2018年1月31日 第186回「今月の映画」
デトロイト
監督:キャスリン・ビグロー  主演:ジョン・ボイエガ  ウィル・ポールター  オースティン・エベール

●(1)主役の悪警官の童顔が、私(藤森)にはかなり違和感を感じていました。もっと悪役的な役者にした方が迫力があるのにと思っていました。しかし、下記の(5)で・・・

<<<市警警官を率いたクラウス(英人俳優ウィル・ポールター)の「童顔」が印象的で、ビグロー監督の意図がこの歴史的事件に託してトランプを大統領に選んだ支持層(白人ブルーカラー)の「幼稚さ」を浮かび上がらせる二重性を帯びていることを窺わせる。>>>

このようにあり、納得しました。
黒人の問題は、思ったよりも複雑な問題を孕んでいるようで、今後のアメリカは、半永久的に取り組まざるを得ない重大な課題のように思われます。

〇(2)<INTRODUCTION>

<1967年、米史上最大級の「デトロイト暴動」の渦中に観客を誘う
モーテルでの
戦慄の一夜を映像化した“衝撃の40分”を目撃せよ!>

1967年の夏、権力や社会に対する黒人たちの不満が爆発したデトロイト暴動は、アメリカ史上最大級の暴動であり、43人の尊い命が失われ、負傷者1100人以上を数える大惨事となった。

アメリカ社会の分断が著しい現代にも通じるテーマに向き合いながら、暴動の裏側で、50年もの歳月、歴史の闇に埋もれていた“戦慄の一夜”の事件に肉薄していく。

警察や軍がオモチャの銃の音を“狙撃者による発砲”と誤認したことに端を発したこの事件の被害者は、地元デトロイトのR&Bグループ、ザ・ドラマティックスのリード・シンガー、ラリー・リードを含む若い男女9人(黒人男性7人、白人女性2人)。そのうちひとりの黒人青年が白人警官に射殺され、残る8人が“容疑者”として強制的な尋問を受けるはめになった。

はたしてその夜、逃げ場なき密室状態のモーテルで何があったのか。事件の生存者たちをアドバイザーとして撮影現場に招いたビグロー監督は、理不尽な暴力によって心身共に傷つき、この世の地獄を見た若者たちの生と死を、このうえなく生々しい描写の連続で克明に映し出す。

リアルタイム感覚で映像化された“衝撃の40分”の目撃者となる観客は、50年前の事件現場にタイムスリップしたかのようなダイナミズムを肌で感じ、映画史上比類なき濃密さに貫かれた究極のサスペンスを体験することになる。

〇(3)<STORY>

1967年7月23日、アメリカ中西部の大都市デトロイトで激しい暴動が勃発した。事の発端は、黒人のベトナム帰還兵を祝うパーティーが催されていた無許可営業の酒場で警察が押し入ったこと。横暴な取り締まりに反発した地元住民との間で小競り合いが生じ、一部の市民が暴徒化したのだ。その騒乱は大規模な略奪や放火へと発展し、市の警察だけでは事態を収拾できなくなったミシガン州当局は州警察と軍隊を投入。無数の兵士と戦車が行き交うデトロイトの街は、まさに戦場と化していった。

暴動発生から3日目。音楽業界での成功を夢見る地元出身の黒人ボーカル・グループ、ザ・ドラマティックスのメンバーは、フォックス劇場でのステージを控えて期待に胸を膨らませていた。しかし出演の直前に警察からの通達でコンサートは中止され、晴れ舞台を失ったリード・シンガーのラリーは、メンバーの弟でフレッドを伴い、バージニア・パークのそばにあるアルジェ・モーテルにチェックインする。

周辺地域の平穏が比較的保たれていたモーテルは、大勢の若い黒人客で賑わっていた。ラリーはプールサイドで見かけたふたり組の白人の女の子ジュリー、カレンと親しくなる。

そして夜が深まった頃、モーテルはまたたく間に異様な緊張に包まれた。ジュリーらの遊び仲間である黒人青年カールが窓際でオモチャの銃を鳴らし、そのたわいない悪ふざけを“狙撃者による発砲”と誤認した警察と軍がモーテルを包囲したのだ。慌てて階段を駆け下りたカールは、真っ先にモーテル内に突入してきたデトロイト市警の白人警官クラウスに背後から撃たれて死亡。それは明らかに警察の規則に背く行為だったが、クラウスはカールが倒れた現場にこっそりナイフを置いて正当防衛を偽装した。

モーテルに居合わせた若者たちは次々と拘束され、1階の廊下に整列させられた。ラリーとフレッド、ジュリーとカレン、ベトナム帰りの復員兵グリーン、カールの仲間であるリー、オーブリー、マイケルの全8人である。
「お前らは犯罪の容疑者だ。銃はどこにあるのか正直に言え。撃ったのは誰だ?」
そう威圧的に言い放ったクラウスは、同僚のフリン、デメンスとともに”狙撃犯”を割り出すための強制的な尋問を開始する。その場には、騒動を聞きつけて近所の食料品店からやってきた民間警備員ディスミュークスの姿もあった。

市警と州兵の大々的な捜索にもかかわらず、モーテルのどの部屋からも銃は見つからない。苛立ったクラウスは、脅えきった8人に執拗な暴力を加え始める。黒人であるディスミュークスは、表向きは捜査に協力しながら穏便に事を済ませようとするが、極度の興奮状態にあるクラウスらを抑えることができない。人権問題に抵触しかねない現場への関与を恐れた州警察は、見て見ぬふりをしてモーテルから立ち去っていった。

もはや誰にも暴走を止められないクラウスは、いっそう過激な尋問をエスカレートさせていった。廊下からひとりを別室に連れ出し、その鼻先で拳銃を発砲したクラウスは、泣き叫ぶ“容疑者”たちに「呆気なく死んだぞ。嘘をつくとああなるんだ」と脅し文句を告げる。それは8人を順番に殺すとほのめかし、彼らを完全に服従させようとする“死のゲーム”だった。

やがてその常軌を逸した危険なゲームは、思いがけない手違いによって新たな惨劇を引き起こしてしまう。デトロイトを大混乱に陥れた暴動とは何の関係もなく、つかの間の楽しみと安らぎを求めてアルジェ・モーテルに偶然集まった若者たちは、さらなるおぞましい悪夢に引きずり込まれていくのだった・・・・・。

〇(4)<COLUMN>

<『デトロイト』と「ブラック・ライヴス・マター」>(町山智浩・映画評論家)

『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー監督の新作『デトロイト』は、今から50年前に起こった「アルジェ・モーテル殺人現場」の真相に迫る強烈な映画だ。
1967年7月25日、黒人ボーカル・グループ「ザ・ドラマティックス」は、デトロイト市中心部のフォックス劇場でコンサートをするところだったが、暴動のために公演jは中止になった。デトロイト暴動は死者43人、負傷者千人を超え、州軍はおろか、戦車まで出動する事態になっていた。

暴動の原因は人種対立だった。デトロイトは自動車産業の街として栄え、1960年までに人口は180万を超えた。東欧やイタリア、アイルランドからの移民と、南部から来た黒人たちが自動車工場の労働組合で結束した。白人と黒人の共生は、モータウン・サウンドをはじめとするデトロイト独特の文化を生み出した。

しかし50年代から白人たちは徐々に郊外の住宅地に一軒家を買って市の中心部から逃げ出した。後には黒人の貧困層が残った。しかし市警察は地元の黒人を雇用せず、67年代当時、警官の98%が白人だった。

白人警官による不当逮捕や虐待が続き、黒人住民の怒りが暴動として爆発した。警官への投石に始まり、白人商店への放火や略奪が広がり、警官はこれを暴力で封じようとした。死者の大半は警官に射殺された黒人だった。

暴動の最中、ザ・ドラマティックスのメンバーは市内のアルジェ・モーテルに泊まっていた。そこには彼らを含めて9人がいた。うち2人はオハイオから来た白人の少女。それ以外は一人のベトナム帰還兵を除く全員が10代の黒人だった。

17歳のカール・クーパーがモーテルの窓から暴徒鎮圧に来ていた州兵を見て、ほんのイタズラで陸上競技用のスタート・ピストルを撃った。たちまち警官がモーテルに突入し、「誰が撃ったんだ?」と少年少女を拷問し始め、死体が増えていいく。

この拷問シーンは40分も続く。ビグロー監督は生存者の女性の立ち合いの下、徹底的にリアルに再現する。マクドナルドのイタズラ電話による従業員レイプ事件を再現した映画『コンプライアンス服従の心理』と並んで、映画史上に残る、最も苦痛に満ちたシーンになっている。

このシーンには事件当時、進行中のベトナム戦争も影を落としている。ベトナムでは、ベトコン(ゲリラ)を狩り出すため、米兵によるベトナム農民の拷問と虐殺が蔓延していた。
また、このアルジェ・モーテルで中年の白人警官の怒りに火をつけたのは、白人の少女が黒人の少年たちと性的関係があるらしいことだった。南北戦争前からずっと、黒人男性が白人女性たちを性的に魅了することに白人男性は恐怖していたが、ロックの登場で黒人音楽に熱狂する女性たちは増加していた。
南部でずっと続いていた異人種間結婚禁止法は、この67年に、ついに憲法違反で廃棄された。

デトロイト暴動の映画化をキャスリン・ビグロー監督が思い立ったのは、2015年から全米で続いている白人警官による黒人殺害事件と、それに抗議する「ブラック・ライヴス・マター(黒人の命も大切だ)」デモの報道を観ていた時だという。

2016年に全米で警官に殺された黒人は300人以上、2017年も秋には既に200人を超えている。殺された黒人が銃やナイフを持っていた割合は3割。それ以外は丸腰で、射殺される理由はなかった。にもかかわらず、警官が有罪になった率はわずか1%にすぎない。起訴を決める大陪審も、裁判での陪審も白人ばかりだからだ。黒人の人口は国民の12%にすぎないので広い地域から陪審を選べば、当然、白人が多数派になってしまう。

実は、警官による黒人殺害数は増えているわけではない。昔は、この『デトロイト』で描かれているように、警官が射殺した黒人にナイフを持たせたりして、正当防衛を偽装していたから問題にならなかった。だが、スマートフォンが普及して、警官たちが無抵抗で何も持っていない黒人をいきなり射殺している現場の動画が撮影され、それがネットで拡散されたので、凶悪な実態がやっと明らかになった。

1992年のロス暴動も動画がきっかけだった。スピード違反しただけの黒人男性ロドニー・キングを警官たちが袋叩きにしているビデオ画面が公開され、警官たちが裁判で無罪になったことで怒った黒人たちが暴動を起こし、最終的に63人が死ぬ惨事になった。

デトロイト、ロス、ブラック・ライヴス・マターと、この50年間で状況はまるで変っていない。ところがトランプ政権は逆に「法と秩序」を守るため警察権力の強化を訴えるばかりだ。

ザ・ドラマティックスのメンバー、ラリー・リードはアルジェ・モーテルの虐殺を生き延びたが、グループを辞めた。この理不尽な現実を体験した後で気楽なラブソングなど歌っていられない。リードは聖歌隊指揮者になり、教会で人々の心を癒すために歌い続けている。『デトロイト』の主題歌「グロウ」はリードの作で、劇中で若きリードを演じたアルジー・スミスとリードが切々とデュエットしている。

「人の平等はいつ達成されるの? 僕らはいつ大人になるの?」と。

<Tomohiro Machiyama・・・1962年生まれ。映画評論家、コラムニスト。日本の出版社勤務を経て、アメリカ・バークレーに在住し、アメリカや映画などについて数多くのメディアで精力的に発言している。主な著書に、「キャプテン・アメリカはなぜ死んだか」(文春文庫)、「教科書に載っていないUSA語録」(文藝春秋)、「(映画の見方)がわかる本 ブレードランナーの未来世紀」(新潮文庫)などがある>

〇(5)<黒人の包囲網を構築した白人が陥った「被包囲心理」の皮肉とトランプ支持層との相似形>(越智道雄・明治大学名誉教授)

この映画では、黒人が一部の極右デトロイト市警官らに同市のアルジェ・モーテルに閉じ込められ、「暴動」を引き起こした真犯人にでっちあげられかけた現実の歴史的事件(1967年)が再現される。
ところが、これらの市警警官を率いたクラウス(英人俳優ウィル・ポールター)の「童顔」が印象的で、ビグロー監督の意図がこの歴史的事件に託してトランプを大統領に選んだ支持層(白人ブルーカラー)の「幼稚さ」を浮かび上がらせる二重性を帯びていることを窺わせる。興味深いことにポールター自身は、自分が与えられた役に強い違和感を表明し続けた。

トランプの支持層は、公民権運動によって自分らの「特権」が削り取られたことに強い危機感を抱き、あたかもかつて幌馬車隊がインディアンに包囲されたとき、防御の円陣隊形をとったのと同じ「被包囲心理(シージ・メンタリティ)」にとり憑かれていた・・・まさにこの映画のデトロイト市警の一部警官らが追い込まれていた被害妄想的心理だ。

黒人差別の根幹は白人側の「被包囲心理」だったが、見た目にはどう見ても南部自体が白人側の精密な黒人包囲網だった。かつての南アの悪名高いアパルトヘイトは、これが最大の肥大成長を遂げた例だった。つまり、黒人を「包囲」し切ったはずの白人らこそ、自分自身を度し難い疑心暗鬼で「包囲」してしまったのだ。世界史の中でも類を見ない皮肉である。

とはいえ、加害者である白人が「被害者」へと豹変するこの珍事こそ、「アメリカの悲劇」だった。クラウス同様、トランプの支持層は、加害者のくせに自分らこそ被害者だと思い込んでいた。何の被害者か?歴史の流れに依怙地に抵抗し続けてきた報いだ。

他方、黒人こそ「被包囲心理」で今にもめげそうだったのだが、追い詰められた彼らは創意工夫の才を総動員、まず南部の雁字搦めの「包囲網」を突き破ろうとした。黒人の南部脱出はユダヤ民族が自分らを奴隷にしてきたエジプトを脱出した、有名なエクソダスに勝るとも劣らない壮挙だった。黒人らの南部脱出は「大北上」と呼ばれ、幾多の無名の「モーセ」を生んだ。

大北上は東海岸からニューヨークを目指した流れ、第二次大戦で戦線に出た白人労働者の穴を埋めるべくカリフォルニアの軍需産業に参画した流れ、そして自動車生産の工員たるべくデトロイトを目指してミシシッピ川を河蒸気船で北上する流れが中心だった。
デトロイトでは黒人らは、ついにはモータウン・ジャズを生み(この映画にも片鱗が描かれる)、同市の若きアイルランド系市長ジェローム・キャヴァナーの支援を得て順風満帆かと見えたが、肝心の北部白人の間に「被包囲心理」が募っていたのだ。

特に無一文で移住してきたアイルランド系はすぐ就職できる警官職が圧倒的に多いのだが、クラウスに使嗾(しそう・けしかけること)される市警官にはフリンというアイルランド系がいるように、母国で英国人の差別にさらされてきたアイルランド系の間では一転黒人差別が盛んで、キャヴァナー市長の先進性との違いが際立つ。

この退嬰的な白人側の姿勢は、公民権運動の高潮に怯み、黒人のように新たな仕事を求めて大都市に進出する勇気を損ない、大半の白人が仕事のない田舎にしがみつく結果を生んだ。トランプは彼らの劣等感と窮地につけ入って大統領職をものにできたのである。おまけに、これらの白人は地球温暖化を信じず、何と天動説を信じる時代錯誤の塊なのだ(この映画のクラウスの「童顔」はこの「幼稚さ」の形象化)。

「天動説」の場合、白人を取り込むキリスト教右派の一部でこれを未だに教義に掲げている例が関係している。「被害」とはいえ、本来の被害者(黒人)を上回る白人側の被害妄想は、例えば彼らの実に64%が「自分らはたいていの場合負けてばかりいる」(ピュー研究所)というハラヒレホ―(藤森注・??)な認識を生んだ。

以上の状況は、この映画のモーテルでの市警官らによる脅迫場面に如実かつ集約的に描かれる。ビグロー監督がこのシーンに上記の黒人が置かれてきた状況を圧縮描出する創意を発揮、あまつさえ重苦しい主題をスリルとサスペンスという観客を魅きつける常套手法を駆使して、複合的な才能の片鱗を見せたことは、今後の彼女の監督としての成熟への興味をかきたてずにはおかない。

ワッツ暴動(1965)を最初に全米の都市スラムに黒人暴動が起こり、「長く暑い夏」と呼ばれたが、デトロイト暴動は真夏に起きたとはいえ、上記のようにやや趣が違う。この映画で最も興味深い登場人物は、白人側の危険な劣等感を熟知、融和を心掛け、逆に黒人同胞から白眼視される黒人守衛ディスミュークスだが、彼こそが厄介極まる「被包囲心理」を白人・黒人双方から乗り越える可能性を体現する人物である。ビグローは、ちゃんとこういう人物を作中に用意しておいた。そのしなやかさゆえに、ボイエガの演技はデンゼル・ワシントンを思わせる。

<Michio Ochi・・・1936年愛媛県生まれ。明治大学名誉教授。映画関係の著書は、「アメリカ映画の暗号を読み解く・・迷走する大国編」「アメリカ映画の暗号を読み解く・・人種のカオス編」(共にアルク新書)。主著に「ワスプ(WASP)」(中公新書)、「日米外交の人間史」(中公新書ラクレ)。近著、「オバマ・・『黒人大統領』を救世主と仰いだアメリカ」(明石書店)、「ドナルド・トランプの大放言」監修(宝島社)、「さらば愛と憎しみのアメリカ」(田原総一朗との対談・キネマ旬報社)など>

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