2017年9月30日 第182回「今月の映画」
監督:是枝裕和 主演:福山雅治 役所広司 広瀬すず 吉田鋼太郎 斉藤由貴
●(1)「三度目の殺人」は珍しい映画です。何がどう珍しいのかということはうまく表現できませんが、何か不思議なというか、変わった映画です。
<<<本作を観て「初めて映画で弁護士の本当の姿を描いてもらえた」と嬉しくなりました。>>> 検事を体験した後に弁護士になった方がこのようにおっしゃるように、我々一般人にとっては珍しい本当の裁判の実情を見せてくれます。 <<<ふたりは拘置所の接見室で何度も対峙する。片や現実のパワーゲームをそつなくクリアしてきたエリート。片や下層の底辺でたくさんの辛酸をなめてきた前科者の容疑者。まったく違う生き方をしてきたはずの彼らが、顔を合わせるたびにどこか似てくる。世界を仕切る透明のアクリルガラスは、鏡のように互いを映し出し、重盛と三隅はこちらとあちらで相似形に近づく。まるで左右が反転し、ポジとネガはいつでも交換可能だとでもいうようなシンメトリーの構図。時には両者の横顔が重なって見える・・・・・。>>> これは極めて重要なことです。私たちは、「立場は固定されているもの」という強い思い込みがあります。 「親と子の関係」「学校の先生と生徒の関係」「幼稚園の先生と幼稚園児の関係」「医者と患者の関係」「カウンセラーとクライアントの関係」「経営者(管理職者)と社員の関係」「男性と女性の関係」「夫と妻の関係」「立候補者と選挙権者の関係」「高齢者と若者の関係」・・・・・。 禅の言葉に「賓主互換」(賓主・客と主人、ひんしゅ・ごかん)というのがあります。立場を入れ替えることで、議論をしていて、講師のような立場の人の主張に反論を言う人がいたら、では立場を変えて、反論する人が説明者になって考えを主張してもらうことです【立場を置き換えてものごとを見たり、考えたりする】。 特に、上記に列記した上位の立場の人は、「賓主互換」の姿勢は極めて重要です。 例えば、私は、禅を少し知っているので、禅語の話をすることがあります。しかし、私よりもさらに詳しいクライアントの方がいらっしゃる場合もありますし、ある言葉をよく知っている方に教えていただくこともあります。 また、直接、ご指導申し上げていることでも、人生は多種多様ですから、いろいろ、クライアントの方から学ぶことはたくさんあります。大切なことは、自分の立場や位置を固定させないことです。いつでも動かせる柔軟性こそが重要です。 そういうことが刺激される映画ではないかと思われます。 |
〇(2)<STORY>
犯人は捕まった。真実は逃げつづけた。 「間違いありません。殺しました」・・・・・初めて拘置所に面会に訪れた弁護士の重盛(福山雅治)に、淡々と己の罪を認める三隅(役所広司)。解雇された食品加工工場の社長を殺し、財布を奪って火をつけた容疑で起訴されたのだが、30年前にも強盗殺人の前科があるため、死刑はほぼ確実と思われた。元々は重盛の同期の摂津(吉田鋼太郎)が担当する事件だったが、会うたびに供述が変わる三隅に音をあげた摂津が重盛に泣きついたのだ。 重盛は何とか無期懲役に持っていこうと、新人の川島を助手に調査を始める。やがて三隅が財布を盗んだのはガソリンをかけた後だとわかり、重盛は弁護方針を強殺より罪の軽い、殺人と窃盗に定めるのだった。 ところが、三隅は弁護士に相談もなく週刊誌の取材に応え、「社長の奥さんに頼まれて保険金目当てで殺した」と“独占告白”していた。重盛が三隅に真偽のほどを確かめると、社長の妻の美津江(斉藤由貴)からの依頼メールが携帯電話に残っているという。さらに、三隅の銀行口座には、給料とは別に50万円が振り込まれていた。 美津江との関係の裏を取ろうと三隅のアパートを訪ねた重盛は、大家から美津江ではなく脚の不自由な女の子が来ていたと聞かされる。それは、美津江の娘の咲江(広瀬すず)のことだった。なぜ、被害者の娘と?さらに三隅は、まるで捕まるつもりだったかのように身辺整理をしていたことが判明する。 三隅が犯した“第一の殺人”の裁判で裁判長を務めた重盛の父は、三隅を楽しむために殺す“獣みたいな人間”だと断言する。三隅を逮捕した元刑事は、感情のない“空っぽの器”のようで不気味だったと振り返る。三隅という男が益々わからないなか、第1回公判が開廷する。美津江に依頼されたという弁護側の主張は、当然ながら証人の美津江に否定される。公判後、重盛の事務所に思わぬ客人が現れる。咲江が誰にも言えない秘密を、父のように慕っていた三隅に打ち明けていたと語り、三隅の助けになるのなら裁判で証言したいと言うのだ。 美咲のために殺したのか? 娘を持つ父親として、重盛は三隅の心情を理解しようとする。ところが、咲江の申し出を聞いた三隅は「嘘ですよ、そんな話」と一笑に付した後、「本当は私、殺してないんです」と驚愕の告白をする。真実なんてどうでもよかったはずの重盛が、初めて知りたいと願った真実。「頼むよ、今度こそ本当のことを教えてくれよ!」と詰め寄られた三隅は、泣きながら“真実”を語り始めるのだが・・・・・。 |
〇(3)<法廷におけるいくつかの真実>(松田綜合法律事務所・岩月泰頼・法律監修・弁護士・元検事)
本作を観て「初めて映画で弁護士の本当の姿を描いてもらえた」と嬉しくなりました。法曹はいかにして裁判に臨み、真実と向き合おうとしているのか?劇中のトピックと絡めながら解説します。 <弁護士の真実> 三隅には起訴前に国選弁護人として摂津が付いていますが、この「国選弁護人」とは、死刑、無期、長期3年を超える懲役等に当たる事件で、経済力がない等の理由で弁護士を頼めない場合に、国費で選任される刑事弁護人のことです。 三隅は、死体損壊罪により逮捕・勾留された後、強盗殺人罪で再逮捕・勾留された設定となっています。つまり、長期3年の懲役を超えない死体損壊罪の勾留時には国選弁護人がおらず、死刑等が定められている強盗殺人罪の勾留時に、初めて摂津が国選弁護人としてアドバイスをしていたことになります。 また、死刑又は無期の懲役等に当たる事件の場合、国選弁護人を2名以上に増やせます。摂津は、死刑も考えられる重大事件であることから、三隅が起訴されたことから、三隅が起訴された時点で、重盛に弁護の協力を依頼し、裁判所の許可を得た上で、彼にも加わってもらったのです。 本作では、重盛の事務所でデスク(軒先)だけを借りる「軒弁(のきべん)」の川島も3人目の弁護人として裁判に参加しています。 <裁判手続の真実> 映画に出てくる公判前整理手続きは、裁判の充実・迅速化を目的に、第1回公判期日前に、裁判の準備として、事件の争点や証拠を整理するために行なわれる手続きのこと。公判前整理手続では、①検事によるストーリーの主張と証拠の請求⇒②弁護人による反論とストーリーの主張と証拠の請求を交互に繰り返し、数週間に一度、裁判官・検事・弁護人の法曹三者が打ち合わせる中で、裁判官が争点と証拠の整理をしていきます。準備段階でお互いにストーリーと証拠を見せ合っているので、裁判は予定調和だと思う方もいるかもしれません。しかし、主張や証拠を事前に明らかにするのは、不意打ちによって十分に反論できない結果、審理不十分になることを避けるためで、必ずしも裁判が予定調和であるということではありません。 本作のように公判中に急に争点が変わることは稀にあります。被告人の主張が変わる場合もあれば、真犯人や新証拠が公判中に明らかになる場合もあります。被告人の主張が変わるのも、動機や犯行態様が変わる場合、自白が否認に転じる場合やその逆もあります。裁判と言えど、人は様々な背景とストーリーを背負いながら、そのときの思惑の中で供述するわけで、供述が変化したからと言って必ずしもそれが信用できないというわけではないのです。 このように予想外のことが起きたからと言って、検事も弁護士も納得がいくまで延々と時間をかけて主張と立証を続けられるわけではありません。「訴訟経済」という言葉が映画でも出てきますが、裁判の適正を確保しながらも、できる限りの労力や経費などを削減することも要請されます。三隅の供述が転じて休廷になった後、時間をかけて反論立証しようとする篠原にベテラン刑事が耳打ちをしていますが、検事によっても、裁判の見通しも含めて、どこまで主張立証するかは意見が様々で、衝突することもあります。 <弁護士と被告人の真実> 本作でも被告人の自白をどう考えるのかが問題となっています。犯罪を行った者による自白は捜査機関も知り得ない事実や証拠をもたらすことから、「証拠の王様」と言われますが、他方、様々な事情から虚偽自白あるいは過剰自白(事実を超えた自白)をする場合、またはさせられる場合もあり、自白偏重に対する危険性も指摘されています。人は、思いもよらない事情から虚偽自白する場合もあり、自白を鵜呑みにすべきでないことは、検事に限らず裁判官・弁護人にも言えることです。 事件によっては、証拠上、不都合な弁解をしていると思われる被告人もいないわけではなく、真実義務を負う刑事弁護人としても、積極的に虚偽事実を作出するような行為は許されません。しかし他方で、刑事弁護人は、被告人のために最善を尽くすべき誠実義務も負っており、また真実を知っているわけでもないため、あくまでも被告人の立場で防御することが与えられた役割となります。「徹底的に攻撃する検事」VS「徹底的に防御する弁護人」の攻撃防御を中立な裁判官が判断するという裁判方式は、現代において真実に近づく最善の方法として選ばれているともいえるでしょう。 凶悪犯になぜ国選弁護人を付けて弁護するのかという批判も耳にしますが、その弁護人がいるからこそ適正な処罰が担保されるとも言い換えられるわけで、その意味でも国選弁護人は必要な役割を果たしているのです。 <人による裁判の真実> 殺人と言ってもその類型は様々で、家庭内殺人もあれば、通り魔的な殺人もあり、その動機も、怨恨、嫉妬、逆恨み、心中、忖度、衝動、金目当て、快楽など多様です。例えば、殺人罪の法定刑は懲役5年から死刑まで幅がありますが、被害者との関係性や動機や犯行態様は刑の重さに大きく影響します。 民事裁判は、主に金銭賠償が問題となるので原告と被告との利害調整の場になりがちですが、死刑や懲役刑という刑事処罰を対象とする刑事裁判では、和解がないだけに、利害調整というよりも、検察側と被告人側の対立が先鋭化し徹底的に争われることが多いです。 裁判は、事件を経験していない裁判官、検事、弁護士に主導されて進みます。犯罪を犯したか否かという真実を知りうるのは概ね被告人ですが、被告人でさえその真実を知り得ない場合もあります。本作もこの「真実」をあえて示していないようにみえます。 ほとんどの映画やドラマでは、「真実」が設定されている中でストーリーが進みますが、実際の刑事裁判では、このような「神の視点」は存在しません。証拠により事実は認定されますが、神の視点となる証拠はなく、真実は揺蕩(たゆた)っています。裁判を担当する法曹三者は、いかに真実が得難いものかを経験上知ってはいますが、それでもなんとか真実に迫らんと、日々、法廷の中でお互いの立場で攻撃防御を尽くしているのです。私自身、検事・弁護士いずれのときも、真実が見えなくて袋小路に迷い込み、何が正しいのかわからなくなることもありました。真実がわかると思っていること自体、傲慢だとも思います。ただ、真実に辿り着けないかもしれないが、それでも足掻かなければいけないのがこの仕事の面白いところであり、やり甲斐であると最近は考えています。 <いわつき・やすより・・・2005年より検事として東京地検等に勤務した後、2013年に東京の松田綜合法律事務所に入所し、弁護士に転身。本作には法律監修として携わった。> |
〇(4)<最上級の映像文法で語られる人世の縮図>(道尾秀介・小説家)
「三度目の殺人」はキャストもスタッフも素晴らしい人たちが揃っていて、渾身の企画なのだろうなと思っていましたが、本当に面白かった。映像にしかできないことをやっている映画ですよね。たとえ静かなシーンでも、画面はいろんな情報に満ちていて、もしこれを同じ比重で小説にしたら、とんでもなく分厚い本になってしまう。とりわけ、手紙の語りと別の映像を効果的に重ねる雪合戦のシーンは、羨ましいくらいでした。 三隅は一見、明らかに変わったところのない普通の人ですが、「普通」というのは文章で読むと飽きられてしまいがちです。ですから小説では、どうしてもエキセントリックなキャラクターを作ろうとしてしまう。また、美津江は家の中でも金色のネックレスとピアスをしていますが、こういうところで彼女の人物像をさりげなく伝えている。これを小説でやると、キャラクターの説明になってしまうことがあるんです。 この映画は主人公ひとりの物語というわけではなく、全体が人世縮図になっている。“器”という言葉が出てくるのもそれを示唆していると思うんです。例えば、湖の水質検査をするとき、一部の水を採ることで全体を見るでしょう。まさに、それをやっている映画だなと思います。“器”という言葉の明快な説明がないところも良くて、監督は観客を信用してくれている。こういう不親切な作品が僕はすごく好きです。不親切にするというのは度胸がいるんですよ。一流とはこういうことかと思いました。観客のことも一流だと思ってくれているからこその不親切さですよね。 物語を誰が回しているかといえば、小さな部屋にいる三隅。彼が証言を変えるごとに世界の見え方が変わっていく。それがエキサイティングで、特に後半、メタ構造のようになって、役所広司さんの演技力と観客との真剣勝負になってくる。三隅は本当に怖い。きっと役所広司さんがその怖さをきちんと飲み込んだ上で演じていらっしゃるから、役所さんのフィルターを通して怖さが増幅しているんでしょうね。笑顔が怖い人ってなかなかいないですよ。しかもゾッとするような笑顔じゃなくて、普通に笑ったところが怖い。それこそ“器”というキーワードにもつながりますけれど、この怖さこそが、人間そのものの怖さだと思うんです。人間は、取扱説明書もないし、技能もわからない。とんでもなく高性能なものが、誰にも見えない脳という器の中に詰まっていて、いつ狂うかわからない。その怖さがすごく出ていました。 他に印象に残ったのが、子ども(少女)の世界と大人の世界が出てくることです。咲江は純粋な正義で大人の世界い立ち向かおうとする。けれど、大人には大人の間に共通する正義のようなものがあって、ふたつの正義がぶつかったときに純粋な正義が負けてしまうんですよね。その悲しさ。この年齢の女の子をここに持ってきた意味は大きいと思います。リアルな子どもを描くというのは難しいんです。なぜなら、彼らは創作物の中でも思い通りに動いてくれないですから。だからこそ、作家のはしくれとしても僕も難しいことがやりたいので、子どもを描くときがよくあるのですが、リアルに描くのがすごく難しい。こういうとき子どもはこう考えるに違いない、なんて大人の視点で物語を書き進めていくと、読み返したときにものすごく作り物めいている。僕たちはどうしても子どもを「小さな大人」だと思ってしまう。でも、子どもの無垢な土壌にしか育たない感情や感覚がある。僕らはそれがあったことを忘れているので、思い出すまで徹底的に何回も書き直すことになるんです。映画のラスト近く、三隅が鳥に餌をあげようとするんじゃないですか。でも、鳥は来ない。子どももそうなんです。決して思い通りには動いてくれない。あのシーンで鳥が来ないのは素晴らしい演出です。それこそがリアルですよね。 『三度目の殺人』というタイトルも示唆に富んでいます。死刑のことを指しているのでしょうが、何かそれだけでもないような。「司法という舟」というせりふにも人世の縮図が見える気がしますが、こういう現象自体は世の中でたくさん起こっているんですよね。四角い部屋に集まった人たちの目配せひとつで、誰かが死んだり生きたりしてしまう。国家の予算会議でも、目配せひとつで、遠い国の人たちの生死が決まってしまうことだってある。こういう終わり方の映画、好きだなぁと思います。作る難しさがとてもよくわかります。作り手の中に確たる答えがあるからこそ、この終わらせ方ができるんでしょうね。僕もいくつかの小説で、似た構成に挑戦していますが、じつははっきりとした結末を書くほうが楽なんです。書かれたことを読者は信じてくれますから。でも敢えて手間暇かけて、能動的な物語を生み出す。そこでは作り手の矜持がものを言います。 いやぁ、面白かった。今日一日どころじゃなく、きっとしばらく頭から離れない。世の中こうも忙しいと、物語も「早く答えを教えてよ」とわかりやすいものを求められがちです。でも、“器”のように人世縮図を見せてくれる、こうした素晴らしい作品がある限り、大丈夫だと思える。僕も尻を叩かれました。今の時代だからこそ、勧めたい映画ですね。(談) <みちお・しゅうすけ・・・デビュー作「背の眼」でホラーサスペンス大賞特別賞、「龍神の雨」で大藪春彦賞、「光媒の花」で山本周五郎賞、「月と蟹」で直木賞を受賞。日本推理作家協会賞に輝いた「カラスの親指」は映画化もされた。近作に「透明カメレオン」「満月の泥枕」がある。> |
〇(5)<その問いの答えはきっと言葉ではない>(森直人・映画評論家)
いったい弁護士・重盛(福山雅治)は、殺人犯・三隅(役所広司)の中に何を見たのか? ふたりは拘置所の接見室で何度も対峙する。片や現実のパワーゲームをそつなくクリアしてきたエリート。片や下層の底辺でたくさんの辛酸をなめてきた前科者の容疑者。まったく違う生き方をしてきたはずの彼らが、顔を合わせるたびにどこか似てくる。世界を仕切る透明のアクリルガラスは、鏡のように互いを映し出し、重盛と三隅はこちらとあちらで相似形に近づく。まるで左右が反転し、ポジとネガはいつでも交換可能だとでもいうようなシンメトリーの構図。時には両者の横顔が重なって見える・・・・・。 本作『三度目の殺人』は、既存のジャンルで定義するなら『法廷劇』だろう。しかし、『スミス都へ行く』(1939年・監督:フランク・キャプラ)や『十二人の怒れる男』(1957年・監督:シドニー・ルメット)、『或る殺人』(1959年・監督:オットー・プレミンジャー)あたりのクラシックな映画に端を発する、真実に向けての弁証法が積み上げられていく通常の「法廷劇」とは違い、この映画の法廷では実質何も起こらない。システマティックな手続きに沿って、上滑りする虚しい言葉が戦術として飛び交うだけの空疎な場だ。参加者はいちいち明確な「答え」を求められるが、それは指定のコードに従ったテストの模範解答ほどのものでしかない。 一方で接見室は、静かだが熱い。スリリングだ。ふたりの男の間でダイナミックな変容が渦巻く。 それはどんなものか。つまり人間は、主体者の意志とは関係ないところで理不尽に命が選別されている。「生まれて来ないほうがよかった人なんていない」という新人弁護士・川島の純情(あるいは一般論的なヒューマニティ)を冷笑するような、ニヒリズム。その裏返しとして、人間の命を自由に扱える(「死刑」という判決も下せる)万能感を持った、裁判長の仕事に重盛も三隅もあこがれていたと・・・・・。 先ほど相似形と書いたが、接見室の中で挑発的に、主導権を握っているのは三隅のほうだ。表向きの主従関係としては「救ってやる側」であるはずの重盛が、思考を揺さぶられ、心をえぐられる。なぜなら重盛は「本当のこと」を知らない。その鍵を握っている、あるいは全身で抱きしめているのは三隅だ。「空っぽの器」と評される三隅は、時々の状況や相手に応じ、柔和な笑顔で、時にはとぼけたふりして、言うことをころころ変えていく。いかにも「自分」がないように。しかし主体には誰よりも強靭な定点を備えている。バットマンやトゥーフェイスを翻弄するダークヒーロー、ジョーカーのごとく。 対して重盛は、我々に近い。徹底的に付き合い出すと手に負えない複雑で面倒くさい現実に途中で見切りをつけ、「そんなもんだよ」と自己防衛的な“上から目線”を発動し、適当に高を括っている凡夫だ。彼からすると、ある覚悟を持って、底なし沼の最深部まで降りている三隅は、巨大な闇そのものにも映るだろう。 映画の冒頭、夜の川辺で三隅は、ある男を撲殺し、死体に火を放っている。普通に見ると、明らかに犯行現場だ。ミステリーとしては、いわゆる「倒叙形式」(最初に犯人を提示してから展開する話法)の採用かと思えるが、しかし映画の場合、幻想や妄想、つまり嘘も可視化できる。これが「本当のこと」とは限らない。物語上も、事件の目撃者はなく、証拠になるのは証言者の自供だけ。そうなると、目の前にいる人をどれくらい信じるか、ということを映画の登場人物たちと同様に、我々観客も試されている。 「本当のこと」をめぐって、最大のキーパーソンとなるのは被害者の娘・咲江(広瀬すず)だ。彼女は三隅を慕っていた。一方、法廷で被害者のことを「大切なお父さん」と表現された時、瞬間的に「違う」という顔をする。実は、この映画の中で最も邪悪なオーラを放っているのは、不在の被害者だ。彼の正確な人となりはわからない。だが、周囲の人的環境はすべて汚染されている。それを無視して、法廷では「大切なお父さん」というレッテルがほとんど無意識に貼られる。 考えれば、不可解だ。なぜ我々の住む社会では、「被害者=善」という根拠のない図式が前提に刷り込まれているのだろう? 事件の「答え」は謎解きが好きな人たちに任せておこう。 <もり・なおと・・・「朝日新聞」から「週刊文春」「キネマ旬報」「映画秘宝」等の雑誌、映画パンフレットまで様々な媒体に映画評を寄稿。著書に「シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~」、編著に「21世紀/シネマX」、「日本発 映画ゼロ世代」「ゼロ年代+の映画」等がある> |
<文責:藤森弘司>
最近のコメント