2013年8月15日 第97回「トピックス」「忘れてはいけないこと」

●(1)私たちの今があるのは、言うまでもなく、私たちの前に生きてくださった人たちの存在があるからであり、また、先人の皆様の苦労のお陰で、平和で豊かな生活が体験できています。

 そういうことは誰でも「理屈(アイデアリズム)」では百も千も、いや万もわかっていても、「リアル」にどれだけ「分かっているか」と問われれば、分かっていないと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 特に、8月15日の終戦記念日(敗戦記念日)を迎える度に、このことを痛切に感じずにはいられません。

 恐らく、過去の貴重な体験が「リアル」「実感」という意味で、忘れ去られる頃に、歴史的転換という悪い方向に向かってしまうのではないでしょうか。
 「天災は忘れたころにやってくる」という教訓は、単なる「天災」だけの問題ではなく、私たち人間の生き方をも含んでいるように思えてなりません。

 戦争時の大変な苦労や犠牲になられた先人への感謝の気持ちが現実的(リアル)に忘れ去られつつある今、国の借金が返済不可能なほどに膨らんでしまいました。おそらく、消費税をいくら上げようが、返済は不可能でしょう?
 消費税で返済が可能なほどの増税をすれば、景気は悪化するでしょうから、景気も上げていき、増税もして、1千兆円の負債を返済していくという方法は、もはや存在しないでしょう?
 (1千兆円の借金というが、約600兆円の財産があるらしいですが、多分、それをシッカリ調整することは、日本という国では、難しいことでしょう)

 ただ、不可能な時が5年後になるのか、10年後になるのか、はたまた15年後になるのか、の違いだけのように思えてなりません。

 万一、ハイパーインフレや国家破産の状態になるとしたならば、それは先人たちの苦労が忘れ去られ、「現世利益」を追求しすぎた結果ではないかと思うのは、私(藤森)の「妄想」でしょうか。

 下記(4)の特攻隊の皆さん方の「辞世」の歌を読むと、万感胸に迫る思いがします。「特攻機」や人間魚雷の「回天」に乗り込むときの(当時の)若者たちの心境はいかばかりであったのでしょうか。

●(2)今、NHKの大河ドラマ「八重の桜」で会津の悲劇が放映されていますが、まさに、敗戦日本の戦後のように、会津人は「会津魂」を発揮しました。

 会津鶴ヶ城攻防戦、降伏開城後は本州最北端の下北半島に流され、「斗南藩」として極貧の暮らしを強いられた。旧会津藩全体が極貧に喘ぐ中、最後の、そして最も若い家老として辛酸を舐めたが耐え忍び、やがて西南戦争では政府軍として、宿敵、西郷軍に致命的な打撃を与えた山川浩。

 山川浩の妹・山川捨松は、11歳の時、函館の家に養女に出され、その後、津田塾大学創始者の津田梅子らと共に、日本最初の女子留学生に。ほとんどネイティブの英語の他に、フランス語、ドイツ語をマスター。
 紆余曲折の後、薩摩人の大山巌(後の公爵)と結婚。文明国をアピールするための「鹿鳴館」では、出席する日本人は、語学はもちろん、テーブル・マナーなどの全てが付け焼き刃だったが、英語とドイツ語ができた大山巌と共に、捨松は本格的なマナーと語学で、列強の外国人たちに一目も二目も置かれる大活躍。
 また、女子教育のパイオニア・津田梅子を物心両面で支え、チャリティーバザーの創始者でもあった。(8月1日~8日連載、「戊辰戦争の人々」「大山捨松」井沢元彦著、夕刊フジ)

 捨松の兄で、浩の弟・山川健次郎もアメリカ留学。以下は、「山川健次郎伝・白虎隊士から帝大総長へ」の「はじめに」(星亮一著、平凡社)からの転載です。

 明治、大正から昭和の初期にわたり「星座の人」と呼ばれた教育界の大御所がいる。社会を導く人という意味である。その人の名前は山川健次郎という。生地は会津若松で、嘉永7年(1854年)の生まれ。幼少の頃はあの有名な白虎隊の隊士だった。17歳のときアメリカ留学の機会に恵まれ、名門エール大学に学び、長じて東京帝国大学に奉職し、薩長藩閥政府のなかで二度も総長を務めた。これは異例中の異例といってよい。

 この間、京都帝国大学、九州帝国大学の総長も務めた。東北帝国大学の創立にも深く関係した。東京物理学校、現在の東京理科大学の創立にも尽力した。
 退官したあと武蔵高校(現在の武蔵大学)、明治専門学校(現在の九州工業大学)の校長や総裁も務めた。全国を歩いて教育談義も行なった。

 日本人初の東京大学の物理学科の主任教授であり、湯川秀樹、朝永振一郎ら日本の物理学者は皆、健次郎の流れをくみ、有名な物理学者田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)、長岡半太郎は直弟子だった。

 風貌は巨眼炯々として会津武士の気迫がただよい、見るからに偉丈夫だった。
 終生清廉潔白を旨とし、東京小石川の住まいは田舎臭く破れ別荘のようであった。芸妓が出る宴会には出席せず、講演会に招かれても報酬は一切受け取らなかった。
相当の堅物だったが部下や学生には優しかった。

 会津若松の戦争で敗れた会津の人々は本州最北端の下北半島に流され、極貧の暮らしを強いられた。それを思うと贅沢は出来なかった。健次郎の自宅にはいつも会津の青年が何人か居候していた。あるとき書生が勢いよく雨戸を閉めた。健次郎は手を挟まれ怪我をしたが、とがめることはなかった。

 教育現場でも同じだった。健次郎はいつも学生や生徒のことを考えていた。大正5年(1916年)、東京帝大の学生4人が山梨県北部の笛吹川上流の渓谷で遭難死する事故があった。この知らせが入るや健次郎はただちに学生監を現地に向かわせ、学生の家にも職員を送り、遺体が荼毘にふされて遺骨が中央線の飯田町駅に到着したときは自ら駅に出迎え、涙を拭きながら遺族に弔意を述べた。

 若者の死がいかに悲しいか、健次郎はあの会津戦争で骨身にしみていた。
 白虎隊士から東京帝国大学総長に上りつめ、明治、大正、昭和初期の教育界の大御所といわれた山川健次郎の素顔はこんなものだった。

 人々はそんな健次郎を「フロックコートを着た乃木将軍」といった。
 一つのことを成し遂げると、それを弟子たちに譲った。弟子の方がいつの間にか有名になった。それでいいのだと健次郎は考えた。

 いまの日本に求められるのは、山川健次郎のような人物である。

●(3)ウイキペディアより抜粋<伊東正義(いとう・まさよし)>

 生年月日・1913年12月15日、出生地・福島県会津若松市、没年月日・1994年5月20日(満80歳没)、出身校・東京帝国大学(現東京大学)、前職・国家公務員(農林省)、祖父の伊東健輔は会津藩士。
 衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任。

 <略>

 ポスト大平をめぐっては伊東の名前も総裁候補に挙がったが、同じ大平の親友である田中角栄が「大平派のナンバーツーである鈴木善幸が継ぐべきだ」と総裁就任に反対した。次の鈴木善幸内閣で伊東は外務大臣に任命される。しかし、1981年5月の日米首脳会談における共同声明の解釈を巡り、鈴木は「日米同盟は軍事同盟ではない」と発言。宮澤喜一内閣官房長官は「新たな軍事同盟の意味合いはない、という趣旨の発言」などと釈明したものの、伊東は「(日米同盟に)軍事同盟の意味合いが含まれているのは当然だ」と反発し、辞表を提出する。伊東の後任には、園田直厚生大臣が横滑りした。

 1986年、3選を果たした中曽根康弘総裁の下で自民党政調会長に就任し、政界の表舞台に復帰。続く竹下登総裁の下で自民党総務会長に就任し、引き続き党三役の一角を占める。

 1989年、リクルート事件により竹下首相は退陣を余儀なくされ、ポスト竹下に党三役の一人であり、金権腐敗に縁のない伊東の名前も挙がったが、頑なに拒否した。その後、後藤田正晴に乞われ自民党政治改革本部長に就任したが、自民党内の状況変化(東京佐川急便事件の影響を受けた竹下派分裂)や体調の悪化により1993年の第40回衆議院議員総選挙に出馬せず、政界を引退した。

 1994年5月20日、自民党の政権復帰を見ることなく肺炎のため東京都内の自宅で死去。享年80。

 <エピソード[編集]>

 1980年、大平正芳首相の緊急入院に際し内閣総理大臣臨時代理を務める。周囲からいくら勧められても首相執務室には入らずに、内閣官房長官執務室で仕事を続け、閣議でも決して首相の席には座らなかった。

 大平の死の遠因となったハプニング解散を引き起こすきっかけを作った福田赳夫・三木武夫を強く嫌っていた。

 1989年、辞任した竹下登の後継総裁に推されるも、「本の表紙を変えても、中身を変えなければ駄目だ」と総裁就任を頑なに固辞した。「ポスト竹下」を固辞したことで「政治家にとって首相の地位はその経綸を実行しうる最大のポストなのに、首相になりたくないという政治家とは一体なんなのか」と批判されたこともあるが、首相を固辞した理由には持病の糖尿病の悪化もあったという。また、竹下らが本当に自分に「経綸を実行」させてくれるかどうか信用できない、という面もあったとされる。

 自民党内の実力者でありながら金権政治には一切無縁のクリーンさで知られ、そのために「ポスト竹下」の候補の1人に数えられた。伊東の自宅はバブルの頃でさえ雨漏りするほど生活は質素であった(この件に関して首相を固辞した当時「AERA」で特集が組まれた)。
 日本エジプト友好議員連盟初代会長、日本パレスチナ議員連盟会長をつとめるなどアラブ世界との関わりも深かった。
 <以上、ウイキペディアより>

●(4)平成25年8月3日、夕刊フジ「時空を超える偉人たちの一声」(田中章義)

 <辞世のうた>

「今日在りて
   明日の命は知れぬ身に
     静かに虫の鳴く声聞こゆる」

 今年も8月がやって来た。躍動感のある入道雲の下では、蝉がフォルテッシモで鳴き響(とよ)んでいる。1944年(昭和19年)から1945年は、多くの10代・20代の若者たちが辞世のうたを詠み残した時代だった。

 住野英信(すみの・ひでのぶ)は増援神風特攻隊第26金剛隊中尉を務めた。掲出歌は1945年1月9日、フィリピン島リンガエン湾で戦死した作者の一首だ。まだ20代だったという。航空機による本格的な特戦術がおこなわれたのは、敗戦色が強くなったこのフィリピン戦あたりからだと言われている。

 1944年10月にマニラに着任した司令官は機数の足りなさを補うために、体当たりの戦法を用いた。これがいわゆる神風特攻隊と呼ばれたものだ。敷島隊、大和隊などが編成され、フィリピン作戦における航空特攻は、1945年1月までに333機が出て、405人もの隊員を失っている。

 1月10日、このフィリピン島で戦死した学徒出陣兵の久津間(くつま)寛は、

 「君往くか俺も往くぞと肩とりて学びの友としばし声なく」

 という辞世のうたを残している。

 フィリピンだけではない。グアム島アブラ港にて、21歳の若さで戦死した海軍金剛隊の中尉石川誠三は、

 「母上よ消しゴム買ふよ2銭給へと貧をしのぎしあの日懐かし」

 という辞世のうたを詠んだ。人間魚雷と称された「回天」に乗ることを求められたのだった。

 「必殺の魚雷に乗りて体当りああ心地良き戦法にあらずや」

 と詠んだのは、27歳で亡くなった佐藤章だ。彼もまた人間魚雷で亡くなった。終戦までに104人もの若者たちが人間魚雷によって戦死したと言われている。

 10代・20代の辞世のうたはやはり哀しい。若者たちの辞世のうたがこんなにも詠み残される時代は、もう2度と訪れないでほしいと願う。

 「何やらん熱き流れがほとばしり涙おとしぬ壮行の日に」

 と詠んだのは、20歳で亡くなった梅原彰。

 「うつせみのかろき命と思へども父母君の悩み悲しも」

 と詠んだのは、18歳で亡くなった坂本宣道(のぶみち)だった。

 「徴兵は農耕馬にも及びつつ還らざることいづれたがはず」

 と詠んだのは歌人の今野(こんの)寿美だ。

 声のかぎりに鳴く蝉に想いを馳せるたび、亡くなった人たちの冥福をあらためて、祈りたい。

 「国の為往く身なりとは知りながら故郷にて祈る父母ぞ恋しき」

 と詠んだのは広田幸宣(ゆきのぶ)だった。同じ国に生きた先人の21年間の人生を決して無駄にはしたくない。著名人や歴史上の偉人だけでなく、こうした若い人々の辞世の歌とも、8月はしっかりと向き合いたい。

 <戦争に散った若き命の哀しき思い>

 <たなか・あきよし・・・・・歌人・作家。静岡生まれ。大学1年生の時に第36回角川短歌賞受賞。「地球版・奥の細道」づくりをめざす中、国連WAFUNIF親善大使も務めた。著書多数。TVコメンテーター、ラジオパーソナリティも務める>

<文責:藤森弘司>

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