2015年8月31日 第157回「今月の映画」
日本のいちばん長い日
②ー①
監督:原田眞人  主演:役所広司  本木雅弘  山崎努  松坂桃李  堤真一

●(1)物事は、過ぎて見れば何でも分かりますが、物事の最中というのはこんなにも分からないものだというサンプルが、この映画です。

どう考えても「新国立競技場」は無理筋だと思っていたら、安倍首相の聖断?で中止が決まりました。エンブレムも、どう考えても無理筋だと思ったら、こちらも中止になりました。
9月1日付発行の「広報 東京都」が本日配布されましたが、3面に大きく「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」「エンブレムが決定しました」とありますが、本日(1日)、エンブレムの中止が決定しました。

さて、この映画の最大の課題、「ポツダム宣言受諾」の問題も、ほとんど全く似たような経過を辿っています。
<<5時5分、近衛師団司令部に田中を乗せた車両が到着。完全武装で宮城への行進を始めようとしていた第一連隊の将兵たちに、「命令はニセモノだ」と叫ぶ。田中の指揮のもと、検挙される反乱軍>>

まさに危機一髪でした。

さらに驚くことは・・・・
<<4月5日・・・ソ連による日ソ中立条約の不延長の通告、4月30日・・ヒトラーの自殺、5月2日・・・ソ連によるベルリン占領、5月7日・・・ドイツの無条件降伏、6月後半・・沖縄戦が終結し、アメリカ軍の空襲が中小都市でも始まる、7月12日・・在ソ連の佐藤尚武に、ソ連への和平仲介依頼の打電(アメリカの傍受)>>

4月5日・・・ソ連による日ソ中立条約の不延長の通告がありながら、7月12日・・在ソ連の佐藤尚武に、ソ連への和平仲介依頼の打電(アメリカの傍受)をして、「和平の仲介」をしてもらおうと画策するとは、あまりにも幼児的発想だと言わざるをえません。

さらには、井沢元彦氏の「英傑の日本史 智謀真田軍団」(夕刊フジ)によれば、戦国時代、武田信玄の軍団には優れた「諜報機関」があったようです。武田勝頼の時代に、諜報機関の謀略により、徳川家康の長男・信康が殺されたようです。

しかし、それから数百年後のこの時代に、日ソ中立条約の不延長の通告があり、さらにはベルリンを占領して燃え上がっているソ連に和平の依頼をする幼児的発想は想像を超えます。
さらにその上に、無防備の日本の空から大空襲をかけられ、焼け野原にされるだけでなく、広島、長崎に原子爆弾を投下されながら、本土決戦だの、一億総蹶起(けっき)と叫ぶ若手の超エリート集団は、ほとんど「エンブレム問題」や「新国立競技場問題」と同じと言わざるをえません。まさに、「エンブレム問題」や「新国立競技場問題」も、危機一髪でした。

どうやら、日本の超一流の指導層というのは、こういう人間性を強く持っている集団だと言わざるを得ません。
当時の若手将校は、幕末の過激集団と酷似しているように思えますし、オリンピック関係の裏方は、多分、超高級官僚がシナリオを描いているのではないでしょうか?

政府の各種の諮問委員会は、ほとんど、ヤラセやアリバイ作り(つまり、シナリオ通りに進行させられる)とも言われています。「エンブレム」や「新国立競技場」も、決定のプロセスを公開する必要性を早くから言うコメンテイターもいました。
イジメやイジメによる自殺問題の対応も、軌を一にしているように思えてなりません。今、そこにある危機を直視しない民族性があるのかも知れません。

ポツダム宣言受諾までの驚くべきプロセスをじっくりとご覧の上、今を生きる私たちの反省材料にしたいものです。

●(2)平成27年8月14日、日刊ゲンダイ「映画監督 原田眞人が語る」

<日本のいちばん長い日>

 今作は「昭和天皇を前面に押し出した映画」だと強調する原田監督。半藤一利の「日本のいちばん長い日(決定版)」や「聖断」に書かれている天皇のセリフを複数織り交ぜ、皇室のエピソードも取り入れた。もとより、綿密な下調べをした上でリアリティーを突き詰める作業も欠かしていない。

戦後70年に際して宮内庁は、昭和天皇が終戦を国民に伝えた「玉音放送」の録音原盤と音声を初めて公表した。<堪え難きを堪え、忍び難きを忍び>が、よりクリアに聞こえる音源だ。

「この一節は、8月14日に行われた御前会議での聖断がもとになっています。それを内閣書記官長の迫水久常さんがメモに記し残していて、のちに安岡正篤さんに相談して助力を仰いだ上で、玉音放送の詔書に加えられた。僕がさまざまな関係書籍を読んで感じるのは、もととなった御前会議での<忍び難き・・・>の言葉は、昭和天皇がご自身のことを言われたのではないかということ。昭和初期、関東軍が独走して中国侵略を始め、熱河作戦が展開し、意に染まぬ案件も了承せざるをえなかった自身のことを表現なさったのではという気がしています」

歴史家の磯田道史は共著「『昭和天皇実録』の謎を解く」の中で、昭和天皇は軍部から「神殿の壁」として扱われていたことを記している。軍人らが昭和天皇という<自分たちを正当化するための壁>に向かって好き放題に発言し、事を起こしてしまったという話。原田監督は「そういう事情が分からない他国の学者たちがいる」と危惧する。

「たとえば、米歴史学者のハーバート・ビックス氏は『Hirohito and the Making of Modern Japan』を執筆しています。10年もの歳月のかけて練られた本ではありますが、昭和天皇をねじ曲げて書いている。この本の問題点は日米ですでに指摘されたものの、いまだに支持を得ています。ビックス氏は米NYタイムズのインタビューでは“なぜ天皇に戦争責任があるのか”について、『あの時代に日本で自由な人間は彼一人だ』とひと言で片づけています。でも、実際は全く自由ではなかっただろう、と示したのが今回の映画です。

僕は彼に限らず、天皇のことについて真実よりもイデオロギーが優先されている現状に強い怒りを感じています。もちろん、僕は右翼でもなんでもありませんが、歪んだ偏見を持った人たちによる昭和天皇像というのが英語圏でリアリティを持ってしまっていることについて是正していきたい。違う見方があるのだということを訴えたいと思っています」

静かに柔らかな物腰で自らの苦や宿命を見る者の心に訴えかける・・・。そんな昭和天皇を熱演したのは、本木雅弘(49)。原田監督は「昭和天皇のキャスティングは非常にいろいろな問題があった」と振り返る。

<はらだ・まさと・・・1949年、静岡県生まれ。79年「さらば映画の友よ インディアンサマー」で監督デビュー後、「突入せよ!『あさま山荘』事件」「クライマーズ・ハイ」「わが母の記」「駆込み女と駆出し男」など話題作を多数発表。現在は「日本のいちばん長い日」が公開中>

○(3)<プログラムより>

<組閣>

 1945(昭和20)年4月5日、第二次世界大戦が激化するなか、内閣総理大臣に任命された鈴木貫太郎枢密院議長(山崎努)は、77歳という老齢を理由に固辞する。しかし、昭和天皇(本木雅弘)から直々に「頼むから、どうか、気持ちを曲げて承知してもらいたい」と言われては引き受けるしかなかった。

父・貫太郎を助けるために秘書官に名乗り出た長男の一は、「問題は陸軍大臣ですねぇ」と組閣を案じる。幼少期の天皇の養育係を務めていた妻のたかは、天皇が阿南惟幾大将(役所広司)を懐かしがっていたと聞き、それが天皇の望みだと指摘する。鈴木が侍従長のときに侍従武官だった阿南を、天皇は親愛の情を込めて“アナン”と呼び、何かと頼りにしていた。

<戦争終結への道>

 内閣書記官長に迫水久常(堤真一)が就任した頃、アドルフ・ヒトラーの死によるナチスの崩壊で戦況が急転する。5月25日、B29の編隊が東京に大量の焼夷弾を投下。直撃された参謀本部からの飛び火で宮城(皇居)の宮殿が焼け落ち、人々も甚大な被害を受ける。

6月22日、宮城の御文庫地下防空壕に集まった、鈴木、阿南、東郷茂徳外務大臣、米内光政海軍大臣、豊田副武軍令部総長、梅津美治郎参謀総長ら最高戦争指導会議の6人と木戸幸一内大臣を前に、天皇は戦争の終結の実現に努力するよう希望すると告げる。和平への道を示され、衝撃を受ける阿南だったが、天皇から娘・喜美子の結婚式は無事済んだのかと声をかけられ、その優しさに胸を突かれる。

<ポツダム宣言発令>

 天皇の発言が広まるなか、東條英機元首相は若き将校たちに本土決戦あるのみと焚きつけていた。だが、一億総蹶起(けっき)と叫んでも、国民に用意されたのはまともな兵器とは呼べない代物ばかり。一方、内閣がソ連に仲介を頼んだ和平交渉にも何の進展も見られない。

ポツダム現地時間の7月26日、アメリカ、イギリス、中国によってポツダム宣言が発令され、日本は無条件降伏を迫られる。閣議では、ソ連の名がなく日時の制限もないことから、即時受諾は好ましくないとの意見が大半だ。天皇の立場を最優先に考える阿南は、国体の護持に関しての確証がまったく与えられていない以上、拒否を明らかにすべきだと主張する。鈴木は「政府の方針としては静観、もしくは黙殺ですかな」と結論づけた。

<鈴木首相の覚悟>

 その間、8月6日8時15分にアメリカが広島に原爆を投下。数多くの国民の命が奪われ、さらに9日にはソ連が参戦。しかし鈴木は、「この戦争はこの内閣で決着です」と断言してみせる。阿南が自身の辞職によって閣内不一致・内閣総辞職に追い込むのではないかと懸念する東郷に、「阿南さんは・・・・・倒れません」と言い切った。

受託に向けて、鈴木の暗躍が始まる。大本営と内閣の一致をもって政治的決定を行うというルールを破って聖断を仰ぎ、大元帥としての天皇によって軍を抑えるのだ。天皇に責任を負わせないために、鈴木は死刑をも覚悟していた。そして開かれた最高戦争指導会議に衝撃の報せが届く。長崎に原爆投下、9日11時2分のことだった。

<阿南陸相の苦悩>

原爆投下を受けても受諾を問う閣議は決裂。助けを求めて奏上する鈴木に天皇は、この戦争を「わたくしの本心からの言葉で収拾できるならありがたく思う」と告げる。
河辺虎四郎参謀次長から内閣を倒して軍政権を樹立するという蹶起案を渡され、苦悩する阿南。安井藤治国務大臣は阿南に、戦争続行を主張し続ければクーデターは防げると耳打ちする。

10日2時過ぎの御前会議。最高戦争指導会議の6人は無条件降伏か否か3対3に分かれたままだ。そのとき突然、鈴木が聖断を仰ぎ、室内に驚きと緊張が走る。天皇は「このまま戦争を続け文化を破壊し、世界人類の不幸を招くことはわたくしの望むところではない」と語る。泣きながらメモをとる迫水、鈴木と阿南は耐え忍ぶ。

<揺れる陸軍>

 10日9時半、激高する将校たちを、皇室保全の条件がなければ戦争は続けるとなだめる阿南。陸軍は本土決戦派と和平派に割れていたが、決戦派はさらに阿南を担ぎ出すクーデター派と、阿南ごと内閣を倒すという過激派に分かれる。双方を牽制するために、阿南は荒尾興功大佐の進言を受けて徹底抗戦の訓示を発表する。

11日、阿南を敬愛する畑中健二少佐と井田正孝中佐が、阿南の自宅に警備の憲兵を配置する。阿南がクーデターを支持すると信じているふたりは、「戦争継続を遂行できるのは閣下だけです」と訴える。
12日3時5分、連合国側の回答文が届くが、天皇の権限を「SUBJECT TO」とする英文を、陸軍は「隷属する」と訳し、激怒する。

<最終決定の閣議>

 13日7時15分、天皇に奏上した阿南は「心配してくれるのは嬉しいが、もうよい。わたくしには国体護持の確証がある」と言われ、言葉を失う。午後、降伏か、決戦か・・・・・。
いよいよ最終決定の閣議が始まった。受諾賛成の声が続くなか、陸軍の暴発を抑えるため、阿南は隣室で陸軍省に電話し、大多数は反対だとをつく。明日の御前会議で、再び聖断を仰ぐという鈴木の言葉で、18時28分に閣議は終わる。阿南は1日待ってもらえないかと鈴木に頼むが、ソ連の北海道上陸が迫っていた。

14日11時13分。24名の閣僚を前に、「わたくしは国民の生命を助けたいと思う」と語る天皇は、自らマイクの前に立って国民に語りかけると約束する。閣僚たちは、深い悲しみと慈愛に満ちた言葉に、堪え切れず嗚咽を漏らすのだった。

<文・山元明子(ヘルベチカ)>

○(4)<原作:半藤一利>

 戦争をはじめることはある意味で簡単であるが、終えることは本当に難しい。国際情勢が複雑にからむからである。昭和二十年八月、三百十万人もの人が死んだあとで、大日本帝国はその困難を何とか克服して戦いを終えることができた。

この“事実”の重みがわかったがゆえ、多くの日本人にそのことを知って貰いたいばかりに、私はこの本を書いた。そしていまの「戦争をしない国」の原点がその事実の上にあることをあらためて痛感している。

○(5)<解説>

<1945年8月15日、終戦。戦争終結のために命を懸けた男たちの物語>

<戦争終結のために命を懸けて闘った人々 彼らが下した日本史上最大の決断とは>

平和を守り続けるには何が必要なのか。日本が戦争を終えてから70年となる今年2015年に、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏へと至るまでに二転三転した道のりと、終戦前夜に起きた事件を解き明かす物語が完成した。

太平洋戦争末期、戦況が絶望的となった1945(昭和20)年4月、鈴木貫太郎内閣が発足。そしてポツダム現地時間の7月26日、連合国は日本にポツダム宣言を発令し、受諾を迫る。降伏か、決戦か・・・・・。連日連夜、閣議が開かれるが、議論は紛糾する。日本の沈黙に、アメリカは8月6日広島に、8月9日長崎に原爆を投下した。そして8月14日に御前会議が開かれ、閣僚たちは昭和天皇の聖断のもと降伏を決定する。

そのときから、終戦を知らせる天皇の玉音放送が国民に届く8月15日の正午まで、“日本のいちばん長い日”に、秒刻みで変わっていった、日本の運命とは・・・・・。

○(6)<私のいちばん長い日>(作家・五木寛之)

終戦の詔勅をラジオ放送できいたのは、中学一年のときだった。当時、私たちの家族は、父の仕事の関係で平壌と呼ばれていた街にいた。現在の北朝鮮の首都・ピョンヤンである。
かつて高句麗の都だったその街には、大同江という大きな川が流れ、長い鉄橋がかかっていた。私は毎日、その橋を渡って中学へかよった。

昭和二十年の初夏、父が招集された。すでに中年をこえていた父が招集されるとは、戦局がかなり切迫しているのだろう、と父の同僚が言っていたが、少年の私にはその意味がよくわかっていなかった。
意外なことに、父はすぐに招集解除になり、八月の十日前後には家に帰ってきた。いわゆる教育召集だったと後できいた。

父は当時の日本人の大半がそうだったように、素朴な愛国者だった。剣道と詩吟が得意で、本棚には本居宣長や、平田篤胤、賀茂真淵などといった人たちの本を並べていた。
そんな父が、八月の十四日、少し興奮して帰宅すると、声をひそめて母と私にこう言った。
「明日、重大な発表があるらしい。これはある筋から聞いた話だが、どうやらソ連が日本と同盟して、米英と戦うことになったそうだ。これでこの戦争も勝てるだろう。だれにも言うんじゃないぞ」

今から思えば滑稽としか思えない出来事である。あれは父親の冗談だったかと首をひねることもあるが、そうではない。国民の中には、冷静に国際情勢を直視して、敗戦を予測していた人たちもいたという。それだけではなく、政府や軍の関係者たちは、すでにポツダム宣言の内容や、原子爆弾の実態、ソ連軍の動向などについて、正確な情報をつかんでいたはずである。

実際に八月上旬から、旧満州の都市や北朝鮮の各地から、いちはやく平壌へ南下してきた選ばれた人々がいた。平壌飛行場から軍の爆撃機が、それらの関係者家族を内地へ運んでいたことも後に知った。
だが、当時の私たちは、正しい情報をまったく知らなかった。知らされていなかったのではない。知る努力を忘れていたのである。いや、知ろうとしなかったのだ。そのことは、愚かしいだけでなく、恥ずかしいことだと私は思う。

昭和二十年の八月十五日、中学生の私は校庭に整列して終戦の詔勅をきいた。ラジオの雑音で正確な言葉はききとれなかったが、戦争に負けたという事実だけは理解できた。
家に帰ると、父親は呆然自失の状態で、ほとんど無反応だった。夜になって、父の教え子だった朝鮮人の学生たち数人が、赤い保安隊の腕章をつけて現われた。拳銃を腰にさげた彼らの姿に、父は絶句するばかりだった。
「できるだけ早くこの街をでて、南下したほうがいいですね。まもなくソ連軍がやってきますから」
と、彼らの一人は、おだやかに言った。自分たちはすでに数年前から地下組織として活動していたのだ、と彼は語った。

私が半藤一利さんの渾身の力作、「日本のいちばん長い日」を読んだときのショックは、私の中に眠っていたその恥じの感覚をよびさますものだった。
そこに描かれた世界は、私たちの想像を絶する事実である。あの詔勅のラジオ放送をめぐって、これほどのドラマがあったことをはじめて知ると同時に、知らなかったことの罪をあらためて自省させられたのだ。

「日本のいちばん長い日」は、私にとっても、実にながい一日であり、そのことを、戦後七十年をへても、まざまざと思い出さずにはいられない。愚かしさは罪であり、知ろうとしない素直さは恥であることを、あらためて反省させられる夏である。

<Profile・・・1932年9月30日生まれ、福岡県出身。戦後朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。66年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、67年「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞、76年「青春の門」で吉川英治文学賞を受賞。81年から龍谷大学の聴講生となり、仏教史を学ぶ。代表作は「朱鷺の墓」、「戒厳令の夜」、「風の王国」、「蓮如」、「百寺巡礼」、「大河の一滴」など。ニューヨークで発売された「TARIKI」は2001年度「BOOK OF THE YEAR」(スピリチュアル部門銅賞)に選ばれた。また02年度第50回菊池寛賞、09年NHK放送文化賞、10年長編小説「親鸞」で第64回毎日出版文化賞特別賞を受賞。近著に「下山の思想」、「好運の条件」、「かもめのジョナサン完成版」など>

○(7)<ポツダム宣言受諾>(評論家・孫崎享)

 <追い詰められた日本の状況と受諾に伴った多大なる困難

安倍晋三首相は今年8月の終戦記念日、「戦後70年の首相談話」を発表する予定である。かつての戦争を総括し、戦後の歩みを振り返るという。
1945(昭和20)年8月15日のポツダム宣言受諾は戦後スタートの最初である。戦後の歴史はここから始める。

「戦後70年」を見直すなら、8月15日のポツダム宣言受諾から検証しなければならない。見事なタイミングで、映画『日本のいちばん長い日』が出た。
『日本のいちばん長い日』のタイトルが暗示するように、この受諾は決して容易ではなかった。

歴史では、もしあの時あの人がいなかったら、当該の人が別の行動をとっていたら全く違う道を進むことがある。映画『日本のいちばん長い日』もまた、ポツダム宣言受諾に深く関与した昭和天皇、鈴木首相、阿南陸相、さらには玉音放送を保存した侍従等の人々の確固たる対応がなかったならば、日本は8月15日にポツダム宣言の受諾をなすことが出来ず、さらなる原爆投下と日本国民の死亡と国土の荒廃を招いていただろう。

戦後の第1日目となる8月15日はどのような環境の下にスタートしたのか。
先の大戦で日本は310万の死者を出した。海外の戦場は全て惨敗した。日本各地で米軍による大空襲が続き、国土は荒廃し、多大の死傷者が出た。
この中、7月26日にポツダム宣言が出され、厳しい警告がなされた。

ポツダム宣言受諾を理解するには、警告の厳しさを知る必要がある。

★「ドイツ」國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ
★現在日本國ニ對シ終結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」に對シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」國人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ
★吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル
壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ

そして、8月6日に広島、8月9日に長崎原爆投下があった。受諾しなければ「日本國本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ」は単なる脅しとしてではなく、現実のものになる。
この惨状をみて、日本の選択はポツダム宣言受諾以外方法がない。しかし、その受諾は、実に困難を伴っていた。それを『日本のいちばん長い日』が描いてみせた。

映画は、昭和天皇の終戦への強い意思と、鈴木首相の狡猾さと、阿南陸相の自己犠牲がなければ、終戦にこぎつけられない、当時の日本社会の狂気を厳しく描いている。
私はこの戦争開始における昭和天皇の責任は大きいとみている。彼には戦争を回避する手段はあった。開戦に強く反対していた東久邇宮を首相にすれば、少なくとも数か月は開戦せず、その間、ソ連軍に敗退するドイツの運命が明確になり、ドイツという「勝ち馬に乗れ」と言う陸軍の強硬派の根拠は崩れていた。

しかし、昭和天皇は「私が主戦論を抑えたならば、陸海の世論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう」と述べている。クーデターとは昭和天皇の抹殺だ。この軍の脅威は、ポツダム宣言受諾の時も継続していた。

しかし終戦においては、昭和天皇は間違いなく、重大な役割を演じた。軍は依然継戦を主張している。軍は終戦を主張する者がいれば、力で排除する姿勢を見せている。天皇は毅然と終戦を貫いた。
更に地味ではあるが、鈴木貫太郎首相の舞台回し、狡猾さも不可欠であった。

この映画の一つのハイライトは、玉音放送を巡る攻防である。
8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔勅の音読が放送された。これで国民は終戦が訪れたことを知る。天皇の録音は14日23時20分頃から開始された。この時間を見るだけでも異常さがわかる。

陸軍の一部は徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとしたのである。このクーデターの動きは決して小さい動きではない。陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって動いた。将校達は近衛第一師団長命令を偽造し、近衛歩兵第二連隊を用いて皇居を占拠している。

後世の世代から見れば誰が見てもおかしいことが起こった。異常な人間が権力の中枢にきた時、これへの抵抗が如何に難しいかを示した。それは現代政治にも通じる。
多くの人は、この重大な出来事について今まであまりにも知らなかったことに驚き映画館を去るに違いない。

<Profile・・・・・1943年、旧満州生まれ。66年に外務省に入省し、イギリス、ソ連、アメリカなどの勤務を経て、駐ウズベキスタン大使、国際情報局局長、駐イラン大使を歴任。主な著書は、山本七平賞受賞作「日本外交 現場からの証言・・・握手と微笑とイエスでいいか」を筆頭に、「日米開戦の正体・・・なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか」、「戦後史の正体」、「アメリカに潰された政治家たち」など>

○(8)<もうひとつの物語>(歴史作家・金谷俊一郎)

1945(昭和20)年
2月4日・・・ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会議開催
3月10日・・B29による東京大空襲で10万人もの人々が死亡
4月5日・・・ソ連による日ソ中立条約の
不延長の通告
4月12日・・ルーズヴェルトが急死し、トルーマンが後任に
4月22日・・ソ連のベルリン突入
4月28日・・ムッソリーニが処刑
4月30日・・ヒトラーの自殺
5月2日・・・ソ連による
ベルリン占領
5月7日・・・ドイツの無条件降伏
6月後半・・
沖縄戦が終結し、アメリカ軍の空襲が中小都市でも始まる
7月12日・・在ソ連の佐藤尚武に、ソ連への
和平仲介依頼の打電(アメリカの傍受)
7月16日・・トルーマン宛に原子爆弾実験成功の一報
7月17日・・トルーマン、チャーチル、スターリンによるポツダム会議開催
7月21日・・トルーマン宛に原子爆弾実験の報告書が届く
7月25日・・トルーマン、原子爆弾
投下の指令を承認
7月26日・・アメリカ・イギリス・中華民国によるポツダム宣言発表(日本の
黙殺
8月2日・・・トルーマン、広島への原子爆弾投下を決定
8月6日・・・午前8時15分、広島に原子爆弾を投下
8月8日・・・ソ連の
宣戦布告/トルーマン、小倉もしくは長崎への原子爆弾投下を決定
8月9日・・・午前11時2分、長崎に原子爆弾を投下

2月(鈴木貫太郎内閣発足の2ヶ月前)・・・1945(昭和20)年2月4日、クリミア半島のヤルタで会談が開かれた。出席したのは、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルト、イギリス首相のウインストン・チャーチル、そしてソ連のヨシフ・スターリン。この会談は、表向きはドイツの終戦処理について話しあわれたものであったが、その裏で日本に対する秘密協定が結ばれていた。その内容は、「ドイツ降伏3ヶ月後にソ連が対日参戦する」ものであった。

3月(鈴木内閣発足の前月)・・・3月10日、アメリカ軍はB29爆撃機で夜間に東京大空襲を行い、一夜にして10万人の住民の命を奪った。この後、アメリカは全国の主要都市への空襲を次々と行っていく。ここには、「アメリカが日本を降伏に導いた」というストーリーを描きたいアメリカの思惑があったともいえる。

4月・・・鈴木内閣が誕生した4月は、終戦を決定づける大きな出来事が立て続けに起こった。5日、ソ連は日ソ中立条約の不延長を日本に通告。これにより、ソ連が侵攻するかもしれないという脅威が日本に降りかかる。
12日には、ルーズヴェルト大統領が脳卒中で急死。後任大統領には当時副大統領であったハリー・S・トルーマンが昇格する。トルーマンは、ルーズヴェルトが推進していた原子爆弾政策を受け継ぐことになった。原子爆弾を「いつ」、「日本のどこに」投下するかの決定を委ねられたのである。

22日、ソ連がベルリンに突入。28日にはイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニが処刑、2日後の30日にはドイツのアドルフ・ヒットラーが自殺と、戦争の遂行者が相次いで亡くなった。
5月・・・ヒトラーの死の2日後の5月2日、ソ連はベルリンを占領し、7日にドイツを無条件降伏させた。これにより、「8月」のソ連の対日参戦へのカウントダウンが始まったのである。

6月・・・6月になると、沖縄戦が終結。アメリカは同時に焼夷弾による空襲を中小都市にも始めることとなり、日本の敗色は濃厚となる。
7月・・・戦争の終結を計った日本政府は、7月12日、ソ連にいる佐藤尚武大使宛に、「和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定である」ことをソ連側に伝えるよう打電した。しかし、スターリンは8月の対日参戦をすでに決定していたため、交渉は前に進まない。

しかも、このときの暗号電報は即座に解読され、トルーマンの知るところとなっていた。つまりトルーマンは、日本に和平の準備があることを、原子爆弾投下決定前にすでに知っていたのである。
ポツダム会談が始まる前日の7月16日、トルーマン大統領宛に大きなニュースが飛び込んでくる。それは「原子爆弾実験の成功」。

そして、ポツダム会談中の21日、原子爆弾実験の報告書がトルーマンのもとに届いた。そこには原子爆弾が、トルーマンが想像していたよりも遥かに凄まじい威力をもっていることが詳細に記されていた。
ソ連の対日参戦は、ドイツ降伏の3ヵ月後、つまり来月に迫っている。それまでに、トルーマンは、原子爆弾を切り札にして、ソ連に対して圧倒的優位に立とうと考えたともいえる。

4日後の25日、トルーマンは、ついに原子爆弾投下の指令を承認した。その内容は、「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日頃以降の目視爆撃可能な天候の日に『特殊爆弾』を投下する」とあり、翌日出されるポツダム宣言を日本が受諾するか否かについての条件は含まれていなかった。
翌26日、アメリカ・イギリス・中華民国の3国による「ポツダム宣言(米英支三国宣言)」が発表された。日本の無条件降伏を求めるもので、そこには戦争の終結をソ連抜きで行おうとするアメリカの思惑があった。

このポツダム宣言を、日本は黙殺。トルーマンは、日本がこの宣言を拒否するであろうと予想していた。そして日本がポツダム宣言を拒否することで、日本への原子爆弾投下を正当化できると考えたともいえる。
当時、原子爆弾開発にはアメリカの国家予算の20%にあたる20億ドルがかかっていた。それを何としてでも国民に納得させ、その後の核開発へのさらなる予算を計上したいという、トルーマン自身の思惑もあった。

8月・・・8月2日、広島への原子爆弾投下が決定され、6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された。
8日、ソ連は予定通り宣戦布告する。ソ連に後れを取ってはならないと考えたアメリカは、すぐさま小倉もしくは長崎に原子爆弾を投下することを決定し、翌9日午前11時2分、長崎に原子爆弾を投下したのであった。

<Profile・・・・・京都府出身。テレビや講演会で活躍する傍ら、20年以上予備校のトップ日本史講師として活躍。「日中韓 教科書読み比べ 歴史認識の違いはこうして生まれる」(祥伝社)、「こんな立派な日本人がいた!名も無き偉人伝」(マガジンハウス)、「日本人の美徳を育てた『修身』の教科書」(PHP研究所)をはじめ、日本の良さをより多くの人に伝えるための著書を多く執筆している> 

○(9)<クーデター失敗>

 宮城に戻った井田は、兵を引くよう畑中に言い聞かせるが、椎崎が「阿南閣下の出馬で事情が変わる。竹中中佐が説得中だ」と食い下がる。
4時5分、阿南の動向を確認に行った井田は自決の決意を知り、「あとからお供いたします」と申し出る。阿南は井田を殴り、「死ぬのはおれひとりだ」と言い含めるのだった。

4時30分、東部軍参謀室で宮城内警備指令所の回線を探し続ける畑中ら若手将校。ようやく電話がつながると、高嶋は「いま引けば、反乱とは見なさない」と畑中に伝える。畑中は東部軍の力で玉音放送の前に10分間だけ国民に話をさせてほしいと頼むが拒絶される。

4時50分、放送会館に乱入し、放送員・館野守男を銃で脅す畑中に、技術員・保木玲子が電源を落として抵抗。畑中はその先に誰もいないマイクの前で、陸相訓示を読みあげる。

<終戦へ>

 5時5分、近衛師団司令部に田中を乗せた車両が到着。完全武装で宮城への行進を始めようとしていた第一連隊の将兵たちに、「命令はニセモノだ」と叫ぶ。田中の指揮のもと、検挙される反乱軍。
陸相官舎。井田に「ひとりにしてくれ」と告げ、静かに短刀を握る阿南。背後から「介錯いたしましょうか」と声をかける竹下に「無用だ」と答える。

御文庫の居室の椅子のうえで、はっと目覚める天皇。7時3分、ようやく陸相官舎に到着し、阿南の遺体に向かって語りかける綾子。
8時、新しい朝が来た。

家族に宛てた手紙の傍らで、息絶える古賀。宮城前の芝生で、銃口を咥える椎崎、こめかみに当てる畑中。くずおれるふたり。
一が用意した辞表を確認する鈴木。
そして正午、玉音放送が始まる・・・・・。

<文・山元明子>

●(10)平成27年8月15日、夕刊フジ「ニッポンの新常識」(ケント・ギルバート)

<未来のため「芝居」をうった阿南陸軍大臣

日本では、昭和天皇の玉音放送が流された1945年8月15日が「終戦の日」だが、米国では戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書への調印が行われた9月2日が、「対日戦勝記念日」である。
同年7月26日に出されたポツダム宣言は、日本政府への「条件付き降伏」の要求だった。詳細は以前の連載で書いた。

ドイツと日本の「無条件降伏」にこだわり続けたのは、ルーズベルト大統領である。一方で日本は「国体護持」にこだわり続けた。
国体とは、天皇を中心とした日本古来の国家体制を意味する。政府は降伏後の国体護持が保障されなければ「本土決戦やむなし」と考えていた。新聞は「一億総玉砕」などと民衆をあおった。

ルーズベルト大統領は、母方の一族がアヘンを含む対中貿易で財をなした影響か、「親中憎日」だった。開戦前の日米和平交渉と同様、戦争終結の際も、日本の希望を聞く気など一切なかった。原爆実験は成功間近であり、「ダウンフォール作戦」という、毒ガス攻撃まで含む本土上陸殲滅作戦が計画されたいた。

これが神風だろうか。ルーズベルトは4月12日に脳卒中で急死。後任にトルーマンが就任し、米国はやっと日本に「条件付き降伏」を提示できることになった。
日米開戦時の駐日米国大使で、天皇の重要性を知るジョセフ・グルーら「三人委員会」の提言で、ポツダム宣言には当初、「天皇の地位保障」が書かれるはずだった。
ところが、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官が反対する。もし、天皇の地位保障が最初から盛り込まれ、日本が7月中に宣言を受諾していたら、原爆は投下されずに済んだはずだ。

ただしその場合、士気を維持したままの陸軍強硬派が、武装解除命令を無視して暴走し、「宮城事件」(=終戦直前のクーデター未遂事件)の比ではない内乱が起きた可能性がある。
ポツダム宣言受諾に最後まで反対し、戦争継続、本土決戦を主張し続けた阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣は8月15日早朝、切腹して果てた。宣言受諾への抗議と捉える人もいるが、私は、彼の戦争継続の主張は、青年将校らの不満を抑える芝居だったという「腹芸説」を採る。

阿南大臣は死後、頑迷な軍国主義者とさげすまれる可能性を承知のうえで、祖国の未来のために芝居を続けた。最後は壮絶な切腹を通じて、強硬派の戦闘意欲を鎮めさせ、動乱を防いだ。
これぞ日本人なり。心から冥福を祈る。

<ケント・ギルバート・・・米カリフォルニア州弁護士。タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行う。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい国・日本に告ぐ』(青林堂)など>

<文責:藤森弘司>

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