2016年12月31日 第161回「今月の映画」
監督:田中光敏 主演:内野聖陽 忽那汐里 ケナン・エジェ アリジャン・ユジェソイ
●(1)映画「海難1890」は、泣き通しでした。
明治中期の寒村である和歌山県紀伊大島の樫野地区の皆さんが、毎日、食べることがやっとの生活をしている中・・・・・ <<<村長・佐藤(笹野高史)は、亡くなった人すべてに棺桶を用意して丁重に弔ってやりたいと言い、村民は蓄えてきたわずかな食料も提供して、生存者の看病に当たった。>>> という人間性の素晴らしさと、我が身(藤森)の情けない人間性とを比較して、涙が止まりませんでした。今、パソコンに入力しながらも、そしてパンフレットを読みながらも、涙が溢れてきます。 <<<もともと安倍晋三首相自らトルコ訪問時にエルドアン大統領へ合作映画の製作を持ちかけた、いわくつきの企画>>>であり、集団的自衛権がらみの胡散臭い裏話もあるようですが、それらを割り引いても、人間性の素晴らしさに感動する映画です。 イランで助けられた沼田準一氏も<<<なぜあの時トルコの方々が我々を命がけで助けてくれたのか。そのルーツであるエルトゥールル号事故のことを私が知ったのは、23年後です。(特定非営利活動法人 エルトゥールルが世界を救う 特別顧問)>>>とあります。 私たち日本人が、ISの問題や難民問題などでできることは、この映画の主題のような応援・援助ではないでしょうか。 |
●(2)平成28年1月1日・8日号、週刊ポスト「山田寅次郎 “トルコ”親日の礎を築いた茶人と95年越しの『恩返し』」
山田寅次郎の出身地、群馬県沼田市の生方記念文庫の学芸員・手塚恵美子氏の話。 この逸話が、トルコが親日になる礎を築いたといわれている。トルコでは小学校の教科書の副読本にこの史実が載っているため、誰もが彼の名を知っている。 「寅次郎の生徒の中にトルコ共和国の初代大統領、ムスタファ・ケマルがいるなど、現代トルコに大きな影響を与えたといわれています」(同前) 1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後にイランの上空を飛ぶ飛行機をすべて撃墜する」と宣言した。世界各国は自国民救出のためイランへ救援機を出したが日本政府は当時、自衛隊の海外派遣不可の原則があったため救援機を飛ばすことができなかった。取り残された215人の在留邦人を救ったのはトルコ政府の要請を受けた2機のトルコ航空(現・ターキッシュエアラインズ)機だった。 イラン上空を抜けたのはタイムリミットの僅か1時間前。事件から95年後の恩返しだった。 |
●(3)平成27年12月26日、ゲンダイ「映画『海難1890』」
<難破寸前のトホホ> <略> 1890年、オスマン帝国(現トルコ)の親善訪日使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が座礁したとき和歌山の漁民らが命がけで救った史実と、その恩返しとして95年後のイラン・イラク戦争時、日本人のため救援機を飛ばしたトルコ政府の実話物語。両国の友情の礎ともいわれるこの史実は確かに感動的なのだが・・・・・。 <きつすぎた政治的プロパガンダ臭> もともと安倍晋三首相自らトルコ訪問時にエルドアン大統領へ合作映画の製作を持ちかけた、いわくつきの企画。“「海難1890」を成功させる会”なる応援団の最高顧問にも就任し、宣伝していた。 かたやエルドアン大統領も、今ではISからの石油密輸疑惑で世界中から白い目で見られている。映画会社も2人の疫病神に足を引っ張られて踏んだり蹴ったりか。 |
○(4)<INTRODUCTION>
<「エルトゥールル号海難事故」1890年日本から、「テヘラン邦人救出劇」95年後のトルコと受け継がれた想い。 〝助けを求める者に、手を・・・・・”人が人を想う気持ちが世界を変えた。奇跡の瞬間を目撃する> アジアとヨーロッパにまたがるトルコ共和国。かつてオスマン帝国として歴史に名を刻んだこの国と日本は、長きにわたって交流を深めてきた。日本トルコ有効125周年を迎えた今年、両国の絆の深さを映し出す、史実を基にした物語が映画となって誕生した。 1890年9月、オスマン帝国の親善訪日使節団を乗せた軍艦「エルトゥールル号」は帰国の途中、和歌山県大島樫野崎(現:串本町)で台風に遭遇し、船が大破して沈没。さらに機関が爆発し、乗組員600名以上が嵐の海に投げ出され、500名を超える死者を出す、当時としては世界最大規模の海難事故となった。荒れ狂う海で生命の危機にさらされたトルコ人を目の当たりにした地元住民たちは、台風の高波の中に身を投じて漂流者を助け上げるなど、献身的な救援活動を行い、乗組員69名の命が奇跡的に救われたのである。見ず知らずの外国人を、命がけで助けた彼らの行動はトルコ国民に感銘を与え、トルコの教科書にも取り上げられて後世まで伝えられている。そしてこの救命活動こそが、トルコと日本が友情で結ばれる原点となったのだ。 それから時を経た1985年3月。イラン・イラク戦争が長期化する中、サダム・フセインはイラン上空を飛行する航空機に対して48時間後に無差別攻撃の開始を宣言。各国が救援機を飛ばして自国民を脱出させる中、日本はイランへの定期便を持っていなかったこともあって救援機の派遣を即断できない状況にあった。テヘランに残された邦人は300名以上。刻一刻と攻撃までのタイムリミットが迫る。 緊迫した事態を打開するため、イランとトルコにいた邦人は官民一体となってトルコへ日本人救出を依頼。その申し出を受けたトルコのオザル首相の英断により、救援機がテヘラン空港へと向かった。このとき空港に集まっていた215名の日本人は、攻撃の2時間前にテヘランから脱出に成功。 その陰には自国機が到着したにもかかわらず苦境に立つ日本人の搭乗を優先させてくれた、トルコ人たちの真心があった。 映画は「エルトゥールル号海難事故(以下、エルトゥールル号編)」と「テヘランでの日本人救出(以下、テヘラン救出編)」、2つのエピソードで構成されている。「エルトゥールル号編」には、内野聖陽が海難事故に遭遇した医師・田村役で主演。グローバルな視点を持つ、豪胆で心優しい明治の日本人を体当たりで演じている。 劇中では英語のセリフにも挑戦し、次々に運び込まれてくる事故のけが人を、村人を指揮して治療に当たるリーダー的な存在を見事に体現している。他に海難事故で生き残ったエルトゥールル号の乗組員で、樫野の人々の温かさに触れていく軍人・ムスタファを演じるのはトルコ人俳優ケナン・エジェ・・・・・・。 |
○(5)<STORY>
<1890年エルトゥールル号海難事故編> <どこのもんでも、かまわん!助けなあかんのや!> 明治中期の和歌山県紀伊大島の樫野地区。この地に暮らす医師・田村(内野聖陽)は、貧しい者を親身になって診察することから村民の信頼を集めていた。彼の傍らにはかつて許嫁を海難事故で亡くし、そのショックから口がきけなくなったハルが、いつも助手として付き従っていた・・・・・。 1889年親善使節団を乗せたオスマン帝国のエルトゥールル号が、イスタンブールから日本へ向けて出港した。帝国の威信を欧州に示すため、また明治天皇への謁見のための航海だった。船には名家の出であり海軍機関大尉のムスタファも乗り込んでいた。機関室を仕切るのは、部下の信頼厚い操機長のベキール。長い航海の中で、ムスタファとベキールは階級を超えて、お互いに認め合い、友情が芽生えていった。 翌年6月に陛下に謁見しスルタンの親書を奉呈し、同年9月親善使節団としての使命を終えて帰路についたエルトゥールル号は和歌山県樫野埼沖にて台風に遭遇。暴風雨の中、推進力が頼りとなり機関室への負担が増す。何とか持ちこたえようとベキールは必死に機関室を守るが、彼の奮闘も虚しく船は樫野埼沖で座礁、水蒸気爆発を起こす。 島中に響き渡る船の爆発音を聞いた村民たちは岸壁に集まった。そこで発見したのは、漂着した膨大な数の死体と船の残骸だった。進んで漂流者を助けるべく荒れ狂う梅へと飛び込んでいった漁師の信太郎を先頭に、村民は総出で救出活動を行う。田村とハルも救護所で、膨大なけが人の手当てに追われた。田村を敵視する島の医師・工藤(竹中直人)や遊女・お雪も治療や看護に協力し、村民が一丸となっての救助作業が続く。 意識を失い、海中に沈もうとしていたムスタファは、信太郎によって助け出された。救護所に運び込まれたムスタファは呼吸が止まっていて、その姿に亡くなった許嫁の亡骸を重ね合わせたハルは茫然とする。田村に激を飛ばされ我に返ったハルは、懸命に心臓マッサージを行い、やがてムスタファが息を吹き返した。 翌日、生き残った乗組員は69名と判明。操機長のベキールを含め、実に500名以上が犠牲になった大惨事だった。村長・佐藤(笹野高史)は、亡くなった人すべてに棺桶を用意して丁重に弔ってやりたいと言い、村民は蓄えてきたわずかな食料も提供して、生存者の看病に当たった。意識を取り戻したムスタファは、自分が生き残ったことに罪悪感を覚えて苦悩する。その彼を、言葉はわからないながらも支えようとするハル。 やがて応急手当を終えた船の生存者は島から移送されていったが、ムスタファは行方不明者の確認と遺留品の回収のため島に残った。漂着物を綺麗に磨いて母国の遺族に返そうとしている子供や女たちの姿、懸命に不眠不休で治療に当たってくれた田村、死の淵から生還させてくれたハル、自分を海中から救ってくれた信太郎、そして死者に対して礼を尽くす村民たち。ムスタファの胸には人を想う日本人の深い真心が刻まれたのだった。 |
○(6)<STORY>
<1985年テヘラン邦人救出劇> <今度は私たちの番だ・・・・・> 1985年のイラン・テヘラン。イラン・イラク戦争の停戦合意が破棄され、空爆が続く地下避難壕でトルコ大使館の職員ムラトと日本人学校の教師・春海は出会い、協力してけが人の治療に当たった。別れ際、ムラトは春海の無事を祈りお守りを渡す。膠着する戦時下で、サダム・フセインが48時間後にイラン上空を飛行するすべての飛行機を無差別攻撃すると宣言。 日本大使・野村は外務省に救援機を要請するが、就航便が無かった日本では迅速な対応が難しい状況にあった。春海と日本人学校の校長・竹下は生徒たちの安否を確認し、国外退去の手続きを取るように伝えて回っていた。その間にも他の国々では救援機が到着し自国民を乗せてテヘランから脱出、徐々に日本国民だけが取り残されていく。 日本大使館を訪れた春海と竹下は、野村から打つ手がないことを知らされる。トルコの救援機が最後の搭乗になることを知った春海は、トルコの救援機に日本人が乗れるよう頼んでほしいと野村に進言。日本の官民からの要請を受けたトルコのオザル首相は、自国民を危険にさらすことになるという周囲の反対を押し切り、日本人の為の救援機の追加派遣を決断する。 この報を聞き、春海はテヘラン脱出を諦めていた日本人技術者・木村の家に向かった。本当にトルコの救援機に乗れるのか、不安を抱く木村の家族と空港に向かう。ところが街は脱出しようとする人でごった返し、混乱を極めていた。その中で春海はムラトと再会、一緒に空港へと向かう。しかし、空港へ到着して安堵したのもつかの間、そこには救援機を待つトルコ人たちで溢れていて、それぞれがチケットを求めてカウンターに詰め寄っていた。 その状況を見た日本人たちは、飛行機に乗ることを諦めかける。そのときムラトが進み出て、チケット取得に群がるトルコ人に向かって語り始める。「今、絶望に陥っているこの日本人を助けられるのはあなたたちだけです。決めるのは、あなたの心だ」と。その言葉を聞いたトルコ人たちは、かつて日本人が示してくれた真心を思い出していく・・・・・。 |
○(7)<CRITIQUE>
<遠いけれど近い国>(篠原千絵・漫画家) エルトゥールル。 華麗で強大だったオスマン帝国の残照は今もトルコのみならず中東、バルカン、地中海諸国にたくさん見られます。 わたしが初めてトルコを訪れたのは1986年6月でした。元々はイランに興味があったのですがイランイラク戦争の影響で入れず、ならばイランに近くて行きやすい国へ行ってみようと選んだのがトルコでした。思えばあれはこの映画のテヘラン救出編の翌年だったのですね。そんなことにもなにやらご縁を感じます(強引でしょうか?笑)。 初めて訪れたトルコは見るもの聞くもの、すべてが未知のモノだらけだったのですが、不思議とわたしには懐かしく肌に馴染んだことを覚えています。以来、何度も訪れていますが、その感覚は変わりません。いつ行っても気持ちよく過ごして帰ってきます。 わたしにとっては自然の感覚なので、それがなぜだろう?・・・・と考えたことはあまりないのですが、この文章を書くにあたり思い巡らせてみると、トルコ人と日本人が似ているからではないかと思いいたりました。もちろん民族、文化、言葉だけでなく違っていることのほうが多いでしょうが、人として大切に思うことが似ているのです。 恥を知ること。 これらがわたしを居心地よくしてくれているように思います。 「海難1890」が公開される頃、以前から行きたいと思っていた紀伊大島に行くつもりでいます。エルトゥールルが沈んだ海に臨み、亡くなられた方々を悼んでこようと思います。 いつか、近いうちにまた彼の地を訪れたいと願ってやみません。 <篠原千絵・漫画家・・・1981年、『コロネット』(小学館)に掲載された「紅い伝説」でデビュー。これまでに発表した作品は「闇のパープル・アイ」「天は赤い河のほとり」ほか多数。2010年『姉系プチコミック』創刊号(小学館)より、オスマン帝国を舞台にした「夢の雫、黄金の鳥籠」を連載開始。16世紀のトルコを舞台に壮大な物語が綴られている> |
○(8)<DATA>
<エルトゥールル号海難事故編> 1887年に小松宮彰仁親王殿下・同妃殿下一行がイスタンブールを訪問したことの答礼に、トルコ初の親善使節としてエルトゥールル号の派遣を決定。一方で、これを機に途中寄港するイスラーム諸国にオスマン帝国の威信を誇示し、牽制する狙いもあった。 1889年7月14日、乗組員650名以上を乗せイスタンブールを出港したエルトゥールル号だが、この時すでに建造後25年を経た木造の老朽艦であったため、長い航海に耐えうるか危惧されていた。 出港から2週間後、スエズ運河で砂州に乗り上げ舵を破損。修理のため2か月間滞在した。 当初は6か月の航海の予定だったが、このような苦難の末、横浜に到着したのはイスタンブールを出港してから約11か月後の1890年6月7日であった。 9月15日、エルトゥールル号は台風が日本に接近している中、横浜を出港。これは、当時関東で流行していたコレラによって乗組員の10余名が亡くなるという予期せぬ出来事により、2か月余り日本で足止めされてしまい、乗組員は一刻も早くトルコへ帰国するため、台風の危険性を押し切って出航を決行したのである。 そして9月16日、台風の影響下に入ったエルトゥールル号は本州最南端に位置している和歌山県樫野崎沖(現・串本沖)で座礁・沈没に至った。村民たちは総出で救助・看護活動に奔走し、少ない食べ物や衣服を言葉も通じないトルコ人乗組員に惜しげもなく提供した。 この海難事故以降、亡くなったトルコ人乗組員たちへの慰霊祭が毎年1度、5年毎には駐日トルコ大使館との共催で、慰霊の大祭が行われており、痛ましい事故を未来へ語り継いでいる。1964年にはトルコ共和国のヤカケント町と、1975年にはメルシン市と姉妹都市提携を交わしている。 |
○(9)<日本赤十字社が神戸で救援活動>
神戸では宮内省式部官と侍医に加え、日本赤十字社(以下、日赤)の医師と看護師がトルコ人負傷者を迎え入れた。日赤は宮内省からの要請を受け、日本赤十字病院から医師と看護師を派遣している。今日、国内外での災害救護・救援活動を展開する日赤だが、エルトゥールル号遭難事故が初めての国際的な救護活動だったという。 しかしながら、言語が通じないこと、文化、宗教、習慣が違うことが当初、救護活動の妨げとなった。ひと時の苦痛を逃れようと手術を拒否し、号泣する者も多く、興奮のあまり看護師に殴り掛かる者もいたという。これら困難はあったが、献身的に寄り添う医師らの姿はやがて障壁を乗り越え、患者からの理解・感謝へと繋がった。 <学生時代に経験した串本町とのふれあいをきっかけに <COMMENT>私はトルコで小学5年生の時に、エルトゥールル号のことを授業で教わりました。それで日本という国に興味を持ったんです。19歳の時に来日して東京工芸大学芸術学部写真学科に入学しました。2009年に大学の課題を撮影するため、初めて串本町を訪れたんです。この時は2泊3日の滞在でしたが、串本の町役場の方が一緒に動いて撮影に付き合ってくれました。串本の人はこちらがトルコ人だと分かると、本当によくしてくれるんです。 翌年、再び串本町を訪れ、今度はひと月ほど滞在して写真を撮りました。これがきっかけでトルコと日本の友好120周年記念式典の時に、串本町の文化センターで私がトルコで撮ってきた写真を展示することになったんです。串本町の方はトルコに親しみを持っていますが、どんな国か、また人々の生活については想像できないんですね。そういう意味で写真は国を理解するのに一番いいツールだと感じました。 この記念式典の時に田中監督から映画の企画を聞いて、何らかの形で参加したいと思ったんです。結局通訳として撮影に加わり、主に監督とトルコから来た俳優11人とのやり取りを担当しました。最初は私もトルコ人俳優たちも不安でしたが、すぐに一体感が生まれて、串本町のホテルに泊まった時には1階のラウンジにあるピアノをトルコ人が演奏して日本の方たちがそれを聴くという、すごくいい関係が生まれました。 京都での撮影は寒かったですが、海難事故に遭った乗組員役のトルコ人はインナースーツを着込んでいたんです。でも日本人俳優の方たちは薄い着物1枚で雨の中をずっと動いていましたから、「あれは大変だね」と心配していました。みなさん、本当に一所懸命にやられているのが分かりました。 この映画のテーマでもあるんですが、人の真心というのは凄く大事だと思います。私自身、最初に串本町へ行ったときから地元の方の温かい心を感じました。人を想う心が観客の方に伝わればいいなと思っています。 |
○(10)<テヘラン邦人救出劇編>
<イラン・イラク戦争とは?> イランとイラクが国境をめぐって、約8年間もの期間にわたり、行った戦争。1980年9月22日のイラクによるイラン侵略に始まる。やがて戦局が逆転し、82年以降はイランがイラク領土へと侵攻した。85年、報復都市爆撃に拡大したことで、テヘランはパニック状態となった。88年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を両国が受け入れる形で停戦を迎えた。 <なぜ邦人がイランへ?> イランは日本にとって、サウジアラビア、アラブ首長国連邦に次ぐ原油の輸入先。原油の確保や日本製品販売の為に、当時テヘランには商社マンや、技術者など在留邦人が約500人いた。自動車会社に勤めていた沼田準一氏も、イランにあった工場の増産と品質向上の為に出張に来ており、トルコに助けられた215人の乗客の内の1人である。 1985年3月6日・・・突然イラクがイラン・アフワズを爆撃。イラン・イラク双方による都市爆撃が始まる。 3月10日・・・イラン・第2の都市イスファハン空爆。 【【攻撃期限:3月19日 午後8時30分(諸説あり)】】 3月18日・・・日本航空はイラン・イラク両国から安全の保障がない限り、飛行はできないと回答。野村豊在イラン日本大使がイラン当局と交渉し、安全の保障を取り付けるが、イラク政府の返事はなし。 【【テヘラン・・・脱出便がなく取り残された邦人は338人。野村大使を中心に大使館員が各国大使館、航空会社と交渉開始。野村大使は旧知の仲であるイスメット・ビルセル駐イラントルコ大使に救援機を依頼。ビルセル大使はトルコへ日本人救出のため、救援機の増派を依頼】】 【【イスタンブール・・・伊藤忠商事イスタンブール駐在員が、トルコのオザル首相に電話で直談判。既に、野村豊大使からの要請もビルセル大使を通じて届いていた】】 3月18日・・・午後7時(期限25時間30分前。オザル首相がトルコ機の派遣を決断する。トルコ航空は追加便トルコ機の整備を開始し、パイロットは全員が志願) 【【テヘラン・メヘラバード国際空港・・・1000人以上の外国人が集結。各国の航空会社は自国民の脱出を優先、日本人は搭乗を断られる】】 3月18日・・・夜。残されている邦人との連絡がとれず、大使館職員が深夜まで走り、170人の日本人にトルコ航空機に乗り込むよう連絡をとる。 3月19日・・・午前8時半(期限12時間前)。トルコ救援機はイランの運航許可が下りず、出発待機。野村大使はイラン外務省へ急行、運航許可を懇請。ビルセル大使もイラン外務大臣へコンタクト、大統領に直談判。 午前10時(期限10時間半前)。イラン政府の運航許可を得て、すぐに離陸作業に入る。 <沼田準一氏の証言>(特定非営利活動法人 エルトゥールルが世界を救う 特別顧問) <COMMENT>私は仕事で1985年2月24日にテヘランに入りましたが、その時街は平穏でした。ところが3月10日にイラン第二の都市・イスファハンが空爆され、12日の真夜中にはテヘランが空爆されたんです。ここで危機感を覚えて、地下室の有るホテルへ避難しました。同時に国外脱出するための航空チケットを買いに奔走しましたが、全く買えなかったんです。 その状況が続く中、17日にサダム・フセインが48時間後に無差別攻撃を開始すると宣言しました。そして翌日、日本大使館から日本の救援機が来ないという連絡が入ったんです。でも19日の未明になって、トルコの救援機が来るという連絡が来たんですよ。その救援機に乗るため、仲間の一人にチケットを買いに行かせたのが午前6時。彼から10時半に「チケットが買えそうだ」と連絡があって、我々地下室に避難していた日本人9人は空港へ向かいました。 着いてみるとテヘラン空港はとても広いんですが、人でごった返していて空港ビルにたどり着いたのが12時頃。そしてチケットを買えたと仲間が戻ってきたのは14時半でした。そこから荷物チェックし、チケット・カウンターで搭乗券をもらって、パスポートチェックを受けて、空港の待合室に入れたのは16時過ぎです。この空港にいる時、それほど遠くないところで爆発音がありました。もし空港が爆撃を受けたら逃げ場がないですから、そうなったらおしまいだと感じましたね。ですから私たち日本人198名が乗ったトルコ航空の一番機が17時10分に飛び立った時には、機内で歓声と拍手が起こりました。それでも爆撃される危険性はありましたから、トルコ国境に入るまでは緊張していましたよ。 なぜあの時トルコの方々が我々を命がけで助けてくれたのか。そのルーツであるエルトゥールル号事故のことを私が知ったのは、23年後です。以来トルコの方に恩返しをしたいと思って活動してきました。今度の映画によって、トルコが私たちに捧げてくれた真心と串本の人々の真心を知ってもらい、日本とトルコとの友好関係がさらに強くなってくれることを願っています。 |
<文責:藤森弘司>
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