2012年6月7日 第72回「トピックス」
東電女性社員殺害・マイナリ元被告釈放!

●(1)毎日新聞 6月7日(木)16時6分配信(インターネットより)

 <東電女性社員殺害・マイナリ元被告を釈放へ・検察が指揮>

 マイナリ受刑者の再審決定を受けて記者会見する山岸憲司・日弁連会長(写真の中央・割愛)=東京都千代田区で2012年6月7日午後0時17分、丸山博撮影

 97年の東京電力女性社員殺害事件の再審請求審で7日、東京高裁が再審開始と刑の執行停止を決定したネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ元被告(45)について、検察当局は、収容先の横浜刑務所に対し釈放を指揮した。元被告は同日中にも同刑務所を出て東京入管横浜支局に移送される見通し。

 <東電女性社員殺害・マイナリ受刑者の再審決定 東京高裁>

マイナリ元被告の弁護団によると、検察側は執行停止決定に基づく釈放手続きの停止を申し立てたが、東京高裁の別の裁判長が認めなかったという。これを受けて、釈放指揮の決断を迫られたとみられる。

●(2)<2010年6月15日 第26回「トピックス」「検察審査会についての一考察(8)」>の中の下記の部分を再録します。

<<<(5)さて皆さん、ちょっと考えてみてください。

 私たち一般の「善良」かつ「気の弱い人間」が拘置されて、外部との関係を遮断された上に、毎日、心身が疲労困憊になるほどの強烈な取り調べを受け、かつ、検察にストーリーがあり、その線に沿ってほぼ強制的に供述させられるかのような態度で迫られたとき、私たちはどれほど、自分の主張を通しきることが可能でしょうか!!!

 しかも、孤立無援状況の中で、何年にもわたって「お前が犯人ではないか」と攻めまくられたならば、「もうどうにでもなれ!」「犯人でも何でもいいから楽になりたい!」という心境になるはずです。
 当初は、自分が犯人ではないという強い思いがありますが、拘束されて何日も何日も、何週間も何週間も責められ(攻められ)、そして、外部との関係が遮断された「孤立無援」状態の中では、正常な神経を保てるわけがありません。

 ですから、「深層心理」の専門家としての私(藤森)の立場から考えてみますと、「死刑囚」が長年、「無実」を訴えている場合、ほとんどの場合、その、いわゆる「死刑囚は無実」であると思っています。本当に無実でなければ、根性が枯れてしまいます。根性が枯れていないということそのものが、「無実」を証明しているというのが、私の考えです。

 もし、それに反論したい方は、ご自分が外部から遮断され、長年拘束されて、しかも、鬼のような検察に攻(責)めまくられること」を想像してみてください。とても耐えられるものではありません。

 このホームページの趣旨に沿って説明するならば、私たちは、両親の(残念ながら)どうしようもない「身勝手な対応」に、屈辱的な敗北を喫して、自我を抹殺し、両親の意向に沿って育ってきています。これが「交流分析」の「脚本」の意味(多少、極端ですが)、考え方です。
 そういう弱さが、私たちにはあります。それと同等の、いや、両親は、なんだかんだと言っても、私たちを学校にも行かせてくれ、食べさせてもくれ、いろいろ楽しいこともやらせてくれています。当然、(質は良くないが)愛情がいっぱいあります。

 しかし、検察は、それよりも遥かに強烈な強制を、一方的に強いるだけの存在、ほとんど「虐待」に近い存在です。いいことは何もしてもらっていません。とても耐えられるわけがありません。そういう中で、無実の罪を着せられる屈辱感は、私の想像を遥かに超えます。それがエネルギーになって、絶望的な環境の中でも「無実」を訴え続けることができるのだと思われます(「救う会」などの存在も大きいでしょう)。

 厚労省の局長を辞めてしまった村木厚子さんの人生は、これから一体どうなるのでしょうか。何の罪もない一人の人間の人生をメチャクチャにした「検察」に良心があるのでしょうか!!!
 百歩譲って、検察が一生懸命に捜査をして、結果として「冤罪」が発生してしまったのならば、人間である以上、止むを得ない部分はあるでしょう。しかし、証拠を隠したり、検察のストーリーがあって、敢えてそれに沿わせた供述を強制(?)させたりするような「非人間的・虐待的」な手法で、一人の人間を「死刑」にしたり、何年もの「懲役刑」にするようなことがどうしてできるのでしょうか!!!

 自分が出世してぬくぬくとしている間に、一人の人間が無実の罪で「懲役刑」に服していることを考えてみて、どんな神経があれば平気でいられるのでしょうか!!!
 そして、そんなズサンな「調書」を基に、同罪を犯しかねない「検察審査会」のメンバーや「裁判員」たちは、どんな「正義感」を持っていると、「検察の結論」に異論を唱えたり、「懲役何年」だのと決断できるのでしょうか!!!

 以前にも書きましたが、例えば「小沢前幹事長」の事件もそうです。「恣意的(?)」捜査・・・大勢の専門家が、1年もかけ、強制的に全ての資料を調べたにもかかわらず立証できませんでした。どんなに疑わしかったかどうかはともかく、法律で立証できませんでした。それを、抽選で選ばれた「ど素人の11人」が、膨大な資料を、わずか8回の審議で、何故、検察の結論をおかしいと言えるのでしょうか???
 一体全体、どういう神経があれば、専門家集団が捜査に捜査を重ねた判断を「間違いだ!!」と言えるのでしょうか。何を根拠に言えるのだろうか???

 私が尊敬する曽野綾子先生は、「裁判員」にはなりたくないと、エッセイで書いていました。私(藤森)も同様、「裁判員」も「検察審査会の委員」にも絶対(!)なりたくありません。素人の「感性」を検察官や裁判官に伝えて、その感性を参考にしてもらう制度ならば賛成ですが、知識も経験も無い「ど素人」がどういう神経があれば、1人の人間を処罰できるのでしょうか!!!>>>

●(3)私(藤森)は昨年、「1997年に起きた「東電OL殺害事件」で無期懲役が確定しているネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(44)も冤罪だと、私は推測しています」と予言しましたが、その通りになりました。

<2011年10月7日、第56回「トピックス」「驚愕!の陸山会裁判」>の下記の部分を再録します。

<<<(5)平成23年9月29日、日刊ゲンダイ「小沢秘書判決・また分かった検察と裁判、グル・一体の仕組み

 この国では裁判で1審無罪となることはメッタになく、死刑囚が何十年も経ってから冤罪だったという事例が文明の今でも続いている極めて異常な仮面先進国の野蛮な正体。

 「疑わしきは罰せず」という原則は放棄され「天の声」とかいう奇妙な状況証拠で有罪にされたら知恵を絞って生きている一般庶民は浮かばれない。

 <検察に狙われたらお終いなのか>

 「非常に危険な裁判だと思いました。たとえば“天の声”の問題です。東京地裁の裁判長は、小沢事務所が“天の声”を利用して献金を集めていたとか、岩手県や秋田県では公共工事の談合において小沢事務所が決定的な影響力を持っていたと判断しましたが、そんなことはありません。私もこの問題は徹底的に取材しました。東北の談合は小沢事務所が仕切っていたといえば構図が分かりやすいし、そういう固定観念があるのは事実ですが、真相は違い、結論は小沢事務所に出る幕はなかったというものです。それをなぜ裁判官は簡単に決めつけたのか。

 1億円の裏献金問題も同じです。明確な金銭授受の証拠は最後まで出ていない。だから地検特捜部も詰め切れなかった。それなのに裁判官は、渡した側が渡したと証言しているから間違いないんだ、被告たちの供述は信用できないと一蹴です。ハッキリしないこと、明白でないことが多いのなら、“疑わしきは罰せず”が裁判の基本なのに、疑わしきことを有罪と決めつけてしまう。こんな判決が恒常的になったら、人権が守られず、裁判制度そのものがおかしくなってしまいますよ」

 政治評論家の森田実氏はこう語った。その通りだろう。「疑わしきは全部有罪」という東京地裁(登石郁朗裁判長)の今回の判決は、どう考えても暗黒裁判だ。判決を聞いて検察は「満点」の評価らしいが、東京地検特捜部が決め手を得られずに立件を断念した「1億円裏献金」を、裁判所が勝手に踏み込んでデシャバってクロと断定してしまう。これじゃあ、検察そのものが不要。ムチャクチャすぎるというものだ。

 <藤森注・・・・・私が何度も強調したいことですが、「1億円裏献金」は絶対にあり得ないことです。私の「体験や人生経験」から考えても絶対にあり得ないことですが、水谷元会長や東北の大手ゼネコン幹部も、政治評論家の森田実氏も、公平に見ることができる人や実情を知ることができる人は皆、おかしいと言っています。
 小沢氏を批判的にみているのは、体制側や判決文だけで偉そうに論評している日和見的な連中だけです。>

 <「憲法違反」の声も出るデシャバリ判決>

 元外交官で評論家の天木直人氏はこう言った。
 「裁判官が勝手にストーリーをつくってしまうという点であるまじき裁判ですよ。これまでの裁判は、検察調書を99%根拠にして有罪判決にしていたが、今回は満足な調書もないのに、状況証拠だけで有罪にしてしまった。裁判の慣例がいきなり変わったのです。それなら国会でまず制度改正をすべきなのに、裁判官個人が勝手にやってしまう。こんなことがまかり通っていいのか。

 それに裁判官は1億円裏献金を事実と認めた。これは大変なことです。それならばなぜ贈収賄事件に切り替えてやらないのか。巨悪事件を追及しないのか。なぜ被告たちに裁判官は執行猶予をつけたのか。おかしなことだらけなのです。反小沢、親小沢といったことを超えて、国民的に疑問視しなければならない大問題判決ですよ」

 検察が有罪を立証できない事件を、裁判所が代わってアレコレ類推解釈して検察調査の欠陥まで補強して有罪にしてしまう。「憲法31条、39条違反」の指摘も出ているが、それが今回の小沢秘書裁判の本質だ。空恐ろしい話である。小沢問題に関係なく、これが当たり前になったら、知恵を絞ってどうにか生きている庶民はやってられない社会になってしまう。検察に狙われたが最後、オシマイということだ。

 <検察官と裁判官は身内。改革者を抹殺してきた戦前と同じ体質を維持>

 なぜこんなデタラメが起きたのか。要は、検察と裁判所が一体のグルであることが改めて証明されたのだ。今回は、検察の権威失墜を仲間の裁判所が救ってやったということなのである。

 厚生労働省の局長だった村木厚子さんのデッチ上げ冤罪事件で大阪地検特捜部は壊滅状態。おまけに東京の小沢捜査においても、石川知祐被告などに対する強引な特捜部捜査が明るみに出て、「政治謀略」の批判の中、検察は瀬戸際だった。そこで東京地裁は、いったん検察調書をことごとく却下するという作戦に出て、いかにも公正中立に審理する形をとりながら、小沢事務所を厳しく断罪した。そうやって検察捜査にお墨付きを与え、威信を回復してやったのである。これで東京地検特捜部は危機を脱し、安泰だ。

 官僚機構をよく知る前出の天木直人氏は「ここで逆の判決を出したら、検察機構の信用は失墜した。裁判官も官僚。検察を守ることがプラスか、小沢につくことがプラスか、当然計算して保身の道を選んだ」と言ったが、そういうことなのだ。

 これまでの刑事裁判を振り返れば、どんな無実の人であってもデタラメ捜査で逮捕・起訴されれば、裁判所は検察捜査を丸のみ追認し、有罪にしてきた。それで死刑を宣告されながら、何十年後に冤罪になった事件が免田事件、財田川事件など数多くあるし、最近も足利事件、布川事件の冤罪が証明された。検察と裁判官の持ちつ持たれつ、ズブズブの関係が優先され、とても文明国と思えない人権無視のファッショ司法が続いてきたのだが、その野蛮な正体は根幹の部分では今になっても変わらないのである。

 <藤森注・・・・・恐らく、1997年に起きた「東電OL殺害事件」で無期懲役が確定しているネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(44)も冤罪だと、私は推測しています>>>>

<文責:藤森弘司>

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