2012年12月31日 第85回「トピックス」
驚愕の真実・戦犯とは何か(前編)

●(1)何年か前にあるテレビ番組で、靖国神社の「分祀」が議論されていました。

 いわゆる「戦犯」の魂が合祀されたために、中国などから批判される。だから戦犯者の魂を「分祀」をすれば、総理大臣が参拝しても問題が無くなる。「分祀」をするのはどうか・・・・・と言うような議論だったように記憶しています。

 この時、故・東条英機氏の娘さんだか、お孫さんが中継で出演し、「分祀には絶対に応じられない」と発言されたことが、私(藤森)に妙に訴えかけるものがありました。
 魂というものは、そもそも、合祀したものを、(正式な表現はわかりませんが)「分割」するということはできないそうですが、そういう「神道」の考え方はともかくとして、東条英機氏の身内の方が、「分祀」論を強く否定した姿勢に、私は強く惹かれるものがありました。

 戦犯として「処刑」されてから、東条家のご家族は生きるのに大変苦労をされたようです。住む家や食べる物にも大変苦労をされたようです。東条家の人間だということがわかると販売してもらえないこともあったようです。
 そういう猛烈な苦労をした結果、やっと魂が靖国神社に祀られたのですから、「分祀」は絶対に譲れない一線であろうと思っていました。

 ところが・・・・・です。果たして、それだけのことなのだろうかという疑問が湧いてきました。

 今回、戦争を目前にしたリーダーたちの貴重な資料が発見され、今年の3月、下記のNHKスペシャルで放映されました。日本のリーダーたちの驚くべき実態が明らかになりました。
 その全部を2回に分けて紹介します。さらには、「戦犯」についての驚くべき証言も紹介します。

●(2)平成24年3月6日、NHKスペシャル「日本人」

 <日本人はなぜ戦争へと向かったのか>

 <第4回 開戦・リーダーたちの迷走>

海軍省兵備局長・保科善四郎・・・向こうの工業力というのはとても日本の比較にならんほど・・・アメリカと戦争しても得がないんだから、日米戦争というのは避けなくちゃならん。

陸軍省装備担当者・岡田菊三郎・・・徹底的な国力データの分析から勝算無しと結論付け、トップと直談判していた。武藤軍務局長にも、絶対に戦争をしてはいけないと、何回も何回も言った。日本の国力から言ったら、数字の上で勝てない。絶対に開戦に賛成してはダメだ。

海軍省兵備局長・保科善四郎・・・もう戦争には自信がない・・・しかし、あんまり自信がないということを言うとそれなら海軍をやめてしまえと嶋田大臣に怒られた。

陸軍省軍務課長・佐藤賢了・・・海軍には自信がないということを海軍大臣から漏れている。海軍から戦はできんとは言えないから、総理大臣から戦せんように言うてくれと言うたということがあるんです。

企画院総裁・鈴木貞一・・・東条はその時に、海軍はやっぱり戦は不同意だということになれば、陸軍だってそんな戦は強いて主張しないんだと。物資の面から言うと、本当に物っていうものを計算してやれば、戦争なんてできないんですよ。

ナレーション・・・日本人だけで300万を超える命が失われた太平洋戦争。国家の指導者たちは、何故、不利を承知の戦争を避けられなかったのか。開戦前半年間の衝撃的な記録です。

 ABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網。特に石油の94%をアメリカ(66%)、イギリス(7%)、オランダ(21%)に依存している日本にとって由々しき事態。
 一方、日米間の国力差は、当時、大変甚だしいものであった。総合的な国力差はアメリカは日本の80倍(石炭10倍、鉄鋼12倍、石油530倍)だと言われていた。
 これでは歯が立たないと当時の指導者は皆、認識していた。取材して、この段階で本気で戦争をしようと思っている指導者はいなかった。では何故、日本は戦争へと向かっていってしまったのか。日本には突出した権力者はいなかった。当時は、第二次近衛内閣。
 国家の運営は、内閣の国務大臣と統帥権を担う軍のトップが責任を負っていた。

ナレーション・・・(開戦まで200日)1941年5月22日。首相官邸で、内閣と軍のトップが国家方針を検討する、第25回大本営政府連絡会議が始まった。
 重要な国家方針は御前会議にかけられるが、そこでは天皇の承認を受けるのみ。その方針案は連絡会議が責任を持って全会一致で示すことが原則でした。
 しかし、会議では各代表の権限が対等で、首相にも決定権がなく、反対者が一人でも出ると何も決められない。そこで話をまとめるためには、各組織の要望を均等に反映した曖昧で実態のない決定に合意するのが慣例になっていた。

静岡県立大学・森山優准教授・・・「具体的なことは別に定む」ということを決められるというわけで、実際のチャンスが来た時に、改めて議論しようじゃないかということになります。そうなると反対派は必ずその場で反対をするために、なかなか意志決定ができない。

ナレーション・・・6月下旬、この日本の意志決定の問題点が露わとなる。3国同盟を結んだドイツが、1941年6月22日、ソ連と全面戦争が勃発。日本の首脳陣はどう対応すべきか、判断を迫られた。
 陸軍の中からは北のソ連を叩けという北進論が。海軍の中からは南の資源を確保するための南進論が同時に浮上。

参謀本部作戦課長・土居明夫・・・今まで陸軍は対ソ作戦で来ているんだから、だからソ連をたたきに行こう。明治以来の北方処理を解決したい。

海軍省軍務局中佐・柴勝男・・・海軍は南ってずっと言ってきておったでしょう。どうしてもこれはやらないかん。これがいわゆる自存自衛ですね。

ナレーション・・・陸、海軍が自分たちの組織の都合を訴える中で、連絡会議の近衛文麿首相ら首脳陣の方針は定まらなかった。
 (開戦まで159日)1941年7月2日。リーダーたちは当面の対応方針を打ち出す。それは方針とは名ばかりで、選択肢を外交交渉、南進、北進、そのいずれかに絞るのではなく、全てを進めるという総花的プラン。しかも、具体的なことは状況を見て別に定める。つまり、何も決めず、準備だけするという、実質、様子見、先送りだった。

軍令部作戦課長・富岡定俊・・・なんでもって妥協したかというと文字で妥協した、作文で。名人が大分出てきて、国策を、陸軍は陸軍の了解でやり、海軍は海軍の了解でやるという現象。

 (開戦まで148日)7月13日。陸軍は北進準備の動員を開始した。準備をどこまでやるかは軍に任されていた。方針のあいまいさをいいことに、陸軍は準備の内容を最大限に解釈。この大動員が波紋を広げることになる。
 海軍省は、陸軍の準備は行き過ぎではないかといい、国家に緊張が走る。北進は陸軍の単独作戦。国を潰すぞ。
 様子見のために曖昧にした首脳部の方針で、逆に現場の拡大解釈を許す結果となる。
 近衛首相らは、陸軍を止める代わりに、その関心を南に向けようと、今度は南方準備に取り掛かることに同意した。

企画院総裁・鈴木貞一・・・近衛さんは仏印をやらないと・・・南方をやらなければ、北のほうに陸軍をやらせんかという心配があったから、南ならすぐに戦にならないという考えだった。

ナレーション・・・陸・海軍のバランスを取ったこの内向きの対応が最悪の結果を生むことになる。

海軍省軍務局中佐・柴勝男・・・アメリカも東洋方面で自ら日本と事を構えることはしないだろうと。とにかく関心はヨーロッパの戦争の方に強く向いている。ですから、まさか、そこまでは来んだろうという考え方が強くあった。

森山優准教授・・・ここまでならば自分たちとしては抑制的に動いているつもりであると。蘭印まで行きたいが、本当は手前で止めているんだから、ある意味、烏合の衆が寄り集まって綱引きをしながらいつの間にか変な所に行っちゃっていると・・・。

ナレーション・・・仏印への進駐は、アメリカの態度を決定的に硬化させた。それまでの部分的輸出制限から、一気に一滴の石油も日本に売らないとする全面禁輸へと踏み込んだ。
 当時、アメリカの反日世論は急激に高まっていた。アメリカ政府内では対日強硬派が力を拡大。日本交渉の時間稼ぎを考えていたハル国務長官らを徐々に圧迫。そうした中で、強硬措置をスタートさせた。
 ルーズベルトもこれを追認。制裁解除には中国と仏印からの撤兵が条件に掲げられた。
 日本の首脳部が方針を曖昧にして選択肢を残そうとしたことが、最悪の結果を惹き起こした。全面禁輸を覚悟していなかった軍の中枢でもたちまち混乱が広がった。

 日本の緊急時に日本のリーダーたちは何一つ決められない。いろいろある意見を一本化できず、様子を見ているうちに、全面禁輸が現実のものになっていった。
 石油の備蓄は2年分くらい。国家の機能が停止するのは時間の問題。ことここに到って、リーダーたちの選択肢は2つだけ。
 一つは、中国からの撤兵を飲む「対米譲歩」
 もう一つは、南方の資源を「独自調達」する。

 前者は国内、後者は英米の反発が必至。まさに進退窮まれり。
 もう結論を先送りすることは許されない。今度こそ、国家の大局に立って決断せざるを得ない。しかし、リーダーたちにとって決断は、この後、さらに困難を増していく・・・リーダーたちはうろたえていた。

(開戦まで96日)9月3日。第50回連絡会議。リーダーたちは究極の選択と向き合うことになる。

ナレーション・・・突如、現実的問題としてのしかかってきたアメリカとの戦争。リーダーたちの煩悶。
 これまで対米強硬派の中心人物と語られてきた陸軍幹部の遺族を訪問・・・国策を起案する中枢、東条英機の腹心、佐藤賢了・陸軍省軍務課長・・・意外にも素顔の佐藤は対米戦争に戸惑っていたという。制服の軍人というのは表向きは好戦的なことを言う。軍人として当然だけれど、開戦の前日になっても、やっぱりやるんでしょうと。・・・バカ!負けると分かっている戦争をやるバカがあるかとしか言わなかった。

 深刻な動揺が広がったのは海軍の方。
海軍省局長・保科善四郎・・・海軍の最高首脳部は、絶対やっちゃいかんという考え。そういう力はありませんよ。そんなことを目標にして日本の陸海軍の戦備ができているわけじゃない。

海軍省課長・高木惣吉・・・幾度、対米戦の演習をやっても、あるいは図上で演習をやってみても勝ち目がない。

ナレーション・・・間もなく陸軍の方でも対米戦争に慎重を望む声があがる。日中戦争も終わらない中で、アメリカに挑むことの無謀を現場の指揮官たちは訴える。

 しかし、いざ戦争回避を決断するとなるとリーダーの覚悟は揺れた。これまで失われた20万の兵の命。毎年国家予算の7割にも達した陸海軍費は何のためだったのか。国民は失望し、国家も軍もメンツを失うと恐れた。
 この頃、軍の体制は、中堅層を中心にリーダーを強硬に突き上げ始めた。油が底をつくだけでなく、アメリカが戦力を増強し、ますます、日本は引き離される。一日も早く開戦すべしと主張。
結局、リーダーたちには、軍の部下や国民を説き伏せるだけの言葉がありませんでした。

企画院総裁・鈴木貞一・・・東条君が言うたのは、あれだけの人間を殺して、そして金も使い、ただ何も手ぶらで帰って来いということはできない。

歴史家(日本現代史)・ジョン・ダワー博士・・・人が死ねば死ぬほど兵は退けなくなります。リーダーは決して死者を見捨てることが許されないからです。この「死者への負債」は、あらゆる時代に起きていることです。犠牲者に背を向け「我々は間違えた」とは言えないのです。

 <藤森注・・・・・次回(1月15日)の「後編」はさらに驚愕の証言を紹介します。>

<文責:藤森弘司>

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