいれないと言っている」
どういうことなのだ?

 あとで陽平は知ることになる。このとき、陽平のカウンターパートをつとめた張成沢は、労働党内で査問にかけられ、組織部第一副部長の立場を失っていた。労働党内には、どうしても食糧支援を実現したい一派がいて、里帰りを無条件で約束した張成沢の排除にかかったのだ。

 労働党内では、統一戦線部の金容淳(キムヨンスン)や国際部がこの問題を担当し、外務省は陽平と張成沢の交渉の詳細についての事情聴取はいっさいせずに、直接、金容淳らとの交渉に乗り出していた。

 9月、日朝赤十字の連絡協議会は、里帰りの第一陣を1ヶ月以内に実施すると合意した。しかしその数については「10~15人」とし、里帰りの期間もわずか「1週間程度」とした。
 ある集団の力が、豊かに実りを結ぼうとしていた水田の作物を根絶やしにしようとしていた。それはひとりの人物の姿をとって、ある日、陽平のまえにあらわれた。

 これからそちらへ向かうと言って、いきなり財団にやって来たのは、外務省アジア局長の阿南惟茂(あなみ・これしげ)であった。昭和16年生まれの阿南は、58歳の陽平より2歳下。終戦時の陸軍大臣、阿南惟幾(これちか)の子息という出自が、彼に実際以上の神秘的なイメージを与えていた。

 本土決戦を主張した阿南陸軍大臣は、ポツダム宣言受諾の「聖断」をうけて終戦の詔勅に同意したあと、8月15日未明、陸軍官邸で自刃した。介錯を拒み、長時間苦しみぬいて明け方に絶命するという壮絶なその死にかたが、軍人の鑑として語られるいっぽう、自刃せず生き残ることを選んだ者たちにとっては、自己にたいする消し去りがたい欺瞞への内省を呼び起こした。

 いま、その子息は、いたって平静な表情を装っていた。でも明らかにそれは、あるひとつの結論を一方的に通告するだけで、相手の主張や考えなどいっさい聞かずに済まそうといった、いかにも官僚らしい傲慢さを抑え込もうとしているふうに受けとめられた。

 「日本人妻の一時帰国は、3回ぐらいに分けて実施し、1回につき16人から17人の人数ということで決まりました」
 と阿南は言った。

 「それはおかしな話ですね。いまのお話だと、全部で50人程度ということじゃないですか。私と張成沢氏・・・この人は金正日の義弟で党内ナンバーツーの人物ですよ。その人と、300人から500人を帰国させるという約束をしてきたんですよ。これは金正日総書記も認めていることなんですがね」
と、陽平は言った。

 阿南は、素知らぬ顔で聞いていた。どういう交渉をしてきたのかと、訊くつもりはないらしい。
「何故、16人から17人なんですか。私と張成沢さんのあいだで妥結したのは、1回につき100人です。これが金正日総書記の決断なんですよ。その線で、ぜひ再考してください」
 「まあ、これは厚生省との関係もありましてね。中国残留孤児の帰国が、一度に16人から17人と決まっておりまして、北から100人というのは、厚生省としては受け容れがたいようなのです」

 そんな馬鹿な話があるものか。横並びということか・・・・・。
「どうして外務省が民間でするべき事業をおやりになるんですか」
「・・・・・」
「日本人妻の人たちは、自分の自由意志で北朝鮮に行ったわけです。その人たちの里帰りに国費を投入するなんて、そんなことができるんですか。南米諸国に自由意志で移民していった人たちが帰国したいと言ったら、国費を出すんですか」
「いやいや、北朝鮮というところは特殊な国ですからね」
阿南は陽平の言うことはなにもとりあわず、決定を告げるだけ告げて帰って行った。

 この人物は、外務省内のチャイナスクール(中国語研修組)幹部で、のち平成13年に中国特命大使に任命され、人道問題にかかわる忌々しき事件に深くかかわった。瀋陽の日本総領事館に、北朝鮮の脱北家族が亡命を求めて駆け込もうとしたところ、武装警官にとり押さえられ連行された。阿南は事件発生4時間まえに北京の日本大使館でひらかれた定例会議で、亡命者を追い返すよう指示を出していた。

 これが北京大使館に限ったものか、それとも中国内すべての日本政府施設にわたるものか、当時の野党民主党の調査では明らかにされなかったが、指示が北京大使館に限ったものでないのは明白である。「テロへの対処の観点から不審者への警戒心を高めるよう注意喚起した」と、阿南は釈明したが、のちに「瀋陽総領事館に適切な助言を与えなかった」との理由で減給処分を受けている。

 平成18年8月には、共同通信によって、靖国神社への公式参拝を明言していた当時の小泉純一郎首相宛てに参拝中止を要請する具申書を公電で打電した、と報道された。
 利害をともにする相手には自国の首相の公約を曲げさせてでも奉仕に努め、強制送還されれば処刑されるか地獄の強制労働が待ちうけている哀れな民草には排除でのぞむ狡猾で冷酷な態度・・。

 陽平のやりかたは、こうしたきわめて政治的な人間にたいして、あまりにも無邪気で無垢にすぎたのかもしれない。私は陽平をベビーフェイスに描きすぎているだろうか。

 <500人帰国はなぜ覆されたのか>

 いまに残る日本人妻里帰りの公式記録には、陽平と張成沢の稀にみる交渉のプロセスは、いっさい書き込まれていない。ほんの3回で里帰り事業が終ったことと、それによって計43人が里帰りしたという事実が残るのみである。阿南という外務官僚の動きなんて、むしろそちらのほうが彼らの常識であって、秘密結社めいた彼らの世界では、自分たちの領分にはいって来る者は徹底的に排除するのがあたりまえなのだ。

 しかし、彼らの償いがたい罪は、一私人の無償の善行を排除することを目的化してしまったことだ。それによって、いったいどれくらいの人びとが素朴な願いを絶たれ、飢えと絶望の果てに死を迎えなければならないのかということを想像もしないことである。自国民の生命と安全を守るのが、外務官僚の為すべき仕事ではないのか。

 舞台裏の話は、結局のところ、コメ支援と里帰りのバーターなのであった。そもそも北朝鮮側には、コメ100万トンを日本側が支援するという話が約束事として伝わっていた。しかしその話は、いつまでたっても進展しなかった。日朝の外交当局者どうしの接触のなかで、何度か北側が里帰りとのバーターをもち出してきたからである。しかも里帰りの人数は、わずか30人という。どちらにせよ日本側としては、日本人妻たちをコメで売買するようなものだと拒否し、交渉は暗礁に乗りあげて、にっちもさっちも行かなくなっていた。

 そこに陽平があらわれ、無条件の里帰りを張成沢に迫った。張成沢は、日本のコメ支援と日本人妻の里帰りの実現がバーターとみなされることをしきりに気にしていた。彼が求めたのはコメではなく「化学肥料」であって、それすらも陽平に拒否されて、「無条件での里帰り」を金正日に決断させた。北の内部では依然として幹部のあいだで生き残りをかけた功名争いがつづいており、手柄をたてたいばかりに「100万トンのコメ支援を日本側は約束した」と虚言を弄する輩がいた。それを十分承知のうえで、張成沢は「男の約束を見ていてくれ」と言った。最終的に金正日が決断したのは、「無条件で500人の里帰りを実現する。第一陣は100人」。交渉史に画期をなす決定であった。

 だが、張成沢が失脚する。これも何者かの讒言によるものではあるまいか。

 ここから北側は「無条件」をかなぐり捨てる。読売新聞の連載「検証拉致事件」の「(4)食糧支援の陰で棚上げ」(2002年12月26日)によると、日本政府は10月9日、6万7000トンのコメ支援を決定。同日、15人の里帰り者名簿を北側はしめしたという。この年の2月には、横田めぐみの拉致問題が国会などでとりあげられ、表面化していた。蓮池薫の兄透は、たった15人の里帰りについて「単なるセレモニーだった」と、同誌に語っている。

 どちらがいったい15人と言いだしたのか、真相はわからない。ただひとり陽平は、毎日新聞「論説ノート」の記者に「日本側が第一陣では15人以上は絶対に受け入れられないと言っている」と平壌から連絡をうけたことを語っているのみである。

 <北の宣伝に努めた日本人妻たち>

日本人妻たちの第一陣は、11月8日に里帰りした。阿南惟茂が言っていたより、やや少ない15人であった。若い者でも50代半ば。ほぼ半数の日本名は公表されなかった。日本側親族の意向だったという。喜んで迎える親族がいるいっぽうで、政府から打診をうけて拒んだ親族もいた。

 1週間の滞在中、北での暮らしぶりを問われた彼女たちは、「将軍さまが何の苦労もなく生活できるようにしてくださった」と、ほとんど例外なくこたえた。陽平は新聞を見ていて、ため息をついた。日本で食べるバナナの味はいかがかと尋ねられたひとりが、「いつも将軍様から、これと同じくらいおいしいバナナをいただいています」と、こたえていたのである。

 当然ながら、15人は全員洗脳されている。比較的豊かな生活をさせてもらっているのだろうか。きびしいオーディションで選り抜かれた彼女たちは、精いっぱい北の宣伝に努めていた。現地の飢餓の実情を自分の目で見てまわり、幹部からも説明をうけてきた陽平には、痛ましく感じられた。北朝鮮の米の生産量は最盛期で700万トンとれたが、前年は180万トンしかとれなかったという。2500万人の国民が食べていくには、最低でも500万トンはないといけないのに。

 3年前の1994年には雹(ひょう)、翌々年には豪雨と3年連続して自然災害に見舞われてきた北朝鮮だった。アフリカの農業支援をつづけている陽平の目には、もともと北朝鮮というところは夏が短いうえに、山を丸裸にしていちめんにトウモロコシを植えるような農業政策の誤りが大きく影響していると映った。灌漑施設も未整備のままなのだ。

 電力も決定的に不足している。平壌市内でさえほぼ24時間停電状態で、電気がないと言ってもいいくらいだ。米国から穀物を輸入するかわりに、北朝鮮から亜鉛を輸出するという交渉がうまくいかなかったのは、北朝鮮がごねたからではなく、電気がなかったからだ。そのため亜鉛の精錬ができないのだ。それに加えて洪水に見舞われ、炭鉱には水があふれ、排水さえもうまくいかない状況であった。子どもたちに工場の絵を描かせると煙のあがっていない煙突の絵を描くのだ、とも聞いていた。

 日本政府は、とりかえしのつかない過ちを犯してしまった。「私は。政府が活動を開始した以上、民間人が介入することは失礼だと考え、以来、北朝鮮問題については一切沈黙を守っている」と、陽平は「ブログ」(2002年4月28日)に控えめにしるしている。腹の底は煮えたぎる思いでいっぱいだったのではなかっただろうか。つづけて彼は、こう書いている。

 日本人妻は二度にわたる(2000年9月にもう一度あった=引用者注)小規模な帰国が実現されたが、その後中断され、今日に至っている。北朝鮮の信じられない無条件での大幅な譲歩を生かしきれず、絶好の機会を逸したことは慙愧にたえない。

 歴史に“if(イフ)”は禁句だが、あの時、1回100人、日本の飛行機がピョンヤンに飛んでいれば、あるいは拉致被害者もその延長線上で解決されていたかも知れない。
 先ほども書いたように、日本人妻の帰国問題以来、北朝鮮への日本政府の直接交渉が始まり、以後、北朝鮮問題では一切の発言をしないことにした。

 政府が直接交渉を開始された以上、民間人の勝手な動きは自粛するのは当然であるからであり、また今の私にはその力もない。
 日本人妻の帰国を望む家族や拉致被害者家族の悲痛な叫び声を聞くたびに、ただただ胸をつまらせるのみである。
 この「ブログ」を陽平がアップした年までに、小規模な里帰りの実現とひきかえにはじまった日本政府のコメ支援は、計6回で約118万トンに達した。

 そして同年9月17日、小泉首相が平壌に渡り、金正日との日朝首脳会談が実現した。両首脳は国交正常化交渉の再開を約束し、北朝鮮側は「特殊機関の一部が妄動主義・英雄主義に走って」日本人を拉致した事実を認め、謝罪した。それとともに蓮池薫ら4人の生存を明らかにし、加えて日本側も把握していなかった曽我ひとみの拉致と生存を明かし、横田めぐみの娘が元気で暮らしていることを打ち明けた。しかし、横田めぐみら8人の安否については、「死亡」と発表した。

 小泉首相は、25万トンの食糧支援と、1000万ドル相当の医薬品の支援を約束した。
 5人の拉致被害者が帰国したのは、2004年のことである。
 (文中敬称略、つづく)

 <たかやま・ふみひこ・・・作家。1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年、『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮一ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『水平記』(新潮文庫)や『どん底 部落差別自作自演事件』(小社刊)など。最新刊は『大津波を生きる』(新潮社刊)>

●(3)最初の部分を採録します。

<<< 「陽平のやりかたは、こうしたきわめて政治的な人間にたいして、あまりにも無邪気で無垢にすぎたのかもしれない。私は陽平をベビーフェイスに描きすぎているだろうか。」>>>

 「宿命の子」の前号では、笹川陽平氏が北朝鮮の張成沢氏と苛烈な交渉をしたことが詳しく書かれています。

 ヒューマニズム溢れた純粋の交渉、文字通りの命がけ、欲得抜きの傑出した交渉をされました。そして、まさに「奇跡的」な成果を上げました。どんなに称賛しても、称賛し切れないほどの苛烈きわまるギリギリの交渉をし、そして大成果を上げられたと、僭越ながら、私(藤森)自身も思っています。私の想像を超えた交渉、常識ではあり得ない交渉だったように思えます。まさに、笹川陽平氏だからこそできたものだと思われます。

 さて、そこで、です。苛烈な交渉の相手は、果たして、北朝鮮だけであろうか?

 まず、北朝鮮は、高山文彦氏が詳しく書いているように・・・・・

◆前年は180万トンしかとれなかったという。2500万人の国民が食べていくには、最低でも500万トンはないといけないのに。

◆米国から穀物を輸入するかわりに、北朝鮮から亜鉛を輸出するという交渉がうまくいかなかったのは、北朝鮮がごねたからではなく、電気がなかったからだ。そのため亜鉛の精錬ができないのだ。

◆それに加えて洪水に見舞われ、炭鉱には水があふれ、排水さえもうまくいかない状況であった。子どもたちに工場の絵を描かせると煙のあがっていない煙突の絵を描くのだ、とも聞いていた。

 それにもかかわらず・・・・・

◆そこに陽平があらわれ、無条件の里帰りを張成沢に迫った。張成沢は、日本のコメ支援と日本人妻の里帰りの実現がバーターとみなされることをしきりに気にしていた。彼が求めたのはコメではなく「化学肥料」であって、それすらも陽平に拒否されて、「無条件での里帰り」を金正日に決断させた。北の内部では依然として幹部のあいだで生き残りをかけた功名争いがつづいており、手柄をたてたいばかりに「100万トンのコメ支援を日本側は約束した」と虚言を弄する輩がいた。それを十分承知のうえで、張成沢は「男の約束を見ていてくれ」と言った。最終的に金正日が決断したのは、「無条件で500人の里帰りを実現する。第一陣は100人」。交渉史に画期をなす決定であった。

 この交渉は、私(藤森)の想像を絶します。
 張成沢氏が陽平氏のこの要求によく応じたものです。北朝鮮内ではかなり進歩的な方だったのかもわかりません。
しかし、現実に飢えた国民が多数存在する疲弊しきった国家であれば、ヒューマニズムなど関係なくなるのではないでしょうか。むしろ、そんな時、ヒューマニズムを出す人物は危険視されても当然ではないかと、私は素人ながら思います。

 現に、井沢元彦氏の書いている歴史書を読むと、幕末に、欧米列強に対抗するために、先進的な意見を述べた極めて有能な多くの人たちが殺されています。有名な高杉晋作でさえ、自分の意見を一時、隠していました。

 そういう中で、陽平氏がまとめ上げた交渉は、<<<交渉史に画期をなす決定であった>>>と、私も思います。しかし、だからこそ危険だと言うのは、後付けの私(藤森)の悪いクセではありますが、しかし、ある意味で「常識」でもあります。

◆さて、私が一番言いたいことはこれからです。

 右と左、上と下、白と黒、天と地・・・・・などというほどの違いはあるかも知れませんが、<<<苛烈な交渉の相手は、果たして、北朝鮮だけだろうか?>>>と、私は思います。
その「証拠」の幾つかを下記に紹介します。

●(4)平成23年10月7日、週刊ポスト<「ビジネス新大陸」の歩き方・特別版>(大前研一)

 <「リーダー不在」の危局を克服するには?>
<日本に求められる中国式育成メカニズム>

<略>一方、今の日本にはリーダーが育つ国家的な背景がない。その理由の一つは、地方分権が叫ばれて久しいが、未だに強固な中央集権のままだからである。そして、その弊害が至るところに噴出している。まず、教育面では、学校は文部科学省の指導要領という
ルールで雁字搦(がんじがら)めになっているため、全く前例も模範解答もない「CKD型」(藤森注・2010年8月に起きたチリ鉱山落盤事故のように、トンネルの出口は見えず、薄明かりすらない絶望的な事態でも、柔軟な思考で解決策を打ち出して打開できるタイプ、いわば“チリの鉱山落盤事故からの脱出”・・・つまり「CKD型」のリーダー)の能力を引き出して育てることができない。

 また、地方自治体の首長の権限も大きく制限されている。たとえば、大阪の幹線道路「御堂筋」は国道なので、大阪市が側道の利用変更や景観対策などを自由に行うことはできない。このため大阪市は国土交通省と30年越しの交渉を行ない、ようやく今年になって御堂筋の管理については「来年を目途に大阪市に移す」ということになった。ただし、それは御堂筋に限っての特例である。日本はこのような国による制約が津々浦々にまで及んでおり、市長が自分の街を思い通りに構想・構築していくことのできない国なのだ。そしてもう一つの背景は、「国家の危機に瀕している」という認識が政治家にないことにある。

 たとえば、日本は988兆円(2011年6月末時点)もの借金を抱えているが、国家破産の瀬戸際である、という危機感が全くない。だから、増税や歳出削減の議論になると、選挙目当ての反対が続出し、ここで日本を何とかしなければならないと必死になることがない。東日本大震災についても、「国家の危機」という意識が欠如しているからこそ、復旧・復興がはかどらないのである。復興財源はもとより、義捐金の配布さえ、半年経っても遅々として進んでいない。

 <長い議員歴だけで首相になれる日本>

要するに、リーダーは危機感の中からしか生まれてこないのだ。
<略>かたや日本は、国家リーダーを養成するキャリアパスができていない。政治家は単に議員歴が長く、大臣を2、3回務めた人物が首相になっている
だけである。親の跡を継いで20代、30代で政治家になっても、永田町と地元を行き来するだけで、役人のブリーフィングと経済人との会食以外はほとんど勉強するチャンスもないのが実情だ。

 官僚の場合、若くして市の助役や県の部長に出向するケースもあるが、こちらは何も自由度のない限られた権限の中で数年間大過なくやり過ごして本省に戻るだけである。これではリーダーシップを身につけろというほうが無理であり、ましてや「CKD型」のリーダーなど現れるはずもないだろう。

 今後は日本も中国に倣い、一国一城を支配して実績を上げた人材(一国一城の主にはもっと自由度を与えねばならないが)を上のポジションに登用していくという国家リーダーを作る仕掛けが必要なのである。また、急激に変化する世界情勢を把握するために最低でも2カ国にそれぞれ1年以上生活する、といった経験を必須条件にすることも必要だ。これは企業のトップになるための条件とも通ずるものだが、「日本国の経営者」に登用する条件を変えなければ、“家業”としての首相とか、お料理教室みたいな政経塾で型だけを学んできた薄っぺらい連中が、今後も続々と出てくることになる。

●(5)平成23年3月11日、週刊ポスト<「ビジネス新大陸」の歩き方>(大前研一)

 <国家の制度は企業の組織やシステム同様「ゼロベース」の発想で徹底的な見直しを>

<略>  <問題山積みの「共通番号制度」>

<略>また、共通番号制度には「住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)」を援用するというが、それは無理だ。なにしろ住基ネットの捕捉率は全人口の1%ほどにすぎないし、所得や控除などをデータベース化したり名寄せをしたりといった共通番号制度に必要な機能もない。
 そんな貧弱なシステムを700億円かけて作り、年間維持費に180億円も使っているのだから呆れて開いた口がふさがらないが、共通番号制度を導入するならお隣の韓国並みに行政サービスをすべて「電子政府」に移行するぐらいの大局的な視野と覚悟を持って新たな専用システムを構築しなくてはならない。ITをフル活用すれば膨大な行政の無駄、税金の無駄遣いをなくすこともできる。

 そういうゼロベースの発想で日本を抜本的に改革するための議論を徹底的に重ねて国民合意を形成し、前回述べたように収入を2倍、出費を半分にして借金を少しずつ返しながら日本をデフォルト(債務不履行)から救う。それがロジックに則った「国家百年の計」というものである。

●(6)平成25年12月20、27日号、週刊ポスト「覆面座談会」

 <「ゾンビ事業復活」「ポスト増殖」「増税メニュー」がズラリ>

 <「秘密保護法案論争」の裏で霞ヶ関シロアリ官僚が肥え太る>

 <悪名高い「スーパー堤防」復活>

 <略>

 本来、臨時国会には国民生活に直結するもうひとつの重要な争点があった。来年4月からの消費税引き上げを決めた安倍政権が、国民への約束通り、増税によって得られる財源を社会保障の充実にあてるのかどうかが問われていたのだ。結果はどうだったか。

 特定秘密保護法案の審議紛糾の陰で、官僚が嫌がる国家公務員法改正案は先送りとなり、公共事業バラ撒きと批判が強い自民党の「国土強靭化基本法案」をはじめ、生活保護費をカットする「生活保護法改正案」や高校授業料無償化に所得制限を設ける法案が次々に成立した。福祉は切り捨てられ、税金を公共事業に向ける準備が整えられたのだ。

 しかもこれらの決定は、いずれも野党が合意してなされた。実は今国会での与野党のせめぎ合いは「秘密保護法案だけ」だった。大メディアはこの重大な公約違反を完全にスルーし、増税の財源は霞ヶ関の「つかみガネ」に化けた。これが第二の禍根である。

 <略>

●(7)さて、今回の結論の一歩手前まで来ました。

 陽平氏の活躍は最大級の称賛に値することは、改めて申し上げるまでもありません。改めて申し上げるまでもないと同時に、そこに邪魔が入るのも、これまた、世の常です。
 日本の官僚は、極めて有能であると同時に、長期の官僚統制(?)により、ほぼ完全に「制度疲労」を起こしているといっても過言ではないでしょう。
そういう官僚を相手にすれば・・・・・

◆財団に休暇届を出して、一私人としてタフな交渉にあたってきた陽平は、なにひとつ条件を求めず「人道的措置に沿って」と北朝鮮が発表したのを見て、万感の思いにひたった。

◆◆国交のない北朝鮮との間の問題です。国益の絡んだ種々の問題が複雑に入り交じっていることは重々承知の上の話です。しかし、長きにわたり棚上げにされてきた日本人妻の里帰りは間違いなく人道上の問題なのです。

◆◆◆交渉史に画期をなす決定であった。

 何十年もの間、外務官僚という超エリートが多数、専門に取り組んできた「国益の絡んだ」重大事を、「財団に休暇届を出して、一私人としてタフな交渉にあたってきた陽平」に、ゴッソリ、おいしい(?)ところを持って行かれて、プライドだけは天下第一級の外務官僚が、陽平氏や日本財団の下請け的な仕事を引き受ける訳は絶対にないと断言できるほどのことではないかと、私(藤森)は、後付けで失礼ですが、そのように思わざるを得ません。

◆◆◆◆首相の橋本龍太郎が、「そういう話は、きちっと筋を通してやってほしい」との公式談話を発表するや、状況が一変した。橋本は陽平のしてきたことを政府の頭越しの手前勝手な個人プレイとみなし、「外交一元化」を大義名分に、政府=外務省に里帰り問題を引きもどそうとしたのである。

 橋本龍太郎氏はもの凄くプライドが高く、自分の専門分野の旧厚生省の分野に踏み込んで発言したある国会議員を、廊下であった時、その議員の足を蹴ったという話を思い出します。

 さて、結論手前の結論です。
 では、こういう場合、どうしたら良いのでしょうか。
 実は、今回のタイトル<沽券についての一考察>
「沽券に関わる」・・・・・評判・品位・体面などに差し障りとなる。(広辞苑)

 これの処理が、おそらく、私(藤森)を含めて、ほとんどすべての人間に共通する難題だと思っています。つまり、橋本龍太郎氏を代表とする国会議員や官僚の「沽券に関わる」大々問題にもかかわらず、その対応が全くのゼロだったから、悲惨な結果になったはずです。

 さて、では、どうしたら良いでしょうか?
 資料が見つからないために、多少、内容が不確かなところはお許しいただくとして、典型的な対処法は、やはり、豊臣秀吉です。

◆◆◆◆◆備中高松城の水攻めで、陥落が確実になったところで、主君、織田信長に、「応援がないと城を落とせません。援軍をお願いします」と、援助を請うための軍師を送りました。信長は、もちろん、秀吉の心理は読めていたが、でも、可愛い奴だと思い、秀吉の要請に快く応じました(結果的には、油断して動いたために、本能寺の変が起きてしまいましたが)。

 陽平氏は偉大な方で、その後、「東北大震災」のボランティア活動でも、また、「ハンセン病の撲滅運動」にも、日本財団の総力を上げ、陽平氏は命がけの活躍をされたり、されていらっしゃいます。現代では、奇跡的に凄い方だといって間違いないでしょう。

●(7)さて、やっと今回の結論まで来ました。

 実は、私(藤森)を代表として、「沽券に関わる」問題を処理できていない理由は、ただひとつ、「自我が未熟」だからです。つまり、人間として未熟なほど「沽券」にこだわります。
逆に言いますと、「沽券」にこだわらなければこだわらないほど、「人格高潔」だと言えます。しかし、こだわらない人を見ると、「軟弱だ」とか「しっかりした考えが無い」などと受け止め、相手の価値を値引いてしまいがちです。これを「交流分析」では、「ディスカウント(価値の値引き)」と言います。

 相手の価値を値引くというバカバカしいことをする人間は、自分の「沽券」を後生大事にしている醜い姿を、「立派な価値観」を持ったしっかりした人間だと思い込んでいますから、こういう人間を相手に喧嘩をしても意味がないというよりも、まるっきり歯がたちません。歯が立ちませんから、こういう人を相手に喧嘩をしないことが一番です。

 この辺りの人物評価を多くの人が見誤ってしまっています。そこで、今回の結論です。
前回の<私説・曽野綾子・論④ー③>の次の部分を再録します。


<<<(2)平成25年9月20日・27日、週刊ポスト「宿命の子」(高山文彦氏、第63回)

 (略)

 曽野自身、他人から教わることも多く、それをエッセーに書いた。
 笹川良一時代から、生涯スポーツの振興と高齢者の生き甲斐づくりをめざして、屋内ゲートボール場の建設支援を推しすすめていたが、曽野はこの事業を(笹川)陽平のまえで批判したことがある。

 「ゲートボールできるほどの体力があるなら、そういうご健康な老人世代にはもう少し働いてもらったらどうなんですか?ジャガイモや小松菜くらい、自分で作ってもらったら?」
 自分で家庭菜園をしている曽野だった。財団の会長を引きうけるや畑いじりができなくなり、まったく人まかせになっているので、ムシャクシャした気分もあったのだろう。正論をぶつけるように陽平にそう言うと、陽平はなんだかおかしみをおぼえたふうに笑って、
 「曽野会長、それが実はそれほど単純なものじゃないんです。ゲートボールが盛んになると、その地方では国民健康保険の使い方が減ってくるんです」

 曽野はハッとしたらしい。
 「私は単純な現実主義者なので、すぐ考え方を変えたの(笑)。皆が健康になって、しかも国家のお金が倹約になるなら、ゲートボールはいいものだ、となったんです。考えてみると、あれは太陽の光の下で、公然たる男女交際の場です。人間何歳になっても異性を感じていると、美しくも元気にも幸福にもなるのね。それであっさりと容認派に廻った」(曽野綾子『日本財団9年半の日々』)>>>

<<<(笹川)陽平には、こんなことを会長就任時に言ったという。
「私は小説家というおしゃべり職業ですから、週に3日も財団に来ていれば、自然とこちらのことを書きたくなるだろうと思います。その時は、事前に書いたものをお見せいたしましょうか」

 どこの家にも他人に見せたくないものがあろうからと配慮したつもりでそう言うと、
 「いいえ、一切必要ありません。ご自由に」
 と陽平はこたえた(曽野綾子『日本財団9年半の日々』)。>>>

 「沽券」を克服していらっしゃる曽野綾子先生の素晴らしさに、ただ、ただ、頭が下がります。

<藤森注・・・あと2、3回、「私説・曽野綾子・論(補足)」として続けます>

<文責:藤森弘司>

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