2017年7月31日 第180回「今月の映画」
八重子のハミング
監督:佐々部清  主演:升毅  高橋洋子  梅沢富美男  文音  井上順

●(1)若年性認知症の凄まじさが如実に実感できる凄い映画です。

若年性に限らず、認知症になると徘徊されることが大変ですが、さらに若年性となると、元気で体力があるために、どんなに愛情があっても、さらには専属的に対応しても、精も根も尽き果ててしまうでしょう。

特に、トイレのお世話が大変です。今は便座があるトイレが主流ですが、昔の和式トイレですと、坐らせたり、立ち上がらせる作業が困難を極めます。その上、トイレの中が狭いために、体を支えたり、動かしたりすることに困難を極めます。

私(藤森)にもこんな体験があります。
施設に入所している兄を病院に連れて行ったとき、待っている間にトイレに連れて行くことがありました。車椅子から体を引き上げるとき、慣れない作業のために兄が痛がって怒ります。私は焦って何度もやり直し、心身が疲労困憊したことがあります。

兄の順番が来て診察室に入ったとき、看護師さんは私の顔色を見て、兄よりも私の体を心配してベッドに横になるように勧めてくださったほどです。

父のときは、ある日、いなくなって探しましたが見つかりません。その日の夜に何がきっかけだったか覚えていませんが、病院にいることが分かりました。私が病院に行くと、暴れたのかベッドに拘束されている姿を見て強いショックを感じたことがあります。

さて、結論です。
如何にして認知症にならないかを真剣に工夫することが重要です。一言でいえば、「交流分析」でいう「FC」を活用することです。「FC」とは「Free Child」で「自由な子」の活用です。「FC」が日頃から活用されていれば、まず、認知症にはならないと言えます。「認知症」は、もっとも「FC」から遠い性格の方が罹り易い症状です。

〇(2)目を閉じればいつも聞こえる。
母さんの・・・八重子のハミングが・・。
   どこからか聞こえてくる男性の声・・・。
「やさしさの心って何?」と題された講演。
演台に立つ、白髪の老人・石崎誠吾。若年認知症を患った妻・八重子の介護を通して、自らが経験したこと、感じたことを語っていく。
「妻を介護したのは12年間です。その12年間は、ただただ記憶をなくしていく時間やからちょっと辛かったですねぇ。でもある時こう思うたんです。妻は時間を掛けてゆっくりと僕にお別れをしよるんやと。やったら僕も妻が記憶を無くしていくことを、しっかりと僕の思い出にしようかと・・・・・。」

誠吾の口から、在りし日の妻・八重子との思い出が語られる。かつて

音楽の教師だった八重子は、徐々に記憶を無くしつつも、誠吾が歌を口ずさめば笑顔を取り戻すことも・・・。
家族の協力のもと、夫婦の思い出をしっかりと力強く歩んでいく誠吾と八重子。山口県・萩市を舞台に描く、夫婦の純愛と家族の愛情にあふれた12年間の物語。

〇(3)「重ね、紡ぎ、深める時空」(落合恵子・作家)

「おかあさん、一週間でいいから、こっちに還っておいでよ。そしたら、もっと深く豊かな介護の日々を贈ることができそうだよ。あの頃、わたしは初めてのことばかりで、ただただ必死だった。そうするしかなかったから。その、わたしの必死さが、おかあさんを時に疲れさせてしまったかもしれないね。今だから、わかる・・・。だから、おかあさん、一週間でいいから、戻って来てよ!」

時々、そんな言葉を心の奥で呟いているわたしがいる。母を見送ってから9回目の秋を迎えようとしているのに。とても気持ちよく晴れた朝や、ハードに思えた一日の仕事を無事に終えて、丁寧にいれた紅茶のカップなどを前にした時に・・・。「おかあさん」と呼びかけるのだ。

この作品の原作にあたる陽信孝さんのご著書を拝読した頃、わたしはちょうど在宅で母を介護していた。ご著書についての解説を書いたのも、母のベッドサイドで夜半に開いたノートパソコンを膝に置いてだった。別の部屋には使い慣れた大型のパソコンがあり、キーボードの指への馴染み具合もよかったが、夜から翌朝にかけては、とにかく母の寝息を聞き、寝顔を見ていたかった。

当時、母は介護「されて」6年目を迎えようとしていたが、いまは「どちらがケアをされていたのか」、わからなくなっているわたしがいる。それに気づいたのは、母を見送ってからだった。介護していたつもりの母の「存在」そのものに、むしろわたしのほうが深くケアされていた、と。

佐々部清監督の本作品にもきわめて丁寧に描かれているが、介護の日々は、毎時間が、毎分が「ジェットコースター」のような状態の連続だ。その過程において「どうしてこんなことをするの」と怒りにかられたこともあったし、医療の現場におられる方の言葉に傷ついたことも時にはあった。降り積もる疲労と慢性的な睡眠不足で、心はいつも羽根むしられた状態だったので、何気ない言葉にも過敏に反応してしまっていたのだろう。今になれば、それらすべての感情が、とても懐かしく、愛しく思える。本作品を通して、ひとりでも多くの方が介護の現実に、そして若年性アルツハイマーの実態や症状について理解を深めてくださることを心から祈っている。

気がつけば、わたし自身が高齢と呼ばれる年代を生きている。どんな状態になっても、それぞれのひとが長寿を心から歓迎できる社会は、高齢者と、最も年が離れたそれぞれの子どもが「生まれてきてよかった」と思える社会であると、わたしは信じている。
<「八重子のハミング」(小学館文庫):解説『愛の時空』を執筆>

〇(4)「映画に、人生が重なる時間(とき)。」

佐々部清監督は、今の時代に珍しく「人の善意」に寄り添う映画監督です。どんな題材であれ、根底にあるのは人の善意に対する信頼でそれは時代と逆行する態度です。ラディカル=過激であることを追い求め、悪意と暴力を剥き出しにする映画に食傷気味の僕は、『八重子のハミング』の誠実さと優しさに胸を打たれてしまいました。

本作を鑑賞中、真摯に向き合えば向き合うほど自分を苦しめることになる介護に、何らかの解決策があるとすれば、何だろう?という問題が、頭の中でぐるぐると巡っていました。

臭いものには蓋をせよ的な態度では「介護」を理解することはできませんし、だからといって、身も蓋もない現実を突き付けて「人の善意」を無視するような態度でも、介護の問題の本質には近付けないと思います。
だからこそ、本作は非常に難しいバランスの上で成立している作品です。

介護の話でいつも思い出すことがあります。小学生の頃に祖父が脳梗塞で倒れ認知症になり、夏休みの間を一緒に過ごしました。手足も不自由で、言葉も不明瞭な祖父を見て、最初はちゃんと助けてあげようとやる気満々でした。けれど、祖父と接していくうちに、なんで話が通じないのだろう?なんで思い通りに行動してくれないのだろう?と思うようになり、自分勝手だった僕は、たった1ヶ月間なのに、祖父に嫌気を覚えてしまったのです。今考えると、その後数年間も介護をし続けた祖母に対しても、もちろん祖父本人に対しても残酷浅薄な考えだったと反省するばかりです。

介護というものは、介護する側への負担が途方も無く大きくて、終りが見えなくて、肉体的にも精神的にも摩滅してしまうものです。だから、幼い僕は介護から逃げてしまいました。

介護される側も介護する側もギリギリ瀬戸際で生きることを求められ、徐々に「人の善意」が剥ぎ落されていく過程で、人は何を考え、何を感じるのだろう。それでも「人の善意」を信じるとすれば、何を選択すればいいのだろう。『八重子のハミング』を見ながら、僕はそんなことをずっと考えていました。

『八重子のハミング』では、佐々部監督の堅実な演出が、物語に深みと広がりを与えています。なので、見る側のスタンス、状況、人生のタイミングなどによって様々な主題が浮かび上がってきます。

老人介護の過酷さ、非当事者の無関心、若年性アルツハイマーの理解し難さ及びコミュニケーションの断絶、人生の伴侶として決めた人への献身的な愛、人を教育するということ、人の善意/優しさの本質など、数え上げるとキリがありません。

十把一絡げに介護の問題を理解しようとすると、必ず歪みが生まれてしまいます。観客の1人1人が自らの体験と照らし合わせ、1つ1つのディテールを語ることが、本作の醍醐味かと思いますし、そうやって、観客自身の1つ1つの体験を重ね合わせることで、本作が与えてくれる豊かさを真に理解することができるのではないかと思います。鑑賞後、本作の1つ1つの場面について語り合う機会を持つことは、観客である僕たちの特権です。

本作が28年振りの映画出演となる高橋洋子さんの魅力に関しては、映画を観ていただければ十分でしょう。彼女の静かな怪演は言わずもがな。升毅さんは映画の中心にどっしりと構えていながら、素晴らしい「受け」の演技によって高橋洋子さんの演技を引き立てています。二人を支える周りの役者さんも、それぞれに力量を光らせるシーンがあり、佐々部監督が役者を信頼されていることを、そして役者を役者として魅力的に見せることへの矜持がスクリーンから伝わります。

『八重子のハミング』は、いわゆる学術的な映画史に残る作品ではないかもしれません。けれど、プログラムピクチャーの文化が無くなって久しい日本映画で、本作のように「人の善意」に、誠実に寄り添って丁寧に撮られた映画を1年に1本でも見ることができる環境をつくること、そうした映画が観客に愛されることが、日本の映画文化の底上げに繋がると信じています。
<映画ファン・菊地陽介>

〇(5)「8ミリフィルムの中の八重子さん

妻が目いっぱい涙をためて、「ねー、ねー、私がアルツハイマーになったらこんなにして介護をしてくれる?」って言った。
「バッ、バッ、バカ言え、俺の方が先になるんじゃから」
私は妙にうろたえてしまった。

「うちも同じこと言われたっちゃ」
「先生がこんな本書くもんじゃからおれら分が悪い」
萩の出来の悪い亭主連中は飲み屋に集まってブツブツと不満を言った。

毛利の殿様から「陽」の姓を承り、城下の大木戸に建てられた金谷天満宮の21代目の宮司「陽信孝」先生がこの「八重子のハミング」の原作者であり主人公である。私の母の実家が近くだったので金谷神社は子供の頃からの遊び場だった。秋の天満祭はきらびやかな大名行列が繰り出し学校は早引けになった。

先生は子供の頃から腕白だった。勉強が嫌いだったという割には國學院で教員免許だから後輩の私から見れば相当にえらい。
学校勤務はどちらかというと僻地や離島の荒れた中学校というのが多く、映画のようにアットホームな学校ばかりではなかったらしい。「俺は空手をやっちゃってよかったいや」と言うぐらい武勇伝には事欠かない。

後年、先生の叙勲の祝賀会には教え子たちが多く駆けつけ、今はテレビ局に勤めている後輩が、「先生にはよく殴られました、先生は『殴られて痛いじゃろが、でも殴る方が何倍も痛いんじゃ』と言われたのをよく覚えています」とスピーチをして、さもありなんと大いに盛り上がった。

映画でも重要な教育長人事も実は難航の末のもので、当時中学校統配合問題は緊急の課題だった。歴史ある古い町には又しがらみも多い。市長もこれを乗り切る教育長人事には頭を痛めていた。

教育長といえば不要論が出るほど名誉職と思われがちだが、こんな時こそ真価が問われる。赴任地経験は小規模校が多く、校長職を4年残しての当時としてはまだ若い先生に白羽の矢を立てたのが今の市長で、「私は無理です。萩にはそんなに人材がおらんのですか!」と啖呵をきって市長室を飛び出した先生を説き伏せての就任となったが、余人をもって代えがたいとの市長の見識であったのだろう。

ガンの手術が成功したとはいえ、(その時は多くの市民も私も知る由もなかったが)ますます進行する八重子さんの病状を抱えての職務は過酷だっただろうと同情せざるを得ない。
そんな時に救いになったのが短歌だったと先生は言う。高村光太郎が詩を書くことによって救われたように先生には短歌があった

智恵子は「わたしはもうじき駄目になる」と迫り来る運命に怯えたが八重子さんはそれを自覚することなく病状が悪化していった。どちらも運命としか言いようがないが、でも二人とも側にいてくれる人がいて幸せだったのではないだろうか。むしろ側にいる人の方が過酷な運命を背負わされる。それでも自分の弱さも隠すことなく現実と向き合うことで多くの作品が生まれたのだ。

講演会の依頼が増えて八重子さん同伴で臨まれることが多くなった頃、その話を聞いた奥様方は「あたしゃーいやよ、アルツハイマーになってまで人前に晒されるのは」と噂しあった。でも実際に講演を聞いたり本を読んだり先生と接しているうちに、人間らしいとはどういうことなのか、人の尊厳とは何なのかあらためて考えさせられるのだ。

そして「平成の智恵子抄」とも称される「八重子のハミング」が成った。いつか映画に、というのは萩市民の熱望だったと言って良い。是非萩でのロケをというのは原作者の希望でもあった。そうして佐々部清監督の情熱が人々を動かし、待望の映画化がスタートした。

萩の美しい自然や街並みを中心にオールロケの撮影となったが、こうしてみれば見慣れた金谷神社や古ぼけた社務所もなかなか風格のある佇まいを見せてくれている。
佐々部組の夜討ち朝駆けは私にとって初めてのハードなスケジュール、いや映画のスチール撮影自体が初めての経験だったが、合間合間に市民の方たちのボランティアによる差し入れや慰労会はホッとするひと時だった。

天神様の近所の人たちは高橋洋子さんが白髪でヨタヨタ歩く姿を遠巻きに眺めて、「まあ、そっくりね・・・」「つい昨日のことのようね」と涙をためて話し合った。
升毅さんや梅沢富美男さんが登場すると「やっぱ俳優だね~、モデルになった本人たちよりよほどいい男だ」と分の悪い亭主連中は憎まれ口を叩いた。
涙も笑いも周りの人たちで共有しながら、さながら自分達が映画を作っている気分なのだ。

多くの市民がエキストラで参加すると、出演者たちは街並みに溶け込み、物語はさながらドキュメンタリーのように進行していった。
映画はまた、俳優によって命を吹き込まれ時空を超えて人々に届いていくのだろう。

木間小中学校は新婚当時夫婦で赴任され男先生・女先生と呼ばれていた特に思い出深い学校だった。そこでの運動会の8ミリフィルムが残っている。まだ若い女先生がフォークダンスをしている。

スクリーンの中心にいるところを見ると男先生のカメラワークに違いない。ひときわ溌剌と写っている女先生がくるりとターンしてちょっと笑った。
不覚にも涙があふれた。映画っていいなと思った。
<下瀬信雄・写真家・萩市在住『八重子のハミング』ではスチールを担当>

〇(6)誠実な監督が、誠実な一途に生きた人の物語を懸命に描き上げた。これは佐々部清君ならではの美しい作品です。
(映画監督・山田洋次)
こんなにも人の尊厳を保てるのか・・・・・。
家族の愛とどんな時も共に歩む夫婦の姿。
途中から涙が止まらなくなり、最後に呟く八重子さんの『ありがとう』に
人生そのものに対する震えが走りました。かくありたい。
美しい精神の宿る物語。釘付けになりました。
 (女優・羽田美智子)心が、奥底まで引き込まれる映画です。佐々部清さんの、気魄が強く伝わってきます。
映画には、映画でなくては出来ない事がある。人生が生きる事の意味、
例えば

「優しさ」なるものについて極めてみる。
かつての映画にはそういう力がありました。現代では映画がゆるキャラになり果てて、
そういう本来の責務を忘れたかのように見えるなか、
佐々部さんは映画を信じ、その力と美しさとをこの世に再生しようと試みています。
良い脚本に丁寧な配役。ロケ地を活かした撮影に抑制された編集。
その総てを束ねた演出が見事に成功。
これぞ、映画です!
いつも超低予算の「古里映画」を作り続けているこの僕にとっても、本作製作時の
ご苦労と、それに勝る喜びは、良く理解出来ます。
山口県・萩市の良き宝物が誕生した事を、参加した皆さんと共に、心から誇ります。

「命がけで取り組んだ」、と仰る佐々部さん。
やりましたね!おめでとう!!そして、有難う!!!
(映像作家・大林宣彦)

<文責:藤森弘司>

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