2016年12月31日 第173回「今月の映画」
海賊と呼ばれた男
監督:山崎貴  主演:岡田准一  吉岡秀隆  綾瀬はるか  堤真一  国村隼

●(1)5年半前の東北大震災の時に大停電になりました。

暖房がストップした時に、妻に石油ストーブをつけるように言ったところ、石油ストーブも使えないと言うのです。石油ストーブなのに何故使えないのかと言うと、石油ストーブの電源も電気だから使えないと聞いて、改めて、電気の重要さに驚きました。
それ以来我が家では、昔風の石油ストーブを愛用しています。昔風の石油ストーブはとても便利です。ヤカンを乗せておくと、常にお湯が供給されるし、冬場の乾燥を防いでもくれます。

何故、この話をするのかと言いますと、2、3年前、曽野綾子先生が「電気の存在が文明国たらしめる」というようなことをエッセイでお書きになっていましたが、石油ストーブの体験で、私(藤森)は、まさにその通りだと実感していました。

つまり、これからの時代がどうなるのかは分かりませんが、今までの時代、いかに石油が社会の生命線であったか。そして、その石油を確保するために、先人がいかに困難な状況の中、闘ってくれたのか、それがよく分かる映画です。

最近、石油会社の合併問題でこじれているのも、出光オーナー側がこの映画を意識しているとの報道がありました。つまり、こういう困難な中、成長してきたことを訴えたいのではないかと思われます。

●(2)平成29年1月1日・6日号、週刊ポスト「日本経済に隠然たる影響力を維持する 恐るべき『創業家』パワー

<略>

<なぜ伊藤家(セブン&アイ)と出光家(出光興産)は“動いた”のか>

<創業家の沈黙を読み違えた経営陣>
2016年、創業家の存在の大きさを改めて世間に知らしめたのが、出光興産とセブン&アイをめぐる騒動である。
出光は昭和シェル石油との合併が難航している中、“前段階”として株式を持ち合う資本提携を検討していることが12月7日に報じられた。

両社は来年4月の合併を目指していたが、出光創業家の反対を受けて、期限を設けずに合併を延期。その後も創業家が会社側との協議に応じないために、新たな対応策を打ち出さざるを得なかった経緯がある。
しかし、今回の資本提携案にも創業家の反発が予想され、前途は多難だ。
<略>

<社風の異なる合併はダメ>
創業家が経営陣に反発したという構図は出光にも通じる。
創業家・出光佐三は一貫して上場や外部資本の受け入れに反対していたが、佐三氏亡き後の出光では、経営陣が経済産業省と金融機関の意向をバックに、上場計画を進めた。経営陣は創業家の説得を試みたが、佐三氏の長男である出光昭介・5代目社長は父の意向を継ぎ拒否。しかし00年、佐三氏の甥にあたる昭・7代目社長が外部資本の受け入れを表明。「数年後には上場も検討する」とも述べた。

当時会長だった昭介氏は反対したが、メガバンクなどの説得を受け、渋々外部資本の受け入れを応諾した。
「翌01年、出光昭介氏は会長を辞任し名誉会長に退き、以降は経営に口出しを控えるようになった。その“沈黙”を出光の経営陣は、外部資本を積極的に受け入れる経営方針を、創業家も認めていると考えてしまったのでしょう。しかし、出光家は他社との合併、それも社風のまったく異なる会社との合併は認めず、ノーを表明したのです」(日本経済大学大学院教授・後藤俊夫氏)

●(3)映画を観る限り、創業者の出光佐三氏は、同業者たちから徹底的に干された中で頑張って来ました。また、イランとの取引にしても、文字通りの「社運」を賭けて輸入しました。そういう経緯の中で出光興産を運営してきたことを考えると、種々様々な事情があるにせよ、合併は認められない、認めにくいことは容易に想像できます。

現経営陣がどれだけその辺りを配慮できるか、配慮しているか。
創業者の文字通りの「艱難辛苦」を考慮して、それでも尚且つ、その合併の必要性が高いのか、合併は避けられない問題なのか。

「沈黙」は、心理学的に言えば「受動攻撃性」でしょう。「ノー」と言えない、「ノー」と言っても通じないから「沈黙」を守ったのでしょう。それを「イエス」と受け止めたとしたならば、これからかなりこじれるのではないでしょうか。

つまり、それほど「嫌だ!」という意味だと推測できます。

〇(4)<STORY>

<1945年 東京>
B-29の群れが上空を覆いつくし、無数の焼夷弾が容赦無く降り注ぐ首都・東京。迎撃に向かう夜間戦闘機「月光」。しかし、機数も少ない上に、燃料不足により、上昇力も弱く、あえなく敵機に撃墜されてしまう。

その地獄のような光景を、国岡鐡造(岡田准一)はただ見つめているしか、なかった・・・・・。

<8月15日、終戦>
その2日後、廃墟と化した銀座で奇跡的に焼け残った国岡商店本社に集まった店員たちを前に、鐡造の声が響いた。
「愚痴をやめよ。日本人がおる限りこの国は必ず再び立ち上がる。下を向いとー暇などない!」
そして最後に力強い口調で、彼らに伝えた。

「心配ばすな。一人も首にはせん」

その眼には、かつて“海賊”とよばれた若き日の炎が宿っていた・・・・・。

<1912年 北九州・門司>
主要燃料が石炭だった当時から石油の将来性を予見していた若き日の鐡造は、国岡商店を興し石油業を始めるも、まだ新参者の彼らと取引をする会社はどこも無く、やがて資金も底をついていった。
追い詰められていく鐡造。しかし、関門海峡を行き来するポンポン船(焼き玉エンジンを用いた小型漁船)からヒントを得た彼は、誰もがあっと驚く手法でこのピンチを打開し、甲賀や柏井ら店員を引き連れ、伝馬船を漕ぎ次々と海上で油を売りさばいていく。

彼らの行動に、対岸の下関の石油販売業者は怒り抗議するが、鐡造は「海に下関も門司も関係あるか!」と全く意に介さず、新たに入店した東雲、長谷部も仲間に加え、国岡商店の大旗を振り、海上を席巻していった。その姿を見た同業者たちは、口々に彼らをこう呼び、唇を噛んだ。

「こん、海賊どもが!」

<1917年 満州>
石油事業が軌道に乗り始めた鐡造は、ユキ(綾瀬はるか)と結婚し、公私ともに順調な生活を送る。

そして、国岡商店のさらなる発展のために、極寒の満州に渡った鐡造は、満鉄と、自らの車軸油を取引する交渉に乗り出すが、満鉄はすでに海外の石油メジャーが契約を独占、日本企業の入る隙は無かった。しかし、石油メジャーの油が寒さに弱く、すぐに凍結してしまう、という弱点を発見した鐡造は、試行錯誤を繰り返し、満州の寒気にも耐えうる新たな車軸油を開発。

「失敗すれば満鉄への出入り禁止」という厳しい条件のもと、行われた機関車の走行テストで、石油メジャー各社が居並ぶ中、なんと国岡商店の油だけが凍らずに条件をクリアしたのだった。

「見てみい! うちらの勝ちじゃ!!」
快哉を叫ぶ鐡造の姿を、石油メジャーの面々は苦々しい顔で見つめていた。
国岡鐡造が、世界を敵に回した瞬間であった・・・・・。

<1953年 東京>
 戦後、島田卓巳が社長を務める国策会社・石統(石油配給統制会社)への加入を拒否され、本来の社業である石油の販売ができない現実を前にしても、壊れたラジオの修理から、戦後放置されていた旧海軍備蓄タンク底の油を浚う危険な仕事まで、鐡造と国岡商店の店員たちは自らを鼓舞し、決して諦めることなく突き進んで行った。
再び立ち上がったかのように見えた国岡商店。

しかし、かつて煮え湯を飲まされた石油メジャーは鐡造を“サムライ”と恐れ敵視し、その圧倒的な包囲網で、国岡商店の石油輸入ルートを次々と封鎖していく。絶体絶命の状況に、絶望の表情を浮かべる国岡商店の店員たち。
しかし、鐡造には、まだ一振りの刀が残されていた。

<日承丸を、アバダンに送る>
国岡商店の至宝である大型タンカー「日承丸」をイランに送る、起死回生の一手。
しかし、英国に長年牛耳られたイランの石油を輸入することは、すなわち英国を完全に敵に回すことだった。

狼狽する店員たちを前に、狂気の選択を下した国岡鐡造。その姿は、まるで門司の海を所狭しと暴れ回った若かりし頃の自身そのものであった。

果たして、盛田船長率いる日承丸は、英国艦隊の目をかいくぐり無事に日本に帰還することができるのか?そして、国岡鐡造はなぜ“海賊”とよばれたのか?
その本当の意味が、明らかになる・・・・・。

〇(5)<「海賊と呼ばれた男」の時代背景・・・日本と石油は、どのように関わってきたのか?・・・>(中嶋猪久生・・・中東経済専門家・石油史研究家)

<「石油産業」の誕生>
人類における「石油産業」の起源は、1859年、アメリカ・ペンシルベニアの鉄道技師エドウィン・ドレークが機械での油田掘削に成功したことに始まるといわれていますが、日本の石油産業も明治初年には始まっており、決して世界に遅れをとっていたわけではありません。しかも当時の日本は「産油国」と見られていたのです。

日本は今でも僅かながら石油を産出していますが、政府は明治7年にアメリカの地質学者を招聘して、列島を詳細に調査しました。その結果、ある程度期待が持てると判断されると、数多くの「石油ベンチャー」が誕生しました。現在の「日本石油」もこの石油ベンチャーに起源を持つのですが、この時、アメリカの石油会社も日本での油田開発に乗り出しています。

明治30年代半ばまでに、主に新潟から秋田にかけての地域で開発され、第一次ピークの明治42年の産油量は29・9万キロリットル。まだ中東の開発が始まっていなかったとはいえ、世界8位の生産量を誇っていました。

<「石油の呪縛」の始まり>
とはいえ、この状態はいつまでも続きません。まもなく各地の油田は底を尽き始め、一方で消費量は格段に増えてゆきました。特に第一次世界大戦を経て、世界の産業は大きく変貌した頃でした。それまで石炭が中心だった船舶の燃料は重油に変わり、さらにはガソリンを燃料とする自動車や飛行機も登場しました。すでに列強を意識するまで成長していた日本はこの産業の変化に合わせようと、国内油田のさらなる開発に力を入れましたが、大正4年を第二次ピーク(47・2キロリットル)にそれを上回ることはできませんでした。結果として日本は海外での開発にシフトするようになるのです。

台湾、朝鮮半島、中国、樺太など、日清、日露戦争、さらには第一次世界大戦で得た新たな支配地域を中心に、調査、開発を試みましたが、そこには増える一途の日本の需要を満たすだけの油田はありませんでした。あえて言うならば、ソ連から45年契約で獲得した北樺太の油田は唯一といっていい成功例でしたが、これもロシアからソ連への体制が変わる過程で、日本の支配力は削がれていきました。

<戦争の「引き金」>
そこで新たに目を付けたのが蘭印(オランダ領インドシナ、今のインドネシア)を中心とした「南方」と呼ばれる地域です。これら地域の石油利権は、すでにイギリスを中心とした欧州勢の支配下にありましたが、日本はここに加わろうとしたのです。ただ、時代は昭和初期、アメリカ経済を脅かすまで成長していた日本は、特に満州事変以降、様々な経済制裁を受けるようにもなっていました。

蘭印との石油交渉の失敗、アメリカの対日経済制裁としての石油禁輸措置、これらが複雑に絡み合い、次第に日本は太平洋戦争という選択で打開の道を探ることになってゆくのです。

もちろん開戦の経緯はいろいろな側面から検証されるべきことですが、こと石油史の側面から見れば、真珠湾攻撃ばかりがクローズアップされる戦端も、実はほぼ同じタイミングでボルネオやスマトラの油田を攻撃、占領しており、こちらが本来の“目的”といってもいいかもしれません。ただ南方の油田を押さえたものの、タンカーの不足と日本軍による輸送船団の護衛の脆弱さにより、内地への石油供給は戦局の悪化とともに激減していきました。石油のために戦争を始め、石油のために敗れた・・・・・まさに「石油の呪縛」と呼ぶゆえんです。

<メジャー支配への挑戦>
終戦後、焦土と化した我が国の復興は、たった45万キロリットルの石油の備蓄から始まりました。しかも「非軍事化」を目指すGHQの方針により、石油の輸入は制限され、配給も完全管理下に置かれていました。その後、東西冷戦が始まり、日本の独立、さらには再軍備の動きも加速しますが、石油産業に限っていえば、独立とは程遠いものでした。日本の大手石油会社は、いずれもがアメリカの大手石油会社、メジャーの資本に組み込まれ、それを断ると事業がままならない構造に置かれたのです。アメリカによる経済と産業の管理・・・・・戦前の禁輸措置とは手法こそ違え、新たな「石油の呪縛」のはじまりです。

これに反旗を翻したのが出光佐三でした。佐三は、あくまでも自由競争の下、低価格で石油を消費者に提供することを目指し、メジャーの支配を突っぱねました。そのために、さまざまなバッシングを受けましたし、輸入においてもメジャーの影響が及ばない中小業者からのシビアな買付を余儀なくされましたが、これがやがて起こる「日章丸事件」に繋がってゆくのです。

<日章丸事件の背景>
日章丸事件の舞台は中東のイランです。石油産業草創期には手つかずだった中東地域も戦中期に、その潜在力が明らかになると、欧米列強は挙って進出、支配するようになりました。イランについていえばイギリスでした。ただ、この支配は他の例に漏れず高圧的なもので、そのためにイランでは民族主義による民衆運動が起こりました。そして1951年(昭和26年)、選挙によって民族主義者のモザデグが首相となると、早速、石油の国有化策を打ち出し、イギリスの石油会社「アングロ・イラニアン社」(現在のBP)の締め出しを始めました。もちろんイギリスはこれに反発し、イランに対する経済制裁を発動。さらには軍艦15隻をペルシャ湾に派遣してイラン産石油の輸出を妨害、実際にイタリアのタンカー2隻を拿捕するという事態も起こりました。

ちなみにこの動きの背景には当時激しさを増しつつあった東西冷戦がありました。ソ連がモザデグ政権に近付く気配があり、イギリスはもとより、アメリカもまたモザデグ政権を疎ましく思っていたのです。そのためにアメリカは、総力を挙げてイラン産原油の締め出しを図りました。こうなると、メジャーの支配を受ける主要な石油会社は軽々にイランに近付けません。結果として英米の思惑の通り、イラン経済は逼迫し始め、その打開策として極秘裏に日本の「出光」と接触を持つようになるのです。

<出光佐三の決断>
イランにとってはメジャーの支配を排して独自路線を歩んでいたこと、加えて当時世界最大級の外航用大型タンカー「日章丸」を保有していたこと、これら全てを勘案すれば、出光が絶好の交渉相手のひとつであったことは間違いありません。また出光としても、メジャーの支配をうけない石油を低価格かつ大量に確保できることは望むところでした。

ただ、そのためには出光も相当のリスクを負わなければなりません。当然、イギリスの軍艦に拿捕されるおそれもありましたが、それ以前に英米と対立することが何を意味するのか。昭和26年のサンフランシスコ平和条約締結により主権を回復したとはいえ、まだ弱小国だった日本には英米から外交、経済上の報復を受けるのではないかという懸念があり、政官財、さまざまな方面から出光に圧力が加えられました。

しかし、出光佐三は決断しました。昭和28年3月23日午前9時、日章丸出港。

もちろん闇雲にことを進めたわけではありません。国際情勢の正確な把握と緻密な分析、イランとの信頼関係の醸成、適材適所の人材の配置、情報の徹底管理、法律問題への対処・・・・・出光佐三は経営者としてこれらすべてをまとめ上げ、何ごとにも拠らない独自の判断で日章丸をイラン・アバダン港に送り込み、そして無事日本に石油をもたらしたのです。

<『石油と日本・苦難と挫折の資源外交史』(新潮選書)中嶋猪久生、新潮社刊>

<文責:藤森弘司>

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