2016年4月30日 第165回「今月の映画」
③ー①
<癌とは何か?対策編⑩>
監督:トム・マッカーシー 主演:マーク・ラファロ マイケル・キートン レイチェル・マクアダムス リーヴ・シュレイバー
●(1)今回の映画はビックリ仰天・・・神父の児童への性的虐待の映画です。
先日、ある宗教家の方が、宗教のパンフレットを見せてくれました。そこの中のあるページには次のように書いてありました。 <<<道徳面や精神面での啓発を与えている・・・教育は大切です。しかし、「教育を受けて学位を得るとしても、その種の教育で道徳的知性が身につくとは限らない」と、カナダのオタワ・シティズン紙(英語)の社説は述べています。実際・・・・・>>> この部分を発見した私(藤森)は、次のように言いました。 「道徳的知性を身につけることは簡単です。日本人ならば、おそらく、ほとんど全員が身についているはずで、小学生でも身についているはずです。 学んで、理解して、それに沿って行動(修行)して、理解したことを身につけることが難しいことで、それは心理学者であろうと、哲学者であろうと、宗教家(神父、牧師、仏僧)であろうと、そして私自身も含めたカウンセラーであろうと、医師・精神科医であろうと、宗教学者・大学教授であろうと、本気で実践し、実践したことを身に着けようとしないことが問題なのです」と言いました。 そういうことがあった直後に、今回の映画を観ました。 驚くべき内容の映画でした。カトリック教会の神父たちの幼児虐待・・・しかも、組織的大問題の映画です。 では、今回の映画が、何故、癌の対策編になるのでしょうか?その解説は、最後の(6)(7)で説明します。 |
○(2)<イントロダクション>
<ボストン・グローブ紙の記者たちが、 2002年1月、アメリカ東部の新聞「ボストン・グローブ」の一面に全米を震撼させる記事が掲載された。地元ボストンの数十人もの神父による児童への性的虐待を、カトリック教会が組織ぐるみで隠蔽してきた衝撃のスキャンダル。1000人以上が被害を受けたとされるその許されざる罪は、なぜ長年にわたって黙殺されてきたのか。この世界中を驚かせた〝世紀のスクープ”の内幕を取材に当たった新聞記者の目線で克明に描き、アカデミー賞6部門にノミネートされ、みごと作品賞、脚本賞を受賞したのが、『スポットライト 世紀のスクープ』である。 2001年の夏、ボストン・グローブ紙に新しい編集局長のマーティ・バロンが着任する。マイアミからやってきたアウトサイダーのバロンは、地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。その担当を命じられたのは、独自の極秘調査に基づく特集記事欄<スポットライト>を手がける4人の記者たち。 デスクのウォルター〝ロビー”ロビンソンをリーダーとするチームは、事件の被害者や弁護士らへの地道な取材を積み重ね、大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。 <幾多の困難にも屈せず、ジャーナリスト生命を懸けて 古くから地域社会に根ざしたカトリック教会は、秘密主義に閉ざされた巨大権力であり、定期購読者の半数以上をカトリック信者が占めるグローブ紙にとってもアンタッチャブルな〝聖域”だった。新任の編集局長の号令のもと、それまでの習慣を打破して困難な闘いに挑んだ<スポットライト>チームは、粘り強い調査を続けるうちに想像をはるかに超えた驚愕の事実を次々と掘り起こしていく。 また本作は、このジャンルの金字塔というべき名作『大統領の陰謀』を彷彿とさせる生粋の〝ジャーナリスト映画”でもある。虐待被害者の生々しい証言に心揺さぶられたチームのみんなが、元少年たちの悲痛な叫びを世に知らしめようと、寸暇を惜しんで奔走する様を力強く描出。 〝間違っていることは間違っている”と報じたい、〝正しいことは正しい”と表明できる社会でありたい、ただその一心で、立ちはだかる権力と対峙しながらも記者魂を貫く彼らの姿は爽快ですらあり、閉塞した現代を生きる観客の共感を誘うことだろう。<スポットライト>が報じたこの調査報道は、2003年に栄えあるピューリッツァー賞(公益部門)を受賞している。 |
○(3)<ストーリー>
<協会は強硬に反撃するぞ。 2001年7月、アメリカ東部の新聞社ボストン・グローブに新たな編集局長マーティ・バロンが赴任した。インターネットが新聞業界に多大な影響をおよぼす現状に危機感を抱いているバロンは、より読み応えのある記事が必要だと考え、最初の編集会議で〝ゲーガン事件”を詳しく探れという驚くべき指示を下す。 それは地元ボストンのゲーガンという神父が、30年の間に80人もの児童に性的虐待を加えたとされる疑惑。カトリック教会が全面否定しているこの事件を蒸し返し、裁判所に封印された文書の開示を請求するのは、地域全体に根ざした絶対的権力である教会を敵に回すも同然の行為だった。定期購読者の53%をカトリック信者が占めるグローブ紙にとっては、あまりにもリスクが大きい。しかしヨソ者のユダヤ人であるバロンはそうした事情を顧みず、古株の部長ベンの反対を押し切って自らの方針を貫く。 〝ゲーガン事件”の担当を命じられたのは、編集デスクのウォルター〝ロビー”ロビンソンをリーダーとする<スポットライト>チームだった。<スポットライト>はひとつのネタを数ヶ月間じっくりと追いかけ、1年間にわたって連載する特集記事欄の名称である。バロンの意を受けたロビーは、マイク・レゼンデス、サーシャ・ファイファー、マット・キャロルという部下の記者3人に「いつも以上に慎重に行動し、確実な情報をつかむまで極秘に進めるように」と言い聞かせた。 チームは手分けして取材を開始した。まず、この手の訴訟問題に詳しいマクリーシュ弁護士、ロビーの旧友でかつてゲーガンとは別の神父を弁護した経験があるサリヴァン弁護士から話を聞こうとするが、守秘義務を盾にするふたりは重い口を開こうとしない。一方〝ゲーガン事件”の原告側弁護士であるガラベディアンは変わり者と評判の人物で、事務所を訪れたマイクをまったく相手にしなかった。取材は早くも壁にぶち当たったかに見えた。 <貧しい家の子には教会が重要で、 そんなとき聖職者による虐待の被害者団体のメンバーであるサヴィアノをオフィスに招いたチームは、性的虐待を犯した神父がボストンに少なくとも13人いると告げられて絶句する。「これは肉体だけでなく、精神への虐待だ。信仰を奪われ、酒やクスリに手を出し、飛び降り自殺する者もいる」。 自らも被害者であるサヴィアノの言葉には、ただならぬ説得力がこもっていた。さらに複数の被害者に直接コンタクトしたチームは、神父による巧妙かつ卑劣な虐待の手口と、彼らのせいで人生を狂わされた人々の悲痛な現実を知る。ガラベディアンやサヴィアノは教会から理不尽な妨害を受けており、取材対象は〝ゲーガン事件”にとどまらず、大勢の神父の罪と教会による隠蔽工作へと拡大していくこととなった。 次々と意外な事実が明らかになるなか、教会の公式年鑑を参照したマットがある重大な法則を発見した。虐待を疑われる神父が〝病気療養”や〝休職中”などの名目で、ごく短期間のうちに教区の転属を繰り返しているのだ。チーム全員で年鑑を洗い出した結果、浮上した疑惑の神父の数はなんと87人。それは、この問題を長年研究している心理療法士が推定した人数とほぼ一致していた。 想像を絶する事態の深刻さを思い知らされたチームがなおも取材に奔走するかたわら、ロビーはグローブ紙が虐待事件の情報を得ながら見落としていたという過ちに責任を感じていた。 バロンとベン、そして<スポットライト>チームの4人は、〝個々”の神父を糾弾するのではなく、教会という〝組織”による隠蔽システムを暴くという方針を社内会議で確認した。かくして正念場を迎えたとき、9月11日に同時多発テロが勃発したことで、取材の一時中断を余儀なくされる。それでもチームは教会の罪を裏付ける決定的な証拠を追い求め、立ちはだかる権力に屈することなく、一丸となって闘い続けた。 そしてついに2002年1月、全米を震撼させる〝世紀のスクープ”がグローブ紙の一面を飾る運命の日がやってきた・・・・・。 <グローブのレゼンデスです。 <君の探している文書は、 <では、記事にしない場合の責任は?> |
○(4)<映画評>
<『スポットライト』の後、何が起こったのか>(町山智浩・映画評論家) 『スポットライト』を作るにあたって、トム・マッカーシー監督は1976年の映画『大統領の陰謀』を参考にしたという。『大統領の陰謀』は、1972年のウォーターゲート事件を描く実録映画だが、ワシントン・ポスト紙のふたりの新聞記者が、ニクソン大統領が敵対する民主党の事務所に盗聴器を仕掛けようとしたことを暴いて記事にするまでの物語で、タイトルに反してニクソン大統領は登場しないし、映画はニクソンが再選されたところで終わってしまう。 その後、ウォーターゲート事件が大スキャンダルになり、ニクソンが辞任した事実は、最後に文字でそっと語られるだけ。この『スポットライト』もそれとまったく同じ作り。2002年1月6日にボストン・グローブ紙が、130人の子どもをレイプしたゲーガン神父をカトリック教会が隠蔽してきたことを記事にしたところで映画は終わってしまう。 <全米各地で教会が賠償金で破産> 映画にも描かれたように、その日からグローブ編集部の電話は鳴りやまなくなった。被害者からの告発が殺到したのだ。被害者の数は500人、加害者とされる神父も250人に達し、グローブはボストン教区での性的虐待について600以上の記事を掲載した。 避難はボストンの教区のトップ、大司教バーナード・フランシス・ロウに集中した。性犯罪の常習者であるゲーガン神父を転任させることでかばい続けただけでなく、似たような事件が60年代から何度も起こっていたからである。 次々に裁判が始まり、教会に請求された賠償額は1億ドルに迫る勢いだった。最初の記事が出てから11か月後、ロウ大司教はついに責任を取って辞任した。後任のオマリー大司教は、賠償金を支払うために教会の土地を売却した。ゲーガン神父は獄中で他の囚人に殺された。 ボストン周辺はカトリック教会が政治的にも絶対の権力を握っていた。アイルランド系とイタリア系が人口の4割でふたりにひとりがカトリックという土地柄だからだ。<スポットライト>担当者もカトリック信者ばかりで、フロリダから来たユダヤ系のマーティ・バロンが取材を命じるまで誰も教会を疑うなんて思いもよらなかった。だが、その権威は彼らの記事から崩壊し、全米に広がっていった。 グローブ紙の報道が始まってから一年後の2003年1月11日、全国紙であるニューヨーク・タイムズが過去60年間に全米のカトリック教会の聖職者1200人が4000人の子どもに性的虐待を加えたと記事にした。 全米各地で被害者が教会を訴えた。たとえばウィスコンシン州ミルウォーキー市では、ローレンス・マーフィという神父が聾唖の少年ばかり200人をレイプしていた。ミルウォーキー教区は賠償金と裁判費用の合計2650万ドルの支払いのため、破産した。同じようにオレゴン州ポートランド、カリフォルニア州サンディエゴ、アイオワ州ダヴェンポートなどの教区が賠償金の支払いのために破産した。2002年から現在まで全米で1850人の被害者に合計で約13億ドルが支払われた。 <なぜカトリック教会で> このスキャンダルは、全米の人口の2割、約6千万人のカトリック信者はもちろん、全世界に衝撃を与えた。なぜ、こんなことに?人々はさまざまな理由を論じ合った。 「神父は妻帯を禁じられている。禁欲主義で抑圧され過ぎた性欲が暴走したのでは?」 それらの疑問に答える形で、2004年2月、ニューヨーク州立大学のジョン・ジェイ刑法カレッジが「アメリカの司祭と助祭による性的虐待問題の性質と範囲」という調査報告を発表した。これは全米カトリック司教会議が信者に対する責任と再発防止のため、同大学に研究を依頼したもので、1950年から2002年の間にカトリック教会を訴えた信者や神父の証言記録を統計化して、分析している。 読むのが辛い資料だ。たとえば虐待の内容。被害者の42%が服の内側を触られ、5.3%がキスされ、15・4%が性器を舐められ、12・7%が性器を挿入された。被害者の81%が男子で、22%が10歳以下だった。その場所は神父の家が40.9%、教会内で16・5%も行われている。「神の家」のはずなのに! その研究によれば、その52年間に信者からの被害報告件数は10667件。聖職者4392人が訴訟され、そのうち252人が有罪となった。この期間の聖職者の総計は約11万人。うち虐待者は約4400人だから4%という計算になる。 この4%という数字はそれほど多くない。ほかの宗教団体関係者や学校教師、スポーツのコーチなどの性犯罪者率、いや、アメリカ全体の男性人口に対する性犯罪者の比率と比べても、カトリック聖職者内の性犯罪者率は高くない。つまり普通ということだ。 だが、ゲーガンやマーフィ神父のようにひとりが長年にわたって100人や200人もの被害を出すことは普通ありえない。これほどの被害数を可能にしたのはやはりカトリック教会のシステムなのだ。 <神父は神に等しい存在> 第一の原因は、カトリックの聖職者が「神」に匹敵する権威を持たされていること。 秘跡とは、たとえば洗礼をしたり、ワインとパンを主イエスの血と肉に変えて信者に与えたり、信者の懺悔(告解)を聞いて「ゆるし」を与えたりすることで、本来は主イエスだけが可能な神の奇跡なのだが、教会では儀式のために、その能力が司祭に与えられていると考える。つまりカトリックでは神父は神の代理人になる。だから信者は神父の手に口づけして感涙に震えたりする。神父に我が子を求められたら、喜んで差し出す。まさか犯されるとは夢にも思わないで。 次の問題は、被害者が被害を秘密にするということ。 神父に犯された被害者の精神は複雑に引き裂かれる。神のように尊敬する人から愛された誇りと、ふだん教会で「罪だ」と教えられてきたことをされた罪悪感。「このことは絶対に誰にも言ってはいけないよ」という神父の命令は神の言葉。父母は神父を信じ切っている。言っても信じてもらえないだろう。では、カウンセラーに相談する?カトリック信者が相談するのは教会の告解師であり、それは当の虐待者なのだ。懺悔の時に虐待された例もある。 誰にも言えない被害者は、精神病が進んでから家族や精神科に追及されてはじめて真実を語る。または、黙ったまま成長するが、性的トラウマのために恋愛や結婚に支障をきたし、ついに自ら教会を告発する。または自殺する。 第三の問題は教会のもみ消しだ。 以上のような構造的な理由によって、カトリック教会はアメリカ、いや全世界に被害を拡大していった。 <ついにローマ教皇が辞任> ローマ教皇ベネディクト16世は、最初、沈黙していたが、被害者の訴えはアメリカからアイルランドやドイツ、イギリス、オーストラリア、中南米に広がった。2006年には、教皇もついに虐待の事実を認め、再発を防ぐと宣言したが、彼自身が大司教を務めていたドイツで性犯罪を起こした神父の隠蔽工作に関わっていたことが暴かれてしまった。 2002年から全世界で報告された神父によるレイプは4000件におよび、800人が神父の資格を剥奪され、2600人が職務永久停止処分を受けた。カトリック教会が支払った賠償の額は2012年には26億ドルを超えた。多くの教区が破産した。 金銭的損失以上にカトリック教会にとってダメージだったのは、信者の信頼を失ったことだ。アメリカでは、カトリック信者の7割近くが性的虐待についての教会のやり方は間違っていたと考えており、300万人以上が教会を去ったという。2000年続いたカトリック教会にとって、宗教改革などと並ぶ、歴史的危機だ。 ついに2013年にはベネディクト16世が辞任した。598年ぶりの生前退位だった。 現在のフランシス教皇は「聖職者の50人にひとりは幼児性愛者である」と現実を認め、信者からの虐待の訴えを教区で内内に処理せず、常にバチカンに報告するよう通告している。 |
○(5)<映画評>
<タブーに斬り込む記者たちの背中を押すもの>(「週刊文春」編集長・新谷学) 「王様は裸だ!」と叫ぶ勇気を持て・・・。私はいつも現場の記者たちにそう伝えています。大きな権力を持つ人物、光り輝く権威に守られた組織を批判するには、リスクがともないます。彼らのいかがわしさ、嘘に気づいたとしても、つい見て見ぬふりをしてしまう。 この作品の主人公であるボストン・グローブ紙の記者たちは、まさにタブーに斬り込む勇気を持った面々です。カトリック教会は欧米社会にとって、汚すことが許されない権威であり、神父の権力は、われわれ日本人の想像がおよばないほど絶大です。 そんな相手のスキャンダル、しかも口に出すのもおぞましい児童への性的虐待を暴くわけですから、取材チームには強烈なプレッシャーがのしかかる。ボストン・グローブ紙経営幹部のこんな発言からもそれはうかがえます。 「教会は強硬に反撃するぞ。うちの定期購読者の53%がカトリックの信者だ」 このマイク記者は非常にチャーミングです。タクシー運転手出身でフットワーク抜群。相手に取材を断られてもめげずに食い下がる。何より人間としての〝愛嬌”があるのです。スクープ資料を入手した時の頭から湯気が出るような興奮ぶり、日夜仕事に没頭するあまり、妻の手料理にはありつけずジャンクフードを頬張る姿・・・・・週刊文春でも大きなスクープをものにするのは、彼のような記者たちです。とっておきの情報は常に人間から人間へともたらされます。取材相手の懐に飛び込み、可愛がられ、信頼を得ることは、記者に求められる最も大切な資質なのです。マイク記者のやさぐれてはいるけれど、正義感がほとばしる姿に、スクープ記者に国境はないと実感しました。 取材チームのリーダーであるウォルター記者と弁護士との攻防にも、大いに共感を覚えました。この弁護士はカトリック教会の内情に精通しており、神父の罪を告発する上でどうしても口を開かせる必要がある。 ウォルター記者はマイク記者とは対照的に、ボストン大学出身で頭の切れるタイプ。部下への指示も的確で統率力もあります。もともとこの弁護士とは古い付き合いで、深い友情、信頼関係で結ばれている。 ウォルター記者はあるパーティ会場でこの弁護士に声を掛け、教会の暗部について問いただします。旧友との談笑を楽しんでいた弁護士は、途端に表情を曇らせ、こう釘を刺すのです。 弁護士から「お前が困ることになる。近づくな」との警告をものともせず、ウォルター記者は何度も接触を試み、最後はクリスマスに弁護士の自宅を、おそらくアポなしで訪ねます。対応した弁護士夫人の困惑した表情からもそれは読み取れます。 ジャーナリストは仕事柄、あらゆる世界の方々と出会い、信頼関係を築き、そのネットワークを拡げていきます。ただし、親しくなること自体が目的ではない。私たちの仕事は記事を書くことです。取材相手に食い込む努力をしない記者は論外ですが、相手と親しくなった結果、記事を書けなくなってしまう記者も一人前とは言えません。 日本では、よく総理大臣と大手マスコミ記者との会食が批判の的になります。私は、日本最高の権力者であり、国家機密の宝庫である総理と食事し、情報を引き出す努力をすることが間違っているとは思いません。ただ、そこで築かれた人間関係に縛られ、本来ならば報じるべき事実の前で躊躇してしまっているとしたら、話は別です。 もちろん、せっかく築いた信頼関係を壊すリスクを負ってまで、相手にとって不都合な事実を報じるのは、たやすいことではありません。旧友である弁護士に〝真実の刃”を向けたウォルター記者には敬服しました。 巨大な権力や権威によって守られた組織が、例外なく腐敗することは歴史が教えてくれます。傲り高ぶる権力者は、平気で破廉恥なふるまいをするようになる。そしてその陰には常に、虐げられ、声を挙げることもかなわない犠牲者がいるのです。 欧米社会にとって〝聖域”であるカトリック教会のタブーに迫ったボストン・グローブ紙取材チームのモチベーションは、神父の〝生贄”となった犠牲者の悲痛な叫びを伝えたい、彼らを助けたい、という純粋な正義感だったはずです。 人間にはいくつもの顔があります。表もあれば裏もある。SNSが発達した現代では、政治家でも芸能人でも、自らメディアとなって情報発信ができます。注意しなければならないのは、そこで発信されるのは、その人物にとって都合のいい情報だけだということです。世の中はあっと言う間に〝キレイごと”、〝建前”で埋めつくされてしまう。大きな影響力を持った人物が、社会をミスリードしないためにも、〝真実”を伝えなければならないのです。そもそもアンタッチャブルだらけの世の中では息が詰まります。 王様が裸だとわかった時には、たとえ怖くても、「裸だ!」と叫ばなければならない。 私がこの作品のラストシーンに鳥肌が立った理由もそこにあります。 |
●(6)さて、サブタイトルである<癌とは何か?対策編⑩>として、私(藤森)が一番言いたいことをこれから解説します。
今回の映画全体を一人の人間に置き換えてみたいと思います。全体を一人の人間に置き換えるために、「サイコシンセシス(精神統合)」の理論を活用して説明します。 私たちは、ついつい、カッとなったり、やけ食いしたり、飲みすぎたり、夫婦喧嘩をしたり、子どもに口うるさかったり、仕事をサボったり、ナマケたり、駐車違反やスピード違反をしたり、身体障害者やお年寄りに席を譲らなかったり・・・・・等々、わかっちゃいるけどやめられないと言うか、その場に相応しくない言動を、ついつい、「道徳的知性」よりも優先してしまう傾向があります。 この場合の「わかっちゃいるけどやめられない」の「分かっている」部分が「パーソナリティー(人格)」に相当します。そして「わかっちゃいるけどやめられない」の「やめられない」部分が「サブパーソナリティー(副人格)」だと考えてください。 「神」のような存在というと、我々一個の人間にとっては超越的な存在になりますが、仏教的に言いますと、「悟り」を開いた僧侶と考えてよろしいのではないでしょうか。この場合、学問に秀でた人間(知性人間)ではなく、深い心境を体得(悟り、智慧)している方です。具体的に言えば、お釈迦さまであったり、聖徳太子であったり、空海や法然や白隠禅師などをイメージしていただいたらよろしいかと思われます(この辺りは、ほぼ、大体・・・このようにお考えいただければ結構です)。 私たちにとっては、一般的に不可能と言ってほぼ間違いないレベルですので、より人間的に素晴らしい方を「心の師」として、いつも、己をチェックできるだけの「人間性(パーソナリティー)」を備えたいものです。 不謹慎な譬えかもしれませんが、地震対策が分かりやすいかもしれません。 道路や橋が壊れたり、電機やガス、水道などがストップしたりすれば、一個の人間では如何ともしがたいものです。この場合は、電力会社なり、県や国のバックアップに頼ります。これが「ハイヤー・セルフ」に譬えられるのではないかと考えます。 ●(7)さて、結論です。 神父は「パーソナリティー(人格)」に相当し、神父の児童への性的虐待の行為が「サブパーソナリティー(副人格)」に相当すると考えます。そして、司教とか大司教、もちろん、教皇などが「ハイヤー・セルフ」に相当すると考えます。 敢えて汚い言葉を使えば、ろくでもない存在を「ハイヤー・セルフ」に持ってくると、幾つもの教会が破産するほどの大問題になってしまいます。 さて、私たち個人に当て嵌めて考えてみますと、私たち個人が避けたい問題・・・人生の大きな課題や性格上の大きな課題、家庭内の気になる問題などに対して、目をつぶったり避けたりせず、いかに本気で立ち向かうか、これに尽きます。 大きな問題が背後に潜んでいるらしいことをうすうす分かっていながら(「パーソナリティー(人格)」)、私たちは、ついつい放置してしまう弱さ(「サブパーソナリティー(副人格)」)がありますが、放置して、気が付いたら「手遅れ」・・・となることが世の中に溢れています。 心理学では「倒れた後に止む」、つまり、手遅れを意味する言葉があります。 「自己成長」に関してはDoing(「サブパーソナリティー(副人格)」)に取り組まない限り、達成できません。 この段階で何度も何度も血の滲むような練習を繰り返し、そしてBeing(「ハイヤー・セルフ」)、自分が目指す人間性に少しでも近づけるように、自己の未熟性(「サブパーソナリティー(副人格)」)を自覚・反省ができる真摯な態度を維持・継続することがいかに重要であるか。 ぶっちゃけた言い方をすると、天下第一級のローマ教皇でさえ、少々の訓練はしたかもしれませんが、しかし、「知的理解」を深めた人間性が中心だったことが証明されてしまいました。これだけの犠牲者がいるにもかかわらず、教皇自身の立場・・・地位や名誉、そしてカトリック教会という組織を守ることを優先させていたのですから、ローマ教皇という地位も大したことがないのですね。 こういう大問題に的確に対処できる、あるいは、大問題に真っ正面から立ち向かえる人間こそが「ローマ教皇」の名に相応しいはずです。 世の中の多くの物事・事件などが、「倒れて後に止む」ことの危険性を教えてくれています。 つまり、一番辛い、苦しいことに取り組む勇気を持たないと、神とも思われているカトリック教会の神父や大司教、教皇でさえもがとんでもないことにしてしまう。ましてや、我々個人においては、命さえも失いかねないし、家族が悲惨な目に遭う可能性もあるという素晴らしい教訓に、この映画はなるのではないでしょうか。 今、あなたが抱えている人生の大きな課題に取り組む勇気を持ちませんか・・・悲惨な結末になるかもしれない事柄を「未然に防ぐ」ために!!!「わかっちゃいるけど」ではなく、「止められない」ことに真剣に取り組む勇気を持ちませんか。 その最大の問題は、自分の「劣等感コンプレックス」を認める勇気です。 ローマ教皇や大司教、三菱自動車、東芝、シャープ等々の経営者たちが、気が付いたときに率直に認める勇気・・・の問題だったのです。その真摯さ、謙虚さが自律神経の働きを正常にし、「癌」を防いでくれます。つまり、免疫力を高めてくれるのです。 |
<文責:藤森弘司>
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