2012年4月15日 第67回「トピックス」
ビッグイシューとは何か?

●(1)「ビッグイシュー」とは「THE BIG ISSUE」が正式名称です。
 以前、私(藤森)はどなたかに「ビッグイシュー」のことを聞いたことがあります。しかし、詳しいことは忘れていました。年を取ると、新しいこと、よくわからないことに関わることが面倒くさくなったり、あるいは「臆病」になったりするようです。いつまでも新しいことに興味関心を持てる方は素晴しいと思いますが、私は面倒くさくなってきました。例えば、新しい飲み屋さんに入るというのも面倒くさいです。なんでもないことですが、ちょっとしたことでも、その店の流儀というのがあったりすることがあります。徳利とお猪口は一緒に出てくるものだと思っていると、お猪口はカウンターにあるザルの中から自分の好みのものを利用する・・・・・などです。

 私はなんでもいいので、徳利と一緒に出してくれればいいと思うのですが、いつまでもお猪口が出てこないので、お猪口を要求すると、そこのザルの中にあるものから好きなものを使えという。

 「ビッグイシュー」も同様でした。ホームレスの方々を支援するために発行され、駅の近くで立って販売しているようですが、どうやって買うのか、1冊いくらなのか、どんな内容の冊子なのか・・・・・などがわからないために関わりにくく、長い間、ずっと避けていました。
 しかし、週刊ポストの次のエッセイを拝読して、私(藤森)は初めての体験をしました。私の体験の前に、そのエッセイをご覧ください。

●(2)平成24年3月9日、週刊ポスト「やむを得ず早起き」(連載エッセイ・関川夏央、イラスト(割愛)/松田洋子)

 駅前でビックイシュー初めて買った。渋谷に住んで4年。毎朝出勤時、横を通り過ぎていたのに緊張した。声が上擦り、販売員は少し驚いていた。

 <第27回 「中流」が没落すると社会は滅びる

 英国の地方都市ブリストルの中年女性の生活は、マーケッティング・コンサルタントとして2008年まで順調だった。副業にブティックを経営して、年収は当時の交換レートで900万円あった。それがリーマン・ショックで暗転した。
 政府機関とのコンサルティング契約はつぎつぎ切られた。銀行が貸し渋って資金繰りがつかなくなった。おまけに、1ポンド160円が120円に暴落した。

 ブティックは閉店、住宅ローンの返済が滞って家も差し押さえられた。彼女が「ホームレスネス」と印刷された食糧配給券を受け取る身の上となったのは、2010年、47歳のときだった。
 ブリストルはロンドンのはるか西、エーボン県の中心都市で人口40万人、ウェールズへはここで汽車を乗換える。「ホームレス」とは縁遠いはずだった。
 英国の住宅バブルの崩壊は劇的、かつ深刻だった。持ち家を失った人にとって、民間アパートの家賃は高すぎる。公営住宅は異常な高倍率だ。中間層と呼ばれた人々が下層へ、さらにホームレスに転落するケースは、今後さらに増加するだろう。

 一方中国では、1パーセントの世帯が41・4パーセントの富を占有している。都市住民における所得格差は、1985年の2・9倍から2009年の8・9倍にひらいた。もともと都市戸籍と農村戸籍の格差は、実質6倍あるといわれる。
 外国の富裕層が1億元(13億円)つくるのに15年、1億元を10億元に増やすのにさらに10年かかるのに、中国の富裕層はその過程をわずか3年でなしとげてしまう。

 これら富裕層は、権力に近くて資本を持つ人、違法な手段で儲けた人、独占的業種に従事する人の三タイプで、まっとうなやり方で富を蓄積した人は3割にも満たない――。
 25年で10億元(130億円)もほんとかね、と思うが、3年で10億元は想像を絶する。
 中間層が没落し減少すると、社会は不安定化する。中国における格差は正常の範囲内にはない。それでいて、東シナ海(対日)、南シナ海(対東南アジア)の権益を守るためには容赦なく軍事力を使うべき、などという言論がネット上に沸騰する。

 <「帝国主義的言論」に沸く中国>

 記事は、どちらも「ビッグイシュー日本版」(184号)で読んだ。英国の中流ホームレスの記事は本家英国版からの転載、中国の格差の話は中国人経済評論家のネットからの採録である。

 この雑誌は街頭で売る。販売員はホームレスの人たちだ。最初に10冊、3千円分を受けとり、それを当座の元手にする。以後は140円で仕入れ300円で売って、160円が販売員の取り分になる。
札幌から鹿児島まで、全国の大都市とその周辺都市のターミナル駅出口を中心に、だいたい150か所に販売場所がある。多いのは東京の約70か所、大阪の約30か所で、本社は大阪にある。

 私は去年、地下鉄千代田線・代々木公園駅出口で買っていたが、いつの間にか販売員がいなくなった。先日、JR阿佐ヶ谷駅北口で発見してまた買った。全32ページの冊子など、フリーペーパーだと決めてかかる人が多い昨今、売るのは苦労だろう。

 販売収入のほか、法人と個人「応援会員」の寄付によって費用はまかなわれる。巻末に有名人無名人の名前が並ぶが、匿名希望も少なくない。表紙にも登場し、寄付者の筆頭にあった将棋の羽生善治二冠の名前が、2012年2月15日号(185号)から消えたのはちょっと気になる。

 「ビッグイシュー」は、1991年にロンドンで始まったという。表紙写真に、日本だけではなく海外有名人が多く登場するのはそのせいで、彼らも損得抜きで協力しているのだと思う。日本起源でないのは残念だが、日本版も月2回刊ですでに8年近くつづく。
 各号に1ページずつ「販売員」インタビューが載っている。
 青年期、地方から大都会に出たとき、他者とのコミュニケーションがうまく機能しなかった、それが最初のつまずきになっとという事情は、ほぼ共通する。

 そのうち不況で仕事がなくなる。契約を切られる。言葉はますます減る。住居の問題が生じるとホームレスまでの道のりは、とても近い。
 「販売員」たることがゴールではない。あくまで再就職、再自立への過程だ。しかし、ほんのささやかではあるにしろ、購買者との接触は、やむを得ざる沈黙を長くつづけてきた人たちには大きい。

 中間層が没落し、消滅に向かうとき生じる格差によって、社会は著しく不安定化する。日本はまだそこまで行ってはないにしろ、たんなる隣人愛からだけではなく、社会の安定のために具体的な協力を惜しんではならない。そういう段階にきていると思う。
 歴史的客観的情勢は明らかに「革命前夜」だが、いっこうに革命の気配なく、本来は中間層であるべきなのに、そこからはじかれた人々がネット上で「帝国主義的言論」に熱中する中国は、いまや絵にかいたような反面教師である。

 それにしても、「中国共産党の革命」とはいったい何だったのだろう。

 <藤森注・・・・・それにしても、民主党による「政権交代」とはいったい何だったのだろう!!!>

●(3)関川夏央氏が駅前でビックイシュー初めて買った時の次の体験。
<<<渋谷に住んで4年。毎朝出勤時、横を通り過ぎていたのに緊張した。声が上擦り、販売員は少し驚いていた。>>>私(藤森)も同じような体験をしました。
 今までは1冊いくらかがわからなかったために、私のような臆病な人間はとても購入しにくかったです。その場で「いくらですか?」と聞いて、それから財布を出して支払うというのがとても苦手でした。

 しかし、1冊300円だとわかりましたので、それだけでもとても購入しやすくなりました。ある天気の悪い寒い日に立川駅の南口で、一人の方が立って販売をしていました。「よし!買うぞ!」そう決心して、駅ビルの大きな柱の陰に隠れて財布を出しました。しかし、不運なことに、小銭入れの中には百円玉がありません。五百円玉もありません。千円札を出してお釣りをもらうのもなんだか妙な気持ちがして、柱の陰でチュウチョしていました。

 「そうだ!千円札を出してお釣りをもらわなければいいんだ」と思い、千円札を固く握り締め、大きな柱の陰から出て、販売者のところに近づきました。まさに、関川夏央氏と同じ体験です。もし、関川氏のエッセイを読んでいなかったならば、この日は買うのを止めていたかもしれません。私は関川氏に負けない勇気を振り絞って、販売者に近づきました。

 私(藤森)は、自分が偉くもないのに千円札を出して、お釣りは要りませんと言うのに、妙な抵抗があります。
 しかし、せっかくのチャンス、勇気を出して購入し、お釣りは要りませんと手で合図をし、逃げるようにして、直ぐ脇の階段を降り始めました。数歩降りたその時です。女子高生が追ってきて「落ちましたよ!」と手袋を差し出してくれました。

 私は、関川氏とほとんど同じ心境だったのでしょう。一瞬、なんのことだか理解できませんでしたが、お金を渡すときに外した右手の手袋を落としていたのでした。

 「アッ!」と思った瞬間、女子高生の好意が非常にありがたく感じました。私は思わず「ビッグイシュー」を販売する方と同じ心境になっていたのかもしれません。
 「ありがとうございます!」「ありがとうございます!」
 私は感激して二度もお礼を言い、頭を下げました。急に、関川氏と親しくなったような不思議な心境になりました。

●(4)平成24年4月1日、188号「ビッグイシュー」

 <グアンタナモ、仲間の保釈を求める元囚人たち
・・・・・腎臓、前立腺、視力低下、指の爪ーーー
私は毎日死んでいく・・・・・>(p6~7)

 グアンタナモ米軍基地が“テロリスト”の収容所となって10年。
 閉鎖するというオバマ大統領の約束は、いまだ実現の見通しが立たない。
 内部の悲惨さを知りつくした元囚人たちが、
 残された仲間を救おうと声をあげている。

 <今も171人収容。89人釈放決定でも引き取る国がない>

 「私がこの活動を行うのは、私を繰り返し襲う悪夢と、かつての私とまったく同じ状態で囚われた人たちがまだあそこにいるという、ぬぐいきれない自責の念のためです」
 3人の子の父親でもあるモアザム・ベッグは、05年に釈放されるまで、約3年間をグアンタナ収容所で過ごした。彼は人権擁護団体「CagePrisoners(檻の中の囚人)」を組織し、囚人たちの釈放を求めて米国政府を相手にロビー活動を続けている。

 キューバの東南部の州都グアンタナモには、1898年の米西戦争以来、米国がキューバから租借している土地に同名の米軍基地がある。従来、不法入国者などを収容してきたが、02年以降はいわゆる「テロリスト」の疑いのある人たちを収監しており、今年はその10周年にあたる。現在もグアンタナモに収容されているのは171人、うち89人の釈放が決定しているのだが、それぞれの母国の治安が不安定であり、他に引き取りを申し出る国がないとの理由で収容されたままである。

 白髪まじりの長い黒ひげとはっきりした面立ち、そして威厳のある声が印象的なベッグは、英国バーミンガム郊外の出身だ。パキスタンのイスラマバードに家を借りて住んでいる時、地元警察に逮捕され、米軍に引き渡された。まずアフガニスタンにあるバグラム米国空軍基地で拘留され、軍用機でグアンタナモへ移送された。バグラムでは、2人のイスラム教徒の男性が拷問死するのを目撃したという。

 「キャンプの内部情報」とされる報告により、彼はテロリストに通じ、アフガニスタンにあるアルカイダの軍事キャンプで訓練を受けていたとされた。そのことは本人も公式に認めてきた事実であるが、自ら進んで武器を持ったことはないと主張する。また、軍事訓練キャンプで見つかったとされる「モアザム・ベッグあての送金明細のコピー」が彼にとって不利益に働いた。ベッグは一貫して送金については知らないと主張しており、書類を見せられたこともないという。

 <国際法の及ばない場所。違法な拘留、拷問が続く>

 ベッグたちの主張は、罪の有無や重さにかかわらず、拷問や違法な拘禁は行なわれるべきではないということだ。グアンタナモに収容されている囚人らの容疑が事実だったとしても、陪審員が同席する正当な裁判によって裁かれるべきで、国際法の及ばないところで断罪されるべきではない、と考えている。10年にこの主張は一部認められた。英国政府の諜報部第5部、通称MI5が拷問にかかわっていたことを証明したことで、ベッグや一部の元囚人らには、非公開かつ非公式ではあるが、慰謝料が支払われた。

 ベッグには、唯一英国居住者でありながら拘留され続けるサウジアラビア人のシャカール・アーメルの姿が脳裏に焼きついて離れない。アーメルの場合は、トラボラにあるアジトでオサマ・ビン・ラディンと個人的に会っていたのを見た、と拷問の末ある男性が吐いたというまったく裏付けのない証言によって、拘束を続けられている。顧問弁護士のクライブ・スミスは一貫してアーメルの無実を主張しており、またウイリアム・ヘイグ英外相をはじめその前の2人の外務大臣も、米国側に引き渡しを要求してきた。

 スミスは言う。「彼が私に渡してくれた手紙の中には、拷問によって身体が崩壊してゆく18通りの様子が詳しく書かれています。すさまじい殴打によって彼の腎臓や前立腺がやられ、さらに視力の低下、指の爪についても書かれていました。実際に、私もその指に触れましたが、本当にボロボロでした」

 アーメルはハンガーストライキを行なっており、彼の妻が最近になって公開した手紙には、刑務所内での状況が生々しくつづられている。
 「私は毎日少しずつ死んでいく。精神も、肉体も。ここにいる全員が同じだ。私たちは、海に囲まれたこの刑務所で何年も閉じ込められ、忘れられていく。・・・中略・・・私は自分で静かに死んでいきたい。かつて250ポンドあった私の体重は、抗議によって150ポンドまで落ちた。食料も要らない。点滴も要らない。これは私の権利だ」

 <解放されても、本当の試練は家に戻ってから>

 この刑務所から何とか出てくることができた男たちにとって、このような話は心臓をえぐられる思いだ。彼らの間には、極限の刑務所生活をともにしたことで醸成された絆がある。元収容者の一人、オマール・デグアイエスは「グアンタナモであったことを忘れることなどありえない。まだあそこに残される友がいて、彼らがどんな目に遭っているか、私たちにはわかっているから」と話す。

 現在ブライトン在住のデグアイエスはリビア出身で、02年にパキスタンで逮捕された。投獄中に片目の視力を失ったが、それは拷問の際、看守が彼の目に指を突き刺したからだという。
 たとえ彼らの抗議活動が実を結び、囚人たちが解放されたとしても、本当の試練は家に戻ってから始まる。

 「シャカールがたとえ解放されても、彼は一体どうやって人生をやり直せばいいのかを、誰か私に説明してほしい。私たち囚人、特に家族のいる者たちがどうやって刑務所生活を耐えてきたと思いますか。それは、自分は誰の父親でもなく、夫でもなく、息子でもない、ただの“背番号”だ、と日々自分に言い聞かせたのです。家族のことを思い出したりすると、頭がおかしくなってしまうからです」

 グアンタナモ経験者や関係者が唱えるアラビア語の合い言葉がある。「ラー タンサ」、「決して忘れない」である。もちろん、忘れたくても忘れられないのだが・・・・・。
 (Jasper Hamill/The Big Issue UK)

<文責:藤森弘司>

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