2012年6月30日 第74回「トピックス」
●(1)東京新聞を読もう!!!(一部100円)
私がマスコミ界の「勝海舟」と呼んでいる長谷川幸洋氏(東京新聞・中日新聞論説副主幹)は、記者クラブに加盟しているにも関わらず、ほとんど全く顔を出していないそうです。 ですから、長谷川氏の書くものには信頼性が高く、また、論説副主幹ですので東京新聞も凄い新聞社だと思っています。それはつまり、東京新聞は、記者クラブでタレ流される・・・・・官僚側に洗脳された記事を書かず、独自の調査に基づいた情報を掲載しているはず・・・・・と私(藤森)は推測しています。 東京新聞はどのくらい素晴しい新聞か! ●(2)平成24年6月7日、日刊ゲンダイ「東京新聞はエラい!」 <バカバカしい増税推進改造“無視”の快挙> 「内閣改造が翌日の新聞で1面トップに載らないというのは、政治取材40年の経験でも記憶にありません。びっくりしました」 朝日、日経、読売、毎日と全国紙が揃って、「自民党と談合せよ」という論陣を張る中、最近の東京新聞の“独自路線”は光っている。きのうは社説も内閣改造を「消費税と取引する愚」とケチョンケチョンにけなし、<再改造が消費増税を進めるための環境整備というのは納得できない><政治主導や地域主権、生活第一などの理念をも反故にするのなら民主党に存在意義はない>と、自民党と同化していく民主党に警鐘を鳴らしていた。 「権力の腐敗や暴走を批判するのが新聞の本来あるべき姿です。ところがいまや風前のともしび。東京新聞は、『新聞はかくあるべき』という見識を見せています」(野上忠興氏=前出) 戦う姿勢に拍手だ。 ●(3)長谷川氏が書くものはどれほど素晴しいか、下記の(5)をご覧ください。 「指揮権発動」はそれほどタブーな問題であろうか。大新聞やテレビはどれほど小川敏夫前法相の真意を確認しているのか、ここが大問題です。 さらには、戦後の大事件、造船疑獄のときの「指揮権発動」の驚くべき真実。下記の(6)と(7)をご覧ください。 われわれは、日々、いかに汚染された情報に洗脳されているか。小川敏夫前法相の真意と、造船疑獄のときの「指揮権発動」の驚くべき真実をご覧ください。 |
●(4)「指揮権発動」の問題に行く前に、小沢一郎氏の奥様が後援会会員に送ったとされる手紙のコピーが出回っていて大問題になっています(前回の「トピックス」でも触れました)が、それについて少しコメントをしたいと思います。
どうやらこれは陰謀らしい様相を呈してきました。 例えば「内容」ですが、「放射能が恐くて逃げた」という問題ですが、「放射能が恐くて逃げ」ながら「千葉に釣りに行った」というのはあまりに不自然過ぎます。「放射能が恐くて逃げ」るほどの人間が能天気に釣りに行くわけがないし、東京よりも原発に近い千葉に行くのもアホらしいほどのコジツケです。 多分、実際に釣りに出かけたという事実を、信憑性を出すためにコジツケたのではないかと推測しますが、私は、むしろ、「放射能が恐くて逃げ」るどころか、釣りをするほど「悠然」としていたのであって、これこそが「陰謀」を裏付ける証拠であると推測しています。嘘というのは、どこかに矛盾するところ・・・・・辻褄が合わないところができてしまうものです。 また、これほど大規模かつ一斉に郵送できるのは一個人には困難で、かなり組織力がある立場の人間がやったのではないかと言われていますが、私(藤森)は、これほど陰湿な嫌がらせをやれるのは、民主党のS氏やその周辺ではないかと密かに邪推しています。 かなり有力な評論家や信頼できる専門家までもがこの手紙を事実として批判していますが、かなり胡散臭さが漂います。過去、小沢氏がいかなる政治を行ない、いかなる胡散臭い政治家でったにせよ、「是々非々」であるべきです。あまりに一方的な批判が多い。メディアで書く以上、もう少し情報を確認すべきです。 もしかしたら・・・・・本当に万が一の話ですが、奥様は、私の専門の分野からの判断が必要な状況にあるのかもしれませんが、いい加減な解説をすべきではありませんので、そこは立ち入りません。 |
●(5)平成24年6月29日、週刊ポスト「ニュースのことばは嘘をつく」(長谷川幸洋・東京新聞・中日新聞論説副主幹)
<法相の「指揮権発動」を批判したポチ記者の勘違い> 検事による虚偽の捜査報告書を受けて、小川敏夫前法相が退任の記者会見で「検事総長に対する指揮権発動を考えた」とあきらかにした。すると、多くの新聞が「検察に対する政治の介入ではないか」といった調子で批判的に論評した。 たとえば、朝日新聞は「指揮権の発動を頭から否定するものではない」としながらも、「人々が検察に向ける不信感に乗じる形で、政治があれこれと口を出し、それを当たり前と受け止める空気が醸し出されることを、私たちは恐れる」と書いた(6月6日社説) 犯罪の疑いがある政治家を検察が起訴しようとするのを法相が止めたというなら不当だ。だが、今回は政治の不当介入に当たるようなケースだったのか。まったく違うと思う。 私は小川本人にインタビューした(『現代ビジネス』6月7日付コラム)。それによれば、法務・検察当局は検事を人事で処分して、問題の幕引きを図ろうとした。だが、小川は納得しなかった。それでは身内に甘い捜査と批判を浴びる。検察立て直しのためにも指揮権を発動して、白黒をはっきりさせようとしたのである。 甘い処分でお茶を濁そうとした事務方をしっかり指揮監督するために、大臣が法律で認められた権限を発動しようとした。それを「政治の不当介入」というのは本末転倒だ。大臣は当然の職責を果たそうとしたにすぎず、批判される理由はない。 にもかかわらず、新聞が小川を批判するのはどういうわけか。背景には、もともと新聞は記者クラブを通じて事務当局と馴れ合う関係にあるという事情が一つ。これは否定できない。この点はこれまでも指摘されてきた。 それ以上に、私は記者たちの頭に「独立性神話」とも呼ぶべき思考パターンが染み付いている問題が大きいと思う。この神話は検察に限らない。実は、新聞と日銀、原子力ムラの関係にも共通して観察できる現象である。 たとえば、多くの記者たちは「日銀は政治から独立しているべきだ」と無条件に信じこんでいる。政治家が金融政策について発言すると、すぐ「政治の介入」と批判する。原子力でも専門家や業界関係者は閉鎖的なコミュニティーを作って、外からの批判を極端に嫌ってきた。世間は半ば、ムラの存在を黙認してきた。 国民に選ばれた政治家が検察や日銀、原子力問題について自由に発言するのが民主主義の原理から言って当たり前の話である。それを「独立性を侵す」と言って単純に排除するのは、思考停止状態以外の何ものでもない。 検察や日銀、原子力ムラは自らの権限と権益を守るために外部から手を触れさせないようにしてきた。それをポチ記者たちは「神聖で汚れがあってはならない世界」として受け入れてきた。現実は検察も原子力ムラも内部から腐っていたのだ。接待不祥事があり、総裁が村上ファンド疑惑に関わった日銀も例外ではない。 原子力規制庁の新設をめぐっても危機時における政治の指揮権が問題になった。業界や霞が関からの独立はもちろん不可欠だが、規制庁を政治の手が届かない神聖不可侵の存在にしてはいけない。もしも原子力ムラに乗っ取られてしまったら、最悪である。 国民が国会を通じて間接的ではあっても、最終的に規制庁をコントロールできる仕組みを工夫すべきだ。 <藤森注・・・・・権力は腐敗する。絶対的権力は、絶対的に腐敗する> |
●(6)平成24年6月15日、週刊ポスト「狂った牙⑥」(ジャーナリスト・青木 理)
<最強権力――特捜検察の盛衰> 1954年、吉田茂政権を揺るがした造船疑獄。そこで時の法相・犬養健が下した「指揮権発動」は戦後司法界最大の事件とされてきた。国家が当局捜査に介入できることを、政治権力の前では検察の「正義」も貫けないことを、国民の前に晒したからである。だが、「それは偽りの物語ではないか」と疑問に感じた筆者は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした「昭和史の闇」に踏み込んだ。 <略> これに対して吉田政権の法相だった犬養が4月21日、次のようなタイプ打ちの書面で指揮権を発動し、逮捕にストップをかけたのである。 <捜査から降ろしてくれ> 政治と検察――その関係は極めて微妙であり、法相の指揮権とは、微妙なバランスを壊さずに両者の隙間を埋める装置として生み出された。 従って検察庁法は14条で次のように定めている。 ところが造船疑獄で初の指揮権が発動されたことで、現在に至るまで誤った認識が流布してしまった。政界中枢の腐敗摘発に向けて果敢に突き進んだ検察捜査に対し、政治権力が不当な指揮権を行使して頓挫させた――そういった“偽りの物語”である。 だが、真相はまったく異なる。自由党幹事長・佐藤栄作にかけられた嫌疑は二つ。まず、利子補給法の成立などに尽力した見返りとして、船主協会から受けた1000万円の献金が賄賂にあたる、というものである。ただ、このカネは佐藤個人ではなく党に入っていた。河合信太郎らは「第三者収賄」にあたると主張したものの、これが適用されたケースは今に至るもほとんどない。前出の伊藤栄樹も<この事実では、党に対する政治献金みたいなもので、佐藤氏が私腹をこやしたわけでもなく、迫力がない>と疑問を呈している。 もう一つの容疑は、佐藤自身が200万円を飯野海運から受け取っていたというものである。こちらの方が遥かにスジはいいとはいえ、佐藤は自由党の幹事長で、直接の職務権限を行使する公職にはない。起訴に踏み切れば公判は相当厳しいものとなったろう。 <当時、私は千葉地検の検事正で、「指揮権発動などけしからん!」と遠吠えをしていただけだった。しかし、その後東京高検の次席になって「造船疑獄」に関する記録を目にすることができた。それを読んだ印象では、私は起訴しないでよかったと思った。調査が非常に粗雑で、抜け穴だらけだったからである。形だけの調書はできているけれども、表面だけをさらっと撫でたような調書で、これでは公判維持は難しかったであろう。だからあの段階で止めて大恥をかかなくてよかった。起訴していたら恐らく無罪になっていただろうから、結果論からいえば、あの指揮権発動は良かったことになる>(『文藝春秋』94年3月号、原文ママ、一部略) 80年代に東京地検特捜部長を務め、東京高検検事長なども歴任した藤永幸治もこう指摘している。 勢いの赴くまま暴走したと評される河井を難ずる証言は、当時を知る検察OBを訪ね歩いてみると、幾つも得ることができた。まずは福岡高検検事長などを務めたOBの話である。 別の検察OBによれば、こんなこともあったという。収賄罪で起訴された運輸省課長をめぐる出来事である。 取り調べを担当した検事は課長の話を聞き、関連捜査でその裏付けも取れたことから、起訴を逡巡した。しかし、河井は断固起訴を譲らなかった。当時を知る検察OBの話である。 このOBによれば、晩年の山室は、こんな風に漏らしていたという。 <政治フィクサーと馬場の「謎の交流」> 造船疑獄の捜査が幕を上げて一か月も経たぬ54年の1月30日、当時は東京・白金台にあった首相・吉田の公邸――。目黒駅に近いため「目黒公邸」とも呼ばれた壮麗な館に、夕刻から奇妙な面々が顔を揃えていた。主である吉田の脇には副総理の緒方竹虎。これと向かい合ったのは検事総長の佐藤藤佐と東京地検検事正の馬場だった。 言うまでもないが、中央政界を見据えた疑獄捜査が進む中、検察組織のトップや捜査を統括する検事正が首相らと密かに会談するなど、通常なら考えられない暴挙である。しかもこれは馬場からの申し出によるものであり、会談をセットしたのは高瀬青山なる政治フィクサー紛いの男だった。 福岡生まれの高瀬は、実に謎多き人物である。生年は1900年か01年とみられ、戦前・戦中は朝鮮半島や満州などを転々とした末、戦後は東京・丸の内ビル内に事務所を構え、政界や財界、そして司法界に独自の人脈網を築き上げていたらしい。80年代末に世を去っているが、佐藤栄作日記などにも頻繁にその名が登場する。 関係者を取材してみると、高瀬の主な後ろ盾となったのは、東急電鉄を創業して一代で東急王国を築き上げた故・五島慶太だったようである。やはり世を去っている高瀬の子息は生前、あるメディア記者の取材に対し、こんなふうに語っている。 「親父はもともと朝鮮総督府の役人で、その後は満州や中国に渡りましてね。戦中はシンガポールの軍政に関わり、南方進出を図った日本の財閥幹部と関係ができたようです。岸信介さんなんかとは満州で知り合ったんでしょう、丸ビル(の事務所)には政財界の要人がたくさん出入りしていました。馬場さんのことも覚えていますよ。何度か家に来たと思います」 高瀬の親族の証言はこうである。 そんな男と馬場がなぜ知り合ったのかは判然としない。ただ、馬場は高瀬を仲介役とし、吉田や緒方と接触した。 <馬場検事正よりの申出にて佐藤検事総長、吉田総理会見の希望あり><事件思はざる発展のため予め判断を求めたしとのことの如し><午後衆院本会議後、六時半目黒官邸訪問、検事総長同席、大体の見通しを聞く>(いずれも原文ママ、以下同) 政権中枢に迫る捜査の最中、その「見通し」を政権トップに伝えた馬場。だが、こればかりではない。馬場は引き続き緒方と接触を図った。 <Bより連絡、漸く問題解決に近く> |
●(7)平成24年6月22日、週刊ポスト「狂った牙⑦」(ジャーナリスト・青木 理)
<最強権力――特捜検察の盛衰> 折しも、退任会見で小川敏夫・前法相はこう述べた。「指揮権発動を決意したが首相の了承を得られなかった」。小沢裁判で虚偽の捜査報告書を作成した問題の徹底調査を検事総長に命じようとしたと訴えたかったのだろう。これにメディアは激しく反応した。 〈政治と検察が緊張感をもって、適切な均衡を保たなければ、民主主義を支える土台はむしばまれていく〉(朝日新聞社説6日付)。誠にもっともな意見ではあるが、果たして政治と検察は適切な均衡を保ってきたか。 指揮権が唯一発動された59年前の造船疑獄。検察捜査が政治権力に屈したという世の俗説は“偽りの神話”だったと本連載先週号は記した。以後、政治と検察の関係は歪み、検察の暴走を許したのではなかったか。昭和史に遺された謎の核心をいま解き明かす。 造船疑獄の検察捜査をめぐって吉田茂政権の法相・犬養健が指揮権を発動してから約6年後。張本人であるはずの犬養健自身が月刊誌『文藝春秋』に“爆弾手記”を寄稿し、政界と検察に再び波紋を広げた。与党・自由党の幹事長だった佐藤栄作逮捕にストップをかけた指揮権発動の背後には、検察庁内の有力者による策謀があったと“暴露”する内容だったからである。 <当時検察庁に対して大きい勢力を持っていた某政治家が、法務大臣たる私や検事総長たる佐藤藤佐氏を差し置いて庁内の或る有力者を吉田首相の身内の一人に近づかせ、ひそかに首相の周囲に指揮権発動の可能性なるものを入れ知恵する一方、検察庁内の或る上級幹部にも働きかけてその秘密会議の席上、「断乎佐藤栄作を起訴すべし」という、全く正反対の強硬論を吐かせたのである。しかし世の中はよくしたもので、信賞必罰というものがある。検察庁内では今に至るまでこの計画に加担した官吏は永久に最高幹部にはさせぬという不文律が次から次へと引き継がれているのではあるまいか>(『文藝春秋』60年5月号より、抜粋) やや支離滅裂なところもあるが、文中の「計画に加担した官吏」が誰なのか、検察の内情を知る者なら容易に推測がついた。造船疑獄の捜査時は最高検次長検事だった岸本義広である。 こうした事情も<最高幹部にはさせぬという不文律が引き継がれている>と書く犬養手記を裏付ける傍証となったのだが、岸本が政界有力人士と太いパイプを持ち、極めて政治的な動きをする面があるのは公知の事実だった。とはいえ、指揮権発動を背後で謀略したなどと言われては、大物検察OBとして立つ瀬がない。巨悪討伐に向けて果敢に進めた検察捜査を政治権力が屈服させたという“偽りの神話”が流布されていたのだから、黙過すれば猛批判を浴びるのは必至である。岸本は直ちに犬養を名誉毀損で訴えたものの、この偽りもまた、まことしやかな“定説”となってしまった。 たとえば作家の松本清張は63年に発表した「検察官僚論」の中で、指揮権発動に関する真相は「未だに謎」としつつ、こう記している。 松本清張は一方で、「穿った話」として別の説にも言及している。吉田政権の副総理だった緒方竹虎と東京地検検事正だった馬場義続が背後で蠢き、指揮権を発動させるよう岸本を通じて吉田に働きかけさせたのではないか、というのである。その理由として松本はこう書く。 <緒方は吉田政権の次には自分だと自他共に許していた男である。はじめは吉田の失脚を考え、造船汚職摘発の進行をむしろ進めるような立場にあった。(略)馬場も次期政権の本命は緒方に間違いなしと思い、緒方に接近していた。しかるに、捜査は佐藤・池田という大物に迫ったため、このままでは自民党(ママ)壊滅必至となった。(略)緒方としては次期総裁になるのに肝心の党が壊滅しては元も子も無くなる……> だから緒方が岸本を使い、吉田に指揮権発動を入れ知恵させた。たしかに随分と穿った見方ではあるが、実をいえばこちらの方がはるかに真相に近い。 <とにかく保守合同をしなければ> 鷲見一雄という男がいる。現在も「司法ジャーナリスト」を名乗ってはいるが、もう70代も半ばとなり、その活動は細々としたものとなってしまっている。ただ、戦後間もない50年代に司法関係の業界誌記者となってから法務・検察内部に深く食い込み、以後の一時期は政界と法務・検察を繋ぐフィクサー的な役割を果たした。岸本が東京高検検事長を最後に退官して政界に転じた際は、岸本の秘書となり、その政治活動を支えたこともある。 もちろん現在の政界や法務・検察幹部と直接のパイプを有しているわけではない。しかし、戦後検察の重要部分、特に馬場と岸本が暗闘を繰り広げた時期における検察組織の内実を詳しく知る生き証人の一人である。その鷲見のもとを訪ねると、 「業界誌っていっても、法曹界の“社内報”みたいなもので、検察幹部の部屋には出入り自由でした。馬場さんにもお世話になったし、その対極にいる岸本さんにもお世話になりました。秘書までやったわけですからね。馬場さんにしても、岸本さんにしても、考え方は違ったけれど、右だとか左だとか、基本的にはそんなに大差があるわけじゃなかった。どちらが清廉潔白で、どちらが政治に近いなんていう巷間の見立ては、事実と異なると思います」 ――馬場氏とはどんな人でしたか。 ――それを巧みに切り回したのが馬場氏だったと。 ――造船疑獄の捜査における指揮権発動の真相はなんだったんでしょうか。 3人とは緒方と馬場、そして高瀬なる男のことである。戦前・戦中は朝鮮半島、満州、シンガポールなどを転々とし、戦後は東京・丸の内に事務所を構えて緒方らと深く交遊しつつ政治フィクサー紛いの動きをした高瀬。そんな男を仲介役に立てて馬場が緒方と接触し、造船疑獄捜査の最中に連絡を取り続けていたことは前回の本連載で詳述した。鷲見は認めようとしなかったが、緒方や馬場が重要密議の中身を軽々しく明かすはずはない。とすれば、「3人のうちの1人」は高瀬とみて間違いないだろう。続けて鷲見の話。 ――緒方氏と馬場氏が指揮権発動で合意した理由は何だったのですか。 ――次長検事だった岸本氏は、そうした動きは知らなかった? <「岸本を葬れ」と吹き込んだ> もう一人、造船疑獄と指揮権発動の“定説”に埋め込まれた嘘を追い続けた男がいる。現在は主に子ども向け書籍を発行する出版社・理論社で取締役となっている渡邉文幸である。 言うまでもないことだが、唯一無二の指揮権発動から既に半世紀以上の時が過ぎ、検察内で決裁ライン上にいた人物はほとんどが他界してしまっている。井本も95年に世を去っており、貴重な証言を残したのはその直前のことだった。「もうそろそろ本当のことを話してもいいだろう」。そう言って井本は、自分自身を納得させるように口を開いたという。渡邉によるインタビューの重要部分を紹介しよう。 ――犬養法相は、指揮権発動を入れ知恵したのは岸本次長との説をとったようだ。 ――指揮権発動は突然だったのか。 ――では、一体誰が指揮権発動を決めたのか。 このうち検事総長だった佐藤はもともと判事出身で、検察内の力学や実情に疎かった。戦前・戦中検察の中枢エリートだった思想検事の多くが公職追放され、その穴埋めとして総長に就いた飾り物の如き存在に過ぎなかったからである。実際に佐藤は指揮権発動について、岸本の死後の71年になって編まれた『岸本義広追想録』に次のような一文を寄せている。 <この不慮の指揮権発動は、何人の智慧によるものであったかについて、あとから屡々週刊誌などの問題になって、いろいろな噂が流布されたことであった。不幸にして岸本君の名前も出されたことがあった。ところが最近私は、偶然の機会に、本当の智慧者は同君ではなく、他にあったということを耳にして唖然として驚き、かつ憤慨したことであった>(原文ママ、一部略) とすれば、答えは一つしかない。井本らに取材を積み重ねた渡邉も、私と同じ感触を得ているようだった。 <「巨悪の政治」と「正義の検察」> 馬場が吉田政権に指揮権を発動させるという絵図を描くに至った背後には、幾つかの思惑と打算が並存していたはずである。まずは何より、河井が主任検事として暴走気味に突き進んだ捜査がいかにも無理筋だった、という動かし難い事実である。 加えて、鷲見が語った通り、当時の日本政治が保守合同=55年体制の構築に向け、極めて重要な節目を迎えつつあったという政治的バランス意識が横たわっていただろう。事実、指揮権発動などによって世論の批判は高まり、吉田政権は間もなく総辞職に追い込まれたものの、日本政治は翌55年の保守合同へと進路を取っていった。 渡邉が言う。 つまり検察の権威を守るためのマキャベリズムです。実際、東京地検には激励の手紙が殺到し、国民世論の追い風は検察に吹いた。検察にとってみれば、指揮権発動で暴走気味の捜査を終結させ、検察の威信を高めることにも成功したわけです。検察は政治に屈したのではなく、むしろ勝ったといえるんじゃないでしょうか」 それにしても、馬場という検察官僚の徹底した策士ぶりには舌を巻く。馬場によって成し遂げられた策謀は、まるで闇の底で瞬く黒い光のような密行性に貫かれ、しかし同時に凄まじい輝きを今も放ち続けている。馬場がどこまで将来を見通していたかは不明というしかないが、これによって特捜検察の“威信”は守られたどころか一挙に高まり、「巨悪の政治」と果敢に対峙する「正義の検察」という、あまりに単純すぎる“偽りの神話”のみが大手を振るって独り歩きを始めた。 一方で政治が検察をチェックするために編み出された指揮権という装置は完全なるタブーと化した。造船疑獄がその契機となったのは間違いなく、その後のロッキード事件などの余波もあり、新たな法相が任命されると、就任会見では記者団が指揮権発動への考えを最初に質すことが慣例となり、発動を是認するかの如き発言をすれば直ちに「法相失格」の烙印を押されかねないムードが拡散した。ひいては検察という巨大権力に対する民主的統制に関する議論までが忌避され、現在にも通ずる歪んだ「最強権力」としての検察へと道を開くこととなったのである。 それでも馬場は、指揮権発動によって返り血も浴びた。検事総長の佐藤、主任検事の河井らとともに国会に証人喚問されて野党議員の追及も受けたし、造船疑獄の捜査と指揮権発動によって政治と検察に大きな混乱を引き起こしてしまったのは間違いのない事実だったからである。 東京地検検事正の座を5年近くも占めた馬場は翌55年1月、法務省刑事部長に異動し、馬場の懐刀である河井も間もなく法務研修所教官に追いやられた。一方、ライバルの岸本義広は次長検事から法務事務次官へと栄転した。事務次官は、法務・検察内の人事を縦覧する枢要ポストである。岸本は特捜部幹部に自身の息のかかった連中を配し、戦後検察の主流に躍り出た馬場派は、一時的に検察内の傍流の地位に甘んじることとなった。 しかし、指揮権発動というウルトラCを構想して検察の“権威”を神話まで昇華させるほどの策士=馬場が、黙って引き下がるはずもない。馬場は引き続き保守政権の中枢と巧みな綱引きを演じつつ、ライバル岸本の蹴落としに執念を燃やしていく。指揮権発動を密かに策謀したのは岸本だ――そんなガセ情報を犬養健に吹き込んだのも、馬場―河井ラインという筋だったはずである。 *あおき・おさむ |
<文責:藤森弘司>
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