2015年10月31日 第159回「今月の映画」
監督:ガブリエル・ムッチーニ 主演:ラッセル・クロウ アマンダ・セイフライド アーロン・ポール
●(1)今回の映画「パパが遺した物語」は、もう少し、ほのぼのとした映画かと思っていましたが、内容はかなり強烈でした。
<<<ある夜、ジェイクが運転していた車が交通事故を起こし、同乗していた妻が亡くなってしまう。心身ともにダメージを受けたジェイクも長期入院>>> ということで、主人公の小説家とその娘のもの凄い人生の物語です。 私が最も興味を持ったことは、このような生育歴がある女性はこのようになる・・・という納得のできるストーリーだったからです。 しかも、この映画は心理分析をする上で、非常に参考になる・・・・・「脚本分析」に興味のある方にとって、心理分析がしやすいストーリー展開になっています。それは、小学生時代と、成人した娘が交互にスクリーンに展開されるので、「ああ、こういうことがあればこうなるだろうな」ということがとても分かりやすくなっています。 <<<ケイティのように自分のことを知りたくて心理学を学ぶ人も少なくないんです。自分の心を解明したい、深淵を覗きたくなってしまうんでしょうね。彼女自身もセラピーを受けていましたが、あれは“心理学者あるある”なんですよ。>>> と、心理学者の植木理恵氏が下記の(4)で解説していますが、私(藤森)自身、人生に行き詰って、紆余曲折しながら「脚本分析」をしてきましたので、植木理恵氏がおっしゃるとおりだと思っています。 が、超エリートでいらっしゃる植木理恵氏は、「自分は違う」・・・・・とはおっしゃっていませんが、ひねくれた私の皮膚感覚では、「私は学問的に探求してきただけだ」と言っているように感じてしまいます。そしてこれは、一般の学者にも言える「不健全さ」だと、私(藤森)は思っています。 宗教なども同様ですが、特に心理学的な分野は、諸に、一人(全くの「個」)の人間の「人生」をどうするかという大問題に取り組むのですから、単なる学問(!!!)としてのエリート・・・・・超一流の論文を書いたり、メディアなどで大活躍をしているような専門家には、どんなに優れた理論を駆使しても、未開のジャングルのような「個」の人間の「深層心理」を掘り下げ、かつ、「回復」のお手伝いができるわけがありません。 エリートとか、超一流と言われる人間は、いわゆる「テスト(試験)」の成績が優秀・・・・・「交流分析」でいうところの「知性(A)肥大人間」ですから、なんでも「知性」で割り切ってしまう傾向が、異常なほど強くあります。 「交流分析」でいうところの「脚本」に十分に配慮しない表層的な表現をする専門家は、素人のほうで見極める必要があります。心理関係でエリートとか優秀と言われる専門家や、「脳科学者」なんかに、言っていることは正しいかもしれないし、博学で素晴らしい知性・教養をお持ちではありますが、一人の人間の人生を考える場合、それはおかしくないですか?と言いたくなる専門家が多いですね、テレビなどを見ていると。 <<<ケイティのように自分のことを知りたくて心理学を学ぶ人も少なくないんです。自分の心を解明したい、深淵を覗きたくなってしまうんでしょうね。彼女自身もセラピーを受けていましたが、あれは“心理学者あるある”なんですよ。>>> と言える軽率さには驚きです。テレビに出る脳科学者の中にもいらっしゃいます。 |
○(2)<STORY>
父は愛する娘へ、物語を書き続けた。 ・・・・1989年、ニューヨーク。 7ヵ月後、退院したジェイクは真っ先に娘の元へと駆けつける。「もう離れない?」と不安げに聞くケイティに、これからは「ずっと一緒だ」と答えるジェイク。裕福なエリザベスと彼女の夫ウイリアムに、ケイティを養女にしたいと言われるが、彼にとってはあり得ない話だ。潤沢な財産はなくても、娘とふたりで暮らす毎日はとても幸せだった。 しかし、入院の甲斐もなく、ジェイクの病状は回復していなかった。ためにひどい痙攣の発作が起こるのを必死に隠しつつ新作小説を仕上げるも、新刊は評論家から酷評されてしまう。そして追い打ちをかけるかのように、エリザベスとウイリアムが、ジェイクは子供を教育できる状況にないと、裁判所に養育を巡っての訴訟を起こしたのだ。必死で娘との生活を守ろうとするジェイクだが、病状も生活も、苦しくなっていくばかり。 そんな中、彼は新しい小説の執筆を始める。それは彼と娘のケイティについての物語だった・・・・・。 ・・・・・現代。 乗り方を教えてもらったピンクの自転車。一緒に歌った、カーペンターズの曲。執筆に夢中になると、遅れてしまうお迎え。ダイナーで祝ってくれた、お誕生日。よぼよぼのおじいさんになるまで、ケイティのそばにいると誓ったゆびきりの約束。そしてそんなケイティとの日々を綴った遺作小説。小説の冒頭には、こう記されていた。 “ケイティ、私のポテトチップ。この世の誰よりも君を愛してる” |
○(3)<COLUM>
<父たち、娘たち、私たち誰もの物語>(川口敦子・映画評論家。1955年東京生まれ。80年代半ばから映画誌を中心にレビュー、インタビュー原稿を執筆。著書に「映画の森ーその魅惑の鬱蒼に分け入って」、訳書に「ロバート・アルトマンわが映画、わが人生」などがある) 原題は『Fathers & Daughters』。父と娘がそれぞれ複数形になっていて最初は少しとまどった。映画が見つめるのは妻を、母を、亡くしたひとりの作家とひとりの娘の物語と勝手に思い込んでいたからだ。が、脚本のブラッド・デッシュはプロダクション・ノートでこんなことをいっている。要約してみよう。 初めての娘が生まれた時に脚本のアイデアを思いついた。小説家が精神的にも経済的にも苦しみながら懸命に娘を育てようとする物語を書きたいと思った。草稿の段階では作家ジェイクがまだ幼い娘ケイティと共にいるひとつの時代だけを扱っていた。自分が運転する車で事故を起こし妻を死なせた彼が心の問題に立ち向かう物語だった。仕上がりには満足していたが何かが足りない気もしていた。 一年後、再度、脚本に向き合い、成長したケイティが両親を失くしたことで抱えた問題をめぐる物語を付加してみた。「ふたつの時代の物語をひとつの脚本に組み立ててみたら、それぞれが互いに命を吹き込み始めた」とデッシュは発言をしめくくる。その言葉は、ハリウッドで映画化されぬまま眠っている優秀脚本のリストにも選出された一作にたくし込まれたスリリングな奥行を浮上させ、映画のより深い滋味を指し示す。原題にある複数形に抱いた疑問もゆっくりと氷解させていく。 ふたつの時代・・・・・1989年の父親と、死んだ父が遺してくれた物語を反芻しながら喪失感に苛まれ、心の闇・病を抱えている25年後の娘・・・を交錯させるデッシュの脚本のひらめき。それは『ナッシュビル』(75)や『ショート・カッツ』(93)でマルチ・プロットの作法を究めた先達ロバート・アルトマンが「ひとつでは見えない何かが複数の物語を重ねあわせることで見えてくる」と述懐したことを想起させもする。 確かに『パパが遺した物語』はアルトマンの群像劇のうろうろとした感触とはまったく別の滑らかさで進行するけれど、よく見ると現在と過去、現実と記憶、リアル(日常)とフィクション(小説の世界)とが繊細にふたつの時代を編みあわせ、ひとつでは見えない何かを確実にあぶり出していく。89年の父と娘の部屋、猛烈なスピードでタイプを打ち執筆に没頭するジェイクと傍らで父といられる幸福を享受しているケイティの時空がふと現実から記憶の中の景色へとすべり込むような瞬間、ステディ・カムを駆使したキャメラの滑空がひとつに見えてひとつではない物語の居場所を示唆している。 そんなふうに重層的な映画の磁場に気づいてみると単数形の娘ではなく娘たちと銘打った原題にこめられた書き手の思いもまた改めて噛みしめてみたくなる。 ふたりのケイティに加え、妹の遺児を人形のように溺愛する伯母という“娘”の物語も映画は語ってみせる。不自由のない暮らしの中で愛を知らずにいることの寂しさが、哀しさが、不幸が見えてくる。さりげなく語られるその物語がケイティの物語をぬかりなく補完する。ジェイクの出版エージェント役を手堅くきめるジェーン・フォンダには父ヘンリーとの愛憎という私生活での記憶がどうしても重なってくる。ハリウッド・スターの歴史にそっと目配せするように映画はまた別の“父娘”の物語を息づかせる。 とりわけ印象的なのが両親を失くして口をきかなくなった少女ルーシーの存在だ。彼女の心の問題に取り組むケイティは「怖いのはわかっている、でもここは安全な場所」と話しかける。それは両親を失くした幼い日の自分がかけて欲しかった言葉そのものではなかったか。映画はルーシーを通してケイティの心を透かして見ようとする。7歳のケイティ、過去の彼女の思いの喚起装置とするようにルーシーの物語を編みあわせる。ルーシーとのセッションの直後に人を愛せない、だから自己破壊的な性の衝動に身を任せてしまうとセラピストに語るケイティの今が付き合わされる。 愛する者を突然奪われる恐怖を知る者同士として、やがて娘たちは心を通わせていく。ジェイクの遺した小説の表紙にあった絵、父娘がつないだ手をケイティとルーシーの手が再現する。一緒にいたいと少女が言葉を発する。父がそうしてくれたように自転車で風を切る心地よさをケイティは少女に伝える。大切な誰かを失う怖さに身をすくませる少女は、色情狂の仮面の下のケイティとの物語を繊細に語ることで映画はケイティの物語をいっそう掘り下げていく。 ルーシーがケイティという理解者を得たようにケイティは父を敬愛する作家志望の青年に父に代わる安全な場所を見出していく。「愛する者が全て去るわけではない」と彼はいう。頭では理解できても心で納得できないケイティの不安を照射するようにルーシーとの別れの日がやってくる。同様に恋人も去るのかと恐怖がケイティをうちのめす。父の死の記憶が甦る・・・・・それぞれの物語が互いに照り返り心の旅が完遂されていく。「パパに会いたい」・・・・・心の叫びをケイティが言葉にし得る時に向けて映画はマルチ・プロットの作法を研ぐ。 もちろん、ケイティの場合のようにいきなりではないとしても人はみな愛する者との別れをかいくぐる。命の儚さを思い、覆せない喪失の重さを身に染ませ、なだめ切れない怒りをそれでもいつしかなだめる術を手に入れる。そう思ってみると映画の半ば、周到に埋め込まれた台詞が改めて迫ってくる。娘の物語を書くというジェイクにケイティがいう。「私たちの物語にして」。映画が幕を下ろす時、観客はおしゃまな少女の望み通りそこで父たち、娘たち、そうして私たち誰もの物語にしっくりと包み込まれているだろう。 |
○(4)<COLUM>
<別れの受難者が、ゆっくりと幸せになる方法を学ぶまで>(植木理恵・・心理学者。東京大学大学院教育心理科終了後、文部科学省特別研究員として心理学の実証的研究を行う。日本教育心理学界において、「城戸奨励賞」「優秀論文賞」を史上最年少で受賞。現在は慶應義塾大学理工学部で講師を務めるとともに、心療内科にて心理カウンセラーとして勤務。「ホンマでっか?TV」の評論家としても活躍中。近著に「ゼロからわかる!ビジュアル図解 心理学」など多数) この映画のヒロイン、ケイティは行きずりの男性とセックスをすることをやめられない。それも泣きながら、です。これはおそらく幼い頃に突然の別れを経験したことに起因していると思われます。それもケイティは父と母と、突然の喪失を二度も幼いうちに経験してしまった。 私たち大人は、幸せはかなりゆっくりとしかやって来ないことを経験上知っています。そして不幸は一瞬でやって来ることも残念ながら知っている。多くの人は成長していく過程でだんだんとそれを悟っていくわけですが、子供の時にケイティのような離別体験をしてしまうと、一気に大人になることを強いられてしまうんです。私たちが40年、50年かけてもまだ諦められないようなことを、子供のうちに諦めることを強いられてしまう。そうなると、ゆっくり恋愛をして1日ずつ幸せになる方法を知らないまま、大人になってしまうことがあるんです。 ケイティのようなセックス依存症に限らず、アルコールや薬物依存の方に共通しているのが、ゆっくり幸せになろうという感覚が欠如していることなんです。セックスもアルコールも薬物も、それをするとガラッと気分が変調する、という共通点がある。ケイティも、何かがちょっと埋まる気がする、と言いますが、急に気分を変えられるものに頼ってしまうというのが、依存なんですね。大急ぎで今の局面を変える生き方を選んでしまう。特にセックス依存症で問題なのは、人を巻き込んでしまうということにありますね。 幸せはゆっくりとしか来ないが、不幸は一瞬で来る。これは悲しいけれど人生の大原則です。でも、それを7歳やそこらで突きつけられてしまったら、ゆっくり幸せになることを諦めてしまい、急に気分を変調することに走ってしまうのは、少ないことではないんですね。子供の頃、突然不幸な目に遭った人が、何かの依存症になってしまうということは、単なるわがままではないんです。好きでお酒を飲んでいる人やセックスをする人は、健康なんです。でも泣きながらセックスをするとか、やけくそのように酒場に行くというのは、依存症の人の孤独、悲しみを表わしていて、この監督や脚本家は研究しているなと思いましたね。女優さんもとてもリアルでしたね。 離別や極端な経験をした人がみんなそうなるというわけでは、もちろんありません。ただ感情を一気に変えられる、という意味で自傷行為に走る人もいるし、中には犯罪のように外に向かってしまう人もいる。一方で、ケイティのように自分のことを知りたくて心理学を学ぶ人も少なくないんです。自分の心を解明したい、深淵を覗きたくなってしまうんでしょうね。彼女自身もセラピーを受けていましたが、あれは“心理学者あるある”なんですよ。 ケイティは自分と同じような経験をした少女のカウンセリングをしますが、彼女が救われるのはあの方法しかないんです。少女はケイティと突然の別れを強いられて抵抗する。そしてケイティは少女にひっぱたかれたことによって、「私もそうだった」と思い出す。自分の人生とダブる経験をした患者さんから教えられることも多いんですよ。 ケイティは、心理学で言うところの“別れの受難者”なんですね。別れがただただ怖くて、裏切られるのが怖くて、なるべくそれがないように逃げてしまっていた。「CLOSE TO YOU」という、“あなたのそばにいたい”という歌が流れるのが象徴的でした。別れたくない、そばにいたい、ということを主張してもいいんだよ、ということをケイティは頬を叩かれたことで思い出した。父親がそれを愛情で示してくれていたことを、思い出したわけです。そして、私はあなたのそばにいたい、と別れた恋人のところに駆けつけるわけですが、あのまま別れの受難者に徹してしまうと、そうは出来ない。実際はそういう人も多いんですが。 ケイティは父親にあそこまで愛されて、小説まで遺してもらった。あの少女よりも親に愛された記憶があると思われますが、幸せだった分、失ったショックが大きい。ここまで運命は奪ってしまうのか、という辛さがあるんですね。御幣はあるけれど、ひどい親だった方が親の死をさっぱり乗り越えられる場合が多い。(!!!)愛された記憶があるから大丈夫、というものでもないんです。特にケイティの場合は二種類の別れを経験しているから、余計に辛い。母を突然失い、その後、父は病気になり徐々に別れを感じさせていた。短期別れと、長期別れを経験したわけです。そうなると、幸せになりそうになっても、いい人間関係を築いていても、何かこれは悪いことの予兆ではないか、という思考パターンに陥ってしまいがちなんです。そして幸福の兆しを大急ぎで破壊してしまう。だから彼がいても「こんなに幸福ではいけない」とほかの男に走ったりする。恋人のキャメロンの実家に行こうとしているのに、すごい勢いで走って逃げるのが良い例で、こんな幸せがあることに耐えられないんです。この脚本は、なかなか想像だけでは書けないと思います。かなり取材したはずですね。 計画というのは世の中の縮図だな、と思います。家族の問題、経済の問題、というのが描かれていたり、父とケイティを引き離そうとする伯母も親子関係に悩んでいたことが明かされますね。人というのはみんないっぱいいっぱいで、溺れそうになりながら生きている。そして「私はここにいてもいいんですか?」と叫んでいるんです。それに対して、誰かが答えてほしい。たとえ怒られてもいいから、自分の存在価値を知りたいものなんですね。伯母が弁護士を使ったりするのも、ケイティがセックスに溺れるのも、実は自分の価値を知りたいからなんです。それに答えてもらうには、社会とつながることしかないんですね。あの少女の「あなたじゃなきゃだめ」という言葉が象徴的です。お酒やセックスではその肯定感は得られないんです。 この映画の原題は『Fathers & Daughters』。父親と娘の関係に焦点を当てているというのはアメリカらしいところだと思います。私は映画にそこまで詳しくありませんが、日本では母を語る場合が多く、欧米では父について語られることが多いように思えますね。特に父と娘という関係は特別で、娘にとって最初の恋人は父親なんですね。誤解されがちですが、息子にとっての母親はあくまで自分の養育者であって、異性ではないんです。でも娘にとっての父親は異性であり、その後のパートナーのモデルになりやすい。だからケイティがキャメロンに惹かれるのもわかります。この映画は、恋人未満というか、あいまいな関係の人と見るといいかもしれませんね。恋愛映画ではありませんが、人は人と、社会とつながることでしか幸せになれない、ということを描いていますから。(談) <Interview & Text by 石津文子> |
<文責:藤森弘司>
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