2011年7月15日 第51回「トピックス」
官界に<坂本龍馬>現る!!

●(1)経産省の高級官僚である「古賀茂明氏」が今、経産省で干されています。それは民主党の「公務員改革」が堕落したからです。どの分野でも、私(藤森)が知る限り、本当に能力がある人、本当に天下国家を考える人は、パージされる傾向にあります。

 そうするとどうなるか?「スッカラ菅氏」のような厚かましくてどうしようもない人間が総理大臣にしがみつき、糟糠の妻がそれを支えるという醜い社会ができてしまいます。民主党の「スッカラ菅総理大臣」があまりにも酷すぎるので、「義憤(?)」に駆られて、いろいろ情報を集めたり、このホームページで批判をしていますが、そういう中で、古賀茂明氏のケースはさらなる「義憤」に駆られて、新聞などの切り抜きを沢山集めていました。
 いつか古賀氏のことは、このホームページで思い切り書いてみようと思っていましたが、古賀氏の本を読んで、急遽、載せることにしました。

 言いたいことは沢山ありますが、私(藤森)の下手な文章よりも、もっと相応しいものを紹介したほうが説得力があると思い、下記の二つを紹介します。
 下記の(2)は、古賀氏のことを知るのには一番相応しいと思い、紹介します。

 さて、下記の(3)は、古賀氏の著書の中の「序章」の部分の紹介です。
 私は、古賀氏の問題が起きてから、テレビ出演している古賀氏を関心を持ってみていますが、例えば、元行革担当大臣だった「渡辺喜美氏」のようにファイト溢れる闘士という感じがまったくしないのです。

 決してハンサムではありません(?)が、穏やかな好人物的なタイプの方です。しかし、今、彼が立ち向かっているテーマは、巨大も巨大、うっかりすれば・・・時代が違えば「暗殺」されかねないほどの暗部に取り組んでいらっしゃいます。

 私(藤森)は、古賀氏の「勇気」と「根性」に驚いています。「義侠心」・・・・・「国士」であると思っています。古賀氏は以前に「癌」を患っています。また、天下国家のためにこれほど重要なことをしながら、干されに干され、ついには、下記にあるように、上司である松永事務次官から退職を迫られています。
 私のような微力な人間には、古賀氏を応援する手立てがまったくありません。せめて、マイナーなこのホームページで紹介するくらいしか能力がありません。

 このホームページをご覧の皆様にお願いします。下記の(3)で紹介している古賀氏のご著書を購入するという形で、古賀氏を応援してください。日本には古賀氏のような方が絶対に必要です。閑職に追いやられていますが、官僚でいることが非常に重要で、古賀氏にはさらに頑張っていただきたいと願っています。是非、応援してください。伏してお願い申し上げます。
 <「日本中枢の崩壊」古賀茂明著、講談社、1600円

●(2)平成23年7月1日、夕刊フジ「2011『日本』の解き方」(高橋洋一)

 <経産次官が正式に退職要求・キャリア官僚を追い込んだ民主党公務員改革の「変節」

 とうとう経産省の松永和夫事務次官が正式にキャリア官僚の古賀茂明さんに退職を要求した。
 古賀さんは旧知の人だ。安倍政権時の2007年7月、渡辺喜美行革担当相が手がけた国家公務員法改正が成立した。その当時私は官邸で内閣参事官(総理大臣補佐官)としてこの仕事を手伝った。その後、安倍首相が退任して私も役人を辞めたが、渡辺大臣の顧問として公務員改革をみていた。

 福田政権になって08年6月、渡辺行革担当相は公務員改革基本法を成立させた。それに基づき国家公務員制度改革推進本部事務局が作られたが、その牽引車だったのが古賀さんだ。

 同事務局には渡辺大臣補佐官で公務員改革基本法の実質的な立案者だった原英史さんもいたが、麻生政権で急速に公務員改革のムードがしぼんで、原さんは政権交代前に役人を辞めた。
 そのような中で頑張っていた古賀さんは一年前に民主党政権で期待していた公務員改革が一向に進まない状況を憂い、批判記事を週刊誌に書いた。現役官僚として異例のことであるが、やむを得なかったのだろう。そこで、非公式の退職を経産省から打診されたが、拒否して、その後は大臣官房付という閑職に追いやられて、今に至っている。

 経産省が古賀さんを辞めさせたい理由は簡単だ。官僚は時の政権の政策執行をするわけだから、政権の善し悪しを判断するのでない。サラリーマンが命令であれば意に反したことであっても従うのと同じだ。官僚の場合、税金で給料をもらうわけで、わがままは許されない。もし政権の批判をしたければ官僚を辞めて堂々と行なえばいい、などの理屈だ。

 古賀さんもこれらの話は百も承知の上だ。それでも止むを得なかったのだ。内部告発と似ているが、古賀さんが行なった批判で民主党の公務員改革が白日の下にさらされた公益と比較考量すべきだ。
 閑職に追いやるのは、たとえ嫌がらせであっても人事上の理由ということで正当化される。もし古賀さんの問題をあげつらおうとすれば、出勤・退庁時間や昼食時間の厳格な管理、電話やパソコンの私的利用、勤務時間内での外出の許可、勤務時間外であっても役所の肩書の使用制限など嫌がらせは山のようにある。

 そもそも民主党は公務員改革を推進してきた。天下りについても、現役のまま出向させるから天下りでないという方便は、かつての民主党なら「裏下り」と批判しただろうが、今では「合法」と平気でいう。そんな民主党の変節が、ここまで古賀さんを追い込んだといえる。民主党がまともに公務員改革をやったら古賀さんも批判せずにすんだはずだ。(元内閣参事官・嘉悦大教授)

●(3)「日本中枢の崩壊」古賀茂明著、講談社、1600円

 <序章・・・福島原発事故の裏で>

 <賞賛される日本人、批判される日本政府>

 2011年3月11日に発生した東日本大震災・・・・・。
 その後、テレビに映し出される想像を絶する被害、刻々と送られる津波の映像。寒さに震える10万単位の被災者がいる。そして、福島第一原発では名もない勇者たちが命がけで作業を続けている。
 自分にも何かできないか・・・・・。お金ではない、いまは物だ、という報道を聞いて、知り合いのボランティアグループに救援物資を送る。それでも、何もできないという無力感にとりつかれる。

 他方で、ここは大丈夫なのだろうか、放射能汚染はどこまで広がるのだろう・・・こんな心配をする自分がいる。そんなことを考えることで、原発の近くで必死に災害復旧のために戦っている方々に申し訳ないという後ろめたさが心を覆う。何をしても手につかない。そうこう思いを巡らせているあいだも、刻々とニュースが飛び込んでくる。
 被災地から離れた場所にいる方々の多くは、そんな状況だったのではないか。

 3万人近い死者・行方不明者・・・これだけの惨事のなか唯一の光明は、われわれ日本人が世界中から賞賛される素晴らしい民であるという事実に改めて気づくことができたことであろう。
 身を犠牲にして人々を津波から守ろうとした勇者たち、そして忍耐強く秩序を守り、自力で立ち上がろうとする人々、苦しいなかでも思いやりと助け合いの心を行動で示す被災者たち・・・・・。世界のメディアが賞賛し、世界中に共感と支援の輪が広がった。涙が出るほど嬉しいことだった。

 他方、地震後の日本政府の対応には世界中から非難の声が集中した。日本政府を賞賛する論評は、残念ながら、私は見たことがない。原発事故対応を含め、日本のメディアが政府批判を抑えるなか、海外の論調は総じて厳しかった。
 私がもっとも驚いたのは、震災が起きるやいなや、信じられないことに、これを増税のための千載一遇のチャンスととらえる一群の人たちが即座に動き始めたことだ。震災対応よりもはるかにスピーディな反応。驚くというより悲しかった。

 一方、震災直後の週末を挟んだ3月15日、「無」計画停電実施発表の混乱が続くなか、関東各地の税務署には長蛇の列ができていた。政府の心ない連中が自らの利権維持に汲々としつつ国民に負担増を求めようとしているのに、地震でも、停電でも、真面目に納税しようという市民の涙ぐましい姿だ。私は、この国の民はなんと素晴らしい人たちなのだろうと思うと同時に、行政府の一員として本当に申し訳ない気持ちになった。

 絶対に安心と聞かされてきた原発・・・どんな地震でも大丈夫だと、われわれは思い込まされてきた。反論したいと思ったことは何度もある。しかし、それだけの根拠となるデータを持ち合わせていなかった。
 四基で、いや、六基といっていいだろう、同時に生じた大事故。眼前の事実はすべての迷信をいとも簡単に覆した。

 それでも、政府は当初、「事故」ではなく、「事象」<藤森注・・・「トピックス」第49回、「原子力発電所の真実(2)」の最後の部分をご参照ください>といい続けた。「爆発」が起きても、「大きな音が聞こえた」「白煙が上がるのが目撃された」「しかし何が起きたのかは分からない」という東京電力に対して、「情報が遅い」といって総理が怒ったという話が流れた。永田町と霞ヶ関の悪いところが集中的に出てしまっている、そう感じた。
 しかし、私は当初、こういう事態は経験のないことだから、いくつかの不手際が起きてもやむを得ないと思った。失敗をあげつらうより、いま何をすべきかに集中すべきだと思ったのだ。心を一つにして国難に立ち向かうべきだと。

 そして、マスコミも批判を抑え、国民に冷静な対応を呼びかけ続けた。国民が一致協力してがんばろうというキャンペーンを展開した。
 「想定外の地震」「想定外の津波」「想定外の原発事故」・・・・・、すべてが「想定外」の一言で許される、そんな空気が支配した。
 みんな必死で戦っている。自分のためだけではない、みんなのために戦っている。国民はそう信じた。
 しかし、そうしたなか、最初の数日で、私の心のなかにどうしようもない違和感が募っていった。

 <官房副長官「懇談メモ」驚愕の内容>

 「節電啓発等担当大臣に蓮舫大臣」「災害ボランティア担当総理補佐官に辻元清美議員」「菅総理が現地を視察」、そして「菅総理の会見」・・・・・しかし、そのいずれも危機対応のための具体的な措置ではなく、政権浮揚のためのパフォーマンス<藤森注・・・「トピックス」第41回「菅総理大臣・即刻退陣せよ!!」> <第42回「買いだめの問題と菅無能政権」> <第43回「強制的事業仕分け」ご参照>ではないか。私にはもっとも大事な初動の数時間、政府の危機感が伝わってこなかった。こうした一連の行動を見て、安心感が高まったという国民はいただろうか。

 むしろ、この震災を「政権浮揚」の最大の機会と考えているのではないかとさえ感じた人々も多かったのではないか。地震の直前まで外国人献金問題で追及を受けていた菅政権。そこに未曾有の大震災。緊迫した政局にとりあえずタオルが投げ込まれた、という感覚を持つのは不謹慎ではあるが、政治家であればある意味自然だったかもしれない。
 しかし、マスコミから回ってきた官房副長官の一人の懇談メモを見て私は驚いた。「これは間違いなく歴史の一ページになるよ」と高揚した発言。開いた口が塞がらないとはこのことだ。

 現場や東電、原子力安全・保安院、そして官邸でおきていることが目の前に浮かぶ。おそらく、この最初の数時間で、東電や官僚の官邸に対する不信感は瞬く間に頂点に達したであろう。そうなれば、官邸もまた彼らに不信感を持つ。負のスパイラルだ。
 これほどの危機にありながら、以後おそらくすべての連携がうまくいかなくなる。そして、対応が後手後手に回るだろうという確信が芽生えた。

 危機管理の要諦はいくつかある。アメリカの人気テレビドラマの「24」をご覧になった方は多いだろう。常に危機管理の話なのだが、それは日本でも同じはずだ。事が起きたらまず何をするか・・・・・2011年3月の原発事故に当てはめると、次のようになるだろう。
 まず現場に総理直結のスタッフが真っ先に飛ぶ。最高の能力と体力と度胸も兼ね備えた、総理が無条件で信頼できる者でなければならない。総理との関係はわからないが、イメージだけでいえば、民主党では、たとえば馬淵澄夫氏のようなタイプだろう。

 実際にはその代わりに総理自らが原発に飛んだ。しかし、もちろん現地に政府の基地を設置したわけではない。もし、そのときに爆発などが起きていたらと思うと、ぞっとする。
 次に官邸との直接の通信手段確保のため基地局を設け、テレビ回線で常時会議が現地とのあいだでできるようにする。こうすれば現地の情報がリアルタイムで官邸に届く。このときは東電にはそのシステムがあったが、官邸にはなかった。しかも、官邸は驚くことに、当初、東電の情報を経産省原子力安全・保安院を通して収集していたという・・・・・。

 東電は民間企業とはいえ、お役所体質と隠蔽体質ではおそらく役所以上であることは累次の原発不祥事を追及してきた民主党の政治家が知らないはずがない。情報は、社内を出るまでに何重ものスクリーニングを経なければならず、しかも、一番重要な、すなわち悪い情報ほど出てきにくいシステムになっているはずだ。
 経産省でも、入ってきた情報はまず、幹部に上げなければならない。それから官邸に届く。菅総理が、情報が遅いと怒鳴ったという報道があったり、官房長官も情報伝達が迅速にいかないことに苦言を呈する場面があったが、これは本来あってはならないことである。

 国民のあいだに、「この人たちは何が起きているのかよく分かっていないのだ」「東電は情報を隠しているのか」という疑心暗鬼が広がり、ただでさえ不安に駆られている国民を、さらに心配させてしまうからだ。アメリカの大統領なら、万全の情報収集態勢を敷いたうえで、「みなさん安心してください。われわれはすべての情報をリアルタイムで把握しています。必要な情報は直ちにみなさんにお伝えします」といったであろう。

 次に大事なことは、関係者間の情報の共有と共通認識に基づいた対応策の決定である。アメリカのテレビドラマ「24」でよく目にする場面。テレビ画面の前で、閣僚や軍の幹部が一堂に会し、スタッフが情報を、画像で示されたデータを駆使しながら詳細に報告。対応策のオプションについて議論し、方針を大統領が決断する。
 こうすれば、情報と認識が幹部や主要スタッフのあいだで共有されるので、その後の行動に不整合が生じず、迅速な対応が可能となる。

 報道された総理動静を見ていると、時折会議は開かれるが、それもセレモニー的。具体的な対応策について議論したり決定したりしているというより、パフォーマンス的な色彩が強く感じられた。むしろ、個別に各省幹部や専門家が呼び込まれ、その都度、総理から指示がなされていたようだ。
 これでは、一糸乱れぬ迅速な対応は期待できない。
 その後の原発事故対応を見ても、さまざまな問題点が浮かび上がる。

 総理が現地に飛んだことは、初動対応で極めて負荷が高くなっていた官邸スタッフにさらなる負荷をかけた。総理の意図がどうであったにせよ、対応の準備ができていない段階でいきなり総理が現地に入るとなれば、そのときの官邸スタッフは、あらゆる準備をしなければならない。相当な労力がそこに割かれることになる。その間、当然ながら他の業務の処理速度は遅くなる。

 原発に関する情報が思うように入らなかったからといって、総理が現地に行く必要があるか。答えはNOだ。トップ自らが現地に乗り込み政治主導をアピールしようとしたという説もあるが、そうだとすると、政治主導のはき違えもはなはだしい

 その後、総理は既存の原子力安全・保安院や原子力安全委員会への不信感から、同窓の東京工業大学卒の専門家の助言<藤森注・・・「トピックス」第43回「強制的事業仕分け」の(2)ご参照>を得ることにした。しかし、これは政治主導ではなく、個人としての「政治家」主導に過ぎない。もちろんさまざまな意見を聞くのは良いが、国家の組織を動かせない総理が果たして国難に対処できるのか。この答えも、もちろんNOだ。

 民主党の政治家のなかには、政治主導を官邸排除と同義だと考えている人たちが多いようだ。政務三役のなかには、自ら電卓をたたくパフォーマンスを見せた人もいるくらいである。天下太平の世の中ならそれも良いのかもしれないが・・・・・。

 <「ベント」の真実>

 3月末から4月にかけて一時「ベント」をめぐる官邸と東電の争いがあった。争いといっても表向きではなく、おたがいマスコミに対してそれぞれの主張を宣伝し合うというかたちで展開された。
 詳しい事情は不明だが、報道によれば、福島第一原発一号機の圧力容器内の圧力が上昇し、容器の破損が懸念された。そうした深刻な事態を防ぐため、容器内の水蒸気を外部に逃がすベントという作業を行なうことになった。官邸では当初、3月11日深夜に、その方向性が事実上決まっていたのだが、実施されたのは翌12日午前10時過ぎ。

 3月下旬になって、この遅れは、総理の現地視察の準備に追われたため、あるいは、総理が現地にいるあいだは放射性物質を放出できなかったため、などという憶測がなされ、官房長官の会見でも質問された。当初はあまり真面目に取り合わなかった官房長官だったが、マスコミからの批判は日に日に強まった。すると一転、ベントを総理が指示していたにもかかわらず、東電がそれを遅らせたのだという解説が官邸筋から流され、テレビ朝日の「報道ステーション」に出演した寺田学・前総理補佐官もそう説明した。
 しかし、もし総理がどうしてもベントが必要だと判断したのなら、ただ東電に法律(原子炉等規制法)に基づいた命令を発すれば良かった。

 ベントによって何をするかといえば、放射性物質を外部に出すのだ。どれくらいの濃度かも分からない。軽々にやって、事故が小規模で終わったとしたら、後で「なぜベントしたのか」と怒られるかもしれない。世論だけでなく、政府だって掌を返して東電を批判するかもしれない。普通はそう思うだろう。だからこそ、「政府が責任を取る<藤森注・・・1歳前後に大きなトラウマ(?)があり、他人に「尻拭い」をさせるスッカラ菅総理が最も苦手なこと。つまり、総理大臣にもっとも相応しくないタイプであり、彼を選んだ民主党の国会議員がいかに幼稚かがわかります。「クリーン??」で「オープン??」というだけで選んだのですから。>から心配しないで開けなさい」というメッセージを送る「命令」が用意されているのだ。

 それをなぜすぐに使わなかったのか。命令できることを知らなかったのか。官僚が知らないはずはない。総理にそれを上げなかったのか。だとすればサボタージュだということになるし、総理の信頼するスタッフが無能だったということになる。知っていたが、東電の判断でやれといったのかもしれない。だとすれば責任逃れである。

 政治主導とは、本来、官僚排除ではない。政治と官僚のどちらが主導するかという話である。官僚主導など本来あってはならない。政治が主導し、官僚はそれをサポートし、それに従って政策を実施する。当たり前のことができていなかったようだ。
 そして、リーダーの一番大事な資格・・・・・それは、リスクを取って判断し結果責任を負う、ということだ。総理にその覚悟がなかったのか、あるいは官僚が自分たちの責任を逃れるために東電に判断を押しつけようとしたのか・・・・・。

 <東電の序列は総理よりも上なのか>

 ところで、正式な命令がなかったとしても、時の総理が指示したのなら、普通は黙って従いそうな気もするが、なぜそうならないのか。
 もちろん、東電がお役所体質であり、形式を整えないと動けない、そして自分でリスクを取れない、そんな組織だったという面もあると思う。しかしそれよりも、東電は、時の総理の指示を相当軽く考えていたのではないか・・・・・これが私の見方だ。

 私は過去に電気事業関係のポストに就いた経験のある同僚から、「東電は自分たちが日本で一番偉いと思い込んでいる」という話を何回か聞いたことがある。その理由は後にも書くが、主に、東電が経済界では断トツの力を持つ日本最大の調達企業であること、他の電力会社とともに自民党の有力な政治家をほぼその影響下に置いていること、全国電力関連産業労働組合総連合(電力総連)という組合を動かせば民主党もいうことを聞くという自信を持っていること(電力総連会長から連合会長を務めた笹森清氏は菅政権の内閣特別顧問)、巨額の広告料でテレビ局や新聞などに対する支配を確立していること、学界に対しても直接間接の研究支援などで簡単にいえば、誰も東電には逆らえないのである。

 テレビ局の報道も、福島原発の事故が発生した当初は、東電を批判する論調ではなかった。経営幹部の影響下にある軟弱なプロデューサーは、東電批判につながる内容になると、直ちに批判色をなくすよう現場に強力な命令を下したという。

 ところが、おもしろいことに、河野太郎衆議院議員がブログなどで東電とテレビ局の癒着を糾弾すると、視聴者からの批判が相次ぎ、癒着批判を恐れたテレビ局が、急に掌を返したように東電批判を始めたのである。しかし、その背景には、当初はまだ東電の力は侮れないと思っていたテレビ局も、4月に入ると、その経営が今後苦しくなるという見通しを持ち始め、スポンサーとしての価値がないと判断したという面もある。

 いずれにしても、少なくとも事故発生当初は大惨事になるとも思わず、過去の自分たちの力を信じて、「総理といえども相手にせず」と考えていたとしてもまったく不思議ではない。それは、事故後に「血圧が高くなった」などという理由で1週間も入院してみせた社長の態度<藤森注・・・「トピックス」第43回「強制的事業仕分け」の中の(8)ご参照>に如実に表れているのではないか。
 だからこそ、官邸は、一刻も早く伝家の宝刀である法律に基づく命令を出す必要があったのである。

 <天下りを送る経産省よりも強い東電>

 「まえがき」にも書いたが、2011年1月、世間の耳目を集めた話題として、前年の夏まで資源エネルギー庁長官を務めていた経産官僚が東電に天下ったという事実がある。
 この事実は、経産省がその電力事業に対する規制権限を背景にして天下りを押しつけたというように見える。しかし、天下りの多くの場合がそうなのだが、通常、天下りは双方にとってメリットがある。つまり東電側は、規制に関して経産省がさまざまな便宜をはかってくれると期待している、こう考えるのが普通だ。

 だから、持ちつ持たれつ、といいたいところだが、少し事情は違う。通常の時期はそうした平和な状態が続くのだが、こと電力の規制緩和というような大きな問題になると、両者は時に衝突することもある。過去何回か、電力の規制緩和が推進された時期がある。そしてそのたびに、両者の間に主導権争いがあり、政治家や学者、マスコミを巻き込んだ大戦争が起きた。そして、必ずといっていいほど毎回、経産省内の守旧派が力を増し、改革派がパージされるという歴史が繰り返されてきた。

 当初はいつも改革派がリードする。マスコミもこれを支援する。しかし、大詰めを迎えるといつも、なぜか審議会では優勢だった改革派の多くが妥協案に乗り、最後までがんばれる委員はほとんどいなくなる。
 電力業界には競争がない。ここに競争を導入して電力コストを下げることは、消費者にとっても産業界にとっても望ましい。

 自由化の議論のもっとも先鋭的なものが、後に書く通り、発電会社と送電会社を分離する発送電分離。このテーマについて本気で推進しようとした官僚が何人かいた。あるいは核燃料サイクルに反対しようとした若手官僚もいた。しかし、ことごとく厚い壁に跳ね返され、多くは経産省を去った。後述するが、私も十数年前、発送電分離をパリのOECDで唱えたことがあるが、危うく日本に召喚されてクビになるところだった。その理由とは何だったのか・・・・・。

 そして逆に、東電とうまく癒着できた官僚は出世コースに残ることが多かった。東電ならば、政治家への影響力を行使してさまざまなかたちで経産省の人事に介入したり、政策運営に介入したりすることも可能だといわれている。
 こうした巨大な力を見せつけられてきた経産官僚が、本気で東電と戦うのは命懸けだ。つまり、政治家も官僚も東電には勝てない。そう東電が過信していたからこそ、福島原発事故で初動の躓きが生じたのかもしれない。

 <「日本中枢の崩壊」の縮図>

 東電の問題を今後どう解決するのか・・・私は一つの私案をまとめて経産省の官房長や資源エネルギー庁の担当課長などにそれを伝えた。そして、それを経済誌「エコノミスト」に寄稿しようとした。しかし、それは官房から止められた。
 「そんな売名行為は認められない」というのだ・・・・・。思いもよらない批判に対して、なるほどそういう見方があるのだなと驚くと同時に、締め切り間際だったということもあり、調整の時間もなかったので、そのときは引き下がった。

 しかし、経産省内部の密室で議論するよりも、早い段階でさまざまな論点を国民の前に出し、それをもとに議論をしてもらうことは有益だと思った。私は電力関係を担当しているわけではなく、まったく所管外だから、それが経産省の立場だと誤解されることもないだろう。個人の意見として、一国民の意見として提言することは悪いことではないし、むしろ社会に貢献することになると思う。
 「売名行為だというのは、その人がそういう願望を持っているからそう見えてしまうんだよ、気にすることはないよ」と、ある財界人はいってくれた。そのとき官房長に送った資料は巻末に補論として添付した。

 さて、ここまで、福島原発事故の最初の一日のごく一部の出来事を振り返りながら、いくつかの問題に触れた。日本の政治行政にはさまざまな問題があると痛感し、不安を感じた読者も多かったのではなかろうか。
 ちょっと思い出してみただけでも、次のように多くの論点が出てくる。
 まず、総理のリーダーシップの問題と政治主導の在り方。民主党に政治主導ができないのはなぜか。リーダーシップ発揮のための条件は何か・・・・・。第一章で述べる国家戦略スタッフのような自前の強力なスタッフが必要なのである。これがあれば大分ちがった展開になったのではないか

 リーダーシップとして重要な要素、それは、緊急時にこそリスクを取って判断し、責任を取る姿勢だ。そして、その姿勢を官僚をはじめとする他のプレイヤーが信じられるかどうか、これが問題になる。
 日本の政治家や官僚の組織力の問題もある。緊急時にこそリスクを取って判断し、責任を取る姿勢だ。そして、その姿勢を官僚をはじめとする他のプレイヤーが信じられるかどうか、これが問題になる。

 日本の政治家や官僚の組織力の問題もある。緊急時に、日本の美徳「チームワーク」だけで乗り切れるのか。がんばっている証しが徹夜徹夜の勤務という評価軸では、かえって時間を浪費して決断できないという罠に陥る。

 そして、モノ作りや技術力への偏重と過信もある。日本の原子力発電は絶対に安全だといっていたが、それがいかに空虚なものだったか。アメリカのいう通りに原子炉を冷却し、窒素を注入するなど、まったく主体性は見えなかった。それ以外でも、日本の膜技術は世界一といっていたが、放射能除去技術でフランス企業に教えを請う。ロボット技術は世界一と自慢していたが、結局なかなか使えない・・・・・。

 官僚の情報隠蔽体質が所管業界にまで蔓延している事実も挙げなければならない。安全規制が、国民のための安全規制ではなく、官僚自らの安全を守る規制になっていることもそうだ。

 2011年4月30日に内閣官房参与を辞任した東京大学教授の小佐古敏荘氏は、放射性物質の健康への影響や放射線防護策の専門家として、福島県内の小学校や幼稚園などでの被曝限度を年間20ミリシーベルトと設定したことを、「とても許すことができない」と批判した。約8万4000人の放射線業務従事者のなかでも20ミリシーベルトもの大量の被曝をする者は、平常時では極めて少ない、というのだ。これなども、政府や文部科学省の官僚が責任を問われないようにあらかじめ上限を引き上げておこうとしたのだとすれば、国民はなんのために税金を払っているのかわからない。

 福島原発の事故処理を見て、優秀なはずの官僚がいかにそうでないか明白になった。いや、無能にさえ見えた。専門性のない官僚が、もっとも専門性が要求される分野で規制を実施している恐ろしさ。安全神話に安住し、自らの無謬性を信じて疑わない官僚の愚かさ。想定外を連呼していたが、すべて過去に指摘を受けていた。ただ、それに耳を貸さなかっただけ。「想定外症候群」と呼べる。

 原子力村という閉鎖空間にどっぷりつかってガラパゴス化した産官学連合体も恐ろしい<藤森注・・・ジャーナリストの上杉隆氏は、これに「報」、つまり「大新聞やテレビ」を含めています。「トピックス」第37回「マスコミ界に<坂本龍馬>現る!!」ご参照>
 しかし、これらの問題は、決して今日に始まったことではない。何十年間という歳月をかけて築かれた日本の構造問題そのものである。未曾有の危機だから、それが極めて分かりやすいかたちで、国民の目の前に晒されたに過ぎない。「日本中枢の崩壊」の一つの縮図が、この危機に際して現れた、そういって良いだろう。

●(4)平成23年7月15日、日刊ゲンダイ「人と事件」(野村隆夫)

 <組織的「やらせメール」でさらけ出された九電社長のお粗末

 九州電力は墓穴を掘った。九州電力玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開を巡る組織的な「やらせメール」騒動。6日夜に開いた釈明会見で、当初、真部利応社長(66)は責任の所在についてノーコメントを貫いていたが、秘書から渡されたメモを読んだ直後に態度を一変させ、自らの責任を認めた。ただし、進退については、松尾新吾会長(73)が北欧から帰国してから相談するという体たらくぶりだった。

 真部社長は京都大学工学部電気工学科卒の技術者。取締役に昇格してわずか1年後の07年6月に、14人抜きで社長に大抜擢された。
 今回の「やらせメール」問題では、真部社長ら役員・幹部社員のコンプライアンス意識の低さが露呈した。投稿されたメールとファクスは589通。このうち再稼動に賛成したのは286通で、半数に近い130通以上が九電関係者からのものだった。

 「やらせメール」は、当時の副社長の指示による組織ぐるみの“犯行”。6月末で退職した原子力発電担当の段上守副社長(66=現・大分共同火力社長)は、対応を指示した責任を取って、近く大分共同火力の社長を辞任する方向だ。

 東電福島第1原発の事故後、九電が最優先すべき経営課題は定期検査で止まっている玄海原発の運転再開だった。九州にはトヨタ自動車九州の宮田工場(福岡県)、日産自動車九州工場(同)、ダイハツ九州の中津工場(大分県)の自動車工場群があり、東芝の大分工場、ソニーセミコンダクタ九州の熊本テクノロジーセンターなど半導体工場も集積している。電力不足を回避することが、九電の最大の使命になっていた。九電の最高実力者の松尾新吾会長は九州経済連合会会長でもある。

 九電をよく知る地元経済人は、「“勇み足”ではない。企業体質に根ざしている」と言い切る。
 「九電は、九州の政界、財界、マスコミ界に君臨する絶対君主みたいなものだ。唯一の、目の上のたんこぶが原発反対派の面々。現地で開かれる説明会や公聴会では、反対派に対抗して社員を動員することが当たり前になっていた。05年2月のプルサーマル公開討論会でも、終了後のアンケートで約65%が理解が深まったと回答したが、これだってやらせだ。これが習い性になり、今回も業務連絡の感覚でメールを送った」(同)

 「九電の役員も幹部も3・11後、人々の価値観が変化したことに気付いていなかった。これまでと同じ手法で世論操作しようとしたから、九電の子会社の男性がコンプライアンスに反する行為として共産党に内部告発したわけだ」(別の地元経済人)

 それにしても、お粗末だったのが真部社長だ。8日に松尾会長に会い、自らの進退を問うと、松雄会長は「夏場の電力の供給責任を果たすために、(真部社長に)もう少し仕事をやらせてやりたい」と判断を先送りにした。出処進退を決めることもできない社長を頂く旧態依然ぶり。二重の意味で驚きというほかはない。

 <藤森注・・・・・上記の「日本中枢の崩壊」でも述べられているように、<天下りを送る経産省よりも強い東電>と非常に似ていますね。九州の地元の経済人が言うのですから、まさに「君臨する絶対君主」みたいだというのが「実感」なのでしょう。
また、「社長」の情けなさや、「会長」との関係などは、東電の「社長」と「会長」の関係にそっくりです。時代が同じようなものを作るのでしょうか>
<「トピックス」第43回「強制的事業仕分け」の(8)(9)(10)(11)(12)をご参照>

<文責:藤森弘司>

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