2013年10月15日 第100回「トピックス」
④-②
●(1)前回(④ー①)の続きです。前回の中に、下記の部分がありました。
<<<私は日本近代文学館が主催する夏の文学講演会で講師のひとりをつとめたとき、ちょうど同じ日に私のあとで講演をする彼女と控室で顔をあわせ、日本財団や陽平のことについて話を聞かせていただけないかと申し上げたことがあった。そのとき曽野は、自分は陽平や笹川家とはプライベートなつきあいがなかったからよく知らないのだと言い、『日本財団9年半の日々』という本でたいてい財団時代のことは書いているので、それを参考にしてほしいと、あくる日にはもう著書を送ってきてくれた。それで私は、忙しい彼女には財団の話をするのが煩わしいのだろうと解釈し、 彼女に話を聞くのをあきらめて、陽平や尾形や日下公人ら当時新会長選出にかかわった人物たちに話を聞くのみで書かざるを得なかったのだが、この稿を書こうとしていた4、5日まえに『この世に恋して』(ワック)という自伝本とともに手紙が送られてきて、たいへん興味深く読ませていただいた。>>> 私(藤森)は、「文壇」とか「論壇」といわれる世界をまったく知りません。ですから、そういう世界では許されるのかどうか分かりませんが、私の常識では、上記の高山氏の対応が理解できません。 とおっしゃるのはいかがなものでしょうか?少なくとも「江戸しぐさ」では考えられないことであり、私には「非礼」極まりないように思えるのですが、「文壇」とか「論壇」とか、はたまた「メディア」などの世界では通ることなのかもしれません。恐らく、江戸庶民でも、このような「非礼」な振る舞いはしないのではないでしょうか。 ここまで書いて、ひょっと思いつき、インターネットを検索してみました。 一つはネットだからということがあるでしょう。それともう一つは、文筆活動をする人、と言ったらよいのでしょうか、そういう人たちの裏づけが不十分で主観的な文章が溢れていました。高山氏の曽野先生に関する「じぇ、じぇ、じぇ」はおとなしいと思えるほど、しっかりした裏づけがないまま攻撃的に書いてあるものがあり、凄い世界だなあとため息が出ました。 特に、最近、週刊現代で書いたことが議論沸騰しているようです。しかし、私は、週刊ポストの「昼寝するお化け」以外の曽野先生をほとんど知らないので、「昼寝するお化け」を通した曽野先生について、また、「宿命の子」に書かれていることを中心に、私の考えを述べたいと思っています。 ●(2)さて、<<<そのとき曽野は、自分は陽平や笹川家とはプライベートなつきあいがなかったからよく知らないのだと言い>>>とあります。「知らない」ものは「知らない」としか言いようがないのですね。 こいつが犯人だと目星をつけると、あるいは、あいつを犯人にしたいという欲望に駆られると、それを裏付けられそうな理屈はどうにでもつけられます。「拘束」という形で社会から断絶させ、孤独な状態に置かれた人間を追い詰めるのは、かなり容易です。さらには、自分が出世するために、大物を逮捕したいという欲望に囚われると、調書を捏造さえできます。 <生活の党の小沢一郎代表が無罪となった陸山会事件で、デッチ上げ調書を作った田代政弘元検事・・・東京第1検察審査会が9月下旬、田代に対する新たな審査申し立てを受理した。・・・「田代元検事に再就職先を紹介したのは、検察上層部でしょう。親会社の三菱化学の監査役は代々、検事長クラスの天下りポストです。田代は法曹資格を剥奪されておらず、ほとぼりが冷めたら弁護士に転身するはず。それまでの腰掛みたいものだから、身分が嘱託なのだと思う」(検察担当記者)(10月10日、日刊ゲンダイ)> 権力を持った検事がこれだけの犯罪を犯したにもかかわらず、法曹資格が剥奪されていないということは、かなり「組織」的であることを想像させます。厚労省の村木次官の冤罪事件もそうでした。 「認知療法」における「認知の歪み」というのは、とにかく恐ろしいもので、どんな「妄想」も確信に満ちて思い続け、そのように対応していると、現実がそのように「変質」してきます。だから、ますます確信に満ちてきて、それを何十年も続けていると、疑いようもない「事実」、確信に満ちた「信念」になってしまいます。だから恐ろしいのです。私(藤森)自身、若い頃は「妄想」の塊みたいな人間でした。 そして、驚くなかれ、「育児」は、みな、この「妄想」・・・思い込み、決め付け、あるいは「両親」の価値観の押し付けで行なわれています。親の価値観を押しつけられた結果、「いい子」になったり、学問やスポーツに励む子どもになると、親は、自発的に取り組む自慢の子として、我が事のようにハッピーな気分に満たされます。 しかし、その「押し付け」がやがて「破綻」して、子供に「症状」・・・「不登校」や「非行」や「ウツ」などの症状が現れたとき、確信に満ちた「信念」が「破綻」するわけですが、何十年も続けてきた疑いようもない「事実?」を「自己否定」することはほとんど「不可能」に近いものがあります。 <<<お作の中で私の知らない話をたくさん拝読いたしました。そういう経緯だったのか、とほんとうにびっくりしています。男性は女性より知的なのでしょうか。「画策」「作戦」をお楽しみなのですね。私は日常生活以外、できるだけ余計なことはしたくない方ですから、男性的な世界を改めて新鮮に感じました> いかにも曽野らしい書き出しではじまるこの手紙>>> 私(藤森)が読んでも、曽野先生がおっしゃるように、ナンセンス極まりない<<<「画策」「作戦」をお楽しみ>>>されているように思えます。それを<<<いかにも曽野らしい書き出しではじまるこの手紙>>>程度の受け止め方で、その背後に潜んでいる百万言の意味合いが感じられないとは、なんともいやはやです。 日本財団そのものが、それ以前から、高山氏が詳しく書いていますが、魑魅魍魎の策を弄する人たちの集まりのようです。事実、大らかでお金にあまり執着しない笹川良一氏に、トンでもない融資をさせる人が何人もいて、その後始末に陽平氏がかなり苦労してきました。 私の推測では、清濁併せ呑むような、あるいは、戦国武将のような初代・笹川良一氏、続いて清廉かつ日本財団とは無関係の曽野先生が関わり、そして大変素晴らしい三男・陽平氏が3代目を継いで、日本財団会長として卓越した活躍をしていますが、巨額を動かせる日本財団は、陽平氏の次の代から、10年くらいかけて腐敗していくように思えてなりません。 4代目からは、日本財団に「シロアリ」がドンドン集まってくるでしょう。曽野先生や陽平氏のような素晴らしくもあり、厳しい収支のチェックがなされることは困難になるはずです。事実、曽野先生が会長に就任するまでのいい加減さは、高山氏が書いているように酷いものでした。 上記のように、周囲が「マザコン」ばかりでは、シロアリが食い荒らすに違いありません。本当の意味での「男性性(女性性)」が確立(自我が確立)されていないと、人間は誰でも溺れるものです。私(藤森)のようなマザコン人間がまともに人生を生きてこられたのも、ただ一言、残念ながら、お金にまったく縁がなかったからです。 |
●(3)さて、前回の後半部分を紹介します。途中、【【【 】】】の中に青文字で、私(藤森)の考えを加えさせていただきます。
平成25年9月13日、週刊ポスト「宿命の子」(高山文彦著) <笹川一族の神話と真実>(第62回の後半) <父親という存在が空白になったまま> 曽野の強さと弱さを本質的な意味でとらえきれていたのは、日下公人ひとりだったかもしれない。この世に天才というものが存在するとすれば、このような人のことを言うのではないかと私には思えるが、残念なことは、そしてまた恨めしいことに、この人物がどんな人物であるかを万人に正確に伝える能力が私にはない。ただ、ひとつここで思い出してほしいのは、曽野に会長就任を打診するさい、直接曽野には話さずに夫の三浦朱門さえ了解してくれれば、曽野はかならず引き受けてくれるだろうと確信していた。彼女にとって三浦朱門は、夫であると同時に父のような存在であることを彼は見抜いており、三浦朱門が反対することは彼女はけっしてしないだろうし、賛成することはたとえそれまで自分が逃げ腰でいたことでも、やりとげようとするだろう。 これは日下から直接出た言葉ではないが、彼は曽野綾子の行動原理や思考原理の中心にファザーコンプレックスが横たわっていることを見抜いていたのである。 「彼女には父親という存在が空白になったままなんだ。あるとき、財団関係の仕事をまだ続けるのかと彼女に問われたことがある。おれはそのとき陽平さんのことをもち出して、あんな親孝行な男見たことがないから、しばらく彼の親孝行につきあってみるよ、と言った。そうしたら彼女、キョトンとした顔になって、なにも言わなくなったんだ。おれの話がまったく理解できないようだった。陽平さんみたいな父親にたいする親孝行という概念が、彼女にはないんだね。父親不在なんだよ。彼女の作品には父親が出てこないだろう?」 私が日下から聞いたのはこれだけのことだったが、小石を投げ込まれた湖面のような波が広がっていった。 【【【天下の巨大「財団」を親孝行でやる!!!ここに集まっている人たちは、笹川家の財産管理をしているのですか?なんたる堕落した思想。私(藤森)も、天下の大天才・日下公人氏の発想の貧弱さにはキョトンとします。 私(藤森)に言わせれば、一人の人格、それも日本社会に高山文彦氏や天才・日下公人氏などと同様、大きな存在の曽野先生を、こんな程度の理屈で「ファザーコンプレックス」だと言える人格こそが、まさに「天才」なのです。 モーツアルトにしても、ベートーベンにしても、天才作曲家ですが、映画を見る限り、異常人格です。そして、上記の方々は、社会で活躍している存在の方を、上から目線で、平気で「ファザーコンプレックス」と言える根性が抜群に天才的です(日本の大政治家にして、大天才作家については、次回、少々、紹介したいものがあります)。 そして、天下の大作家、天下の大天才、天下の巨大財団の責任者が、このような上から目線の軽々しさ・・・・・そのものが、みな、私の定義では「マザーコンプレックス」です。天下の「大人(たいじん)」ならば、もう少し礼儀を弁えるべきだし、もう少し重みのある発言をしていただきたいものです。これでは江戸庶民の知性(江戸しぐさ)にも劣るのではないでしょうか。 重要なことは、大した根拠もなく、こういうことを上から目線で偉そうに言える高尚性?こそが大問題です。私(藤森)も酒の席では、もっと過激で低俗なことを言いますが、天下の公器であるこういう場で、こんな程度の根拠で、これほど立派なことを書いたり、言えたりする根性は抜群に素晴らしい!!!】】】 最近でこそ自分の父親について語ったりしている曽野だが、以前はたしかに私も父親について書いたり語ったりしたものを読んだ記憶がない。 わざわざ送ってくださった自伝を読んでみると、「お父さんは気さくでいい方ねえ」とご近所から言われるくらい父親は外では「愛想もよく、偉ぶってもいない」人で、「酒も博打もやらない、借金など決してしない律儀な人」だったが、家のなかは「火宅」だったという。「暴力が一番こたえました」と、曽野は述べている。そして大人になった曽野は三浦朱門との結婚後・・・・・結婚は曽野が大学4年のとき・・・・・、母親を父親と離婚させている。すでにそのころには父親には再婚を考えている相手がいたようで、いずれ一人娘の自分が相続してもいいはずの田園調布の家を「当時の時価を調べて」「他人との売買と同じように」父親から買い取り、母親をひきとって暮らしはじめた。「自分の着物のほかは父に全部渡す」「家財道具には、お皿一枚だって固執しないで」と約束させて。 【【【世の男性諸氏、この根性を、是非、見習ってください。やるときは、このくらい開き直る覚悟がすばらしいと、私は思います。 なお、敢えて心理分析をしますと、多くの場合、「外面」がいいと、「外面」の良さに反比例して「内面」は悪いものです。万一、「内・外」に良いと、自分の体を壊します(そういう方特有の「病気」があります)。 私固有の考えがありますが、いつか、曽野先生が何かで、このあたりのことを書かれたときに、私も触れさせていただきたいと思っています(ただ一つ、曽野先生について気になることがありますが、それは最終回に書きます)。 こうした背景を知ってか知らずか・・・・・おそらく当時は知らなかったと思う・・・・・日下公人は曽野本人ではなく三浦朱門に話をしたのだった。 <「隠し子説」という神話の原点> <そして私は滑稽なことに、陽平さんが正式にうちに就任の打診に見えられた時も、最後に「無給なら」とそれがほとんど唯一の条件として申し上げたのです。すると陽平さんがおかしそうに「大丈夫です。寄付行為の中で無給と決められています」とおっしゃいました。ああいう規約みたいなもの、読んだことがなかったものですから> と、曽野の手紙はつづく。 そして、これにつづけて、なかなか一般の人間には考えられないおもしろいエピソードを、このように伝えている。 <当時の三浦朱門の反応に関しては、今でも一言覚えているだけです。それは「お金の面でトクにならないことなら、引き受けてもいいだろう」という言葉でした。 三浦朱門からこのように言われたのは、日下公人と三浦が電話で話し合った日のことだったのだろうか。陽平と尾形が正式に頼みに家に来るよりもまえにこのように言われているのは疑いようがないので、とすると「無給」を先に言い出したのは曽野でなければいけなくなる。 ワンポイント・リリーフの「一年だけ」という約束で会長に就任したはずの曽野が、思いがけず9年半の長きにわたって会長をつとめたのは、これは尾形に半ば叱られるような説得をうけて思いとどまったこともあるが、ご本人は手紙にこのように書いておられる。 <なぜ続いてしまったかという理由の一つだけは、はっきり覚えています。一年だけというお約束でお引き受けしたのですが、一年は事業をざっと理解するだけにかかり、半端人足のままろくに働きもせず出て行くとすると、あれだけ厖大な銀行の名義変更の手続きを、再び経理にさせることになり、いくら何でもそれは気の毒という気はしたのです。実に私は枝葉末節のことばかりが気になる性格です。 一年で辞める場合、何も働かずに職場を去ることになるでしょうけれど、一つだけできるかもしれないことがあります、と私は陽平さんに言いました。それは財団内に、手にあまる人物がいるなら、私が辞任する時、同時に解雇して行きます。その点だけならお役にたてるかもしれません、と言ったのです。時に「内紛」めいた話が聞こえないでもありませんでしたから、私はまだ権力闘争の結果としての残党がいるのかと思っていました。すると陽平さんが、「日本財団には誰一人そういう人はいませんから、ご心配なく」と笑ってくださいました。それは私にとっても実に幸運なことであったと思います> おもしろい人である。曽野綾子の母性というものが、陽平を守りとおそうとしているのである。 どこから発生したものか、「曽野綾子は笹川良一の隠し子」という噂がひろがるのを、本人も愉快そうに眺めていたらしい。こうした噂が出まわるのも、彼女が実父の存在をあまりふれまわってこなかったために神秘化された面がひとつはあったからだろうし、もうひとつは陽平を守ろうとする姿が人によっては弟を守ろうとする姉のように見えたからだ。父親をめぐってはふたりとも数奇な運命をあたえられてきたが、直接聞くわけにもいかない立場にある者たちは、ふたりのあまり表沙汰にされていない父親との関係を想像し、長いあいだ離ればなれになっていた姉と弟が実父の死を機にたがいに名乗りあい、姉は弟を助けるために財団会長を長期にわたってつとめたという神話をつくりだした。 【【【なんともいえない低俗な内容の連続にウンザリします。こういうことをゴチャゴチャ言っていること自体が「マザコン男」の姿だと気がつかないのだろうか。男性性がしっかりしている(マザコンを乗り越えている)大人は、こういうことをゴチャゴチャ言うこと自体に恥ずかしさを感じるものです。 <おもしろい人である。曽野綾子の母性というものが、陽平を守りとおそうとしているのである。>・・・一体全体、誰が「おもしろい人」であるか気がつかないのであろうか?それとも、「文学」というのは、こういうナンセンスな話題を、根掘り葉掘り、ゴチャゴチャ書くことなのだろうか?読者にとっては興味津々かもしれませんが、興味津々で書かれたら、対象にされた側はたまりません。 多くの「文学」というのか、「小説」というのか・・・こういうことは適切に表現する言語を持っていませんが、典型的な例として、「風と共に去りぬ」は、「交流分析」でいう「ゲーム」です。何度も何度も、繰り返される「こじれた人間関係」・・・「ゲーム」とは「こじれた人間関係」が繰り返すゴタゴタを意味します。その「ゲーム」に、「南北戦争」を書き加えて壮大なドラマにしただけで、ブッチャケて言えば「ゲーム」を文学化したものが「風と共に去りぬ」です。 とはいえ、でも、何故、こういうことになるのでしょうか?ここを理解するにはやはり「空海」先生にお尋ね申し上げることが一番です。 「空海!感動の言葉」(大栗道榮著、中経の文庫) |
●(4)今回の最後に、<「今月の言葉」第123回「カウンセリングとは何か(十牛図)>の中の最後の部分を転載します。
<<<●(12)< 十、入てん垂手(にってんすいしゅ・・・てんの字を出せません)> 身を思う身をば心ぞ苦しむる これは、誰でもが知っている布袋(ほてい)様である。布袋和尚は、中国に実在した禅僧で、弥勒(みろく)菩薩の再来と言われたほどの、徳の高い人であったという。しかし高僧ではあっても、この絵のように襤褸(ぼろ)を身にまとい、肩から布袋をいつも下げては、村から村へと、文字通り行雲流水の生涯を送った人である。 てんは部落で、要するに修行の聖地に対する俗界を意味している。完成された人格が、再び俗悪の娑婆(しゃば)に戻って、今度はその浄化に専念する姿を描いている。 以上が、禅僧としての修行の段階と、その目的を、巧みに牧童に譬(たと)えた、十牛図の話である。しかしこれは、ただ単に禅僧に限ったことではなく、道を求め、安心を求める人間にとっては、ひとしく身につまされる内容を持っている。 だからこそ、ここに登場してもらったのだが、白隠の弟子東嶺和尚が、師の後半生を果行格と呼んだのも、結局は、十牛図の最後に出てくる衆生済度(しゅうじょうさいど)という、佛教本来の目的を、白隠が全く余念なく現実化していったからに他ならない。 <次回④ー③に続きます> |
<文責:藤森弘司>
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