2017年12月31日 第185回「今月の映画」
プラハのモーツァルト
監督:ジョン・スティーブンソン  主演:アナイリン・バーナード  モーフィッド・クラーク  ジェームズ・ピュアフォイ

●(1)「プラハのモーツァルト・誘惑のマスカレード」、これが正式なタイトルです。

パンフレットにあった<人の心に潜む欲望・嫉妬・夢>、そして、下記の(2)の最後には<<<純愛と嫉妬、欲望と策謀が渦巻く“百塔の都”プラハに、三人の危険な関係>>>とあります。
映画のなかには、「世界を美しくしてくれる」というセリフもありました。

しかし、一皮剥くと・・・・・。
仏教でいう「同行二人(どうぎょう・ににん)」とは、欲望と感情のままにゆれ動く日常的な自我と、それに呼びかける本質的な自己の二人。あるいは、お遍路さんの編み笠などには、観音様や弘法大師のお名前、そして自分(松原泰道先生「般若心経入門」祥伝社)

まさに、これと真逆なモーツァルトの周囲です。<<<純愛と嫉妬、欲望と策謀>>>モーツァルトは「神童」と言われ、世界最高級の才能を開花させたが、一皮剥いてみると、不幸の塊のような人生です。

才能、特に凄い才能が花開くには、己の人生を犠牲にする必要があるようです。己の人生を犠牲にするというよりも・・・・・もちろん、才能が無ければ如何ともし難いことであることはもちろんですが、人生がハチャメチャにならないと才能は花開かないようです。今回のモーツァルトもまさに、ハチャメチャであったと言わざるを得ません。

才能が無い私たち・・・いや私(藤森)は、「同行二人」を心がけることが大切だと、さらに強く思えました。

モーツァルトの年表から華々しい活躍を除いて、厳しいものだけを列挙すると、下記のようになります。凄い才能がある人たちの特徴がどんぴしゃりと出ています。私ならば「神経」がズタズタになってしまいます。逆に言いますと、神経がズタズタにならないと素晴らしい才能は「開花」しないようにも思えてしまいます。モーツァルトも例外ではありませんでした。

1756年、ザルツブルクに生まれる。
1778年、22歳、3月、母親と共にパリへ旅行。職を探すが見つけられず。母の死
1781年、25歳、1月、ミュンヘンでオペラ「イドメネオ」初演。ザルツブルク大司教と決裂し、ウィーンに移り住む。
1782年、26歳、コンスタンツェ・ウェーバーと結婚。
1783年、27歳、長男レイムンド・レオポルドが生まれるが、2ヶ月後に死去
1784年、28歳、次男カール・トーマス誕生。フリーメイソンに加入。
1786年、30歳、三男トーマス・レオポルドが誕生するがすぐに死去
1787年、31歳、父レオポルド死去。長女テレジアが誕生するが、6ヶ月後に死去
1788年、32歳、経済的困窮が深まる。
1789年、33歳、ベルリンでロシア皇帝の御前で演奏。次女アナ・マリアが誕生するが同日死去
1791年、35歳、四男フランツ・クサーヴァー・ウォルフガング誕生。11月下旬より病状が悪化し、12月5日、ウィーンにて死去

〇(2)<STORY>

1787年、プラハはモーツァルトの新作オペラ『フィガロの結婚』の話題で持ちきりだった。上流階級の名士たちはノスティッツ劇場での上演に歓喜し、その従僕やメイドまでフィガロの一節を口ずさむほどだった。
劇場のパトロンでもある名門のサロカ男爵の邸宅で開かれた宴席で、モーツァルトが話題に上った。話題は自然に彼をプラハに招待しようという流れになり、各自が寄付を出し合い、残りをサロカ男爵が持つことで話はまとまった。

一方、モーツァルトはその頃、失意のどん底にいた。愛する息子ヨハンを病で失い、妻のコンスタンツェはその傷を癒すために温泉治療に出かけてしまい、ウィーンに一人残されていた。孤独に苦しむ彼にとってプラハからの招待は何よりもうれしく、古くからの友人でありプラハで活躍するオペラ歌手のヨゼファ・ドウシェク夫人の邸宅に逗留すると、『フィガロの結婚』のリハーサルと新作オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の作曲に取り掛かるのだった。

その頃、『フィガロの結婚』のケルビーノ役のオペラ歌手が突然役を降り、ドイツへ帰ってしまった。サロカ男爵に代役として指名されたのは、市会議員の娘である美貌の新進歌手スザンナ・ルプタックだった。モーツァルトは顔合わせの瞬間から彼女の美貌ばかりか、溢れんばかりの才能を見抜き、大いに心を惹かれる。一方、厳格な家庭に育てられたスザンナは、妻帯者であるモーツァルトに近づくのは許されないことと思いながら、この気まぐれで子供のように無邪気な神童に、あがらいようもなく心惹かれてゆくのだった。しかし、スザンナに引き付けられたのはモーツァルトだけではなかった。サロカ男爵は黒い噂の絶えない猟色家で、これまで多くの歌手の卵や使用人をその毒牙に掛けてきた。そして、スザンナに目を付け、彼女を舞台に抜擢して自分のものにする機会を虎視眈々と狙っていたのだ。

ヨゼファ夫人邸宅での個人レッスン『フィガロの結婚』のリハーサルを通じて、モーツァルトとスザンナは急速に二人の距離を縮めてゆく。一方、サロカ男爵のもとには、ザルツブルク大司教より特使として派遣されたノフィが現れる。大司教はかつてケンカ別れをして宮廷を去ったモーツァルトを社会的に抹殺したいと考えていた。二人の仲を疑うサロカ男爵は、ノフィを利用してモーツァルトとスザンナの密通の証拠をつかもうとする。その証拠をもってモーツァルトを異端者として訴え、彼の評判を地に落とすのだ。

さらに、嫉妬と支配欲に駆られたサロカ男爵は、ルプタック氏にスザンナとの結婚を申し入れる。名門男爵家との成婚に大喜びするルプタック夫妻だが、サロカ男爵の悪名を知り、モーツァルトに心を寄せるスザンナにとっては地獄の苦しみだった。スザンナよりこの婚約話を聞いたモーツァルトは、結婚を思いとどまらせようとルプタック氏を訪問するが、自分の判断に泥を塗られたと思ったルプタック氏はこの説得をけんもほろろに拒絶するのだった。

決意を固めたスザンナは、サロカ男爵のもとに嫁ぐ前に、モーツァルトと一夜を共にすることを願い、両親が旅に出た自宅に彼を招き入れる。一方、ふたりの密通の物証を掴めないでいるサロカ男爵の疑念と怒りはもはや抑えようもなく、ついに彼はスザンナを我が物とするために、ルプタック夫妻の許可も得ないまま、自分の邸宅に彼女を拉致するという暴挙に及ぶ。

純愛と嫉妬、欲望と策謀が渦巻く“百塔の都”プラハに、三人の危険な関係は、今、クライマックスを迎えようとしていた…‥。

〇(3)<どんな正確な時代考証も巧みな脚本も及ばない、「これぞモーツァルト」と思わせる映画的な説得力>(前島秀国・サウンド&ヴィジュアル・ライター)

1786年5月、モーツァルトがウイーンで初演したオペラ『フィガロの結婚』、初日こそ大成功を記録したものの、期待されたほどのヒットにはならず、わずか8回の再演で打ち切られてしまった。ところが同年12月、プラハのボンディーニ劇団が『フィガロの結婚』を上演すると大ヒットを記録。翌1787年1月、モーツァルトはプラハで『フィガロの結婚』を指揮して大成功を収め、劇団はモーツァルトに新作オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の作曲を依頼した・・・・・。以上の史実を踏まえた上で、本作『プラハのモーツァルト・誘惑のマスカレード』の物語は展開していく。
プラハに到着したモーツァルトは、現地の熱狂ぶりを友人宛の手紙で次のように報告している。「6時になるとカナル伯爵と共に、プラハ中の美女が集まる舞踏会に向かった。(中略)いちばん嬉しかったのは、そこにいた人々全員が、カドリーユやワルツに編曲された僕の『フィガロ』を喜びながら、飛び回っていたことだ。話題は『フィガロ』だけ、演奏も『フィガロ』だけ、歌や口笛も『フィガロ』だけ、大入りになるオペラ『フィガロ』だけ、とにかく『フィガロ』だけ・・・・・とても嬉しかった」。映画前半に登場する仮面舞踏会のシーンは、この手紙の記述をゴージャスかつ色彩豊かに脚色しながら再現したものだ。1787年10月。モーツァルトは『ドン・ジョヴァンニ』を初演すべく再びプラハを訪れ、初日の直前までプラハで作曲を続けた。その間、モーツァルトが滞在していた建物が、本編にも登場するソプラノ歌手ヨゼファ・ドウシェクと、その夫が所有していた別荘「ベルトラムカ」である。国際的な歌手として活躍していたヨゼファ夫人は、10年来のモーツァルトの友人であり、おそらくはモーツァルトの招聘と『ドン・ジョヴァンニ』の作曲依頼にも大きく関与していたのではないかと推測されている。モーツァルトの長男カールが成人後に語ったところによれば、モーツァルトは「ベルトラムカ」で『ドン・ジョヴァンニ』の作曲を仕上げたという。「ベルトラムカ」滞在中、ヨゼファのためにモーツァルトが演奏会用アリアを作曲するなど、ふたりの関係があまりにも親密だったため、ある高名な研究者が20年ほど前にモーツァルトとヨゼファ夫人の不倫説を発表し、ちょっとした話題になったことがある。現在では、その可能性は否定されているけれど、ふたりの不倫説は本作のプロットにも少なからず影響を与えたはずだ。10月29日、『ドン・ジョヴァンニ』はプラハのエステート劇場でモーツァルト自身の指揮により、初日の幕を開けた。映画の中では、その由緒あるエステート劇場の外観を目にすることが出来る。言い伝えによれば、初日の前夜、序曲を作曲し忘れたことに気付いたモーツァルトは、妻コンスタンツェが注ぐポンチを飲みながら、徹夜で序曲を書き上げた。オーケストラの団員に序曲の楽譜が渡された時、まだインクが乾いていなかったという・・・・・。この有名なエピソードも、本編の中で若干の脚色を加えながら再現されている。

以上のような史実や証言を踏まえながら、本作はモーツァルトのプラハ滞在を生き生きと描いているが、それだけでなく、映画の物語の中に『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』のキャラクターや設定を巧みに織り込んでいるのが非常に面白い。

映画の中でヨゼファ夫人に仕える女中バルバリーナ、そしてモーツァルトに想いを寄せる新人歌手スザンナは、いずれも『フィガロの結婚』の登場人物から役名が採られている。『フィガロの結婚』は、貴族のアルマヴィーヴァ伯爵が中世に廃止された

初夜権(領内の女性が結婚する前夜、領主が独占的に処女を奪う権利)を復活させ、理髪師フィガロとの結婚を控える小間使いスザンナの処女を奪おうとする物語だ。映画の中で、サロカ男爵が歌手スザンナの処女を狙い続けるという設定は、要するに『フィガロの結婚』の物語の再現なのだ。それだけではない。手当たり次第に女性に手を付けていくサロカ男爵のキャラクターは、

強姦殺人を犯した挙句、地獄に堕ちる『ドン・ジョヴァンニ』の主人公そのままでもある。映画の中では、サロカ男爵の存在がモーツァルトに作曲のインスピレーションを与えたという設定になっているのが、逆に言えば、サロカ男爵のような強烈な悪人を主人公に据えた、オペラ作曲家としてのモーツァルトの大胆な先進性に改めて驚かざるを得ない。そのモーツァルトを演じたアナイリン・バーナードの憂いに満ちた表情と、悲しみを秘めた瞳がスクリーンに映し出された時、評論家の小林秀雄が残した名言「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」を即座に連想した観客も多いはずだ。どんな正確な時代考証も巧みな脚本も及ばない、「これぞモーツァルト」と思わせる映画的な説得力がバーナード演じる若々しくも繊細なモーツァルトの中にあった。

〇(4)<モーツァルトを裏目読みする密かな愉しみ>(河原晶子・映画評論家)

モーツァルトのオペラの中でもっとも興味深い作品は・・・と問われたら、私は迷うことなく「ドン・ジョヴァンニ」と「魔笛」を選び出す。なぜなら幼少期は神童とも天使のようとも愛らしく清らかな呼び名を与えられた彼の、あまり語られることのない暗い部分、複雑に屈折した心を、このふたつのオペラは隠し持っていると思うからだ。

「ドン・ジョヴァンニ」はスペインが生んだ悪名高き色事師ドン・ファンを骨子にして生まれた観念的・悲劇的な精神に貫かれた作品である。名うての好色漢であるスペイン貴族の主人公が、その快楽主義の果てに地獄へと堕ちてゆくという、モーツァルトにしては珍しい暗く重いペシミズムの色濃い終幕が強烈な印象を残す。そしてもうひとつの「魔笛」はドイツのジングシュピール(童話)を参考にE・シカネーダーが台本を書いた愛らしいお伽話のような世界と深遠な人間の善悪の原理思想を展開させた作品である。

その「ドン・ジョヴァンニ」は映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』の中に「フィガロの結婚」とともに重要な主題のひとつとして登場する。プラハで「フィガロの結婚」が大成功を収めてこの地に招かれたモーツァルトはプラハの劇場の依頼で「ドン・ジョヴァンニ」の作曲にとりかかる。初日の直前まで作曲を続けた彼が、その前夜になって序曲を作曲し忘れたことに気づき徹夜で序曲を書きあげたという有名なエピソードが映画の中に描かれている。

希なる色事師ドン・ジョヴァンニという男性像は、モーツァルトのオペラの中でもとりわけ複雑に屈折した、それ故に魅惑的なキャラクターである。手当たり次第に女たちを毒牙にかけるドン・ジョヴァンニは、一見するとモーツァルトが得意とする奔放で楽天的なヒーローのようにもみえる。しかし騎士長の石像によって地獄堕ちという試練を迎える彼は、対照的に運命的な悪役である。

映画『プラハのモーツァルト』の中で美しく清純なスザンナを毒牙にかけようと目論む劇場のパトロンのサロカ男爵にドン・ジョヴァンニの片鱗をみつけるのはたやすい。サロカ男爵を演じるのは、数々のシェイクスピア作品を舞台で演じているイギリスの実力派俳優ジェームズ・ピュアフォイ。絵に描いたような悪役ではなく、上流階級特有の気どった品格のあるたたずまいが、この男爵にどこか格調高い雰囲気を与えている。彼が演じるサロカ男爵に、私はモーツァルトの姉ナンネルをヒロインにした映画『ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路』(2010)でナンネルと弟アマデウスの父親レオポルドを演じたフランスのエレガントな俳優マルク・バルぺの色香のようなものを重ね合わせてしまった。ここでレオポルドはアマデウスとその姉ナンネルの厳格な父親として描かれている。モーツァルトの“ファーザー・コンプレックス”が指摘されるようになったのも、このあたりが原因がなったのだろう。

『プラハのモーツァルト』の中のモーツァルトとサロカ男爵の関係を、アマデウスと父親レオポルドのそれに例えるのは危険かもしれない。でもふたりのそうした運命的絆を想像しながらこの映画を観るのは、ある種の密かな愉しみなのである。ミロス・フォアマンの映画『アマデウス』(1984)の中でモーツァルトの才能を嫉妬する宮廷作曲家サリエルはモーツァルトの亡き父親の亡霊となってモーツァルトに<レクイエム>の作曲を依頼し、彼を死に誘う。サリエルも又、サロカ男爵と同じようにモーツァルトの“ファーザー・コンプレックス”を暗示させているのかもしれない。

もうひとつの「魔笛」は、この映画には登場しない。あえてこのオペラの中に「ドン・ジョヴァンニ」の騎士長とサロカ男爵、そして父親レオポルドという絶対的男性像を探すならば、悪の権威の象徴ともいえる高僧ザラストロの存在だろう。ザラストロの高潔で絶対的な父親像は、いっぽうでは男性優位主義者の象徴とも暗示される。「魔笛」はザラストロ=男性原理と夜の女王=女性原理の対立と融和を主題とした作品である。

「フィガロの結婚」に登場するもっとも魅力的な登場人物である美しき小姓ケルビーノはすべて女性歌手によって演じられるが、舞台の中で、彼は“女装するケルビーノ”に変身する。現代のジェンダー論として語りたいようなスリリングで魅惑的な演出である。モーツァルトの類まれな遊び心!そんな無邪気な天才的感性を象徴していたのが『アマデウス』のヒーロー=トム・ハルスだった。彼が演じるモーツァルトは、文字通り人間界に悪戯を仕掛ける天使・トリックスターだった。

映画『プラハのモーツァルト』でアナイリン・バーナードが演じるモーツァルトは、繊細で心優しき正統派の二枚目である。モーツァルトとスザンナ、そしてサロカ男爵。この危うく運命的で、それ故に魅惑的な“三位一体”に、モーツァルトという一見単純にみえて実は複雑屈折した天才の正体を解く鍵が潜んでいるような気がしてならない。

<文責:藤森弘司>

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