2017年4月30日 第177回「今月の映画」
ライオン・25年目のただいま
監督:ガース・デイヴィス  主演:デヴ・パテル  ニコール・キッドマン  ルーニー・マーラ  デヴィッド・ウェンハム  サニー・パワール

●(1)「チアダンス」良かったです。

さて、「ライオン~25年目のただいま」です。
主人公・サルーの子役が素晴らしかったです。また、養母役のニコール・キッドマンも素晴らしかった。何故、これほど素晴らしいのかと思っていましたら・・・・

<<<実はスーを演じたニコール・キッドマン自身、実生活で元夫トム・クルーズとの間に二人の養子をもうけている。いつもより抑制された彼女の静かな演技にリアリティを感じるのは、彼女自身の人生観が役柄に反映されているからではないだろうか。>>>

ということでした。

<<<また養子縁組のあり方についても、美談に終わらせることなく深く斬り込んでいる。「養子として引き取ったとしても上手くいかないことがある」という厳しい現実をサルーの義兄弟・マントッシュの姿を通して描くことで、ステレオタイプな描写を排除しようとする姿勢を感じさせる。>>>

交流分析の「脚本」を痛感・・・同じように養子になりながら、この兄弟のように真逆になる悲しさを痛感させられました。お釈迦様がおっしゃるように、「この世はである」ことを痛感します。
しかし、母親は強いですね。シングルマザーで過酷な状況にもかかわらず何人もの子供を育て、行方不明の子供を待ち続ける精神力には頭が下がります。過酷な状況の中での育児は、もしかしたら、世界共通なのかもしれません。インドのこのお母さんは、日本の古き良き母親像を感じました。

是非、ご覧ください。

〇(2)<INTRODUCTION>

25年間迷子だった男が、Google Esrthで起こした奇跡とは・・・・・?
世界が驚愕した感動の実話!

<迷った距離、1万キロ 探した時間、25年 道案内は、Google Earth>

2012年、驚愕のニュースが世界を駆け廻った。5歳の時にインドで迷子になり、養子としてオーストラリアで育った男が、Google Earthと出会い、25年ぶりに家を見つけ出したというのだ。彼の名前はサルー・ブライアリー。この嘘のような実話に、名だたる映画人たちが争奪戦を繰り広げ、アカデミー賞作品賞に輝いた『英国王のスピーチ』の名プロデューサーたちが、遂に映画化を実現させた。

オーストラリアで幸せに暮らす25歳のサル―。しかし、彼には隠された驚愕の過去があった。インドで生まれた彼は5歳の時に迷子になり、以来、家族と生き別れたままオーストラリアへ養子に出されたのだ。自分が幸せな生活を送れば送るほど募る、インドの家族への想い。彼らは、今でも自分を探しているのではないだろうか?そして彼は決意する。人生を取り戻し未来への一歩を踏み出すため、そして母と兄に、あの日言えなかった「ただいま」を伝えるため、家を探し出すことを。

おぼろげな記憶をたどっていく先々で明かされていくのは、彼が巻き込まれた数奇な人生の全貌、インドのスラム街で幾多の危機を潜り抜けてきた少年の驚くべき知恵と生命力、そして深い愛に包まれた彼の本当の人生の姿。壮大な“探し物”の果てに、彼が見つけたものとは・・・・・?

〇(3)<STORY>

あの日言えなかった「ただいま」を伝えるために、
そして自分の人生を取り戻すため、
いま僕は、広大な世界へ旅立つ・・・。

オーストラリアで、優しい父母、美しい恋人と幸せに暮らすサル―。
しかし、彼には隠された過去があった。紐解かれていく、あまりに数奇な人生。
サル―が最後に見つけた感動の真実とは・・・・・?

1986年、インド。それはサル―が5歳の頃のことだった。早く大きくなって、4人の子供を抱えるシングルマザーの母と、学校へも行けず働く兄のグドゥの役に立ちたいサルーは、兄の夜通しかかる仕事に無理を言ってついて行った挙句、眠気に抗えず回送列車で一人眠ってしまう。ふと目を覚ますと、ホームに停車中のはずの列車は動きだしていて、乗客は一人もいない。「兄ちゃん!助けて!」誰にも届かない叫びは広大なインドの地に消えていく。なす術もなく数日間列車に揺られ続けたサルーが到着したのは、大都市コルカタのハウラー駅。言葉も通じない未知の場所で、サルーは初めて見る都会の人混みにあっという間に飲み込まれて行った・・・・・。

2008年、サルー(デヴ・パテル)はオーストラリアのタスマニアに暮らす養父母のもとを離れ、メルボルンにある学校でホテル経営を学んでいた。インドの施設にいたのを、ジョン(デヴィッド・ウェンハム)とスー(ニコール・キッドマン)の夫妻に引き取られ、養子として愛情いっぱいに育てられたのだった。

同じクラスのインド出身の学生たちと親しくなったサルーは、以前から気になっているルーシーと共にホームパーティーに招かれる。人生の殆どをオーストラリアで過ごしてきたサルーには、インドでの記憶はほとんど残されていない。ところが、キッチンに置いてあったインドの揚げ菓子“ジャレビ”を見た途端、閃光のように脳裏に兄の姿が蘇る。それは、市場で兄にねだったが、お金がなくて買えなかった思い出の菓子だった。

友人たちに自分は迷子だったと打ち明けるサルー。住んでいた町の名もうろ覚えで、母の名前も自分の苗字さえもわからない。記憶にあるのは、列車に乗り込んでしまった駅の近くに給水塔があったことだけ。そんな中、友人の一人が、Google Earthなら地球のどこにでも行くことが出来ると教えてくれる。当時の列車の時速を調べれば、乗っていた時間からハウラー駅までの距離が割り出せるというのだ。こうして、サルーの人生をめぐる、途方もない“捜索の旅”が始まった・・・・・。

干草の山から一本の針を探すような果てしない探索。記憶が蘇るにつれて、サルーは己の数奇な運命に衝撃を受け、過酷な状況を生き延びた生命力に驚きながらも、心配するルーシーを遠ざけ、傷つけることを恐れて養父母にも話せず,永遠に思えるひとりぼっちの“旅”にのめりこんでいく。今も自分を探しているに違いない実の母と兄に、ただ一言「僕は無事だ」と伝えたい。サルーの想いはただ一つだけだった・・・・・。

〇(4)家族のあり方、ふたつの家族。世界が今求めている、多様性の肯定。>(松崎健夫・映画評論家)

この映画のファーストカット。カメラは俯瞰で大地を捉え、陸地や海原を次々に映し出してゆく。それは時に衛星写真のようであり、航空写真のようでもあり、ドローンで撮影された映像のようでもある。やがて荒野を歩く主人公・サルーの姿を<点>で捉え、カメラは地上へと降りて来る。その視点移動は、まるで「25年間探し続けた実家をGoogle Earthによって見つける」という物語を象徴しているかのようである。

優れた映画の多くは、映画の冒頭で「この映画ではこのようなことを描きますよ」と宣言してみせていることが多い。サル―が体験する波瀾万丈の人生。意図せず故郷を離れ、やがて故郷を探し当てる過程を視覚化することで、本作もまた映画の冒頭で宣言しているのである。

ちなみに、オーストラリアからインドの故郷までは、直線距離でおよそ1万km離れている。サルーが実母を訪ねてゆく姿は「母をたずねて三千里」を想起させずにはいられないが、偶然にも、三千里はおよそ1万km(正確には11781.82km)。そういう意味でも『LION/ライオン~25年目のただいま~』は、現代の「母をたずねて三千里」である、といっても過言ではない。

近年、国際映画祭のトレンドとして<血縁に依らない家族関係>を描いた作品を評価するという傾向がある。たとえばカンヌ国際映画祭では、家族と偽って国境を越える難民を描いた『わたしは、ダニエル・ブレイク』(16)と、2年連続で<血縁に依らない家族関係>を描いた作品に最高賞パルム・ドールを贈った。

日本でも、ゲイのカップルが隣に住むダウン症の少年を引き取る姿を描いたアメリカ映画『チョコレートドーナッツ』(12)が口コミでヒットし、血縁よりも熱い家族関係を描いた『湯を沸かすほどの熱い愛』(16)が、宮沢りえの主演女優賞、杉咲花の助演女優賞を各映画賞で独占しているように、<血縁に依らない家族関係>を描いた作品が人々を魅了している。

その理由として挙げられるのが、「社会が以前と比べて<利己的>になっているのではないか?」という点。社会に対して<利己的>になりがちなことは、他者を排除することにも繋がる。たとえば、ドナルド・トランプ米大統領に対して多くのハリウッド映画人が異を唱えるのは、<利己的>な理由から他者を排除しようとしている点にある。そもそもアメリカは移民の国であるし、ハリウッドは海外の才能を引き抜くことで成長し続けてきたという歴史がある。“喜劇王”チャールズ・チャップリン、ハリウッド黄金期の女優イングリッド・バーグマン、“サスペンスの神様”アルフレッド・ヒッチコック監督、彼らは皆、ハリウッドに招かれ母国を離れたという共通点がある。本作は第89回アカデミー賞で作品賞候補となったが、投票権を持つハリウッドの映画人たちを魅了した理由には、この映画の描く<寛容>が関係している(藤森注:作品賞を受賞しました)

サルーはオーストラリアの夫婦に養子として迎えられるが、その理由を義母・スーはこう語る。
「世界は人であふれてる。子供を産んで世界がよくなる?恵まれない子たちを助けるほうが、意義がある」
この台詞からは、現代社会のあり方を考えさせられる。実はスーを演じたニコール・キッドマン自身、実生活で元夫トム・クルーズとの間に二人の養子をもうけている。いつもより抑制された彼女の静かな演技にリアリティを感じるのは、彼女自身の人生観が役柄に反映されているからではないだろうか。

また本作では、<利己的>になりがちな社会へのアンチテーゼとして、「自分のためではなく、誰かのために生きるという選択肢もあるのではないか?」とも問いかけている。これは、先述の『ディーパンの闘い』、『わたしは、ダニエル・ブレイク』、『チョコレートドーナッツ』、『湯を沸かすほどの熱い愛』にも共通する点。この映画がさらに優れているのは、<血縁関係に依らない家族関係>を提示しながらも、インドに暮らすサルーの家族という<血縁>からの深い愛情も描写することで、「育ての親と産みの親のどちらも大切」だと描いている点にある。

また養子縁組のあり方についても、美談に終わらせることなく深く斬り込んでいる。「養子として引き取ったとしても上手くいかないことがある」という厳しい現実をサルーの義兄弟・マントッシュの姿を通して描くことで、ステレオタイプな描写を排除しようとする姿勢を感じさせる。これらのことは、ともすれば一方的な視点で描かれがちなのだが、本作には多角的な視点がある。それでいて深い愛情に裏打ちされた真摯な眼差しを忘れていないことは、この映画を公平に感じる所以にもなっている。

『LION/ライオン~25年目のただいま~』は、世の中の様々な事情をひとつの<点>ではなく<面>で見ているという印象がある。そして<面>から<点>に絞って見ようともしている。それはまさに、Google Earthの操作にも倣っていて、映画の冒頭でサルーの姿を徐々に<点>で捉えてゆくことにも似ている。そして映画全体を「多様性を受け入れる」という<寛容>で包み込んでいる。本作は多角的な視点によって、現代における家族のあり方を我々に今一度問いかけているのである。

<まつざき・たけお・・・映画評論家。テレビ・映画の撮影現場を経て、映画専門の執筆業に転向。「キネマ旬報」、「ELLE」などに寄稿するほか、「ZIP!」(日本テレビ)、「WOWOWぷらすと」(WOWOW)、「japanぐる~ヴ」(BS朝日)などの番組に出演中。書籍に共著「現代映画用語事典」(キネマ旬報社)ほか>

<文責:藤森弘司>

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