2012年6月30日 第74回「トピックス」
小沢裁判についての一考察(5)

●(1)東京新聞を読もう!!!(一部100円)

 私がマスコミ界の「勝海舟」と呼んでいる長谷川幸洋氏(東京新聞・中日新聞論説副主幹)は、記者クラブに加盟しているにも関わらず、ほとんど全く顔を出していないそうです。

 ですから、長谷川氏の書くものには信頼性が高く、また、論説副主幹ですので東京新聞も凄い新聞社だと思っています。それはつまり、東京新聞は、記者クラブでタレ流される・・・・・官僚側に洗脳された記事を書かず、独自の調査に基づいた情報を掲載しているはず・・・・・と私(藤森)は推測しています。

 東京新聞はどのくらい素晴しい新聞か!

●(2)平成24年6月7日、日刊ゲンダイ「東京新聞はエラい!

 <バカバカしい増税推進改造“無視”の快挙>

 「内閣改造が翌日の新聞で1面トップに載らないというのは、政治取材40年の経験でも記憶にありません。びっくりしました」
 こう言うのは、政治評論家の野上忠興氏。きのう(5日)の東京新聞は、新内閣のメンメンの顔写真を2面に追いやり、1面トップには原子力安全委の隠蔽体質を追及する記事が掲載されていた。自民党にスリ寄るためのバカバカしい改造など重大ニュースじゃない、ということか。

 朝日、日経、読売、毎日と全国紙が揃って、「自民党と談合せよ」という論陣を張る中、最近の東京新聞の“独自路線”は光っている。きのうは社説も内閣改造を「消費税と取引する愚」とケチョンケチョンにけなし、<再改造が消費増税を進めるための環境整備というのは納得できない><政治主導や地域主権、生活第一などの理念をも反故にするのなら民主党に存在意義はない>と、自民党と同化していく民主党に警鐘を鳴らしていた。

 「権力の腐敗や暴走を批判するのが新聞の本来あるべき姿です。ところがいまや風前のともしび。東京新聞は、『新聞はかくあるべき』という見識を見せています」(野上忠興氏=前出)

 戦う姿勢に拍手だ。

●(3)長谷川氏が書くものはどれほど素晴しいか、下記の(5)をご覧ください。

 「指揮権発動」はそれほどタブーな問題であろうか。大新聞やテレビはどれほど小川敏夫前法相の真意を確認しているのか、ここが大問題です。

 さらには、戦後の大事件、造船疑獄のときの「指揮権発動」の驚くべき真実。下記の(6)と(7)をご覧ください。
 造船疑獄とスケールは違いますが、小沢裁判と造船疑獄は、東京地検特捜部の暴走という意味ではそっくりの展開です。万一、小川敏夫前法相が「指揮権発動」をしたならば、そっくりの展開になっていました。
 すでに造船疑獄のときから、東京地検特捜部の暴走は大問題になっていて、メディアがそれを許していたのですね。それも、今とそっくりです。「絶対的権力は絶対的に腐敗する」ことが改めて立証されました。

 われわれは、日々、いかに汚染された情報に洗脳されているか。小川敏夫前法相の真意と、造船疑獄のときの「指揮権発動」の驚くべき真実をご覧ください。

●(4)「指揮権発動」の問題に行く前に、小沢一郎氏の奥様が後援会会員に送ったとされる手紙のコピーが出回っていて大問題になっています(前回の「トピックス」でも触れました)が、それについて少しコメントをしたいと思います。

 どうやらこれは陰謀らしい様相を呈してきました。
 全てが事実無根だとは言いませんが、筆跡の問題や内容に矛盾する箇所があること、さらには「小沢」の「沢」の字が「澤」になっていることなど・・・・・陰謀の臭いがプンプンです。

 例えば「内容」ですが、「放射能が恐くて逃げた」という問題ですが、「放射能が恐くて逃げ」ながら「千葉に釣りに行った」というのはあまりに不自然過ぎます。「放射能が恐くて逃げ」るほどの人間が能天気に釣りに行くわけがないし、東京よりも原発に近い千葉に行くのもアホらしいほどのコジツケです。

 多分、実際に釣りに出かけたという事実を、信憑性を出すためにコジツケたのではないかと推測しますが、私は、むしろ、「放射能が恐くて逃げ」るどころか、釣りをするほど「悠然」としていたのであって、これこそが「陰謀」を裏付ける証拠であると推測しています。嘘というのは、どこかに矛盾するところ・・・・・辻褄が合わないところができてしまうものです。

 また、これほど大規模かつ一斉に郵送できるのは一個人には困難で、かなり組織力がある立場の人間がやったのではないかと言われていますが、私(藤森)は、これほど陰湿な嫌がらせをやれるのは、民主党のS氏やその周辺ではないかと密かに邪推しています。

 かなり有力な評論家や信頼できる専門家までもがこの手紙を事実として批判していますが、かなり胡散臭さが漂います。過去、小沢氏がいかなる政治を行ない、いかなる胡散臭い政治家でったにせよ、「是々非々」であるべきです。あまりに一方的な批判が多い。メディアで書く以上、もう少し情報を確認すべきです。

 もしかしたら・・・・・本当に万が一の話ですが、奥様は、私の専門の分野からの判断が必要な状況にあるのかもしれませんが、いい加減な解説をすべきではありませんので、そこは立ち入りません。

●(5)平成24年6月29日、週刊ポスト「ニュースのことばは嘘をつく」(長谷川幸洋・東京新聞・中日新聞論説副主幹)

 <法相の「指揮権発動」を批判したポチ記者の勘違い>

 検事による虚偽の捜査報告書を受けて、小川敏夫前法相が退任の記者会見で「検事総長に対する指揮権発動を考えた」とあきらかにした。すると、多くの新聞が「検察に対する政治の介入ではないか」といった調子で批判的に論評した。

 たとえば、朝日新聞は「指揮権の発動を頭から否定するものではない」としながらも、「人々が検察に向ける不信感に乗じる形で、政治があれこれと口を出し、それを当たり前と受け止める空気が醸し出されることを、私たちは恐れる」と書いた(6月6日社説)

 犯罪の疑いがある政治家を検察が起訴しようとするのを法相が止めたというなら不当だ。だが、今回は政治の不当介入に当たるようなケースだったのか。まったく違うと思う。

 私は小川本人にインタビューした(『現代ビジネス』6月7日付コラム)。それによれば、法務・検察当局は検事を人事で処分して、問題の幕引きを図ろうとした。だが、小川は納得しなかった。それでは身内に甘い捜査と批判を浴びる。検察立て直しのためにも指揮権を発動して、白黒をはっきりさせようとしたのである。

 甘い処分でお茶を濁そうとした事務方をしっかり指揮監督するために、大臣が法律で認められた権限を発動しようとした。それを「政治の不当介入」というのは本末転倒だ。大臣は当然の職責を果たそうとしたにすぎず、批判される理由はない。

 にもかかわらず、新聞が小川を批判するのはどういうわけか。背景には、もともと新聞は記者クラブを通じて事務当局と馴れ合う関係にあるという事情が一つ。これは否定できない。この点はこれまでも指摘されてきた。

 それ以上に、私は記者たちの頭に「独立性神話」とも呼ぶべき思考パターンが染み付いている問題が大きいと思う。この神話は検察に限らない。実は、新聞と日銀、原子力ムラの関係にも共通して観察できる現象である。

 たとえば、多くの記者たちは「日銀は政治から独立しているべきだ」と無条件に信じこんでいる。政治家が金融政策について発言すると、すぐ「政治の介入」と批判する。原子力でも専門家や業界関係者は閉鎖的なコミュニティーを作って、外からの批判を極端に嫌ってきた。世間は半ば、ムラの存在を黙認してきた。

 国民に選ばれた政治家が検察や日銀、原子力問題について自由に発言するのが民主主義の原理から言って当たり前の話である。それを「独立性を侵す」と言って単純に排除するのは、思考停止状態以外の何ものでもない。

 検察や日銀、原子力ムラは自らの権限と権益を守るために外部から手を触れさせないようにしてきた。それをポチ記者たちは「神聖で汚れがあってはならない世界」として受け入れてきた。現実は検察も原子力ムラも内部から腐っていたのだ。接待不祥事があり、総裁が村上ファンド疑惑に関わった日銀も例外ではない。

 原子力規制庁の新設をめぐっても危機時における政治の指揮権が問題になった。業界や霞が関からの独立はもちろん不可欠だが、規制庁を政治の手が届かない神聖不可侵の存在にしてはいけない。もしも原子力ムラに乗っ取られてしまったら、最悪である。

 国民が国会を通じて間接的ではあっても、最終的に規制庁をコントロールできる仕組みを工夫すべきだ。
 独立した権力は腐る。今回の指揮権発動は権力の本質をあらためて思い出させる。(文中敬称略)

 <藤森注・・・・・権力は腐敗する。絶対的権力は、絶対的に腐敗する>

●(6)平成24年6月15日、週刊ポスト「狂った牙⑥」(ジャーナリスト・青木 理)

 <最強権力――特捜検察の盛衰>

 1954年、吉田茂政権を揺るがした造船疑獄。そこで時の法相・犬養健が下した「指揮権発動」は戦後司法界最大の事件とされてきた。国家が当局捜査に介入できることを、政治権力の前では検察の「正義」も貫けないことを、国民の前に晒したからである。だが、「それは偽りの物語ではないか」と疑問に感じた筆者は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした「昭和史の闇」に踏み込んだ。

 <略>

 これに対して吉田政権の法相だった犬養が4月21日、次のようなタイプ打ちの書面で指揮権を発動し、逮捕にストップをかけたのである。
 <具申の逮捕請求許可の稟請(りんせい)案件は事件の性格と、重要法案の審議に重大な影響を及ぼすものと考えられる現状とに鑑み、別途指示のある時期まで逮捕請求を行わぬよう取計らわれたい>
 法相の指揮権が公に発動されたのは初めてであり、その後も例がない。検察史上で唯一無二の出来事であった。

 <捜査から降ろしてくれ>

 政治と検察――その関係は極めて微妙であり、法相の指揮権とは、微妙なバランスを壊さずに両者の隙間を埋める装置として生み出された。
 煎じ詰めてしまえば、検察といっても所詮、首相を頂点とする行政権の一翼に位置する官僚組織に過ぎない。ただ、検察は人を刑事裁判にかける権能=公訴権を基本的に独占し、同時に犯罪の疑いがあっても起訴しない権限まで有している。前者を起訴独占主義、後者を起訴便宜主義と言うが、これほど強大な権限が時の政権の恣意によって左右されてはたまらない。とはいっても、検察組織が民主的統制の埒外に置かれて暴走してしまうのも断じて好ましくない。

 従って検察庁法は14条で次のように定めている。
 <法務大臣は(略)検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる>
 いわゆる「指揮権」である。つまり準司法的機能を持つ検察の独立性に配慮しつつ、検察に民主的統制が効くことを担保する役割を果たしている。

 ところが造船疑獄で初の指揮権が発動されたことで、現在に至るまで誤った認識が流布してしまった。政界中枢の腐敗摘発に向けて果敢に突き進んだ検察捜査に対し、政治権力が不当な指揮権を行使して頓挫させた――そういった“偽りの物語”である。

 だが、真相はまったく異なる。自由党幹事長・佐藤栄作にかけられた嫌疑は二つ。まず、利子補給法の成立などに尽力した見返りとして、船主協会から受けた1000万円の献金が賄賂にあたる、というものである。ただ、このカネは佐藤個人ではなく党に入っていた。河合信太郎らは「第三者収賄」にあたると主張したものの、これが適用されたケースは今に至るもほとんどない。前出の伊藤栄樹も<この事実では、党に対する政治献金みたいなもので、佐藤氏が私腹をこやしたわけでもなく、迫力がない>と疑問を呈している。

 もう一つの容疑は、佐藤自身が200万円を飯野海運から受け取っていたというものである。こちらの方が遥かにスジはいいとはいえ、佐藤は自由党の幹事長で、直接の職務権限を行使する公職にはない。起訴に踏み切れば公判は相当厳しいものとなったろう。
 こうした見方をする検察OBは幾人もいた。大阪高検検事長などを経て最高裁長官も務めた故・岡原昌男は、死去直前の94年初頭、『文藝春秋』に次のような一文を寄せている。

 <当時、私は千葉地検の検事正で、「指揮権発動などけしからん!」と遠吠えをしていただけだった。しかし、その後東京高検の次席になって「造船疑獄」に関する記録を目にすることができた。それを読んだ印象では、私は起訴しないでよかったと思った。調査が非常に粗雑で、抜け穴だらけだったからである。形だけの調書はできているけれども、表面だけをさらっと撫でたような調書で、これでは公判維持は難しかったであろう。だからあの段階で止めて大恥をかかなくてよかった。起訴していたら恐らく無罪になっていただろうから、結果論からいえば、あの指揮権発動は良かったことになる>(『文藝春秋』94年3月号、原文ママ、一部略)

 80年代に東京地検特捜部長を務め、東京高検検事長なども歴任した藤永幸治もこう指摘している。
 <現在、関係文書や関係者に改めてあたってみると、当時の特捜部が勢いの赴くまま暴走しすぎた感がしないでもない>(『特捜検察の事件簿』講談社現代新書、前同)

 勢いの赴くまま暴走したと評される河井を難ずる証言は、当時を知る検察OBを訪ね歩いてみると、幾つも得ることができた。まずは福岡高検検事長などを務めたOBの話である。
 「伊藤(栄樹)さんから聞かされたんですが、河井さんとは何度も衝突したそうです。捜査では造船会社幹部らが軒並み背任罪に問われたけれど、彼らは私腹を肥やしたわけでもなく、会社に損害を与えようと思ったわけでもない。それが好ましいものではないにせよ、会社のためと思ってやったなら背任罪は成立しないんです。でも河井さんは強硬論を吐き続け、伊藤さんが『捜査から降ろしてくれ』と言ったこともあったそうです」

 別の検察OBによれば、こんなこともあったという。収賄罪で起訴された運輸省課長をめぐる出来事である。
 この課長は極めて真面目な男だったが、愛娘に買ってやったピアノが運命を暗転させた。購入代金の出所が海運会社だったからである。といっても、課長は部下に勧められるまま購入しており、代金の出所を知らなかった。その上、ピアノ購入のため必至に貯金もしており、間もなく満期になる預金通帳などを部下に委ねていた。

 取り調べを担当した検事は課長の話を聞き、関連捜査でその裏付けも取れたことから、起訴を逡巡した。しかし、河井は断固起訴を譲らなかった。当時を知る検察OBの話である。
 「その取り調べ検事は山室章さん(故人)のことだね。山室さんは骨のある検事で、取り調べで得た自らの心証と見立てを譲らず、河井さんと真っ向から対立したんだ。最終的には河井さんと一緒に馬場検事正のところに行き、涙ながらに訴えたらしいよ。でも結局、馬場検事正は河井さんの言う通り決裁し、起訴されてしまった」

 このOBによれば、晩年の山室は、こんな風に漏らしていたという。
 「造船の捜査は強気に過ぎた。なぜあれだけ強気に出たのか今も私には分からないが、弱気に見られることを口にしにくい空気が蔓延していた」
 強気一辺倒で突き進む主任検事・河井の造船疑獄捜査――。その背後では、検事正の馬場が不可解な動きを繰り返していた。

 <政治フィクサーと馬場の「謎の交流」>

 造船疑獄の捜査が幕を上げて一か月も経たぬ54年の1月30日、当時は東京・白金台にあった首相・吉田の公邸――。目黒駅に近いため「目黒公邸」とも呼ばれた壮麗な館に、夕刻から奇妙な面々が顔を揃えていた。主である吉田の脇には副総理の緒方竹虎。これと向かい合ったのは検事総長の佐藤藤佐と東京地検検事正の馬場だった。

 言うまでもないが、中央政界を見据えた疑獄捜査が進む中、検察組織のトップや捜査を統括する検事正が首相らと密かに会談するなど、通常なら考えられない暴挙である。しかもこれは馬場からの申し出によるものであり、会談をセットしたのは高瀬青山なる政治フィクサー紛いの男だった。

 福岡生まれの高瀬は、実に謎多き人物である。生年は1900年か01年とみられ、戦前・戦中は朝鮮半島や満州などを転々とした末、戦後は東京・丸の内ビル内に事務所を構え、政界や財界、そして司法界に独自の人脈網を築き上げていたらしい。80年代末に世を去っているが、佐藤栄作日記などにも頻繁にその名が登場する。

 関係者を取材してみると、高瀬の主な後ろ盾となったのは、東急電鉄を創業して一代で東急王国を築き上げた故・五島慶太だったようである。やはり世を去っている高瀬の子息は生前、あるメディア記者の取材に対し、こんなふうに語っている。

 「親父はもともと朝鮮総督府の役人で、その後は満州や中国に渡りましてね。戦中はシンガポールの軍政に関わり、南方進出を図った日本の財閥幹部と関係ができたようです。岸信介さんなんかとは満州で知り合ったんでしょう、丸ビル(の事務所)には政財界の要人がたくさん出入りしていました。馬場さんのことも覚えていますよ。何度か家に来たと思います」

 高瀬の親族の証言はこうである。
 「青山は苦学して五島財閥に入り、朝鮮総督府に送り出されたんです。政界人脈は太く、佐藤(栄作)さんのことを『佐藤君』と呼んでいたし、(吉田側近で運輸相や労相やどを歴任した)増田甲子七(かねしち)さんなんて丸ビルの事務所に入り浸っていました。それに戦前・戦中の大陸ゴロみたいな連中とも関係がありました。児玉誉士夫とか、小澤征爾さんの父親の小沢開作とか……」

 そんな男と馬場がなぜ知り合ったのかは判然としない。ただ、馬場は高瀬を仲介役とし、吉田や緒方と接触した。
 この経過は、緒方が生前書き遺した日記から窺い知ることができる。緒方日記は現在、親族によって管理され、閲覧が不可能な状態に置かれているのだが、緒方の評伝を手がけた愛知学院大教授・栗田直樹や作家・三好徹らの著書に関係部分が紹介されている。
 それによれば、吉田公邸での極秘会談について緒方日記は、高瀬から持ちかけられたと記した上でこう続けられている。

 <馬場検事正よりの申出にて佐藤検事総長、吉田総理会見の希望あり><事件思はざる発展のため予め判断を求めたしとのことの如し><午後衆院本会議後、六時半目黒官邸訪問、検事総長同席、大体の見通しを聞く>(いずれも原文ママ、以下同)

 政権中枢に迫る捜査の最中、その「見通し」を政権トップに伝えた馬場。だが、こればかりではない。馬場は引き続き緒方と接触を図った。
 2月4日と8日には緒方と馬場が直接会談を持ち、以後も高瀬を通じて馬場の意向は緒方に伝えられていた。日記にはこんな記述が登場する。
<2月13日・高瀬君来訪、馬場検事正談を伝ふ>
<2月18日・検事総長に下話をする方法につき馬場検事正も苦慮の模様なり>
<2月26日・馬場検事正、一度聴取をなしておきたき旨>
そして3月13日、またもや高瀬が緒方のもとを訪れ、緒方日記にはこう書き遺されている。

 <Bより連絡、漸く問題解決に近く>
 Bが馬場のことを指すのは間違いないだろう。馬場の懐刀である河井が猛烈な勢いで捜査を推し進め、佐藤聴取にまで乗り出そうとしていた時期、なぜ馬場は緒方と連絡を取り続けたのか。そして緒方に伝えた「問題解決」とはいったい何を意味するのか。
 取材を重ねると、高瀬や馬場と親交のあった検察関係者に会うことができた。この関係者はこう断言した。
 「高瀬さんが間に入って緒方さんと馬場さんが相談を重ね、事前に指揮権発動という方向性を決めたんです。もっと言えば、吉田政権が指揮権を発動するように誘導したのは、東京地検の検事正だった馬場さんなんですよ」
 (文中敬称略、以下次号)

●(7)平成24年6月22日、週刊ポスト「狂った牙⑦」(ジャーナリスト・青木 理)

 <最強権力――特捜検察の盛衰>

 折しも、退任会見で小川敏夫・前法相はこう述べた。「指揮権発動を決意したが首相の了承を得られなかった」。小沢裁判で虚偽の捜査報告書を作成した問題の徹底調査を検事総長に命じようとしたと訴えたかったのだろう。これにメディアは激しく反応した。

 〈政治と検察が緊張感をもって、適切な均衡を保たなければ、民主主義を支える土台はむしばまれていく〉(朝日新聞社説6日付)。誠にもっともな意見ではあるが、果たして政治と検察は適切な均衡を保ってきたか。

 指揮権が唯一発動された59年前の造船疑獄。検察捜査が政治権力に屈したという世の俗説は“偽りの神話”だったと本連載先週号は記した。以後、政治と検察の関係は歪み、検察の暴走を許したのではなかったか。昭和史に遺された謎の核心をいま解き明かす。

 造船疑獄の検察捜査をめぐって吉田茂政権の法相・犬養健が指揮権を発動してから約6年後。張本人であるはずの犬養健自身が月刊誌『文藝春秋』に“爆弾手記”を寄稿し、政界と検察に再び波紋を広げた。与党・自由党の幹事長だった佐藤栄作逮捕にストップをかけた指揮権発動の背後には、検察庁内の有力者による策謀があったと“暴露”する内容だったからである。
 病床にあった犬養はこの直後に世を去っており、遺稿ともなった手記は次のような内容だった。

 <当時検察庁に対して大きい勢力を持っていた某政治家が、法務大臣たる私や検事総長たる佐藤藤佐氏を差し置いて庁内の或る有力者を吉田首相の身内の一人に近づかせ、ひそかに首相の周囲に指揮権発動の可能性なるものを入れ知恵する一方、検察庁内の或る上級幹部にも働きかけてその秘密会議の席上、「断乎佐藤栄作を起訴すべし」という、全く正反対の強硬論を吐かせたのである。しかし世の中はよくしたもので、信賞必罰というものがある。検察庁内では今に至るまでこの計画に加担した官吏は永久に最高幹部にはさせぬという不文律が次から次へと引き継がれているのではあるまいか>(『文藝春秋』60年5月号より、抜粋)

 やや支離滅裂なところもあるが、文中の「計画に加担した官吏」が誰なのか、検察の内情を知る者なら容易に推測がついた。造船疑獄の捜査時は最高検次長検事だった岸本義広である。
 戦前・戦中の思想検事の系譜に連なる岸本は、吉田保守政権の登場に伴って検察中央に復権を果たし、戦後台頭した馬場義続経済検事閥と壮絶な権力闘争を繰り広げた。その岸本は犬養手記が発表される直前、検察ナンバー2の東京高検検事長を最後に定年退官している。これもまた、馬場との激しき暗闘の末、検察トップの検事総長を目前にしながら追放されたに等しい敗北的退官であった。

 こうした事情も<最高幹部にはさせぬという不文律が引き継がれている>と書く犬養手記を裏付ける傍証となったのだが、岸本が政界有力人士と太いパイプを持ち、極めて政治的な動きをする面があるのは公知の事実だった。とはいえ、指揮権発動を背後で謀略したなどと言われては、大物検察OBとして立つ瀬がない。巨悪討伐に向けて果敢に進めた検察捜査を政治権力が屈服させたという“偽りの神話”が流布されていたのだから、黙過すれば猛批判を浴びるのは必至である。岸本は直ちに犬養を名誉毀損で訴えたものの、この偽りもまた、まことしやかな“定説”となってしまった。

 たとえば作家の松本清張は63年に発表した「検察官僚論」の中で、指揮権発動に関する真相は「未だに謎」としつつ、こう記している。
 <検察庁部内では、これを吉田首相に進言したのは岸本であろうという定説になっている。(略)つまり、「政治家」である岸本は、何とかして自民党(ママ)の壊滅を救うよう吉田から頼まれ、彼も事ここに至っては尋常の手段では抑えることができないと観念した。殊にいま摘発の捜査をやっているのは仲の悪い馬場である。さらには連日のように新聞に大々的に報道されているので、揉み消しなどは思いも寄らない。さんざん知恵を絞ったのがこの指揮権発動だった、というのである>

 松本清張は一方で、「穿った話」として別の説にも言及している。吉田政権の副総理だった緒方竹虎と東京地検検事正だった馬場義続が背後で蠢き、指揮権を発動させるよう岸本を通じて吉田に働きかけさせたのではないか、というのである。その理由として松本はこう書く。

 <緒方は吉田政権の次には自分だと自他共に許していた男である。はじめは吉田の失脚を考え、造船汚職摘発の進行をむしろ進めるような立場にあった。(略)馬場も次期政権の本命は緒方に間違いなしと思い、緒方に接近していた。しかるに、捜査は佐藤・池田という大物に迫ったため、このままでは自民党(ママ)壊滅必至となった。(略)緒方としては次期総裁になるのに肝心の党が壊滅しては元も子も無くなる……>

 だから緒方が岸本を使い、吉田に指揮権発動を入れ知恵させた。たしかに随分と穿った見方ではあるが、実をいえばこちらの方がはるかに真相に近い。
 検察史上でも唯一無二の指揮権発動の真相。あれから実に半世紀以上もの時が過ぎ、徐々にではあるが、ようやくその輪郭がほの見えるようになってきた。真の首謀者というべき人物は、やはり馬場義続である。そして、結果としてこの指揮権発動は、戦後検察と政治の有り様を相当に歪ませてしまうこととなった。

 <とにかく保守合同をしなければ>

 鷲見一雄という男がいる。現在も「司法ジャーナリスト」を名乗ってはいるが、もう70代も半ばとなり、その活動は細々としたものとなってしまっている。ただ、戦後間もない50年代に司法関係の業界誌記者となってから法務・検察内部に深く食い込み、以後の一時期は政界と法務・検察を繋ぐフィクサー的な役割を果たした。岸本が東京高検検事長を最後に退官して政界に転じた際は、岸本の秘書となり、その政治活動を支えたこともある。

 もちろん現在の政界や法務・検察幹部と直接のパイプを有しているわけではない。しかし、戦後検察の重要部分、特に馬場と岸本が暗闘を繰り広げた時期における検察組織の内実を詳しく知る生き証人の一人である。その鷲見のもとを訪ねると、
 「私もこれまで利害や立場上、言えないこともありましたから……」
 と口を開き、興味深い話を聞かせてくれた。以下、鷲見の話である。

 「業界誌っていっても、法曹界の“社内報”みたいなもので、検察幹部の部屋には出入り自由でした。馬場さんにもお世話になったし、その対極にいる岸本さんにもお世話になりました。秘書までやったわけですからね。馬場さんにしても、岸本さんにしても、考え方は違ったけれど、右だとか左だとか、基本的にはそんなに大差があるわけじゃなかった。どちらが清廉潔白で、どちらが政治に近いなんていう巷間の見立ては、事実と異なると思います」

 ――馬場氏とはどんな人でしたか。
 「立派な人でしたよ。私のような若造が執務室に訪ねて行っても、真夏でも上着をわざわざ来てから対応してくれる。そんな人でした」
 ――その馬場氏が戦後は経済検事として台頭し、検察の主流派に躍り出たわけですね。
 「戦後の検察を握る者っていうのは、人事を握るか特捜を握るか、この二つしかないわけです。馬場さんは戦後ずっと(検察中枢で)やってきて、岸本さんは地方の検事長が長く、ようやく次長検事として(中央に)戻ってきた。そもそもGHQときちんと交渉できていなければ、検察の独自捜査権だって残されていなかったかもしれない」

 ――それを巧みに切り回したのが馬場氏だったと。
 「ええ。馬場さんは特捜の現場と同時に赤レンガ(法務官僚派)も操ることができた。何より馬場さんには河井(信太郎)さんという人がいましたからね」
 ――昭電や造船などの疑獄捜査に猪突猛進する「鬼検事」は、馬場氏にとってはやはり重要な存在だったんですね。
 「馬場さんと河井さんは一心同体というか、もう“口と歯”のような関係でした。それに代わる腹心が岸本さんにいたかというと、いなかった」
 河井というという“牙”を自在に操った馬場と、それを持っていなかった岸本。この差こそが熾烈な権力闘争を馬場が制する大きな要因となるのだが、それは後述することとして、肝心の造船疑獄と指揮権発動の真相に話を戻さねばならない。鷲見の証言を続けよう。

 ――造船疑獄の捜査における指揮権発動の真相はなんだったんでしょうか。
 「(吉田政権に)指揮権を発動させるよう誘導したのは馬場さんですよ」
 ――というと?
 「吉田政権の副総理だった緒方竹虎さんと馬場さんの間に高瀬青山という人が入って、そういう(指揮権発動で決着させるという)合意ができたんです」
 ――なぜそう断言できるんですか。
 「3人のうちの1人から直接聞きましたから」
 ――3人のうちの1人とは?
 「……」

 3人とは緒方と馬場、そして高瀬なる男のことである。戦前・戦中は朝鮮半島、満州、シンガポールなどを転々とし、戦後は東京・丸の内に事務所を構えて緒方らと深く交遊しつつ政治フィクサー紛いの動きをした高瀬。そんな男を仲介役に立てて馬場が緒方と接触し、造船疑獄捜査の最中に連絡を取り続けていたことは前回の本連載で詳述した。鷲見は認めようとしなかったが、緒方や馬場が重要密議の中身を軽々しく明かすはずはない。とすれば、「3人のうちの1人」は高瀬とみて間違いないだろう。続けて鷲見の話。

 ――緒方氏と馬場氏が指揮権発動で合意した理由は何だったのですか。
 「緒方さんはとにかく保守合同をしなければならないと考えていた。そのためには佐藤栄作を捕まえてもらっちゃ困る。馬場さんの側も、自分たち(検察)が時の与党幹事長を捕まえて吉田政権を倒すことが必ずしもいいことだと思っていなかった。そこで両者の間に合意ができたんです」

 ――次長検事だった岸本氏は、そうした動きは知らなかった?
 「ぜんぜん知らなかった。でも私はね、馬場さんが悪いことをやったなんて思わないですよ」
 ――どうしてですか?
 「だって、東京地検の検事正が時の副総理と対等に会って交渉したわけですよ。副総理は首相に次ぐポストだけど、東京地検検事正は法務・検察の中でも10番目ぐらい(の職責)です。検察側の立場から見れば、それだけの権威を(検察に)持たせたっていうことですから」

  <「岸本を葬れ」と吹き込んだ>

 もう一人、造船疑獄と指揮権発動の“定説”に埋め込まれた嘘を追い続けた男がいる。現在は主に子ども向け書籍を発行する出版社・理論社で取締役となっている渡邉文幸である。
 渡邉はもともと共同通信の政治部記者として法務省担当を長く務め、04年に退社後は法務省の広報企画アドバイザーに転じた。この間、数々の法務・検察幹部と接点を持ち、05年には『指揮権発動』(信山社出版)と題する専門書も出版している。同書の中で刮目すべきは、指揮権発動当時に法務省刑事局長の職にあった井本台吉の証言である。

 言うまでもないことだが、唯一無二の指揮権発動から既に半世紀以上の時が過ぎ、検察内で決裁ライン上にいた人物はほとんどが他界してしまっている。井本も95年に世を去っており、貴重な証言を残したのはその直前のことだった。「もうそろそろ本当のことを話してもいいだろう」。そう言って井本は、自分自身を納得させるように口を開いたという。渡邉によるインタビューの重要部分を紹介しよう。

 ――犬養法相は、指揮権発動を入れ知恵したのは岸本次長との説をとったようだ。
 「全然違う。岸本反対派が『岸本を葬れ』と吹き込んだ話に乗せられ、犬養はそう信じ込んでしまった。指揮権発動の内情は、巷間伝えられていることとはまったく違う」
 ――どういう事情があったのか。
 「あの事件は(捜査が)うまくいかなかった。第三者贈賄という変則的な事件で、事件そのものにも相当無理があった」

 ――指揮権発動は突然だったのか。
 「そんなことはない。上は総理大臣から下は東京地検の次席まで意を通じていた。吉田が誰かから言われて、指揮権発動をしたら(検察は)受けますよということになっていた」
 ――結局、入れ知恵をしたのは誰か。
 「入れ知恵というが、吉田に話をつけたやつがいるのではないか。馬場は秘密主義だったから、情報が漏れるのを極力避けていた。しかし、馬場なり、河井なりが、相当上の方に、われわれに言わないところで接触していた形跡がある」

 ――では、一体誰が指揮権発動を決めたのか。
 「吉田首相、緒方副総理、佐藤検事総長、馬場検事正あたりだろう」

 このうち検事総長だった佐藤はもともと判事出身で、検察内の力学や実情に疎かった。戦前・戦中検察の中枢エリートだった思想検事の多くが公職追放され、その穴埋めとして総長に就いた飾り物の如き存在に過ぎなかったからである。実際に佐藤は指揮権発動について、岸本の死後の71年になって編まれた『岸本義広追想録』に次のような一文を寄せている。

 <この不慮の指揮権発動は、何人の智慧によるものであったかについて、あとから屡々週刊誌などの問題になって、いろいろな噂が流布されたことであった。不幸にして岸本君の名前も出されたことがあった。ところが最近私は、偶然の機会に、本当の智慧者は同君ではなく、他にあったということを耳にして唖然として驚き、かつ憤慨したことであった>(原文ママ、一部略)

 とすれば、答えは一つしかない。井本らに取材を積み重ねた渡邉も、私と同じ感触を得ているようだった。
 「結局、吉田政権の実力者だった緒方副総理と気脈を通じつつ、指揮権発動で事態を収拾するという筋書を描いたのは、やはり……」
 私がそう尋ねると、渡邉は即答した。
 「馬場さんでしょう」

 <「巨悪の政治」と「正義の検察」>

 馬場が吉田政権に指揮権を発動させるという絵図を描くに至った背後には、幾つかの思惑と打算が並存していたはずである。まずは何より、河井が主任検事として暴走気味に突き進んだ捜査がいかにも無理筋だった、という動かし難い事実である。

 加えて、鷲見が語った通り、当時の日本政治が保守合同=55年体制の構築に向け、極めて重要な節目を迎えつつあったという政治的バランス意識が横たわっていただろう。事実、指揮権発動などによって世論の批判は高まり、吉田政権は間もなく総辞職に追い込まれたものの、日本政治は翌55年の保守合同へと進路を取っていった。
 さらにいうなら、特捜を大きな軸とする戦後体制を構築しつつあった検察組織にとって、この選択こそがベストだという馬場なりの官僚的深謀遠慮があったことは特筆せねばならない。

 渡邉が言う。
 「暴走する河井検事らを抱え、捜査が惨めな失敗に終われば特捜部の存亡に関わりかねない。ならば検察の権威を堅持しつつ、勝ち目の薄い戦をどうやって収拾するか。そこで馬場検事正が政府・与党に指揮権を発動させる方向に持っていったんでしょう。

 つまり検察の権威を守るためのマキャベリズムです。実際、東京地検には激励の手紙が殺到し、国民世論の追い風は検察に吹いた。検察にとってみれば、指揮権発動で暴走気味の捜査を終結させ、検察の威信を高めることにも成功したわけです。検察は政治に屈したのではなく、むしろ勝ったといえるんじゃないでしょうか」

 それにしても、馬場という検察官僚の徹底した策士ぶりには舌を巻く。馬場によって成し遂げられた策謀は、まるで闇の底で瞬く黒い光のような密行性に貫かれ、しかし同時に凄まじい輝きを今も放ち続けている。馬場がどこまで将来を見通していたかは不明というしかないが、これによって特捜検察の“威信”は守られたどころか一挙に高まり、「巨悪の政治」と果敢に対峙する「正義の検察」という、あまりに単純すぎる“偽りの神話”のみが大手を振るって独り歩きを始めた。

 一方で政治が検察をチェックするために編み出された指揮権という装置は完全なるタブーと化した。造船疑獄がその契機となったのは間違いなく、その後のロッキード事件などの余波もあり、新たな法相が任命されると、就任会見では記者団が指揮権発動への考えを最初に質すことが慣例となり、発動を是認するかの如き発言をすれば直ちに「法相失格」の烙印を押されかねないムードが拡散した。ひいては検察という巨大権力に対する民主的統制に関する議論までが忌避され、現在にも通ずる歪んだ「最強権力」としての検察へと道を開くこととなったのである。

 それでも馬場は、指揮権発動によって返り血も浴びた。検事総長の佐藤、主任検事の河井らとともに国会に証人喚問されて野党議員の追及も受けたし、造船疑獄の捜査と指揮権発動によって政治と検察に大きな混乱を引き起こしてしまったのは間違いのない事実だったからである。

 東京地検検事正の座を5年近くも占めた馬場は翌55年1月、法務省刑事部長に異動し、馬場の懐刀である河井も間もなく法務研修所教官に追いやられた。一方、ライバルの岸本義広は次長検事から法務事務次官へと栄転した。事務次官は、法務・検察内の人事を縦覧する枢要ポストである。岸本は特捜部幹部に自身の息のかかった連中を配し、戦後検察の主流に躍り出た馬場派は、一時的に検察内の傍流の地位に甘んじることとなった。

 しかし、指揮権発動というウルトラCを構想して検察の“権威”を神話まで昇華させるほどの策士=馬場が、黙って引き下がるはずもない。馬場は引き続き保守政権の中枢と巧みな綱引きを演じつつ、ライバル岸本の蹴落としに執念を燃やしていく。指揮権発動を密かに策謀したのは岸本だ――そんなガセ情報を犬養健に吹き込んだのも、馬場―河井ラインという筋だったはずである。

 *あおき・おさむ
1966年、長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、共同通信に入社。東京社会部、ソウル特派員などを経て06年からフリーに。近著に、ALS闘病中の徳洲会理事長徳田虎雄氏と交わした究極の問答劇『トラオ
徳田虎雄 不随の病院王』

<文責:藤森弘司>

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