2013年1月15日 第86回「トピックス」
驚愕の真実・戦犯とは何か(後編)

◆前回(12月31日)の「前編(1)(2)」をそのまま再録します。内容を記憶している方は、後編部分の(3)からご覧ください。

 民主党の余りにも稚拙な政権運営に、多くの国民がヘキエキしたことと思います。しかし、だからといって自分がやればうまくできるのかと問われれば、とてもではありませんが、できません。

 しかし、彼らは国会議員を目指し、そして大臣や首相を目指したのですから、プロ中のプロのはずです。それにも関わらず、ひどいアマチュアレベルのプレーを見せられたのですから堪りません。

 しかし、驚くことに、戦争を前にしても、黒船が来航してきた幕末にしても、日本には適切なリーダーが居なかったのですね。もちろん、私(藤森)にも全くその能力はありませんが、リーダーを目指した人たちにリーダーシップが全く無いのには驚きです。極東の行き止まりのような、そして四方が海に囲まれた島国だからやって来られたのでしょうね。

 下記の(2)と(3)は、NHKスペシャルで昨年の3月に放映されたものですが、開戦というもの凄い状況を前にして、リーダーたちにあまりにも責任感が無いのには愕然とします。

 そして、下記の(4)は、週刊ポストに連載されているものの中から、右翼の児玉誉士夫氏の天皇陛下に対する驚くべき証言を紹介してあります。やはり物事は「正しく識ること」が重要です。

 なお、「識」「知」について、私(藤森)が尊敬している牧野恭仁雄先生・・・・・名付けの日本の第一人者。世界で初めて解読した象形文字があり、象形文字に精通している方です・・・・・から個人的にご指導いただいた解釈がありますので、牧野先生にお許しをいただいて紹介します。しかも、今回は、さらに下記の貴重な資料もお送りくださいましたので、本格的にご理解いただけるものと思います。

<<<「識」・・・・・原字<下記の(a)ご参照>は金文で、音の古字、(ホコ)の古字で、音とホコを合わせた字です。のちにこの字は言の字が加えられ(a)の字になり、現在の字に近くなっています。

 音の最古の字は(b)などと描かれ、言の古字とほとんど同じです。<下記の(b)ご参照>は刃物、<下記の(b)ご参照>は人間の口と解釈され、音も言も「刃物でスパッと切るように口で表現する」という意味で、音はのちに「区切る」の意味にも使われました。「境(区切り)」「章(音楽の区切り)」「障(つい立て)」「鏡(空間を区切ってうつし出す金属)」「意(心ではっきりさせる)」などの字に含まれます。

 「<下記の(a)ご参照>(ホコ)」も刃物をあらわすと同時に「切りきざむ」の意味でも使われ、「棧(細かく組んだ木)」、「殘(散らかしたままになる)」、「淺(流れが小さい)」、「成(細かく作る)」の字に使われています。

 「音」と「言」は、最古の字体が非常によく似ています。上の部分は刃物をあらわします。下側に人間の口を描いたのが「言」の字で、何かを含んだ口を描いたのが「音」の字です。

 つまり言は「スパッと言う」の意味で、音は口にモノを含んでいて「言葉にならない声」という意味です。ちなみに「声」の字はもとは楽器の音色の意味であり、「鐘の声」という表現が正しく、音は「人間の声」ですので、「本音を言う」といった表現が正しいのであり、今では声と音は意味が逆転して使われているわけです。

 矢と口を描き、口で早く表現すること、またその能力を意味する字です。

 「識」の字は、「刃物で切るように区分けする」という意味をあらわす字と考えられます。「表現はできなくても、他とのしっかりした区別ができること」。デジタル的に区分けし、分類し、ちがいをつかむこと、というふうに考えます。

 「知」は、その事をよくわかっていなくても、表現できること。なお知の字の矢は「早い」の意味で使われていますが、早口でしゃべることとは考えておりません。早口でしゃべりまくる人に頭のいい人はいませんので、知の字は、要点を手短かに話す、という意味だと思っています。
◆(a)

◆(b)

◆(c)
>>>

●(1)何年か前にあるテレビ番組で、靖国神社の「分祀」が議論されていました。

 いわゆる「戦犯」の魂が合祀されたために、中国などから批判される。だから戦犯者の魂を「分祀」をすれば、総理大臣が参拝しても問題が無くなる。「分祀」をするのはどうか・・・・・と言うような議論だったように記憶しています。

 この時、故・東条英機氏の娘さんだか、お孫さんが中継で出演し、「分祀には絶対に応じられない」と発言されたことが、私(藤森)に妙に訴えかけるものがありました。
 魂というものは、そもそも、合祀したものを、(正式な表現はわかりませんが)「分割」するということはできないそうですが、そういう「神道」の考え方はともかくとして、東条英機氏の身内の方が、「分祀」論を強く否定した姿勢に、私は強く惹かれるものがありました。

 戦犯として「処刑」されてから、東条家のご家族は生きるのに大変苦労をされたようです。住む家や食べる物にも大変苦労をされたようです。東条家の人間だということがわかると販売してもらえないこともあったようです。
 そういう猛烈な苦労をした結果、やっと魂が靖国神社に祀られたのですから、「分祀」は絶対に譲れない一線であろうと思っていました。

 ところが・・・・・です。果たして、それだけのことなのだろうかという疑問が湧いてきました。

 今回、戦争を目前にしたリーダーたちの貴重な資料が発見され、今年の3月、下記のNHKスペシャルで放映されました。日本のリーダーたちの驚くべき実態が明らかになりました。
その全部を2回に分けて紹介します。さらには、「戦犯」についての驚くべき証言も紹介します。

●(2)平成24年3月6日、NHKスペシャル「日本人」

 <日本人はなぜ戦争へと向かったのか>

 <第4回 開戦・リーダーたちの迷走>

海軍省兵備局長・保科善四郎・・・向こうの工業力というのはとても日本の比較にならんほど・・・アメリカと戦争しても得がないんだから、日米戦争というのは避けなくちゃならん。

陸軍省装備担当者・岡田菊三郎・・・徹底的な国力データの分析から勝算無しと結論付け、トップと直談判していた。武藤軍務局長にも、絶対に戦争をしてはいけないと、何回も何回も言った。日本の国力から言ったら、数字の上で勝てない。絶対に開戦に賛成してはダメだ。

海軍省兵備局長・保科善四郎・・・もう戦争には自信がない・・・しかし、あんまり自信がないということを言うとそれなら海軍をやめてしまえと嶋田大臣に怒られた。

陸軍省軍務課長・佐藤賢了(証言)・・・海軍には自信がないということを海軍大臣から漏れている。海軍から戦はできんとは言えないから、総理大臣から戦せんように言うてくれと言うたということがあるんです。

企画院総裁・鈴木貞一・・・東条はその時に、海軍はやっぱり戦は不同意だということになれば、陸軍だってそんな戦は強いて主張しないんだと。物資の面から言うと、本当に物っていうものを計算してやれば、戦争なんてできないんですよ。

ナレーション・・・日本人だけで300万を超える命が失われた太平洋戦争。国家の指導者たちは、何故、不利を承知の戦争を避けられなかったのか。開戦前半年間の衝撃的な記録です。

 ABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網。特に石油の94%をアメリカ(66%)、イギリス(7%)、オランダ(21%)に依存している日本にとって由々しき事態。
 一方、日米間の国力差は、当時、大変甚だしいものであった。総合的な国力差はアメリカは日本の80倍(石炭10倍、鉄鋼12倍、石油530倍)だと言われていた。
 これでは歯が立たないと当時の指導者は皆、認識していた。取材して、この段階で本気で戦争をしようと思っている指導者はいなかった。では何故、日本は戦争へと向かっていってしまったのか。日本には突出した権力者はいなかった。当時は、第二次近衛内閣。
 国家の運営は、内閣の国務大臣と統帥権を担う軍のトップが責任を負っていた。

ナレーション・・・(開戦まで200日)1941年5月22日。首相官邸で、内閣と軍のトップが国家方針を検討する、第25回大本営政府連絡会議が始まった。
 重要な国家方針は御前会議にかけられるが、そこでは天皇の承認を受けるのみ。その方針案は連絡会議が責任を持って全会一致で示すことが原則でした。
 しかし、会議では各代表の権限が対等で、首相にも決定権がなく、反対者が一人でも出ると何も決められない。そこで話をまとめるためには、各組織の要望を均等に反映した曖昧で実態のない決定に合意するのが慣例になっていた。

静岡県立大学・森山優准教授・・・「具体的なことは別に定む」ということを決められるというわけで、実際のチャンスが来た時に、改めて議論しようじゃないかということになります。そうなると反対派は必ずその場で反対をするために、なかなか意志決定ができない。

ナレーション・・・6月下旬、この日本の意志決定の問題点が露わとなる。3国同盟を結んだドイツが、1941年6月22日、ソ連と全面戦争が勃発。日本の首脳陣はどう対応すべきか、判断を迫られた。
陸軍の中からは北のソ連を叩けという北進論が。海軍の中からは南の資源を確保するための南進論が同時に浮上。

参謀本部作戦課長・土居明夫・・・今まで陸軍は対ソ作戦で来ているんだから、だからソ連をたたきに行こう。明治以来の北方処理を解決したい。

海軍省軍務局中佐・柴勝男・・・海軍は南ってずっと言ってきておったでしょう。どうしてもこれはやらないかん。これがいわゆる自存自衛ですね。

ナレーション・・・陸、海軍が自分たちの組織の都合を訴える中で、連絡会議の近衛文麿首相ら首脳陣の方針は定まらなかった。
 (開戦まで159日)1941年7月2日。リーダーたちは当面の対応方針を打ち出す。それは方針とは名ばかりで、選択肢を外交交渉、南進、北進、そのいずれかに絞るのではなく、全てを進めるという総花的プラン。しかも、具体的なことは状況を見て別に定める。つまり、何も決めず、準備だけするという、実質、様子見、先送りだった。

軍令部作戦課長・富岡定俊・・・なんでもって妥協したかというと文字で妥協した、作文で。名人が大分出てきて、国策を、陸軍は陸軍の了解でやり、海軍は海軍の了解でやるという現象。

 (開戦まで148日)7月13日。陸軍は北進準備の動員を開始した。準備をどこまでやるかは軍に任されていた。方針のあいまいさをいいことに、陸軍は準備の内容を最大限に解釈。この大動員が波紋を広げることになる。
 海軍省は、陸軍の準備は行き過ぎではないかといい、国家に緊張が走る。北進は陸軍の単独作戦。国を潰すぞ。
 様子見のために曖昧にした首脳部の方針で、逆に現場の拡大解釈を許す結果となる。
 近衛首相らは、陸軍を止める代わりに、その関心を南に向けようと、今度は南方準備に取り掛かることに同意した。

企画院総裁・鈴木貞一・・・近衛さんは仏印をやらないと・・・南方をやらなければ、北のほうに陸軍をやらせんかという心配があったから、南ならすぐに戦にならないという考えだった。

ナレーション・・・陸・海軍のバランスを取ったこの内向きの対応が最悪の結果を生むことになる。

海軍省軍務局中佐・柴勝男・・・アメリカも東洋方面で自ら日本と事を構えることはしないだろうと。とにかく関心はヨーロッパの戦争の方に強く向いている。ですから、まさか、そこまでは来んだろうという考え方が強くあった。

森山優准教授・・・ここまでならば自分たちとしては抑制的に動いているつもりであると。蘭印まで行きたいが、本当は手前で止めているんだから、ある意味、烏合の衆が寄り集まって綱引きをしながらいつの間にか変な所に行っちゃっていると・・・。

ナレーション・・・仏印への進駐は、アメリカの態度を決定的に硬化させた。それまでの部分的輸出制限から、一気に一滴の石油も日本に売らないとする全面禁輸へと踏み込んだ。
 当時、アメリカの反日世論は急激に高まっていた。アメリカ政府内では対日強硬派が力を拡大。日本交渉の時間稼ぎを考えていたハル国務長官らを徐々に圧迫。そうした中で、強硬措置をスタートさせた。
 ルーズベルトもこれを追認。制裁解除には中国と仏印からの撤兵が条件に掲げられた。
 日本の首脳部が方針を曖昧にして選択肢を残そうとしたことが、最悪の結果を惹き起こした。全面禁輸を覚悟していなかった軍の中枢でもたちまち混乱が広がった。

 日本の緊急時に日本のリーダーたちは何一つ決められない。いろいろある意見を一本化できず、様子を見ているうちに、全面禁輸が現実のものになっていった。
 石油の備蓄は2年分くらい。国家の機能が停止するのは時間の問題。ことここに到って、リーダーたちの選択肢は2つだけ。
 一つは、中国からの撤兵を飲む「対米譲歩」
 もう一つは、南方の資源を「独自調達」する。

 前者は国内、後者は英米の反発が必至。まさに進退窮まれり。
 もう結論を先送りすることは許されない。今度こそ、国家の大局に立って決断せざるを得ない。しかし、リーダーたちにとって決断は、この後、さらに困難を増していく・・・リーダーたちはうろたえていた。

 (開戦まで96日)9月3日。第50回連絡会議。リーダーたちは究極の選択と向き合うことになる。

ナレーション・・・突如、現実的問題としてのしかかってきたアメリカとの戦争。リーダーたちの煩悶。
 これまで対米強硬派の中心人物と語られてきた陸軍幹部の遺族を訪問・・・国策を起案する中枢、東条英機の腹心、佐藤賢了・陸軍省軍務課長・・・意外にも素顔の佐藤は対米戦争に戸惑っていたという。制服の軍人というのは表向きは好戦的なことを言う。軍人として当然だけれど、開戦の前日になっても、やっぱりやるんでしょうと。・・・バカ!負けると分かっている戦争をやるバカがあるかとしか言わなかった。

 深刻な動揺が広がったのは海軍の方。
海軍省局長・保科善四郎・・・海軍の最高首脳部は、絶対やっちゃいかんという考え。そういう力はありませんよ。そんなことを目標にして日本の陸海軍の戦備ができているわけじゃない。

海軍省課長・高木惣吉・・・幾度、対米戦の演習をやっても、あるいは図上で演習をやってみても勝ち目がない。

ナレーション・・・間もなく陸軍の方でも対米戦争に慎重を望む声があがる。日中戦争も終わらない中で、アメリカに挑むことの無謀を現場の指揮官たちは訴える。

 しかし、いざ戦争回避を決断するとなるとリーダーの覚悟は揺れた。これまで失われた20万の兵の命。毎年国家予算の7割にも達した陸海軍費は何のためだったのか。国民は失望し、国家も軍もメンツを失うと恐れた。
 この頃、軍の体制は、中堅層を中心にリーダーを強硬に突き上げ始めた。油が底をつくだけでなく、アメリカが戦力を増強し、ますます、日本は引き離される。一日も早く開戦すべしと主張。
 結局、リーダーたちには、軍の部下や国民を説き伏せるだけの言葉がありませんでした。

企画院総裁・鈴木貞一・・・東条君が言うたのは、あれだけの人間を殺して、そして金も使い、ただ何も手ぶらで帰って来いということはできない。

歴史家(日本現代史)・ジョン・ダワー博士・・・人が死ねば死ぬほど兵は退けなくなります。リーダーは決して死者を見捨てることが許されないからです。この「死者への負債」は、あらゆる時代に起きていることです。犠牲者に背を向け「我々は間違えた」とは言えないのです。

 <藤森注・・・・・次回(1月15日)の「後編」はさらに驚愕の証言を紹介します。>

●(3)平成24年3月6日、NHKスペシャル「日本人」(後編)

 <日本人はなぜ戦争へと向かったのか>

 <第4回 開戦・リーダーたちの迷走>

歴史家(日本現代史)・ジョン・ダワー博士・・・人が死ねば死ぬほど兵は退けなくなります。リーダーは決して死者を見捨てることが許されないからです。この「死者への負債」は、あらゆる時代に起きていることです。犠牲者に背を向け「我々は間違えた」とは言えないのです。

 (開戦まで93日)9月6日。石油がこなくなって1ヶ月。連絡会議はまたしても、当面の方針でしのごうとする。交渉の推移を見つつ、1ヶ月後の10月上旬までに開戦か否かの決意を固める。決断をやはり先送り。ただし、そこには期限を設けていた。

企画院総裁・鈴木貞一・・・日を切ることはやらんほうがいいと僕は言ったんだ。近衛さんは、やるけれどもだね。いずれは聖断(天皇の判断)を仰いでやらなくちゃならんから。一応、こうやっておきましょうと。こういう考えなんですよ。

陸軍省軍務課長・佐藤賢了(証言)・・・この決定は、開戦決意したのではない。「開戦決意をするという決意」なんですから。開戦決意をする時期を10月上旬と明示したのです。ほとんど望みはないけれども、なにしろ、まだ交渉をやるんだから、万に一つも・・・いわゆる、我が目的が貫徹することがあるかもしれんと。こういうところにみんなの安易な逃げ場所があったのだと私は思うのであります。

ナレーション・・・近衛首相はひそかに胸の内を穏健派の海軍次官に明かす。
どちらの軍からも対米戦に見込みがあるという話は聞かない。この際、私は人気取りで開戦決意をしようと思えば容易なことだが、これは陛下の御心に反することになる。対米譲歩は、国内を乱すというが、国内問題がどうあろうと国を滅ぼすことはない。
 だが、対外問題を誤れば一国の安危に関わるのだ。

ナレーション・・・本音では戦争を避けたいリーダーたち。しかし、多くの恨みを買うその決断を誰が言い出すのか。水面下でなすり合いが始まります。

10月初旬(内閣書記官長室)・陸軍省軍務局長・武藤章・・・海軍に自信がないなら、会議でハッキリそう言うよう海軍側に話してもらえないか。

内閣書記官長・宮田健治・・・そんなことを簡単に海軍が承知するわけがない。
陸軍省軍務局長・武藤章・・・日米開戦だけはなんとしても避けねばならない。

ナレーション・・・それは決して公になることもない、組織の駆け引きだった。

海軍省軍務局中佐・柴勝男・・・私は横で聞いておったんだが、「お前のところで戦争できんと言ってくれ。そうしたら陸軍はなんとか治めるから」と武藤さんは言われたんですけれど。いやあ、それは悪いと僕は感じたんですが。僕も書記官長のところへ行って、ずるいじゃないか。これは総理大臣たる近衛さんの責任だと。近衛さんが決めるべきだと。

ナレーション・・・損な役割を押し付けられそうになった海軍。今度はそれを別の組織に転嫁しようとした。国家経済を統制し、国力の総合判断を行なっていた企画院。

企画院総裁・鈴木貞一・・・2人ね。僕の家にやってきたんですね、夜。海軍大臣及川古志郎、それと外務大臣の豊田貞次郎。企画院総裁が御前会議の時に、戦争は絶対にできませんということを、御前会議の前に陛下に内奏してもらいたい。海軍は戦はできない、やりたくないと。それで僕は言ったんですよ、そんなこと言うことはできませんと。それよりも海軍大臣がハッキリしたことをおっしゃらなければ。

ナレーション・・・戦争か、譲歩か?
10月上旬の決定期限を迎える中、追いつめられた近衛首相は、窮余の策を考えていた。なんとルーズベルト大統領を担ぎ出して、太平洋上で日米トップ会談を開こうというのです。

内大臣・木戸幸一・・・非常にルーズベルトとしては意欲があるんだ。それで近衛と会おうと。
海軍省兵備局長・保科善四郎・・・それで、もう行く人まで決まってね。私が船の準備をしたんですから。

ナレーション・・・近衛の真の狙いは、一部にしか明かされていなかった。
 全会一致の全体会議を通さずに、直接、ルーズベルトに撤兵案を申し入れる。ひきかえに、石油供給の合意を取り付けよう。それを天皇に報告。天皇を後ろ盾に撤兵に抵抗する軍を抑えて、戦争回避へと持っていく計画だった。

企画院総裁・鈴木貞一・・・支那から兵隊を全部引き揚げると、向こうでピシャリと頭を下げてしまう。それで石油は返してくれる。それで妥結できると。
内大臣・木戸幸一・・・これは近衛君の止むを得ない時の常套手段みたいなもんだが、要するに、陛下のお力を借りたいということなんです。いよいよこれでルーズベルトが同意したら君の所へ電報を打つから陛下に奏上して、それを陸海軍大臣に示して、陛下の思し召しだということで押し切ろうではないかという話だった。

ナレーション・・・結局、この計画は、軍との対立を恐れる首相が自分で軍の撤兵を説得する代わりに天皇や大統領の権威に頼ろうとしたものだった。
しかし、アメリカのハル国務長官が近衛のリーダーシップに疑問を抱いていました。交渉に際しては軍も含め、日本の中で完全な同意を得た意見を示すようにと言い出します。

内大臣・木戸幸一・・・それはもうダメなんだ。それじゃどうしたって撤兵で陸軍の反対とゴツンゴツンとぶつかれば、こっちの気持ちを米側に伝えようがない。彼らにはわからん腹芸とかなんとかいうことになるんでしょう。そういうことがわからんから、とうとう日米会談はお流れになったわけだ。

ナレーション・・・10月上旬。決断の期限を迎えた。近衛首相は、陸海軍双方から譲歩を引き出そうと、大臣たちを極秘で私邸に呼び出した。

(開戦まで57日)10月12日。会談直前に海相の及川に戦争回避の意向を確認していた近衛は、海軍がそれを明言することを期待していた。だが・・・。

海軍大臣及川古志郎・・・戦争か交渉か、海軍はいずれにも従う。しかし、決定は首相のご裁決に一任します。

ナレーション・・・及川は本音を言わず、ゲタを近衛に預けた。

近衛首相・・・戦争と交渉。どちらかと言えば、私は交渉にかけてみたいと思う。
東条陸相・・・お待ちください。陸軍としてはあやふやな理由で統帥部(?)を説得することはできません。

ナレーション・・・海軍が真意を明らかにしない以上、陸軍は態度を変えるわけにはいかなかった。事態は振り出しだった。

外務大臣・豊田貞次郎・・・今考えると、我々の9月の決定は軽率だった。
東条陸相・・・今さらそんなことを言われても困る。我々には重大な責任がある。

ナレーション・・・先に戦争回避を言い出せないリーダーたち。議論は4時間にわたったが、誰も勇気ある決断を下せなかった。
会談4日後の10月16日のニュース。近衛首相総辞職。あとを継いだのが対米強硬論者とみられていた東条英機だった。強硬な陸軍勢力を取りまとめてきた東条の首相就任は、いよいよ開戦内閣誕生(10月18日)かと、国民や諸外国に受けとめられた。
 しかし、実体は違っていました。

内大臣・木戸幸一・・・東条の推薦は僕の発案だよ。ほかに人がいなかった。政治家というのはどこに行ったかわからなくなってるんだ。だから陛下の命令を良く出来る男と言えば、器はそんなに大きな人でもなく、政治家では無論ないけれど、東条以外には持っていきようがない。

ナレーション・・・内大臣の木戸から東条に天皇の意志が伝えられた。9月の国策にこだわらず、白紙に戻して検討してほしい。
 開戦を規定路線とせず、「あらゆる可能性を探ることを望む」と。異例の意志表明でした。東条は連絡会議を招集。それは自分たちで戦争を回避する最後のチャンスでした。

(開戦まで46日)10月23日。10日間にわたる国策の再検討が始まる。
 でも今さら再検討といっても、すでに議論してきたことでした。戦争は勝つ見込みがない。戦争を避けて譲歩すれば、組織も国家も打撃を受ける。状況は変わらないどころか、悪化していました。
 軍では、開戦となった場合の準備をスタート。400万トン近い民間の船舶を徴用。海軍の年間予算を超える額をかけて軍艦の装備を戦時用に改装する工事は進んでいた。膨大な人と金が動くほどに後戻りは難しくなっていきます。
 再検討には出口が見えなかった。企画院総裁・鈴木貞一が物資面からの総合判断を報告した。

企画院総裁・鈴木貞一・・・南方の石油施設を確保し、それが利用可能となった場合、物資面では、当初、2年は厳しいものの、3年目からはよくなるものと思われます。

ナレーション・・・数字の上では、戦争を避けても石油はじきに枯渇する。一方、南方を占領すれば、やがて、年450万トンの石油が入り、日本は需給を回復できるというのです。
 さらに、南方作戦を引き受ける海軍の軍令部が、緒戦の2年は確算ありとの見解を打ち出しました。いずれも従来からあった議論ですが、決断の重圧に喘いでいた会議のメンバーは助けられていきました。
 南方の石油を手に入れたとして、海上輸送力を維持できるかが開戦のネックだった。

??部長・細谷信三郎・・・最初の3ヵ年に、被害予測は年110~80万トンへ低下。一方、造船のほうは、40万トンから80万トンへ倍増するものと見込んでおります。

海相・嶋田繁太郎・・・若い者は楽観的過ぎないか。実際はその半分だろう。

ナレーション・・・輸送船舶量の見込みに、メンバーの関心が集中した。

海軍省軍務局中佐・柴勝男・・・さっきの検討会で、造船の数字が出たが本当に大丈夫かね。

軍令部作戦部長・神重徳・・・軍令部のしかるべき者が計算して出した数字だ。信用してもらっていい。

ナレーション・・・この時、開戦後の予想船舶量を算定したのは、軍令部中佐・土井美二でした。その想定では、南方の鉄資源と造船所の総動員による計画生産が軌道に乗れば、造船は順調に増え、そして損害を一定に抑えれば、輸送船は十分に維持できるということです。しかし、これは十分な時間も材料も与えられない中で出した数字で、軍令部の中堅層は、その事をキチンと連絡会議に伝えませんでした。

(遺族の)土井三郎さん・・・数日研究し、その結果を神(かみ)君に示した。この数字は多くの仮定の下に出されたものであるから、仮定の一つでも崩れると、この数字は狂ってくると説明し、強く念を押した。
 これらの数字が誰に渡され、どのように取り扱われたのかは、全然、知らない。

ナレーション・・・結局、連絡会議の検討では、この数字を深く問い直すことなく、開戦後の需給は可能とする楽観論の根拠に加えてしまいます。

企画院総裁・鈴木貞一・・・(海軍は)来るやつをだね、ひっぱたいてだ、向こうの継戦意志をくじいてだ、講和に入ると。その作戦が可能な限りはだね、できると。こういう、その計算になったんだ。

ナレーション・・・なし崩しに開戦止むなしの気分が会議を支配し始めました。しかし、海軍首脳は、本当の不安を話していませんでした。

軍令部作戦部長・福留繁(証言)・・・永野さんは「2年から頑張って、それ以上のことは分からん」ということは、要するに「その時は勝つ見込みは少ないですよ」という言葉の代わりに私はそういう言葉を言ったんだと。「負ける」といったようなことは言えませんから。

ナレーション・・・最初の2年はともかく、その先はどうするか、国家の命運がかかるこの重大な疑問からリーダーたちは目を背けてしまいます。

海軍省調査課長・高木惣吉・・・開戦止むを得ないというところに来ておってですよ、そして、暗い方にばかり結論づけるということは、これは事務当局者としては許されないことですよね。腹の中ではですよ、さあねえ、これはと思ってもですよ。こういう場合には、勝てるじゃないかということを、やっぱり探す。

軍令部作戦部長・福留繁(証言)・・・あまり先のことは分からんと。長期戦ですから国際情勢も変わってくるだろうと。きのう敵だったものが味方に来るかもしらんし、そういった国際情勢上、ありうることであると。

 (開戦まで33日)11月5日。検討の結果、戦争回避の選択は取り上げられませんでした。一方で、開戦の最終決断も下せませんでした。決断の期限はなおも12月1日午前0時に先送りされます。

 この間にも日米交渉の状況は悪化していきます。アメリカ政府内は、対日強硬派がいよいよ主導権を握り、ハル国務長官は日本との交渉に熱意を失っていました。

 11月下旬、アメリカが改めて提示条件をまとめます。いわゆる「ハル・ノート」。それは、即時、完全撤兵という、まさに日本が飲めない原則論に立ち返った、容赦のないものでした。

 (開戦まで12日)11月26日。早朝、ハワイ真珠湾に向け、日本の機動部隊が移動を開始。しかし、交渉次第で引き返すという留保も、ここでもなお、残していました。その直後、東京に「ハル・ノート」が到着。連絡会議は、ついに交渉打ち切りで一致します。何度も先送りする間に状況が悪化し、選択肢を全て失った末の「決意無き開戦」でした。

 開戦決定後の水交社、本館。ついに決断の重圧を解かれたリーダーたち。その表情には不安と同時に、安堵の色合いが浮かんでいた。

第四艦隊司令長官・井上成美・・・山本(五十六)さん、大変なことになりましたねと言うと、「うん」と言ってました。一体、海軍大臣は、こういうことになったことも、国家の大事だということをわかってんでしょうかねと、非常に私は不安ですがと言った。
 山本さん、こう言ったですよ。「あれはおめでたい男だからな」って。だから山本さんも「ああ、ここまで来たけども、ああ」ということは考えたんじゃないですか。

海軍省兵備局長・保科善四郎・・・総理大臣が2~3人殺されるつもりでやりゃあ、僕は(戦争回避は)できると思うんですが、それだけの人がいなかったんだよ。

陸軍省軍務課長・佐藤賢了(証言)・・・独裁的な日本の政治ではなかった。だから(戦争回避は)できなかったんです。戦争には入れた、入るようになったのであると思うんです。こうした日本人の弱さ、ことに国家を支配する首脳、東条さんはじめ、我々の自主独往の気力が足りなかったことが、この戦争に入った最大の理由だと思う。

ナレーション・・・見通しのない戦争に国家と人々の命運を委ね、リーダーたちは結局、何を守ろうとしたのか。真の勇気は、最後まで示されることはありませんでした。

 このようにして日本は戦争に突入していきました。4回の番組で浮かび上がってきたことは、戦略を持たなかった外交、あるいは目的を見失っていた陸軍の組織、さらには大衆に迎合したり、あるいは軍部の宣伝をしたりするようになったメディア、あるいは目の前に沢山の処理しなければならない案件を先送りしたリーダーたち。

 日本を取り巻く世界の見方が大きく変わる中で、これまで考えていた事が一つ一つ、通用しなくなっていくという現実の中で、多くの日本人はもがきました。
 大事なことは、多くの皆さん方が、ほとんど全てと言っていいほどの皆さん方が、戦争は愚かなもんだという事に気づいていながら、しかし、戦争の道を取ってしまったという事実の重さであります。

 やあ、あれは一時期の狂気のせいだというだけで片付けてしまうわけにはいきません。日本の内外におびただしい犠牲者が出ました。その多くの犠牲になった方々のことを思うときに、私たちは、今、なぜあの時、私たちは、あの戦争への道を選んだのかということを考えることを止めてはいかんのだという風に思います。

 <ナレーションの中の語り:松平定知、声の出演:小出力也>

●(4)平成24年11月9日、週刊ポスト「命の子、第24回」

 <笹川一族の神話と真実>(高山文彦)

 笹川良一が巣鴨プリズンの三年間で体験した、生涯忘れられない不名誉な出来事――それが、満州事変の秘密口座から陸軍の機密費を受け取ったという疑惑である。田中隆吉と、児玉誉士夫という「陸軍と右翼組織の緊密な関係」を想像させる奇怪な関係が良一を起訴に追い込もうとしたが、彼らの企みはあえなく失敗に終わった。

 田中隆吉がなぜ、こうまでして自分の仲間を戦争犯罪人としてつぎつぎに告発していったのかというと、じつは良一の場合と理由がよく似ている。天皇の戦争責任を回避させようとしていたらしい。『敗因を衝く』の一部を東京新聞に載せた江口航記者は、田中ともよく議論をしたが、中公文庫版の巻末に添えられた田中隆吉の子息、田中稔の「東京裁判と父田中隆吉」に引かれた江口航の手記には、つぎのようにしるされている。

 <日本は、俘虜を虐待した者を含めて、一切の戦争犯罪人に厳重な処罰を加える――という条項を含むポツダム宣言を受け入れたのだし、現実に軍事裁判の一方的な力の前では抗弁も徒労に帰すこと明白である。(中略)したがってこの際できるだけ少数の人に重い罪を背負ってもらって、その範囲をしぼるように務めるほかない。またそれが多くの容疑者を救う唯一の途でもあるし、誰も罪をかぶらないと、お上に責任が及ぶことにもなりかねない。そんな結論に達した>

 お上――天皇を守るために、少数の者に重い罪を背負ってもらおうとしていたのである。
 田中はその後、白金の野村邸――ここも米軍に接収されていた――に移され、そこではじめて国際検察局主席検事のジョセフ・キーナンと対面した。キーナンはまだどこにも公表していないトップシークレットについて、田中にこのように伝えた。

 「実は私は日本に赴任する直前に、トルーマン大統領からきわめて重要な司令をうけて来ている。そのことはマッカーサー司令官も了解ずみで、東京裁判でのいちばん大きな任務なのだ。それは、今度の裁判を通して日本の天皇に戦争の責任がなかったという結論をうち出すことである。また2、3の国から法廷に於ける天皇の証言を求めるような要求があっても、天皇が出廷されることのないようにこれを阻止すること、これが私のつとめなのだ。ゼネラル田中、君は天皇を助けるために、私にぜひ協力してくれるだろうね」
 田中はキーナンの口から意外な話を聞かされて驚いた。「彼は即座に全面的な協力を誓って、キーナンと握手をかわした」と、江口は書いている。

 米国側の「天皇免訴」の方針を日本側で初めて聞いたのは、田中隆吉であったかもしれない。田中は江口と確認しあったばかりの、「いたずらに事実をごまかして、みんなが責任を回避すれば、お上に責任を及ぼすおそれがあるという結論」と、キーナンから伝えられたトップシークレットとの符合に顔を紅潮させていた。天皇をお守りするという大義名分を米国側からも得た彼は、勇気と自信をもって軍部の悪事を洗いざらい暴きだすのである。

 東京裁判を日本人の再教育と見せしめに利用しようとしていた連合国側の意図は、田中証言によって十分に満たされる結果をもたらした。田中が法廷で暴露したのは盧溝橋事件の謀略であり、南京での虐殺行為であり、マレー半島の華僑虐殺などで、これらは占領軍が自分たちのプロパガンダとして統制活用している日本の新聞やラジオで連日大きく報道され、はじめて知らされた日本人は仰天し、蒼ざめた。これほどに卑怯で血なまぐさい謀略を日本軍がしていたのかというショックは、人びとの気持ちを萎えさせるとともに、日本的美風を踏みにじり戦勝国側に立って旧軍の悪のかぎりを暴きたてる元陸軍大幹部の狂気のような態度に恥をおぼえ、情けなさとみっともなさから日本人であることの誇りを喪失させていった。これが敗北を噛みしめて生きる日本人の悲しく荒涼とした心象風景であった。

 さて、これは当時の日本人にはほとんど知られていないことだが、田中隆吉は天皇を救ったという話がある。
 昭和21年大晦日の法廷で、東条英機が、「木戸内大臣に天皇のご意思に背くようなおこないがあったのか」との木戸幸一の弁護人ローガンの質問にたいし、「いやしくも日本人たるもの、ひとりといえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや高官においておや」と、大見得を切った。これがいけなかった。天皇の戦争責任に直接結びつく発言ではないかと、ウェップ裁判長はことの重大性を指摘し、アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きたてたのである。

 びっくりしているキーナンに、ソ連のゴルンスキー検事が正式に天皇追起訴を提言してキーナンに迫った。山中湖畔の自宅に帰っていた田中は「ただちに上京せよ」とのキーナンの電報をうけとるや、宿舎にあてがわれていた代々木の今井ハウスに駆けつけてみると、そのまま車に乗せられて三井ハウスのキーナンの宿舎に向かわされた。

 同行した子息によると、キーナンは東条証言について説明したあと、だれか東条に会って、天皇に開戦の責任はないと証言するよう説得できる人物はいないか、と言った。自著や証言でさんざん東条をやり玉に挙げてきた田中には、とてもその役割はつとまらない。ふたりは深夜まで話しあった結果、A級で起訴されている畑俊六元陸軍大将の弁護人神崎正義に、東条説得の役を頼むことにした。

 翌日は正月だったが、裁判はおこなわれていた。田中は市ヶ谷の法廷に行き、控室で神崎弁護士と会ってそのことを伝えると、すぐそばに東条の姿を見つけて、神崎に会わせてくれるよう頼んでみたが、横から東条の弁護人清瀬一郎が立ちはだかって、「色をなして田中を止め、頑として寄せつけなかった」(江口航記者の手記)。

 直接東条を説得することはできなかたが、田中は法廷を出た足で松平康昌式部長官を訪ね、A級で起訴されている木戸幸一を通じて東条を説得してくれないか、と頼んだ。松平は木戸の秘書官をしていたのだ。

 こうして東条は、1月6日午後の法廷で、キーナンの質問にこのようにこたえた。
 「2、3日まえにこの法廷で日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、太平洋戦争に関しては、統帥権その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」

 これによって天皇は、追起訴の危機を免れることができたのだ。
 日付がないのではっきりしないが、良一は東条証言からまもなく、つぎのような手紙を娑婆の同志たちに書いている。

 <粛啓 旧年中の御厚情を深謝し、併て本年の御厚配を乞う。歳暮の祝儀として色々御恵贈ありたる由、喜びの通報ありたるに付、是亦感謝す。東条氏の訊問も大成功裡に修了。氏は余の意見を充分に採用してくれたり。依て余の入獄目的の大半は達せらる。喜びに堪えず。故に在獄千年する共、恨無し>
 獄中三度目の正月を送った良一は、キーナンと田中の懸命の連携も知らず、いつにも増して意気軒昂だった。

 <児玉誉士夫の「昭和天皇退位論」>

 ここで天皇の戦争責任問題をめぐって、児玉誉士夫の考えを紹介しておきたい。
 私は数年まえ、偶然はいった大阪梅田の古本屋で、ジャーナリスト大森実の『戦後秘史』全10巻を見つけて買い求めた。大森実は毎日新聞記者時代、ワシントン支局長、ニューヨーク支局長をつとめ、退社後は膨大な著作群を残し、一昨年、88歳で亡くなった。

 私が手にしたのは、昭和50年8月初版。第1巻『崩壊の歯車』の巻末に、児玉誉士夫への65ページにおよぶインタビューが載っていた。大森実はリード文で「驚いたのは、児玉誉士夫の天皇観であった」と書いているが、一読して私も驚いてしまった。いや、わが目を疑った。この人は右翼の大物だから、こんな途方も無いことを公言しても命をねらわれずにすんだのかと思ったくらい、児玉誉士夫の言いかたには一点の曇りもなく、明快に昭和天皇の戦争責任を「ある」と言っているのである。

 東京裁判では、内大臣木戸幸一の『日記』と証言も田中隆吉のそれと同程度に戦犯容疑者に重大な打撃を与えた。木戸は天皇のいちばん近くにいて、重要な決定を下すさいの様子などについてだれよりも知っているのに、すべてを軍人たちのせいにし、ほんとうなら起訴などされなくてすむ者たちを絞首台に送った。

 児玉はその木戸のことをもち出して、「もしいま、(自分が)木戸さんの立場なら、やはりいいますね。歴史のために、『陛下がこの点は賛成した、この点は反対だった』とありのままに、いまの私ならいいます」と、天皇を守るためとはいえ、闇雲に軍人の悪事をあげつらうのではなく、後世のために事実を語るべきだったと述べたあとで――、

児玉・・・ダメです。だから、あのころ私はこう考えた。これは天皇がしってるとなると、天皇が裁判になる。だから軍人はみな、東条さんさえそれを避けて全部自分の責任だといった。もし、東条が天皇の責任は責任だとはっきりいえたとすれば・・・私は天皇は責任をとるべきだと初めからいってますから。

大森・・・皇太子への交替の問題ですね。
児玉・・・そうです。皇位を皇太子に譲って天皇はやはり「この戦争は自分の責任だ」といって・・・私は恨みましたよ、本当に、終戦後、ずっと陛下を。
大森・・・ふーん。

児玉・・・二・二六事件のとおりじゃないか。あのときも陛下はね・・・明治陛下は幸徳秋水事件のとき、自分を殺そうとした計画だと・・・これも捏造です。それを明治陛下が3分の1にしろ助けている。二・二六のとき統制派の連中に騙されて、天皇のバンザイを叫びながら死んでいく人間を銃殺しなければならないというのはどういうことか。規律はもちろん守らなければいかん。しかし、刑一等を減じて無期にすべきだ。それをいまの陛下はできなかった。陛下としての価値がない、と。陛下としての良心に欠けている。天皇学において情がない。そう思って私は長いことハラが立っていました。いまもそのとおりです。(中略)
 でもねえ、いま、よしんば天皇はこの戦争において責任がないなんていったって、これはとおらない話です。やはり責任の所在は明らかにして、「私はやった、私は辞める、皇太子に譲る」――そのあと「皇太子をたててくれる、くれないは国民の意志にまかせる」といって陛下は下がればいいんです。下がるべきだった。

 いまさらながらではあるが、児玉は「天皇退位論」を解き、終戦時、昭和天皇は戦争の責任をとって退位し、皇太子に皇位を譲るのが筋だった、と言っているのである。幸徳秋水事件(大逆事件)のさいの明治天皇の情けのかけかたにくらべたら、昭和天皇は二・二六事件のときも、統制派幹部に命じられるままに蜂起に加わった若者たちまで銃殺刑に処し、恩赦を与えてやらなかった。敗戦のときもみずからの責任を認め、退位をしていれば、処刑されずにすんだ戦犯容疑者もいたはずだ、と言っているのだ。

 さらに、「靖国神社を国家で護持するなんてばかなことがあるか。これは民族護持だよ。(中略)国家が見なければダメだというような信仰ならご無用だ」と、自民党が国会に提出している靖国神社を国家管理にしようとする法律案に反対をとなえ、「ほんとうなら(天皇は)靖国神社の宮司になってくれればいちばん良かったんだ」とさえ言う。

 おそらく彼は、モラルの問題を語ろうとしているのだろう。最高のモラルの手本であるべきはずの天皇が国民にしめすべき道を踏み誤った、と言いたいのだ。
 とはいえ、昭和8年生まれの皇太子明仁は、終戦時まだ11歳。児玉にはなにか妙案があったのだろうか。

 ここでひとつ言い添えておかなければならないのは、戦後45年たって昭和天皇の「独白録」が公表(「文藝春秋」『昭和天皇独白録』平成2年12月号)されたということだ。これは戦犯容疑者の起訴を目前にひかえた昭和21年3月から4月にかけて、天皇の5人の側近が、張作霖爆死事件から終戦にいたるまでの経緯を4日間計5回にわたって天皇からじきじきに聞き、まとめたものである。

 その目的について、いまでは、天皇には戦争責任がないことを弁明するためだったということが、聞き取りにあたった側近のひとり、稲田周一内記者部長の備忘録から明らかになっている。当時マッカーサーの副官だった人物の文書からも「独白録」を短縮した英語版が発見されている(以上、東野真『昭和天皇2つの「独白録」』NHK出版)ので、この「独白録」は米国側と天皇側のあいだで戦争責任回避のためにとりかわされた「陳述書」と看做すべきだろう。

 起訴がおこなわれたのは、4月29日。天皇の誕生日であった。その日、天皇の胸中に、起訴された28名の声は聞こえただろうか。それとも、偶然にしてはできすぎている起訴日の設定に、米国側の不気味な報復の意味を読みとっていただろうか。
 これで決着がついたと思われていたのに、東条証言によってふたたび戦争責任問題を取り沙汰されたので、キーナンはあわてたのである。

 <最後の見納めと思うと激しく心臓が痛む>

 昭和23年11月4日からはじまった判決文の朗読は、11月12日までつづいてようやく終わった。英文で1212ページと、たいへん長大なものだったからである。
 最終日の午後4時から、病気で入院している三被告以外の22人に順番に刑が宣告された。全部で28名だったはずの被告が3人減っているのは、ふたりが獄中で病死し、法廷で東条の頭をたたいたり奇声をあげたりして常軌を逸した行動をとった大川周明が精神異常と判断され、裁判から除外されたからだ。

 「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」

 オーストラリア出身のウェップ裁判長は、自国に死刑制度がないものだから、非常に緊張して、東条英機以下7人の被告にこのように告げた。ほかの16人が終身刑、残りのふたりが有期刑(東郷茂徳・禁固20年、重光葵・同7年)をうけた。

 7人の死刑囚は、巣鴨に帰って来ると、それまでに雑居房ではなく、別々の独房に収監された。良一の房からも遠く隔てられてしまって、運動の時間も分けられたので、顔をあわせることはなくなったが、しかし、ときどき彼らが運動に出ている姿を2階の房から見ることがあった。獄舎に沿った内庭みたいなところを、彼らは自分の左手とMPの右手をつなぎあわせて、いかにも不自由そうに歩いていた。そのなかに東条の姿を見つけるときがあった、と良一は『巣鴨の表情』で述べている。

 <そんな時、彼よりも寧ろ僕の方がはっと身体が硬直して俄に悲しみが込みあげて来た、めったに泣かぬ僕ではあるが、議会では犬と猿になって喧嘩のやり通し、巣鴨に来てからは誰よりも仲良くなった不思議な因縁の彼と僕であるだけに、間もなく死んで行く彼であり、きょうの運動の姿が最後の見納めとなるかもしれないと思うと激しく心臓が痛む心地がして、頭脳のどこかを氷の様な冷い痛い感情がさっと流れて不覚にも瞼ににじみ出る涙を止め得なかった>

 刑場はコンクリートの壁に囲まれていた。判決からひと月と10日あまりののち12月23日、刑は執行された。不思議なもので、児玉誉士夫によると、その日の昼過ぎにはだれからともなく「今晩らしいぞ」という話が出て、夕飯が終わってもいつまでも寝ずに、じっと耳を澄ませていたという。

 刑の執行は、23日午後0時1分過ぎから35分にかけておこなわれた。刑場の入口では、7人に葡萄酒が振る舞われた。絞首台は4つあり、4人と3人のふた組みに分けられた。

 「天皇陛下、万歳」という声が、うっすらと聞こえてきたと児玉は言っている。でも、この刑をうけるなかでたったひとりの文官である広田弘毅だけは、「その必要はないだろう」と万歳をしなかった。児玉は大森実に、こう話している。

 「広田弘毅という人物は無罪です。これを助けられる者は天皇ひとりしかなかったんです。(中略)『この戦争の責任は自分にある。いま、自分の身代わりにこれだけの物が殺されていくのに、しのびない。よろしく私に天皇を辞めさせてくれ。さもなくばもっと公平な裁判をやってくれ』と。やれば、全部――2,3人はあぶないけど――無期でしょうね」

 広田の妻の静子は、夫の覚悟の邪魔にならぬよう、裁判がはじまるまえに自死している。
 田中隆吉は裁判の終わりごろからノイローゼの傾向を深め、昭和24年9月の朝、自宅で割腹自殺をはかった。血の海に横たわっているところを妻に発見され、一命をとりとめたが、昭和47年6月、78歳でこの世を去るまで鬱病にとり憑かれていた。「既往を顧みれば我も亦確かに有力なる戦犯の一人なり、殊に北支、満州において然り。免れて晏如(あんじょ)たること能わず」と自殺未遂のさいに遺書を書いており、人知れず苦しんでいたことがわかる。

 良一が児玉らとともに巣鴨プリズンを出たのは、A級戦犯処刑のあくる日だった。
 言い添えておくと、処刑の日は皇太子明仁の誕生日である。
 (文中敬称略、つづく)

 たかやま・ふみひこ 作家。1958年宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。1999年、『火花 北条民雄の生涯』で第31回大宅壮―ノンフィクション賞と第22回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に『水平記』(新潮文庫)や『エレクトラ』(文春文庫)など。最新刊は『どん底 部落差別自作自演事件』(小社刊)

<文責:藤森弘司>

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