2017年1月31日 第174回「今月の言葉」
沈黙 -サイレンス-
原作:遠藤周作
監督:マーティン・スコセッシ  主演:アンドリュー・ガーフィールド  リーアム・ニーソン  アダム・ドライヴァー  浅野忠信  窪塚洋介  イッセー尾形

●(1)やれやれ、宗教って重たいものだと、改めて、思いました。

踏み絵を踏まなければ磔になるという場面で、踏み絵なんかただの絵だとは思えない宗教の凄さというか、恐ろしさを改めて感じました。磔になることが100%ハッキリしているにもかかわらず、踏まない。つまり、磔になることを選択する・・・いや、踏めないということの重さは、今の私には理解できません。

昔のある禅僧の話を思い出しました。
今でいうホームレスの方がお寺に来て、何かを所望しました。しかし、その禅僧は何も無いので、寺の仏像の腕を折って、腹の足しにするように差し出しました。しかし、そのホームレスの人は、そんな勿体無いものはいただけないと辞退すると、禅僧は、これはただの鉄(銅?)だから、お金に換えて、腹の足しにするようにと付け加えました。

私(藤森)はこういう話が好きで、たかだか踏み絵を踏むか、踏まないか。踏まなければ磔になるなどという場面では、鼻歌を歌って踏んづけたいと、今の私ならば思うのですが、はてさて、どんなものなのでしょうか。

また、キリスト教とか言っても、大したものではありませんよ。下記を参考にご覧ください。
「今月の映画」第165回「スポットライト・世紀のスクープ③ー①」第167回「スポットライト③ー②」第168回「スポットライト③ー③」ご参照>。

しかし、最後に、原作者の遠藤周作氏は、下記の(6)にあるように、とても素晴らしいことを表現しています。多くのクリスチャン、特に神父さんたちは、遠藤氏のような心境になってほしいと思うのですが、門外漢の私が言うのもいかがかとは思います。

しかし、スコセッシ監督は、僭越ながら、多分、私と同じような感覚があったために、長い間、この作品の映画化を温めていたのではないかと推測します。

<<<勿論この作品のクライマックスも原作同様イエスがロドリゴにむかって言う一言に尽きる。物語のはじめ「踏み絵を踏む」場面の科白には「Trample!」(踏め、踏み潰せ!)という単語が使われているが、ロドリゴが踏み絵に足をかけようとした時に使われる言葉は「Step on me」に変わっている。そこには「踏むがいい」と語りかける母なるイエスの声が画面を通して伝わってくる。>>>

これが、多分、本来のキリスト教の姿ではなかろうかと思います。遠藤周作氏は、生い立ちに凄まじいものがあるだけに、かなり深い宗教的な体験をしていることと思います。凄まじい映画ですが、特に、最後の解説(6)をジックリとお読みください。

<<<結核再発による3年近い病床体験という生活上の挫折。・・・・・10歳の時に母が父に棄てられ、12歳の時にその母がカトリックの洗礼を受け、自分も母に従って受洗したこと。一時期は将来神父になろうと本気で考えたが、次第に厳しい信仰生活を求める母の圧力に反発を抱いていったこと。戦中にはキリスト教徒が敵性宗教を信じる非国民として迫害され、外国人神父が憲兵に連行されるなど弾圧を受けるなかで自分は信念を貫けない弱く卑怯な人間であると思い知らされたこと。
・・・結核発病で帰国した後に愛着の強かった母が急死し、・・・・・その母と自分との精神的指導司祭だった恩師の神父が突然失踪し、神父をやめたことに衝撃を受けたこと・・・・・>>>

〇(2)<STORY・物語>

<主よ あなたは何故 黙ったままなのですか・・・・・>

1640年、江戸時代初期。日本で布教活動していたイエズス会の高名な宣教師フェレイラが捕らえられ、激しいキリシタン弾圧に屈して棄教(信仰を捨てる事)したという手紙がヴァリニャーノ神父の元に届けられる。信じられない弟子のセバスチャン・ロドリゴ神父とフランシス・ガルぺ神父はそれを確かめるため、棄教した日本人キチジローの手引きで、マカオから長崎へ潜入を図る。

日本にたどりついた彼らは、弾圧を逃れた“かくれキリシタン”と呼ばれる日本人、モキチやイチゾウらと出会う。ロドリゴとガルぺは潜伏しながら布教活動を行うが、幕府の取り締まりにより、モキチらは、ロドリゴらを匿い最後まで信仰を捨てなかったために処刑されてしまう。しかし、キチジローはあっさりと踏み絵を踏み、裏切って逃げてしまう。

ロドリゴは、ガルぺとも離れ離れになり、一人五島列島の山中をさ迷う。疲労と空腹で意識が朦朧とする中、再びキチジローが現れ彼を救う。ロドリゴは川面に映った自分の顔がキリストのそれと重なる。その時、侍たちが現れ、ロドリゴは捕らえられる。キチジローの密告であった。

モニカやジュアンら他のかくれキリシタンとともに長崎奉行所に連行され投獄されたロドリゴのもとに、キチジローが赦しを乞いに現れる。キチジローは、自分はキリシタンだと申告し、同じ牢に投獄される。ロドリゴはキチジローをまるでユダのように見るのだった。

キリシタンを厳しく取り締まる井上筑後守と、彼に仕える通辞(通訳)はロドリゴに棄教を迫るが、ロドリゴは頑なに拒否する。
ロドリゴは、沢野忠庵と改名したフェレイラに再会させられる。彼の棄教を激しく非難するロドリゴに対し、フェレイラは先人たちがこの国で布教してきたキリスト教の、信じられない事実を語るのだった。

ロドリゴのせいで、棄教してもなお残酷な拷問にあう信徒たちを目のあたりにし、ロドリゴは、神はなぜ沈黙するかと嘆く。信徒の命を守るのか、信仰を守るのか、最後の選択を迫られる。追い詰められた彼の決断とは・・・・・。

〇(3)<INTRODUCTION 解説>

<主はおっしゃった 「世界に赴き 全ての者に 教えを授けよ」>

 世界の映画人たちに最も尊敬され、アカデミー賞にも輝く巨匠、マーティン・スコセッシ監督が、かねてより念願の企画と語っていた1本がいよいよそのベールを脱ぐ。原作は戦後日本文学の最高峰とも称される遠藤周作の「沈黙」(新潮文庫版)。世界中で20か国語に翻訳され、“神と人間”という根源的なテーマに迫った名作小説だ。2016年は遠藤の没後20年、原作が発表されてから50年。スコセッシは人間としてのイエス・キリストを新解釈で描いた問題作『最後の誘惑』を発表した1988年、この原作と運命的に出会う。28年の時を経てついに完全映画化を果たした。少年時代はカトリックの司祭になることを思い描き、宗教的葛藤をしばしば作品の主題に据える彼にとって、一つの集大成になることは間違いない。

舞台は17世紀、江戸初期の長崎。激しいキリシタン弾圧の中で棄教したとされる師の真実を確かめるため、日本にたどり着いたポルトガル人の若き宣教師。その目に映った想像を絶する日本人信徒たちの苦悩と惨状。西洋と東洋の断絶を超え、人間にとって本当に大切なものとは何かを問いかける・・・・・。信仰を貫くか、人を救うのか、という“究極の選択”にまつわる重厚なドラマを壮大な映像美で描いた歴史大作だ。 

〇(4)<「信じること」の意味・・・異なる世界観を超えて>(今井真理・文芸評論家)

マーティン・スコセッシ監督は小説「沈黙」の英訳本の序文で次のように述べている。
「私は20年ほど前に初めてこの本を手にしてから、数えきれないくらい読み返した。そして今、ようやくこの作品の映画化を進めている。この小説は、私が生きる上での糧を見いださせてくれた稀にみる芸術作品の一つである」(「SILENCE」Introduction)。

若い頃カトリックに傾倒し、神父になりたかったスコセッシにとって、キリスト教やカトリックの価値観は自分の生活の中心だったという。1991年、スコセッシは、ジョン・キャロル大学の名誉博士号を受けるために渡米した遠藤周作とニューヨークで会い、映画化の決意を伝えた。「沈黙」に出会って以来、20数年、幾度となく計画が頓挫しても映画化を諦めなかった理由はどこにあるのだろうか。スコセッシは言う。

「『沈黙』は信仰そのものだったからです。文化的に異なる世界観、生活観の違い、国による信仰の違いを描きたかった。」(対談「マーティン・スコセッシx遠藤龍之介」)

文化的に異なる世界観、信仰の違いに心を砕いていた作家こそ、遠藤周作その人であった。日本人にはなじまないカトリックという洋服を、日本人に合った和服に仕立て上げることが、遠藤が長年取り組んだテーマの一つであった。「異なる世界観」それを象徴する場面が映画『沈黙・サイレンス』には2つある。その1つは何度か登場する「イエスの顔」である。

遠藤は「沈黙」の執筆にあたって一番重視したことは、外国人であるロドリゴが、心に抱いていた「キリストの顔の変化」だと述べている。長い航海を経て、ロドリゴは同僚のガルぺと共に上陸した。辛い時には、父のように強く威厳のあるイエスの顔を思い出し、苦難を乗り越えようとした。しかし、捕らえられた後、彼が目にした銅版のイエスの顔は、彼が今まで見てきたものとは全く違ったものだった。それは、遠藤の描くイエスの顔、我が子の苦しみに寄り添う母なるイエスの顔であった。

そしてもう1つは「十字架」である。ロドリゴが上陸し、その胸に提げていた真鍮の十字架、モキチが凝視(みつ)めた西洋の十字架、それが物語の半ばからは、あたかも西洋と東洋の違いを表すかのように、藁の十字架となって信徒に手渡される。しかし、ラストシーン、ロドリゴの掌の中にある十字架には、形や外見に捉われない、苦しむ人と共にある同伴者イエスの姿がある。

また、小説「沈黙」の最後の章には、「続々群書類従」の中の「査ヨウ余禄」を下敷きにして書かれた「切支丹屋敷役人日記」がある。そこには捕らえられたキチジローが囲番所で持ち物を調べられたところ、首にかけた守り袋の中から、イエスの肖像が出てきたことが記されている。一度は棄教してもまた信者であると宣言するこの姿こそ、遠藤が描きたかった箇所なのである。

「彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである」(「一枚の踏み絵から」)と遠藤は書いている。この日記にはくり返し「信仰宣言」をするキチジローの姿が記されているが、多くの読者はこの部分を読み過ごしている。今回スコセッシがこのシーンを取り上げたことは彼が如何にこの作品を深く読み込んでいるかを証明する。

勿論この作品のクライマックスも原作同様イエスがロドリゴにむかって言う一言に尽きる。物語のはじめ「踏み絵を踏む」場面の科白には「Trample!」(踏め、踏み潰せ!)という単語が使われているが、ロドリゴが踏み絵に足をかけようとした時に使われる言葉は「Step on me」に変わっている。そこには「踏むがいい」と語りかける母なるイエスの声が画面を通して伝わってくる。

小説「沈黙」の中で重要な役割がある。かくれキリシタンたちの祈りの唄「オラショ」が「聖歌」に変わっていることなど原作との違いはあるが、それらを超えたスコセッシの描く『沈黙・サイレンス』の世界に観客は圧倒されるに違いない。

先に述べたスコセッシの序文には、「信じることと疑うことは同時に進行していく」とも書かれ「確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へ、それが『沈黙』の中には、注意深く、そして美しく描かれている」と記されている。人は誰でも罪を犯す。それはまた人が如何に、哀しく、孤独を怖れ、肉体的にも弱い存在であるかを示している。この映画には歴史の上では名もない人々、たとえば信仰を守り通したモキチや、天国(パラダイス)を夢見て簀巻きにされ、海に投げ落とされた女が登場する。彼らだけではない、踏み絵に足をかけたキチジローや殺された村人たちも誰の記憶にも残らないかもしれない。しかし、彼らも私たちと同じ一人の人間としての一生があった。もしそれらの弱い人たちのそばに寄り添う神でなかったら、遠藤の「イエス」は存在しない。

今、世界のどこかで宗教や文化の違いから争いが続いている。遠藤はかつて「20世紀宗教の限界を超えて」と題し「なぜ神がいるといえるのか。神がいるならなぜこの地上は暗いのか」という疑問に宗教が答えられていない、と述べた。映画『沈黙・サイレンス』には西洋と東洋の壁を越えて「信じること」の意味が観客一人一人に問われている。

〇(5)<歴史に黙殺された弱者の声>(遠藤周作)

切支丹時代に自分の関心の足がかりを向けた私はすぐ、また深い失望を味わわなければならなかった。
それは明治以後、出版された汗牛充棟ただならぬ切支丹研究書にはほとんど一つとして、私の視点・・・つまり強者と弱者の視点からこの時代を分析したものはなかったからである。(略)

もちろん強かった人、殉教者については数多くの伝記や資料が我々の手に残されている。これらの人々の崇高な行為にたいして教会も賛美を惜しまぬからである。
だが、弱者・・・殉教者になれなかった者、おのが肉体の弱さから拷問や死の恐怖に屈服して棄教した者についてはこれら切支丹の文献はほとんど語っていない。もちろん無数の無名の転び信徒について語れる筈はないのだが、その代表的な棄教者についてさえ、黙殺的な態度がとられているのである。

それには考えられる理由が当然ある。棄教者は基督教教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。臭いものには蓋をせねばならぬ。彼等の棄教の動機、その心理、その後の生き方はこうして教会にとって関心の外になり、それを受けた切支丹学者たちにとっても研究の対象とはならなくなったのである。

一方、迫害者側の文献にも弱者は無視されている。迫害者である日本幕府にとってもおのが弱さに脱落した転び者はたんに軽蔑の対象にすぎず、それら無力化した者たちについて態々書きのこす必要は全くなかったのである。

こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。私は彼等を沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。彼等をふたたびその灰のなかから生きかえらせ、歩かせ、その声をきくことは・・・それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだと言う気がしたのである。

<遠藤周作(原作)・・・・・1923(大正12)年、東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、11歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。フランス留学を経て、1955(昭和30)年「白い人」で芥川賞を受賞。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品、歴史小説も多数ある。主な作品は「海と毒薬」「沈黙」「イエスの生涯」「侍」「スキャンダル」等。1995(平成7)年、文化勲章受賞。1996(平成8)年、病没。
原作について・・・・・「沈黙」(新潮文庫刊)。1966年に発表された遠藤周作の代表作の一つ。第2回谷崎潤一郎賞を受賞した。日本国内のみならず、世界20か国語以上で翻訳され、読み継がれている。昨年(2016年)は、刊行から50年の節目をむかえた。>

〇(6)<原作者の「沈黙」に込めた思い・・・原題「日向の匂い」に照らして>(山根道公・ノートルダム清心女子大学教授)

遠藤周作は、「沈黙」について、結核再発による3年近い病床体験という生活上の挫折がなければ心に熟さなかったと言う。病床体験によって生活の挫折と思えるどんな出来事も人生では無駄でなくそれらを通して神が語る「沈黙の声」があることを見いだしていった遠藤は、この小説には「自分の過半生をすべて打ち明けなければならない」、「この小説を書きあげることが出来たら、もう死んでもいい」と思うほどに全存在をかけて書き上げる(「沈黙の声」)。

遠藤は病床で自分の過半生を心に甦らせていく。10歳の時に母が父に棄てられ、12歳の時にその母がカトリックの洗礼を受け、自分も母に従って受洗したこと。一時期は将来神父になろうと本気で考えたが、次第に厳しい信仰生活を求める母の圧力に反発を抱いていったこと。戦中にはキリスト教徒が敵性宗教を信じる非国民として迫害され、外国人神父が憲兵に連行されるなど弾圧を受けるなかで自分は信念を貫けない弱く卑怯な人間であると思い知らされたこと。

慶應仏文科在学中に西欧のカトリック文学への関心を深めるなかで一神教と自らの汎神的感性との葛藤に苦しんだこと。戦後最初のカトリック留学生として渡仏し、西洋文化の思考方法で育てられたキリスト教と日本人である自分との距離感が強まるなかで、その問題をテーマに作家をめざしたこと。結核発病で帰国した後に愛着の強かった母が急死し、裏切っても自分を愛し続けてくれた母の愛を噛みしめたこと。その母と自分との精神的指導司祭だった恩師の神父が突然失踪し、神父をやめたことに衝撃を受けたこと。

渡仏時の船の四等船室で一緒だった井上洋治が修道院での修行と勉学の末に自分と同じ課題を背負って帰国し、二人で共に日本人とキリスト教との距離感を埋める道を開拓しようと決意したこと。そして結核が再発し、人間の苦しみや死と向き合い、なぜ苦しみが与えられるのかと神に問い続け、孤独の苦しみの極みで、苦しみを分ちあう基督の眼差しに出会ったこと。

こうした自分の過半生の問題を投影できるのは迫害下の切支丹だと考え、切支丹時代の文献を濫読していく。それから健康が回復すると、長崎での取材を重ね、初稿を書き上げる。切支丹時代の史実を凝視して再構成し、そこに母の愛と子の裏切り、一神教と汎神論的風土、迫害下の弱者と神、背教神父と神といった、遠藤が過半生で格闘してきた問題を投影し、最終的にそれらの苦しい体験があって出会えた、苦しみの同伴者である基督の顔を描くことで、日本人とキリスト教との距離を埋め得た初の作品を仕上げる。

その原稿に付けられた題名は「日向の匂い」であったが、編集者から「これでは迫力がない。この内容なら『沈黙』では」と提案され、題名は変更される。後に遠藤は、「神は沈黙しているのではなく語っている」という「沈黙の声」という意味をこめての『沈黙』という題名が「神の沈黙を描いた作品」と誤読を招く原因になったことを悔やみ、「日向の匂い」という抑制の効いた題名のなかで小説のテーマを読み取ってもらいたかったと述べ、「屈辱的な日々を送っている男が、あるとき自分の家のひなたのなかで腕組しながら、過ぎ去った自分の人生を考える。そういうときの<ひなたの匂い>があるはず・・・言い換えれば<孤独の匂い>」と語る(「沈黙の声」)。

このような作者の思いを踏まえると、ロドリゴの踏絵後の屈辱的な日々が描かれた9章とその後に付された「切支丹屋敷役人日記」が看過できないものとなる。9章の最後を締めくくる「私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だった。・・・私の今日までの人生があの人について語っていた」という言葉は、ロドリゴが日向のぬくもりに包まれ、過半生を辿るなかで得た実感であったろう。

そこで「今でも最後の切支丹司祭」との自覚を新たにしたロドリゴは、キチジローに、自分が苦しみの極みで出会った基督の眼差しを伝える司祭となる。キチジロウーは自分の弱さを一番理解し、その苦しさを分ちあってくれる母のような基督の愛と許しの眼差しを知って、真に救われ、信仰を新たにしたことが、「切支丹屋敷役人日記」によって暗に示されている。

すなわち、キチジロウー(吉次郎)がロドリゴ(岡田三右衛門)の召使(中間)となって側に仕え、その信仰を仲間たちに伝え、キチジロウーのまわりには秘かな信仰共同体が出来ていた事実が、キチジロウーが聖人のメダイを隠し持っていたことから明らかになる。また、ロドリゴが「宗門の書物」すなわち「切支丹を棄教する誓約書」を重ねて書かされている事実から、信仰を棄てていないことを申し立て、再び拷問にかけられる出来事があったことが暗示される。そうしたロドリゴは最後には外見は仏教徒として火葬された事実が語られてこの日記は幕を閉じる。

こうした挫折と屈辱の人生を生きぬいたロドリゴにも、フェレイラやキチジロウーにも、外からはわからないが、孤独の苦しみに寄り添う、母の懐のような神のぬくもりに触れる、密かな神とつながる魂の領域があることを「日向の匂い」で遠藤は暗に示したかったのではなかろうか。

こうした原作のテーマに照らして今回の映画を観ると、スコセッシ監督が魂の領域にまで及ぶ原作のテーマをいかに深く理解し、さらに映像芸術ならではの迫力と独創的な展開で、そのテーマをいかに深化させているか、特に衝撃のラストから強く納得させられる。『沈黙』刊行から50年、遠藤が最も伝えたかった魂のドラマが、スコセッシ監督によって孤独な現代人の魂を揺さぶる映像となって甦った。監督は原作を何度も読み返し生きる糧を見出すと言うが、映画もそうした味わいを我々に与えてくれる作品になっていくに違いない。

<文責:藤森弘司>

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