2014年9月30日 第146回「今月の映画」
柘榴坂の仇討
原作:浅田次郎  監督:若松節朗  主演:中井貴一  阿部寛  広末涼子  中村吉右衛門

●(1)「柘榴(ざくろ)坂の仇討」

「仇討ヲ禁ず」が公布された日に追う相手がみつかり、斬り合う。剣の戦いは決着がついたが、仇討禁止ということで、そこで中止。

その後、主人公の村井金吾は、生活を支えるために働いている妻・セツの居酒屋に迎えに行きます。閉店時間になり、暖簾を仕舞いに外に出たセツは、2、30メートル先の木の脇に佇んでいる夫を見つけます。

夫・金吾は「一緒に帰ろう」と声を掛けます。そのとき、13年間夫を支えたセツの、感情を抑えながらも喜ぶ笑顔がとても印象的でした。広末涼子のその抑えた笑顔・・・慎ましさとでも言いましょうか・・・は抜群に素晴らしかったです。この笑顔を見るだけでも、この映画の価値があると思いました。

さて、井伊直弼は不思議な人です。下記の(4)で次のように紹介されています。

<<<井伊直弼は、彦根藩井伊家11代当主・直中の14男として、文化12(1815)年10月29日に彦根城内の槻御殿(けやきごてん)で生まれた。母は江戸町方の娘から直中の側室となった富(とみ)である。32歳のとき、遅い江戸城初登城を経験する。嘉永3(1850)年、藩主直亮が死去、直弼は36歳で藩主となり、掃部頭を名乗る>>>

とあります。
現代でも、多分、あり得ないことでしょう。

ましてや、当時、喩えボンクラ(?)でも長男が就任する時代に、14男の直弼が藩主になるということはあり得ません。しかも、36歳であり、側室です。
この直弼について、歴史に関して私(藤森)が尊敬している井沢元彦氏が何年も前に詳しく書いています。その数奇な運命の面白さ(?)、不可思議さを、いつかご紹介したいと思います。

私の考えでは、その運命が、やはり下記の(4)にあるような人物を創り上げたのではないかと思っています。

<<<戊午の密約をめぐる水戸藩との確執の末、安政7(1860)年、直弼は桜田門外で暗殺され、46年の生涯を閉じた。その後、直弼の政敵が政権を掌握し、続く明治政権も安政の大獄で処罰された吉田松陰の弟子たちが高官を占める。その結果、直弼には天皇をないがしろにして不平等な条約を結んだ旧政権の象徴として、否定的な評価が広がっていった。

しかし、戦後公開された資料などからは、日本と幕府を憂える決断力のある政治家像が浮かび上がってくる。当時の政局や対立関係を理解し、彼の真意と業績を正確に把握して初めて、本当の井伊直弼像が見えてくるといえる>>>

○(2)<物語>

 <「仇討ヲ禁ズ」・・・その日、運命が動いた>

 彦根藩の下級武士、志村金吾(中井貴一)は剣の腕を見込まれ、主君、井伊掃部頭直弼(中村吉右衛門)の警護を務める近習役に取り立てられた。身分の低い者にも心のこもった言葉をかける直弼の人間性に魅了された金吾は、命をかけて主君を守ろうと心に決めた。

安政7(1860)年3月3日。季節外れの雪の中、江戸城桜田門へ向かう井伊家の行列を、突然18名の暗殺者が襲った。そのとき金吾は直弼の乗る駕籠の守りを固めていた。しかし敵の一人を追って持ち場を離れた隙に、直弼は命を奪われてしまう。

金吾の犯した罪は重く切腹さえ許されない。ひと月後、藩は金吾に命令を下した。
「逃亡した水戸浪士どもの首の一つも挙げて、直弼様の御墓前にお供えせよ」
しかし、激しく自分を責める金吾は自ら命を絶とうとする。その金吾を支え、励まし続けたのは妻のセツ(広末涼子)だった。
「御下命を果たし、本懐を遂げてこそ武士ではありませぬか」
セツの言葉に金吾は覚悟を決め、主君の仇討を心に誓う。逃亡した暗殺者は5名。幕府による手配書を手に金吾は仇の行方を追った。

そして13年の歳月が流れた・・・。
時代は明治へ移り、江戸は東京と名を変えた。武士の世は終わり、仇討を命じた彦根藩もすでにない。
だが金吾はひたすら仇を探し続けていた。逃亡者5名のうち4名がすでに他界し、残りはただ一人となっていた。

時代がどう変わろうと武士としての矜持を貫こうとする金吾に、かつての親友が救いの手を差し伸べる。親友は、幕臣時代の上司で、司法省警部となっている秋元和衛を訪ね、金吾への協力を依頼した。秋元もまた、新政府に仕えながらやはり武士の心を捨てきれずにいた。

一方、暗殺者の中でただ一人生き残った男、佐橋十兵衛は、名前を直吉と変え、俥夫として息を潜めるように生活していた。同じ長屋に住む寡婦のマサと幼い娘チヨが心を寄せるが、十平衛は心を固く閉ざしたままだった。

明治6(1873)年2月7日。東京は13年前と同じように雪に覆われた。その日、秋元から呼び出された金吾はついに佐橋十兵衛の居場所を知る。しかし皮肉にも同じ日、明治政府は「仇討禁止令」を公布した。今後仇討を行なった者は政府が罰するというのだ。秋元は金吾の身を案じ、仇討を思いとどまるよう説得する。しかし金吾の心が揺れ動くことはなかった。
がいかなる法を定めようとも、私の思いが消えるわけではございませぬ」

雪降る柘榴坂で、金吾と十平衛は13年のときを経て再びめぐり会う。十平衛もまた、この日が来ることを覚悟していた。あの日、直弼の行列を襲った十兵衛は、金吾を枝道に誘い出し斬り合った。だが、銃声が轟き金吾は主君のもとに駆け戻っていった。
それから13年、生きていればあの男と再び剣を交え決着をつける日が来るかもしれない・・・・・十兵衛はひたすらそう思い込んで生きて来たのだ。

激しく斬り合う金吾と十兵衛。降りしきる雪の中、二つの魂がぶつかり合う。13年の思いを込め、金吾が十兵衛の頭上に剣を振り上げたその瞬間、男たちの運命は予想外の終幕へと導かれていく・・・・・。

○(3)<「義」と「情」と>(半藤一利・作家・昭和史研究家)

元評定所御留役の秋元和衛が説いて聞かせるように言うシーンがある。
「仇討ちとはいえ、主君を守りきれなかった近習が、13年もの間、生き恥を晒さねばならなかったのだ。どれほど辛かったことか・・・・」
聞いていた妻の峯が「辛かったのは、その方一人ではありますまい」と答え、仇討ちの本懐を遂げたときは?と問いかけ、さらに奥方はどうするのかと畳みかける。秋元があとを追って死ぬだろうと応じたとき、峯がきっぱりという。
「あなたはその手助けをなさるおつもりですか・・・・・」と。

さらにはちょっと後にもう一シーン、峯が「ご迷惑をおかけいたしまする」と頭を下げる志村金吾に、ビシッという強い言葉がある。
「そのお言葉、奥方に申されませ。難儀はあなたさまではなく、ましてや拙宅の主人でもなく、奥方でございましょう」

このとき、正直にいおう、わたくしは腹のそこから突きあげてくる涙を抑えることもならず、スクリーンがにじんであとを追うこともままならなくなった。いまになって思えば、そこには人間の情というものからの抗議がある、ということなのであろう。情というのは、人間が本来にもっている根本的なもので、それは理論や形式を越えて、自然の声として湧きでてくる。そしてそれは人間の信念や意志を揺るがして、人間を動かす非常に強い力をもっている。峯はそのことをごく当たり前に吐露しただけなのであるが、その自然の情というものの強さがわたくしをはげしく揺すぶったのである。

さらにそれは、もう一度わたくしを泣かせた最後のシーンへとつながっていく。金吾と妻セツとの静かな会話である。
「実は今日、太政官の布告が出ての。金輪際、仇討は禁止となった・・・・・」
「まあ」
「・・・・・長い間、苦労をかけたな」

聞くセツの目からこらえ切れずに涙が溢れてくる。
「今朝、あなたがお出かけになってから、もう二度とお会いすることはないと・・・・・ずっとそう思っておりました」

なんとけなげな言葉であることよ。夫がいかなる形であれこの世を去ることとなれば、自分も後を追うつもりを秘しての、しかし、「ずっとその覚悟でおりました」とセツはさりげなく伝えている。それはもうセツにとっても、長い長い13年間であったであろうが、セツはそのつらい暦日をごく自然に、利害損得といった世俗の感情を超越して無私になり、夫に尽くしてきたのである。わたくしはその情をほんとうに美しいと思う。

それにつけても、大切な人に犠牲を強いた志村金吾という男の生き方とは何であったのか。それはこの映画の本筋のテーマにつながる問いということになろう。すなわち金吾の親友の口をかりていえば、「志村が貫こうとしている武士の矜持」とされているその矜持である。さらにいいかえれば、わたくしたちの周りから失われつつある“義”ということになろうか。

いまの時代、そんな封建時代の徳目ともいうべき義を持ち出しても、素直に納得されるはずはない。文明開化がしきりに謳歌された維新後の明治の世にあって、愚かな、あるいは無意味とされていた金吾の生き方を、われわれが理解できる場所にいくらもってこようとしても、それは所詮は無理というもの。金吾の生き方は、効率や有益か否かでものを考えるいまの世の中の意表をつくところで成立しているからである。地位や名誉や金銭に関係のない、それこそ一文にもならないことに平然として二つとない生命を賭ける。そんな生き方はいまにあっては冷笑を浴びるだけ。しかし、映画はそんなひたむきな人間を必死になって描いている。

では、義とは何か。義とは、自分にとってはただうけとめるもの、他人から何かされたとき、自分だけがそのことに強い道義的義務を感じることである。
金吾の場合は、主君の井伊直弼から「そちが来て、初めて鶯が鳴いた」と謝され、直弼の和歌の書かれた短冊をうけとり、「余を守るか」「はっ。命に代えましても」と言葉をかわした。ただそれだけである。しかし、その一言で金吾は命を捨てる心になった。それが義というものなのである。

いまの世は、いうところの人間のモラル、誠実・信義・廉恥・質素など、すべてが捨て去られている。あるいは時代的な変貌をとげている。同じように、恩とか好意を与えられたことに全力最善をもって応えるという義も、形式化し滑稽視されている。されど、そういう武骨な頑くなな生き方がいまの日本にあってはいちばん大事なのかもしれない。この映画はそのことを静かに訴えている。

現代的功利主義に背を向けて好意に応えるに全力をもってする義、そしてセツが示したような賢明にして非利己的な情。この二つはそれぞれがいつまでもあってほしい、とわたくしはこの映画を観終わってしみじみと思う。はたしてわたくしは古風にすぎるのか。いや、古風であってもかまわない。義の堅固さと情のやわらかさに、わたくしは感動してボロボロ涙を流すばかりなのである。

<1930年生まれ、東京都出身。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役を経て作家。著書に「日本のいちばん長い日」(文藝春秋)、「昭和史1926-1945」「昭和史 戦後篇1945-1989」(以上平凡社)、「幕末史」(新潮社)など多数>

○(4)<『柘榴坂の仇討』が描く井伊直弼の姿>

本作では、金吾が愛してやまない、おだやかな人格者として描かれる井伊直弼。
悪人のイメージが持たれがちだが、近年、新たな人物像と功績が見直されつつある。

井伊掃部頭直弼・いいかもんのかみなおすけ>
井伊直弼は、彦根藩井伊家11代当主・直中の14男として、文化12(1815)年10月29日に彦根城内の槻御殿(けやきごてん)で生まれた。母は江戸町方の娘から直中の側室となった富(とみ)である。32歳のとき、遅い江戸城初登城を経験する。嘉永3(1850)年、藩主直亮が死去、直弼は36歳で藩主となり、掃部頭を名乗る。嘉永6(1853)年、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、開国を要求する。対応を検討する幕府に対し、直弼は鎖国を重んじつつも、「西洋の軍事力を認識し、学んで

富国強兵をはかるべき」という意見書を提出。同時期に幕府へ出された意見書の多くが観念的な鎖国論であったのに対し、日本の将来のためにはまず開国すべき、という考えは現実的かつ先見的なものだった。安政5(1858)年、13代将軍・家定から大老に任命される。大老は非常時に置かれる将軍補佐の最高職であり、直弼の就任は、将軍継嗣問題とアメリカが求める通商条約問題への対処という二つの課題を解決するためであった。就任直後、将軍跡継ぎを家茂に内定した直弼は、老中たちが

驚くほどの主導権を発揮していく。しかし、条約締結に関しては、天皇の勅許が出るまでは調印を引き延ばす方針を決定したものの、調印推進派により、直弼の意に反して勅許を得ないまま調印がなされてしまう。
これは外から見れば、直弼率いる政権が天皇の意向を無視したと映った。対立する一橋派にとって恰好の攻撃材料となり、直弼はその矢面に立ってしまう。
1ヵ月後、一橋派の朝廷工作により、天皇は調印を非難する勅諚(ちょくじょう)を幕府と水戸藩に下す(戊午・ぼご・の密約)。
その内容に加え、一大名である水戸藩に勅命が下ったことは、幕府中心の秩序に反する大問題であり、幕府は関係者を大弾圧した。これを

安政の大獄という。捜査の中で倒幕計画が明らかになるなど、幕政を主導する直弼にとって、これらは、体制を揺るがす大罪として見過ごせないものだった。戊午の密約をめぐる水戸藩との確執の末、安政7(1860)年、直弼は桜田門外で暗殺され、46年の生涯を閉じた。その後、直弼の政敵が政権を掌握し、続く明治政権も安政の大獄で処罰された吉田松陰の弟子たちが高官を占める。その結果、直弼には天皇をないがしろにして不平等な条約を結んだ旧政権の象徴として、否定的な評価が広がっていった。

しかし、戦後公開された資料などからは、日本と幕府を憂える

決断力のある政治家像が浮かび上がってくる。当時の政局や対立関係を理解し、彼の真意と業績を正確に把握して初めて、本当の井伊直弼像が見えてくるといえる。

<文責:藤森弘司>

映画TOPへ