2015年9月30日 第158回「今月の映画」
日本のいちばん長い日
②ー②
監督:原田眞人  主演:役所広司  本木雅弘  山崎努  松坂桃李  堤真一

●(1)第二次世界大戦の末期、米軍の本土上陸までささやかれるようになったある日、沼津の東、三島市の龍沢寺に、当時の鈴木侍従長が山本玄峰老師を訪ねました。

玄峰老師は、昭和36年、世寿(せじゅ)96歳で遷化(せんげ)されましたが、近代随一の禅定力の持主として名声が高く、政財界を始めとして、あらゆる階層の信者がその周りに集まっていました。昭和天皇のご名代として、鈴木侍従長が、禅界の巨星としての、老師の大戦批判を訊ねますと、老師は、

「日本は文明国だ。小さい国土とはいえ大国だ。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで負ける時は断固として綺麗に負けるがよい。世界中の物笑いの種になるな」

と即座に答えられたということです。余談ですが、葬儀の日、渡米中の故池田元首相の弔辞を、当時は大臣であった故大平元首相が代読されましたが、「我が師」と称されていたのを、私はこの耳で聞きました。

●(2)昭和天皇が窮屈なモーニングをお召しになって起立され、その右側に開襟シャツを着て、尊大にパイプをくわえたマッカーサー元帥が並び立つ新聞写真を今でもはっきりと思い出します。日本が連合軍に無条件降伏をした年の九月二十七日、元帥の執務室で撮られたものです。天皇が会見を申し込まれ、お見えになるなら会おうということで実現した会見だからです。天皇は会談にあたって、

「今度の戦争の責任は、陸海軍大元帥であった私のみにあって、軍人、政治家、財界人、国民にその責任はありません。思いのままに処分してください。ただ一つお願いしたいことは、現在食糧不足で困窮している六千万人の日本国民が、飢え死にしないように、どうか米国から食糧を送っていただきたい。この風呂敷包みの中に私の個人財産の目録があります。これを今あなたにお預けするので、ご自由にお使いください。今日はこのお願いのみでお伺いしました」

と、静かに淡々と語られたということです。
このお言葉を聞いて、マッカーサー元帥の横柄な態度は一変し、言葉も丁寧になり、天皇ご到着の際は出迎えもしなかったのに、お帰りの時は、謹厳な態度で玄関までお見送りし、抱きかかえるようにして車にお乗せしたと言われます。そして、側近の者たちに、しみじみと語って云く、

「ああ、何という立派な態度だ。東西古今、敗者と勝者の長が会見する時は、必ず敗者の長はその助命と、財産隠匿の為の嘆願をするのが常だ。戦争責任を自分一人でかぶり、生命(いのち)を投げ出し、更に全財産をもって六千万の国民の飢えを救わんとされた天皇は、有史以来初めての敗者の長だろう。日本に天皇制を無くしてはならない」

と。それ以来、厚く天皇を擁護したと、故吉田元首相はじめ他の人たちは語っています。
ここまでに至ると、もうこれは英知とか良識とかでは片づきません。人の為に己を全くかえりみない「仏の慈悲」、「生まれながらの智慧」であって、正に真智、仏智であります。

智慧は、一即一切(いっそく・いっさい)、一切即一のところから生じます。まず、深い禅定によって、小我を捨て切ることです。
「生也全機現(しょうや・ぜんきげん)、死也全機現」(『圜悟録』、十七)。
生は仏性の全機の現れ、死もまた同じです。だから、禅では、
「大死一番、絶後再び甦える」
ということをやかましく言います。

●(3)上記の(1)と(2)は「白隠禅師 坐禅和讃法話」(春秋社)から転載させていただきました。

著者は、大本山妙心寺派管長・春見文勝先生です。刊行は、1991年で、当時、84歳でいらっしゃいます。
春見先生は、ご著書の中(法話を終えるにあたって)でご自身のことを、次のようにおっしゃっていらっしゃいます。

<比類の無い傑作>・・・p224

どんな因縁によって「私」という人間が生まれ出て来て、今、ここに、こうして生きているのでしょうか。精子と卵子、遺伝、環境などと、あっさり片付けてしまいたくはありません。「受け難き人身を受けて」生まれてきたのであります。しかし、そうは言っても、生まれてみると、男女、貧富、強弱、美醜、大小、賢愚などと、環境の差が仕組まれてしまっています。

私は、山奥の農家の三男に生まれました。どういう因縁があったのか知りませんが、生まれてしまった以上、もう地団太を踏んでも、どうにもなりません。
今日だったら、三男など生まれる前に間引かれて、水子霊にでもなっていただろうと思うと、受け難き人身を受けたのだと感謝する以外に方法はありません。

お寺の小僧になって、師匠に何度も中学へ行かせてほしいと頼みましたが許されず、父に、花園中学へ行きたいと言うと、「お前、頭でも狂ったのか」と、てんで相手にされません。水呑み百姓では、とても学資を出す余裕も無かったのです。

三年後、ついに意を決して寺を飛び出し、京都の大本山、妙心寺の山内で飯炊きのアルバイトを見付けました。朝・昼・晩と、七人の為の飯炊きをしながら中学を卒業しました。
「生まれた家から中学に通えたらなあ」
と毎日のように思ったものです。宮家や、大実業家の家に生まれるのは無理としても、せめて都会で生まれていたら、家から通学できるのにと、何度愚痴ったことでしょう。自分の意志で生まれたわけでもないのに、貧富一つ取り上げてみても大きな差があり、その上、顔、身体、知能など、人間一人として同じものは無く、考えれば考えるほど不思議に思いました。

聞くことも、見ることも、喋ることもできなかった、ヘレン・ケラー女史は、
「子供は生まれてくるとき、親を選ぶ自由を持っていない」
と。親もまた、生まれてくる子供を自由に選べません。もしそれができたら、みんな素晴らしい子供たちばかりでしょうに。男女の生み分けすら思うようにならないのが現実です。

<文責:藤森弘司>

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