2013年10月31日 第101回「トピックス」
④ー③
●(1)前回の中で<<<最近、週刊文春で書いたことが議論沸騰しているようです。>>>の「週刊文春」は、「週刊現代」の間違いでした。訂正します。
さて、紹介したいものがたくさんあるのですが、入力するのが遅いので、資料が多くなると、入力するだけでくたびれてしまいます。④ー①の「NHKスペシャル」の場合、60分番組を文字化し、入力するだけで10時間を要しました。 さて、ヨタヨタしながら、可能な限り、打ち込んでみたいと思います。 |
●(2)平成25年9月20日・27日、週刊ポスト「宿命の子」(高山文彦氏、第63回)
(略) 曽野自身、他人から教わることも多く、それをエッセーに書いた。 「ゲートボールできるほどの体力があるなら、そういうご健康な老人世代にはもう少し働いてもらったらどうなんですか?ジャガイモや小松菜くらい、自分で作ってもらったら?」 曽野はハッとしたらしい。 【【【下記の「鎌田實」氏の抜群のお話。私(藤森)は、ゲートボール施設よりも、蒲田實氏のほうが桁違いに優れていると思います。 ◆平成25年9月13日、週刊ポスト「食う・見る・浸る・・・命の洗濯 ジタバタしない」(鎌田實) <「TPPと日本の未来を考えよう」の巻> <略> この連載でも幾度も書いているが、僕が住んでいる長野県は、高齢者が多い割りに医療費が安い。この理由を追究しようと、国民健康保険中央会は研究会を作り、数年にわたって調査した。 その結果、減塩運動を成功させたこと、野菜の摂取量が日本一になったこと、保健補導員というヘルスボランティアが充実して住民自身の自治で健康づくりが行なわれたこと・・・・・これらいくつかの要因が複合的に作用して、長寿だけれど医療費が安いという、理想的な状況が作り出されたと説明している。 それ以上に大きな影響を与えているのが、高齢者の就業率が日本一高いという点だ。高齢者の仕事の多くは農業である。農業王国の北海道と比べると、長野県の農業の規模は格段に小さい。しかし、小さな農業だからこそ、高齢になっても継続できるのだ。たとえわずかな収入であっても、収入があることが生きがいにつながる。自分のお金で孫にお小遣いもあげられるし、仲間たちと日帰り温泉を楽しむこともできる。 長野県ではお年寄りが働くという生きがいを持っているから、病院をサロン代わりに利用したりしない。 90歳になっても“作物を育て収穫する”という生きがいがあるから、医療保険や介護保険を利用しないで、幸せで健康で長生きができている。日本全国すべての県が長野県のようになれば、医療費がうなぎ上りにはならず、国民皆保険制度が維持でき、世界一の長寿国になると、先の研究はまとめている。 <後略> <かまた・みのる・・・・・1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。ベストセラー『がんばらない』ほか著書多数。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる> ◆「政治家の裏事情」(城内実著、幻冬舎) <世界に誇る万民幸福社会を取り戻せ>p197 <略> 明治初期に日本を訪れたイギリス人のチェンバレンは、日本を評して「貧乏人はいるが、貧困はない」と喝破したという。 |
●(3)バブル全盛時代、日本中に「箱物行政」がはびこりました。今の厚生労働省管轄の「子ども館」だったでしょうか(正確な名称は忘れましたが)、さらには、宿泊施設等々が、その後、二束三文で売られ、メディアでかなり叩かれました。
私の地元、日野市も立派なコンサートホールがあります。また、最近、「養蚕試験場」跡の樹木茂る自然公園に体育館を作る話になりましたが、中止になりました。しかし、国体があるということで復活し、最近、立派な体育館が完成。空手などの国体開催中、天皇陛下と皇后陛下がお見えになったほど立派な体育館です。 しかし、最近、日野市は、大企業の日野自動車や、旧雪印乳業(現・メグミルク)などの工場が撤退するとのことで、財政がかなり厳しくなるようです。上記の立派な体育館は、今年の4月に交代した前・市長の置き土産です。 例えば、ある幼稚園に先生が10人いるとします。そうであるならば、高齢者(もちろん、元気で、シッカリしたモチベーションのある方)を20人雇い、若い先生は5人にして、5人の先生で20人の補助員である高齢者をカバーする。そして、若い先生5人分の給料を20人の高齢者に支払ったら、若い先生はさらに高度な指導ができるし、高齢者はそれなりの収入になる上に、生き甲斐を持てます。 あるいは、若い正式の先生を7人にして、減らした3人分の給料で、高齢者20人分の給料をまかなっても良いのではないでしょうか。もちろん、収入第一に考えなければならない方もいらっしゃるでしょうが、多くは、年金暮らしをしていて、生き甲斐を目的にしている方も多いはずです。仕事や生き甲斐がないから、病院や公園で時間を潰したり、高額な費用をかけてゲートボール施設などの娯楽施設を作って、優雅に暢気に、日本の財政状態を考えずに・・・・・生活をするようになるのではないでしょうか。 もちろん、現状では、法律の問題や、どの程度の合理性があるかはハッキリしませんが、これからの日本はこういう取り組みこそが重要で、そういう実験をするところに、巨大財団が応援することこそが、少子高齢化社会の本来の役割ではないかと、私は、常々、思っています。まず、お金がなくては何もできません。 上記と同じ理屈で、介護施設での「老々介護」や、刑務所の出所者などの「更生施設」を充実させて、再犯率を下げるなどは、箱物のゲートボール施設も大切ですが、こういうこともさらに重要な支援ではないかと思っています。 私の兄は「要介護5」、目が見えず、体が不自由で施設にお世話になっています。兄は気難しい人間で、施設の職員の方々には大変お世話になっていますが、一方、他人の世話になることが嫌いで、目が見えない中、可能な限り、自分の力で対処しようとしています。 こういうところに元気な高齢者が参加して、食事の介護や、施設内の歩行の付き添いなどの軽い仕事や雑用などの老々介護ができれば、全体をコントロールする職員が、体力だけでなく、精神的にもかなり助かるのではないかと思っています。さらに進んで、施設での野菜作りや、何か他の生産的な労働ができるようにして、可能な限り、自立するための応援をすべきだと思っています。 世の中の「介護」は、親切さが「愛」だと錯覚しているように思えます。転んだ幼稚園児を起こしてあげるような過剰なお世話をしすぎて、入所者のできる能力を阻害させてしまって、乱暴な言葉を使わせていただくと、ほとんど「飼い殺し」状態のように思えます。ビジネスとして経営しているところは、いかにサービスが行き届いているかを見せることが手っ取り早い宣伝になるために、競って過剰サービスをしようとしますが、職員に過剰な負担を掛けすぎています。だから、陰に隠れて「イジメ」や「虐待」をしたくなったり、職員の定着率が悪かったりするのではないかと思っています。 ですから、蒲田實氏が提案するような形の農業や介護システムなどの考え方が定着するまで、巨大財団が資金援助をして、モデルケースを完成させたら良いと思うのですが、はてさて、いかがなものでしょうか。 私の推測ですが、曽野先生は蒲田實氏の説や、僭越ながら、私(藤森)の拙案のような意味合いを含んで陽平氏に訴えたように思えます。少なくとも、高山文彦氏が考えるような次元の問題では、断じてないはずです。どう考えても、元気ハツラツとした老人が施設内でゲートボールをしているよりも、ささやかながら収入にもなるし、生き甲斐にもなるし、その上、国民健康保険の使い方が減るのですから、「少子高齢社会日本」の「モデル事業」だと思えてなりません。 私には、何か、世の中の「意識・認識」が歪んでいるように思えます。働けるうちは、その人の体力に合わせた「生涯現役」でよろしいのではないでしょうか、それとも可哀想でしょうか。 |
●(4)平成25年9月20日・27日、週刊ポスト「宿命の子」(高山文彦氏、第63回)
<略> 曽野はこれまでトップとして組織を引っぱってきた経験などないにもかかわらず、いくつかの社会問題を深く取材してきたせいか、人の緩慢な常識を壊し、新たな想像力を飛翔させる才能には長けていた。 たとえば、「隠し立てするほど悪評は高まる」と、彼女は言った。かと思えば、「黒い噂はドアが閉まっているところから立つ」と言った。「問題なし、と言われたら、問題あり、と受けとめて再点検しよう」と、じつに職員たちの痛いところを衝いた。 (笹川)陽平には、こんなことを会長就任時に言ったという。 どこの家にも他人に見せたくないものがあろうからと配慮したつもりでそう言うと、 まあ、ふつう常識として、内部で知り得たことについてはいっさい書かないというのが仁義というものであろうが、曽野はおかまいなしだった。 【【【<まあ、ふつう常識として、内部で知り得たことについてはいっさい書かないというのが仁義というものであろうが、曽野はおかまいなしだった。財団会長になってから、彼女の著作数はぐんと伸びる。> 私(藤森)は、まず、笹川陽平氏の度量の大きさに驚きます。<一切必要ありません。ご自由に>。陽平氏は、文字通り、「ご自由に」としました。これは凄いです。日本はマザコン社会ですから、偉そうなことを言う人は多いですが、このように文字通り「ご自由に」を通せる人は極めて少ないです。つまり、陽平氏は極めて貴重であり、極めて素晴らしい方だということがよくわかります。 そして、曽野先生も、文字通り、書きたくなったことを書いています。そうすると・・・・・ 妙な話です。 陽平氏も、曽野先生も、下記の実例で言えば、監督・落合博満氏に相当するのではないでしょうか。やはり、大物は違いますね!!! ◆平成25年10月5日、日刊ゲンダイ「勝負の心得・ケンカの作法」(権藤博) <私は落合監督復帰を支持する> 今季限りでの退任が決まった中日・高木守道監督の後任に、前監督の落合博満(59)の名前が取りざたされている。 たった2年でその前監督を呼び戻すことになるとしたら、格好のいい話ではない。関係者は複雑だろうが、今季12年ぶりのBクラスに沈んだ今の中日を立て直すには、落合が最適任だと私は思う。 落合という監督の凄みはなにか。改めて考えていた矢先の先日、落合の右腕として辣腕を振るった森繁和前ヘッドコーチと話す機会があった。森は落合から「オレは投手のことは分からん。すべておまえに任せる」と投手陣の全権を委任されていたというのが通説になっているが、実は私は信じていなかった。 私はこれまで計4球団で延べ18年、投手コーチを務めた。仕えたほとんどの監督が「投手のことはすべて任せる」と最初は言うものの、その約束が守られることはまずなかった。特に野手出身の監督はとにかく動きたがる。1年のシーズンをトータルで考える私が、「ここは我慢。ここで投手をコロコロ代えたら、最後まで投手が持たない」と進言しても、まず聞く耳を持たない。近鉄時代の仰木監督も昨年の高木監督もそうだった。必然的に監督と投手コーチは衝突してしまう。 <野手出身としては異質> しかし、森は「いや、落合さんは本当に投手のことには一切、口を出さない。その日の先発投手を当日の試合前に知ってたくらい。継投もすべて自分に任せてもらいました」と言った。これが、監督落合の凄さだろう。 オレは投手のことは分からん、という落合の言葉を真に受けるわけにはいかない。投手コーチを天職だと思っている私も実は、野手の方にむしろ一家言を持っている。常に投手の視線で打者を見るから、「そんなバッティングをしていたら、相手投手はラクなもの」「さっきのボールを狙われたら、向こうのバッテリーは困る。それでいいんだ」と、下手な打撃コーチより有益なアドバイスができると自負している。 あれだけの大打者だった落合博満が、投手のことを分からないわけがない。誰よりも鋭い視線で、投手を分析できるはずである。にもかかわらず、「オレは分からんから」と言い、本当に口を挟まない。 自分が口にしたことは絶対に曲げない。信念を貫き通す。これこそ、監督落合の最大の長所だろう。指揮官がブレれば、選手はなにを信用すればいいのか分からない。チームはガタガタになる。今の中日がまさにそれ。これを立て直せるのは、落合を置いて他にいない。 ◆週刊ポストの今週号にも落合氏のことを次のように書いています。 |
●(5)さて、作家は自由に発想し、情緒が豊かな上に、理性や教養が溢れている方々・・・・・少なくとも、文学の「賞」を受賞されるようなエリート作家はそうだと思っていました。多分、そういう方が多いのでしょう。例えば、週刊ポストに「逆説の日本史」を連載している井沢元彦氏は、連載を拝読する限り、そういう方だと私(藤森)は思っています。
しかし、どうも、作家という自由発想が身上(?)の職業でも、そうでない方も多数いらっしゃるようです。<平成23年4月15日「今月の言葉」第105回「イニシエーション・通過儀礼とは何か?」>の中の(12)を再録します。曽野先生の卓越したアイデアに対する作家の故・上坂冬子氏の下記の批判!? <<<平成23年2月25日、週刊ポスト「シリーズ<天下の極論『日本リセット計画』第4弾>」<昼寝するお化け・特別版> <満18歳の国民すべてに社会活動を義務づけるべき> <「他者への奉仕」が育む「ほんとうの自由」>(曽野綾子・作家) <略> 「今までの教育は、要求することに主力をおいたものであった。しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で温かい潮流を作ることを望みたい。個人の発見と自立は、自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人々の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。 そのために小学校と中学校では二週間、高校では一ヶ月間を奉仕活動の期間として適用する。これは、既に社会に出て働いている同年代の青年たちを含めた国民すべてに適用する。そして農作業や森林の整備、高齢者介護などの人道的作業に当たらせる。指導には各業種の熟練者、青年海外協力隊員のOB、青少年活動指導者の参加を求める。これは一定の試験期間をおいてできるだけ速やかに、満一年間の奉仕期間として義務付ける」 実施の方法として私の頭にあったのは、満十八歳で一年間、すべての日本国民に社会的奉仕活動をさせることであった。十八歳というのは、大学進学を決定したか、就職を決めたか、いずれにせよ将来が一安心になった時である。従って大学浪人、就職浪人には、一、二年の猶予期間をおいていい。しかし果たしてこの私案は、世間からめちゃくちゃに叩かれて無視されたが、怠け者の私は「気楽でよかった」と思ったものである。 <事故や被害者を恐れぬ勇気> 反対意見の主なものは、東大大学院教授・佐藤学氏や、故上坂冬子氏から出たものであった。二人共、私のこの提案を「思いつき」という同じ言葉で否定したので、私はその頃「どうして(二人は)私という他人が、或ることをいつ思いついたのか知っておられるのだろう」と書いている。 さて、「教育改革国民会議」というビッグ会議で、上記のように提案された曽野先生に対して、東大大学院教授は論外として、作家の上坂冬子氏が「思いつき」という言葉を使って批判した思想の幼児性には驚きます。この提案が抜群に素晴らしいことを皆目、理解できないようです。 |
●(6)そう言えば、日本を代表する大政治家であり、また、日本を代表する大作家であり、まさに日本の「知性」でいらっしゃる石原慎太郎先生にも、こんなことがありました。
◆平成24年12月19日、日刊ゲンダイ「アッパレ!池上彰“ジャーナリスト”の面目約如」 <石原慎太郎もタジタジ> 「パプアニューギニアやフィリピンを北朝鮮と同じように呼ぶから“暴走老人”と呼ばれると思うのですがいかがですか」 日本維新の会代表の石原慎太郎と生中継で丁々発止のやりとりを行い、気色ばませたのはジャーナリストの池上彰(62)。選挙戦当日、4時間半にわたって生放送されたテレビ東京「池上彰の総選挙ライブ」でのひとコマだ。 しばらくして再び中継がつながった石原が、「先ほどはあなたと知らず怒鳴ってすみませんでした」と謝罪。 <後略> |
●(7)相手によって態度を変えるのは、「江戸しぐさ」ではもっとも恥ずかしいことで、これでは江戸庶民にも相手にされませんね。今や、日本を代表するようなエリートや知識人たちに、江戸庶民にもバカにされそうな人が増えました。
<平成25年6月15日「トピックス」第94回「沖縄戦終結」>の中の下記の部分を再録します。 <<<江戸しぐさ・・・・・多分、日本のエリートの多くに見られることでしょうが、相手がアメリカであれば土下座外交をし、相手がアフリカの国だと傲慢な態度に出る。いつか、「今月の言葉」で取り上げたいと思っていますが、日本には「江戸しぐさ」という素晴らしい精神があります。その精神から見ても、上田人権人道大使は「人権蹂躙大使」、まさに日本の恥です。 江戸しぐさの中の重要な一つで、相手により態度を変える人間のことを「井蛙(せいあ)っぺい」と言って、戒めています。 今の日本は、世界的にみて、物質的、経済的に豊かになりすぎて、日本人の豊かな人間性を失ってしまったように思えてなりません(衣食足りて、さらに礼節を欠く時代)。 ◆10月19日、日刊ゲンダイ「猪瀬直樹よ・アンタは都知事失格だ!」 <伊豆大島の大惨事の最中に「イベント出席」「ジョギング2キロ」「ツイッター」> 「まず72時間以内の救助が一番大事だと思います。頑張ってください」・・・きのう(17日)午後、東京都の猪瀬直樹知事(66)がようやく、伊豆大島に入り、土石流の被災者を激励したが、「どのツラ下げて」と言いたくなる。猪瀬は「大事な72時間」に何をしていたか。世間は災害当日、不在だった大島町長らの危機管理の甘さを追及しているが、それを問われるべきは、この男だ。 <略> この時間までに伊豆大島では土石流被害により、20人近くが死亡、安否不明者は40人を超えていた。自衛隊員や消防隊員、警官らが夜を徹して捜索を続ける中、陣頭指揮にあたるべき東京都のトップが、日課のジョギングで汗を流し、それをわざわざツイートするなんて、本当に理解に苦しむ。 ・・・・・猪瀬は16日午後2時半から都庁で緊急会見を開いた。ここで前田信弘副知事を本部長とする「現地対策本部」を立ち上げ、状況把握のためにヘリで現地に向かわせたことを発表したが、問題はその後の行動だ。 ・・・・・会議は18日まで開かれている。キャンセルは十分に可能だったし、これはもう、トップの“良識”の問題だ。 前出の田中氏は「大震災直後に当時の菅首相が福島原発を視察したパフォーマンスと印象が重なります」と言った。五輪招致で浮かれ、都民の安全という最も大切なことを忘れている猪瀬は、知事失格だ。 |
●(8)さて、話はガラッと変わりますが、恐らく、これほどの「老師」はもう現れないのではないかと思われる、現代、最高峰と私が推測している加藤耕山老師(昭和46年、96歳で遷化)を紹介します。 耕山老師の資料はほとんどありません。その、ほとんど無い資料の中のかなりの資料(つまり、わずかな資料)が、何故か不思議なことに、私(藤森)のところにあります。 ◆「書と禅」(大森曹玄著、春秋社、1973年第一刷、1988年新装第二刷) <現代の禅僧たち> <略> (p235) 現存の老師方の墨跡は、今では一年に何回となく展覧されるので、雪堂翁のように反感を抱かれてまでここに書く必要はあるまい。しかし、どうしても書かなければならない現代の巨匠がもう一人ある。それは昭和46年に世を去った奥多摩に隠れていた加藤耕山老師である。加藤耕山(1876~1971)は室号を是々庵といい、明治9年愛知県の在家に生まれた。9歳のとき名古屋の大永寺という曹洞宗の寺に弟子入りしたという。長じて後、一度は円覚寺の釈宗演に就いて、わずか一週間参じただけで見性を許された。しかし、翻ってよく考えてみると、こんなものが見性であるならば、禅とは何とくだらぬものか、むしろ教相を学んだほうがよほど確かだ、とおもわれてならなかった。このことが原因となって若き日の耕山をして、一時、禅を放棄させたのである<藤森注・・・世の「悟り・見性」とは、大体、こんな程度です>。 ところが27歳のある日、ふと『正法眼蔵随聞記』を読んで大いに発憤するところがあり、再び禅と取り組む決意をした。どうせやるなら一番やかましいところがいい、というので鬼叢林といわれる伊深の正眼僧堂を選んで掛錫することにした。5年余りは、そこで猛修行をした。そして47歳、久留米の梅林僧堂に転じ、惨憺たる辛苦のすえ、ついに香夢室・瞎禅の法を嗣ぐことになった。曹洞宗から臨済宗へと、僧籍もそのときに転じたのだという。そのままで事がなければ、当然、耕山は梅林僧堂の師家としての生涯を送ったことであろう。ところが好事、魔多しとでもいうか、端なくも恋愛問題に悩み一子の親になってしまった。西多摩郡の五日市の奥、徳雲院に隠れ、ひっそりと托鉢三昧の生活を送るようになったのは、このためである。けれども叢裡の珠は、いつかは光りを発する。やがて徳雲院にも、桃李がものをいわずとも自ら蹊を成すという譬のように、一箇半箇が道を訪うようになってきた。かくて加藤耕山ここに在りと、天下にその名を知られるようになった。多くの弟子たちに囲まれ、梅の香に包まれて96歳で泊然と逝った。 その墨跡は規模こそ大きくはないが、そして迫力も勝れたとはいえないが、墨気は透徹して冴えている。その点においては前に述べた三巨匠<藤森注・・・古川大航老師、山本玄峰老師、足利紫山老師>に決して劣るものではない。枯淡というよりは、むしろ老熟しきった感じである。祖師の像もよく描くが、その眼の澄んでいること、恐らく当代随一であろう。それも迫力というよりは、無邪気で子供の眼のような澄みかたである。この人は力よりは徳にまさる性質(たち)であろうか。その笑顔が、これまた天下一品である。禅とはこれだ、といってよいような、あどけないすべてを超脱した笑顔である。 このごろのような世の中になっては、再びこのような笑顔に接することは恐らくあるまいとおもう。その顔は、彼の描く達磨にそのまま写し出されている。 <大森曹玄(おおもり・そうげん)・・・・・明治37年・山梨県に生まれる。大正12年・日本大学修。大正14年・この年以来、京都天龍寺関精拙に参学。昭和9年・直心道場を創立、終戦の年まで武道を教授す。昭和21年・天龍寺管長関牧翁に得度を受け僧籍に入る。昭和23年・東京高歩院住職、青苔寺及び鉄舟会師家として現在に至る。 |
●(9)加藤耕山老師のお寺は、東京・五日市にある落ち着いた徳雲院というお寺です。昭和46年、96歳で亡くなられましたが、その十数年後に、私(藤森)は、このお寺を訪ねました。住職で、耕山老師のご長男、加藤太巌和尚と二人だけで、静かなたたずまいのお寺の一角でお話をさせていただきました。 加藤耕山老師は書物というものをほとんどまったく残さなかった方です。 ◆「是是庵耕山老大師は、そのご生前いつも『わしのいいたいことはすべてお釈迦様や祖師方がいい尽くされてござるので、今さら何もいうことはない。』と仰せられて、一言半句も後の世には遺されようとしませんでした。
このカセットテープを引き出しから取り出してみますと、なんと、その脇に、山本玄峰老師94歳時の講話のテープもあり、久し振りに拝聴しました。私は、上記の「書と禅」、下記の「坐禅に生きた 古仏耕山」に出てくる加藤耕山老師のお姿が、何故か、曽野綾子先生を感じてしまいます。下記の著者、故・柳瀬有禅老師は、加藤耕山老師に師事し、耕山老師から「老師」を受け継いだ方です。昔、私が勉強会を主宰している時、講師にお招きして、ご講演いただいたことがあります。 埼玉県のお寺のご住職をされていらっしゃり、そのお寺を訪ねたこともあります。 |
●(10)「坐禅に生きた 古仏耕山」(秋月龍珉、柳瀬有禅、著、柏樹社)
<第三章 一所懸命>(柳瀬有禅著) (1)老いて死せざる、これを賊と申す(p194) その日の降りは、梅雨にしては少し強い一日でした。朝方、耕山老師のお寺から、「今日、急に建長寺管長(湊素堂老師)が寺に立寄られることになった。来てくれるように」という電話がありました。 老師に随身して、それまで20年の間、私の方から用事を推察して買ってでることはありましても、老師から「出て来るように」と申されたのは数えるほどで、黄檗の村瀬老師と、筆禅道の横山雪堂(後に天啓)翁が、はじめて徳雲院に見えた時くらいでありました。 かねて、奥多摩方面に管長親化があり、その折管長湊老師が耕山老師を訪ねられるかもしれぬということは、近くの寺院から話が入っていました。けれども徳雲院は建長寺派の最末等地でもあり、それまでそんなことがあったためしもありませんので、管長のお立寄りなど誰も考えておりません。 ところが、当日になって正式日程の中から時間を割いて来られるということになりました。急いで耕山老師の許に到着しますと、間もなく見えられるという直前で、そばには随身の山田文諒禅士(現・永源寺派大智寺住職)と居士代表の黒山定良さん(耕圓居士)の二人だけです。老師はふだん着の麻衣をつけて坐っておられます。 「管長さんがここに来なさるげな。まずあんたがお迎えの挨拶をなあ、わしに代わって申して下され、そのあと黒山君がお礼のことばを述べて、お帰り頂くことにしようや」ということで打合せがつきました。 緋もうせんの上には赤い坐布団が敷いてありましたが、素堂老師は坐られません。耕山老師はご自分で立って行かれ、この若い管長をその上に坐って貰われました。いつの間にかまた坐布団ははずされ、ほんの少し管長のお膝が布団にかかっています。 「こんなところによくお立寄り賜りました。しかしながら、耕山老師は老耄眼も耳もみんな駄目になられ、何のお構いもかないません」と耕山老師に言われた通り私が名代で挨拶をしました。 続いて黒山居士が、耕山老師が今年94歳になられ、今日もなお暁天3時半には起きられての日課についてお話し申しました。管長さんは、 「ハイ、ハイそれでは私が先に参って、ツユ払いをして置きましょう」 「老いて死せざる、これを賊と申しましてなあ」と、老師が自らしめくくられました。そばでこの応答を聴くもの、胸中に清風が吹きぬける一ときの出会いでした。 この日ご両者が契合されたとおもいます。昭和44年6月のことであります。 「仰ぎみる徳雲の閑古錐 にはじまり、 に終るこの法語は、25行250語に及びました。 <後略> <秋月龍珉(あきづき・りょうみん)・・・大正10年生まれ。東京大学哲学科卒、同大学院修了。若くして伝統禅の修行に志し、居士身のまま臨済宗の大事了畢。知命を過ぎて妙心寺派の僧籍に入る。現在、(財)東大仏教青年会禅会師家、月刊誌『大乗禅』主幹、埼玉医大名誉教授。著書に『秋月龍珉著作集』全15巻(三一書房)ほか、『入門・禅の読み方』(日本実業)、『正法眼蔵を読む』(PHP)、『禅のことば』(講談社現代新書)等がある。 柳瀬有禅(やなせ・ゆうぜん)・・・大正5年生まれ。出身は宮崎県高千穂。昭和13年釈大眉につく。14年大東文化学院を卒業し、翌年華北戦線に従軍。18年出身地に青年塾を開設。25年是々庵加藤耕山の室に入る。38年是々庵の印記を受ける。現在、臨済宗皎円寺住職・法燈禅林師家。> <「坐禅に生きる古仏耕山」昭和58年2月5日 初版発行、柏樹社刊> |
<文責:藤森弘司>
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