2016年1月31日 第162回「今月の映画」
監督*チェリン・グラック 主演:唐沢寿明 小雪 小日向文世 濱田岳 ボリス・シッツ アグニェシュカ・グロホフスカ
●(1)平成27年6月17日、夕刊フジ「世界を驚かせた日本人」(藤井巌喜)
<1万人以上のユダヤ人を救った杉原千畝> <体力の続く限り・・・外交官生命を賭けた 命のビザ発行> 彼らの証言によって、杉原は亡くなる前年の85年、イスラエル政府から同国最高勲章である「ヤド・ヴァシェム賞」が贈られ、「諸国民の中の正義の人」として讃えられている。 一般に流布している杉原神話は、2つの点で修正する必要がある。 第2は、ビザのために杉原は外務省を追われた、という点である。杉原はその後も順調に昇進しているし、44年には勲五等瑞宝章を受けている。戦後、杉原は外務省を依願退職しているが、これは敗戦で外務省が大幅リストラを余儀なくされたからである。 杉原は外交官であると同時に、熟達の諜報員でもあった。リトアニアではポーランドの地下組織と接触し、貴重な独ソ情報を得ていた。殺到したポーランド系ユダヤ難民を助けることは、亡命ポーランド政府や地下組織の望んだ所でもあった。 <ふじい・げんき・・・国際政治学者。1952年、東京都生まれ。早大政経学部卒業後、米ハーバード大学大学院で政治学博士課程を修了。ハーバード大学国際問題研究所・日米関係プログラム研究員などを経て帰国。メディアで活躍する一方、銀行や証券会社の顧問、明治大学などで教鞭をとる。現在、拓殖大学客員教授。近著に「米中新冷戦、どうする日本」(PHP研究所)、「アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門」(幻冬舎新書)> |
●(2)平成28年1月26日、東京新聞「日比 永遠の友好を」
<日本人戦犯に恩赦 キリノ元大統領の親族> 天皇、皇后両陛下が26日、太平洋戦争の激戦地となったフィリピンへ出発された。終戦後まもなく、反日感情が渦巻くフィリピンで恩赦を出して日本人戦犯の帰国を許した当時のエルピディオ・キリノ大統領(1890~1956年)の親族らは、両陛下の訪問に「戦争の傷が癒され、両国の関係が深まる」ことを願う。 <53年に英断 国家の罪 個人に負わせぬ> 戦時中、キリノ氏は妻と3人の子どもを日本軍に殺害された。それでも許した理由を、ルビーさんは「復興に日本との良好な関係構築が不可欠だった。政治家として現実的な判断をする必要もあった」と語る。 自宅には、アントニオさんをたたえて80年ごろ、マニラの日本大使館が贈った花瓶が大切に飾られている。アレリさんは「一家の宝物。両陛下の訪問によって、両国の良い関係が永遠に続くことを願っている」とほほえんだ。 「身に覚えはなかったが、自分のアリバイを証言してくれる者が全員戦死してしまった」。48~51年に戦犯17人が処刑され、「次は自分かもしれない」と覚悟した。恐怖と無念の思いは、今も心の奥底に深く刻まれている。 <国旗や横断幕 マニラ 歓迎ムード> フィリピンの首都マニラでは26日、両陛下を歓迎する準備が進んだ。市街地に掲げられた日本とフィリピンの国旗や横断幕が友好ムードを演出し、現地の日系人たちは両国関係の発展への期待に胸を膨らませた。 タクシー運転手のドミナドール・カバルバグさん(56)は「日本はフィリピンの発展を助けてくれている。訪問は大歓迎だ」と笑顔。「トモダチ、トモダチ」と何度も日本語で繰り返した。 連合会長で日系三世のイネス・マリャリさん(44)は「高齢になった日系二世たちは、戦争で亡くなったり日本へ強制送還されたりした自分たちの父親の代わりに、天皇陛下がいらっしゃると感じている。うれしい気持ちでいっぱいです」と語った。 |
○(3)<STORY>
あなたは知っていますか? 1934年、満洲。満洲国外交部で働く杉原千畝は、堪能なロシア語と独自の諜報網を駆使し、ソ連から北満鉄道の経営権を買い取る交渉を有利に進めるための情報を集めていた。翌年、千畝の収集した情報のおかげで北満鉄道譲渡交渉は、当初のソ連の要求額6億2千5百万円から1億4千万円まで引き下げさせることに成功した。しかし、情報収集のための協力要請をしていた関東軍の裏切りにより、ともに諜報活動を行っていた仲間たちを失い、千畝は失意のうちに日本へ帰国する。 帰国後、外務省で働いていた千畝は、友人、菊池の妹である幸子と出会い、結婚する。その後、在モスクワ日本大使館への赴任が決まったが、これを取り消されてしまう。千畝にとって、ソ連への赴任は謎のベールにつつまれた<共産主義>を学ぶためにも宿願であったのだが、北満鉄道譲渡交渉の際に千畝のインテリジェンス・オフィサーとしての能力の高さを知って警戒したソ連は、彼を【ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)】とみなして入国拒否を通達してきたのだった。 1939年、千畝にリトアニアの首都カウナスへ赴任の辞令が下った。外務省は、ソ連が手を伸ばし混迷を極めるヨーロッパ情勢を知る上で最適の地リトアニアに領事館を開設し、その責任者となって新たなネットワークを作ることを千畝に命じたのだ。 千畝が赴任したのは、独ソが不可侵条約を締結した直後であった。千畝が領事館を開設してまもなく、ドイツはポーランドへ侵攻した。リトアニアでの外交官交歓会に出席した千畝はさっそく緊迫した空気を味わうことになる。直後にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告、第二次世界大戦が勃発し、ソ連もポーランドに侵攻する。 千畝は現地職員を募集した。さっそく自らを売り込んできたのは独ソによって分割されたポーランドの元スパイ、ペシュだった。ドイツと協定を結ぶ日本の領事館に何故?と問う千畝に対し、ペシュは自分たちの情報網を与える代わりに、亡命政府の組織の者へヴィザを発給してほしいと訴える。危険な賭けであったが、千畝はペシュを認め、運転手として雇い入れる。これによって独自の諜報網を構築した千畝は、不可侵条約を定めた独ソの本当の狙いが東ヨーロッパを分け合うことにあると察知し、駐ドイツ日本大使・大島に報告する。だが当時のドイツの勢いに運命を委ねようとしていた日本が、日独伊三国同盟に活路を見出すという基本方針は、もはや避けようがなかった。 千畝はソ連の情報源として接したユダヤ人経営者ガノールとの間に、いつしか友情を築き上げていた。ワルシャワから逃げてきた彼の親戚のローゼンタールから、ポーランドを追われたユダヤ難民たちの実情を耳にする。 1940年、ソ連軍がリトアニアに侵攻し、アメリカ公使館が閉鎖されると、日本領事館の前にユダヤ難民たちが集まりはじめた。お金と目的地さえあればソ連は通過できる。すると、日本を軽油して船でアメリカに渡るのが彼らにとって最善の道だった。必死に助けを乞う難民たちの数は日に日に増していく。日本政府からの了承が取れないまま、千畝は自らの危険を顧みず、独断で難民たちに日本通過ヴィザを発給することを決断する。 |
○(4)<実在した人物、杉原千畝とは>(杉原千畝・・・1900~1986年)
第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカナウス(当時の実質的首都。現在はリトアニア第二の都市)で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にヴィザを発給し、避難民の救済に尽力した。同じく多くのユダヤ人を救い、94年の第66回アカデミー賞で作品賞、監督賞など最多7部門を受賞した『シンドラーのリスト』(スティーブン・スピルバーグ監督)で世界的に知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて「日本のシンドラー」とも呼ばれている。 <ユダヤ難民へのヴィザ発給について> 1939年、千畝が在カナウス日本領事館領事代理となった頃、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激化。ドイツ占領下のポーランドをはじめとする、ナチス・ドイツの影響の強い地域から逃れてきたユダヤ人にどのように対処するかが、国際的な問題となっていた。 ドイツ占領下のポーランドから、リトアニアに逃れてきたユダヤ人に向けて、日本のみならずいくつかの領事館でヴィザの発給はされていた。しかし、ドイツ軍が西方から侵攻してくるために、逃亡ルートは限られ、さらに1940年、リトアニアはソ連に併合され、各国の大使館・領事館は続々と閉鎖されていった。そのような状況下、ユダヤ難民の逃亡ルートはシベリア鉄道で極東まで進み、日本へ渡ってアメリカなどへ脱出するしかなかった。そのためには日本を通過するヴィザが必要となり、未だ閉鎖されていなかった日本の在カウナス領事館へ、ユダヤ難民が殺到した背景があった。 すでに領事館閉鎖の勧告をソ連より受けていた千畝であったが、難民を逃すためヴィザを発給することを決意。領事館閉鎖までの約1ヵ月間、昼夜を問わずヴィザを発給し続けた。領事館閉鎖後も、1週間ほど滞在していたメトロポリスホテルや、さらに千畝のリトアニア出国当日も、カウナス駅で列車が発車する直前までヴィザに代わる渡航証明書を発給していた。 日本政府より規定されていた、日本通過ヴィザの発給が認められる外国人の資格は、「避難先の国の入国許可を得ていること」「避難先の国までの旅費を持っていること」と定められていたが、千畝はその資格を持ちえない難民にもヴィザを発給。後年、外務省外交史料館で発見されたヴィザの発給リスト(通称:スギハラのリスト)に記されたヴィザの数は2139枚。1枚のヴィザで同行している子どもを含めた家族全員が救われた例も多かったことから、千畝が「命のヴィザ」によって救ったユダヤ人の数は、少なくとも6000人にのぼると言われている。 その後、いくつかの国の領事館・大使館勤務後、1947年に日本に帰国。外務省からの退職勧告を受け入れ辞職した。後に、多くのユダヤ人の命を救出した千畝の功績が明らかとなり、1985年、イスラエル政府は千畝に「諸国民の中の正義の人賞」(ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅、すなわちホロコーストから自らの生命の危機を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人に感謝と敬意を示す称号)を贈る。日本人でこの称号を贈られた人物は、今日まで杉原千畝、ただ一人だけである。そしてこの称号が贈られた翌年の1986年、86歳で千畝はその生涯の幕を閉じた。 |
○(5)<杉原千畝に関わる出来事>
1900年1月1日 岐阜県八百津町に生まれる。 |
○(6)<よりスケールの大きな杉原千畝像が浮かび上がる本作>(白石仁章・杉原千畝研究家)
ついに杉原千畝に関する映画が公開される!25年にわたって杉原千畝研究に携わってきた私としては、自分のことのように嬉しい限りだ。 本映画でも、ヴィザ発給シーンを通じて偉大なヒューマニストとしての杉原の側面はしっかり描かれている。その上で、杉原が情報収集活動に秀でた優れた外交官であった姿を描き、よりスケールの大きな杉原像が浮かび上がる。 情報収集、分析、精査などに携わる外交官などをインテリジェンス・オフィサーと呼ぶが、杉原こそ戦前期の日本が生み出した最も優れたインテリジェンス・オフィサーの一人であった。ただし、ここで言うインテリジェンス活動は、いわゆるスパイ活動とは似て非なるもの、杉原のインテリジェンス活動の根源には常に「信頼関係」という絆があった。 映画の冒頭、満洲国外交部に勤務していた杉原がソ連満洲国が共同経営していた北満鉄道の譲渡交渉にかかわるシーンがある。ソ連は、同鉄道の権益を日本ないしは満洲国に売却することを提案し、満洲国が買い取ることで交渉が開始された。双方の希望価格は、ソ連が約6億2千5百万円であったのに対し、満洲国の提示金額は5千万円であった。そこで、杉原は鉄道が老朽化している実態や多数の列車が密かにソ連領内に運び込まれている事実を暴き、ソ連側に突き付けたので、最終的には1億4千万円まで引き下げることに成功したのであった。 この時に杉原に協力したのは、「白系露人」と呼ばれる満州在住のロシア人たちであった。ロシア革命によって成立したソ連政権を不服とし、亡命などによりソ連領外に逃れた人々は、共産主義の色=「赤」に対して「白」、白系露人と呼ばれていた(日本のプロ野球で活躍したビクトル・スタルヒンもその一人)。そのためソ連政府への反感から積極的に杉原に協力したのだ。杉原には白系露人のように政治的に弱い立場にある人々からの信頼を勝ち取る資質があり、また杉原も彼らを積極的に庇護したのであった。 その代償は、予想外の形で杉原を苦しめることとなった。北満鉄道譲渡交渉も無事終わり、帰国した杉原は結婚し、子どもにも恵まれた。さらに、彼が得意としたロシア語を活かせる在ソ連大使館への赴任が決まり、公私ともに順風満帆に思えた。しかし、ソ連が杉原を外交用語でいうところの「ペルソナ・ノン・グラータ=好ましからざる人物」に認定し、ヴィザを出さないことによって入国を拒否したのだ。後にリトアニアで多数の日本の通過ヴィザを発給し、避難民たちを救った杉原が自分に対する一枚のヴィザが得られず苦しんだというのは、何とも皮肉な歴史の巡り合わせだ。 この時、ソ連が問題視した点こそ、杉原がソ連に敵意を有する白系露人たちに同情を寄せ、協力関係を築いたことだった。しかし、杉原は外務省に提出した書類においてもその事実を全面否定している。それは自分の身を守るというよりは、協力してくれた白系露人たちを守ることであり、情報に携わる者の鉄則である「情報提供者の安全を守る」ことに他ならなかったのであった。 ソ連から入国を拒絶された杉原は、フィンランドに派遣され(映画では直接リトアニア派遣となっているが)、1939年7月、リトアニアのカナウスに領事館を開設し、責任者(領事代理)となることを命じられた。リトアニア到着直後に第二次世界大戦が勃発し、ポーランドがドイツ、ソ連により東西から挟撃を受け首都ワルシャワも陥落し、ポーランド全土が両国によって占領されてしまった。そのため、隣国であるリトアニアへ多数の避難民が逃れた。戦前期のポーランドではヨーロッパで最も多数のユダヤ系住民が暮らしていたので、避難民の多くはポーランド系ユダヤ人たちであった。 ここで、映画ではペシュというポーランドのインテリジェンス・オフィサーが登場するが、これは実際に杉原と協力関係を築いたポーランドの軍人、ダシュキェヴィチ中尉がモデルになっている。ペシュという名前はダシュキェヴィチ中尉が用いていた偽名なのだ。祖国を奪われたポーランド軍人もまさに政治的弱者であり、ここでも杉原は固い信頼関係を築いた。だからこそ、ダシュキェヴィチ中尉は、杉原がリトアニアを離れた後も、さらに危険なドイツ占領下のプラハやドイツ国内であるケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)まで杉原と行動を共にしたのだ。 ケーニヒスベルクで二人が危険を冒してまで入手したドイツがソ連侵攻の準備をしているという情報は、ヒトラーがスターリンの目を欺くために同盟国である日本にすらひた隠しにしていた情報であった。当時の日本は、日独伊三国同盟と日ソ中立条約により、これら4国の協力によって、アメリカやイギリスに対抗することを外交の基本方針としていた。杉原とペシュが入手したこの情報こそ、ドイツが同盟国をも平気で裏切る、危険な相手であることを明らかにし、根底から日本外交の見直しを図る契機ともなり得るものであった。それだけにこの情報が積極的に活用された痕跡が見当たらないことが残念でならない。 杉原千畝という外交官は、大勢のユダヤ人系避難民を救ったにとどまらず、同時代の日本人があの悲惨な戦争に向かうことを回避するためにまさに命懸けで活躍した偉大なインテリジェンス・オフィサーであった。本映画を通じて、従来あまり知られていなかった杉原の功績が多くの人々に伝わることは喜ばしい限りだ。 |
○(7)<映画『杉原千畝 スギハラチウネ』の理解をもっと深めるための解説> ◆千畝が従事していた職務「インテリジェンス・オフィサー」とは? 外交官の主な仕事は、国を代表して、外国との問題解決や、外国に滞在する自国民の保護や支援を行うこと。そのための情報収集ないし諜報活動に携わる外交官のことをインテリジェンス・オフィサーという。情報網を構築し、その網にかかった情報を精査して、未来を見通して最善の道を模索する。語学の達人であった千畝は、ロシア語、英語、ドイツ語、フランス語を駆使してその任務を遂行していた。◆千畝がソ連から下された宣告「ペルソナ・ノン・グラータ」とは? 「ペルソナ・ノン・グラータ」とは外交用語の一つで、ラテン語の直訳で「好ましからざる人物」の意から転じて、「歓迎されざる人物」という意味で使用される。千畝は満洲国外交部を辞任後の1937年、在モスクワ日本大使館赴任予定だったが、ソ連側から「ペルソナ・ノン・グラータ」とみなされ入国を拒否された。日本政府は国際慣例上先例なきことと抗議するも実らず、千畝は「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定された日本で初めての外交官となった。北満鉄道譲渡交渉で展開した千畝のインテリジェンス活動は、ソ連側の情報をどのようなルートで入手していたかが分からないほど巧みであり、ソ連側にとって不気味な存在として強く警戒された結果だったと推測される。◆千畝が成功させた「北満鉄道譲渡交渉」とは? 北満鉄道とはロシア帝国(後にソ連に変わる)と清王朝(後に中華民国に変わる)が満洲で共同経営した鉄道のうち満鉄として日本に譲られた部分を除く鉄道で、満洲国建国後には、ソ連と満洲国の共同経営となった。しかし満洲国は、ソ連をはじめとした列国が未承認で、国交がない国同士の共同経営には無理があった。そこでソ連から経営権を買い取る『北満鉄道譲渡』の交渉が始まる。鉄道の買収は満洲国が行い、日本側がそれを仲介する方針だった。千畝は第2回目の会合から参加し、交渉にあたる。当初、双方の希望価格にはかなりの金額差があった。千畝は、ソ連側が密かに鉄道車両をソ連本国に移送していた現状において、北満鉄道の経済価値が下がっており、また鉄道施設も老朽化していると主張。ソ連側は、関東軍 (満洲を警備する軍隊)が鉄道の価値を下げるために行った線路の破棄や列車の転覆などの謀略工作を暴露し、交渉は一旦中断する。中断の間、千畝が白系ロシア人ネットワークによって北満鉄道内部のあらゆる情報を調べあげたことにより、ソ連側の提示金額が大幅に引き下げられて1935年3月23日、決着に至った。◆千畝の母校ハルビン学院について ◆千畝が赴任したリトアニアに大挙して押し寄せた、ポーランドからの避難民に関わる 「独ソ不可侵条約」とは? 援助強化が可能となるからだ。8月29日には平沼騏一郎首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」ために同盟交渉を打ち切ると声明し、責任をとって総辞職した。◆ 「満洲国」とは? 「白系ロシア人」とは? 「バルト三国」と呼ばれる。千畝のリトアニア在勤時、当時の臨時首都カウナスには各国の公使館や領事館がひしめき合っていた。なぜなら、諜報活動の拠点としての最適地は、敵国に近い中立国。リトアニアは、ドイツ、ソ連と国境を接する中立国として世界的な諜報戦の主要舞台だったのだ。◆千畝にヴィザ発行を求めた避難民の多くを占めていた 「ユダヤ人」とは? キリスト教文化圏に属する中、イエス・キリストの教えとは異なるユダヤ教を信じるユダヤ人たちはたびたび迫害の対象となった。反ユダヤ思想はナチス・ドイツだけでなく、ソ連においてもロシア帝国の時代からあった思想。千畝はハルピンでもユダヤ人と白系ロシア人の抗争を目にしていたため、リトアニアに押し寄せたユダヤ人の趨勢にも危機感を抱くことが容易だったのかもしれない。千畝が警戒していたのはナチス・ドイツだけではなかった。迫り来るソ連の動きを事前につかみ、ソ連に併合されれば当然弾圧されるであろう、ユダヤ人の逃亡を急がせた。◆千畝がつかんだ情報、 「独ソ開戦」について ソ連と中立条約を結んだ日本は、前年に結んだ日独伊三国同盟と合わせて4国による協力体制を構築し、アメリカやイギリスによる日中戦争への介入を阻止し、中国との直接交渉による解決を望んでいただけに手痛いドイツによる裏切りに他ならなかった。この情報を活かすことなく、日本はアジアへの領土拡大を続け、在米日本資産凍結や石油全面禁輸の事態を招き、やがて太平洋戦争に突入していく。◆ユダヤ人の少年ソリー・ガノールを救ったアメリカ軍の 日系二世部隊について ◆千畝に協力していたペシュをはじめとする、ポーランド情報将校の存在 <参考文献・・・白石仁章『杉原千畝・・・ 情報に賭けた外交官』(新潮文庫)> |
<文責:藤森弘司>
最近のコメント