2014年3月31日 第140回「今月の映画」
それでも夜は明ける
●監督:スティーヴ・マックィーン(1969年ロンドン生まれの英国のアーティスト。99年ターナー賞受賞。2002年にOBE・大英帝国4等勲章、11年にCBE・同3等勲章叙勲。映画作家としては、08年に初長編『ハンガー』で数々の映画賞を受賞。続く衝撃作『SHAMEーシェイム』では現代社会に潜む依存と闇を大胆に切り取り、ヴェネツィア国際映画祭FIPRESCI・国際映画批評家連盟賞を獲得するとともに、いろいろな賞にノミネートされた)

主演:キウェテル・イジョフォー  マイケル・ファスベンダー  ベネディクト・カンバーバッチ

●(1)今回の映画「それでも夜は明ける」は、アメリカの南北戦争以前、自由黒人である一人の黒人が拉致されて奴隷にされた実際の話です。こういう映画を観ると、キリスト教とは一体何なんだろうと思ってしまいます。

深層心理を専門にしている私(藤森)は、社会で起きる多くの事件は、大体、理解できますが、理解できないものもあります。その一つが「奴隷問題」です。私は善人だとは全く思っていません。
しかし、奴隷を・・・・・嫌な言葉ですが、所有し、しかも、虐待する心理は十分に理解できません。でも、世の中には実際に存在します。その人間性をどのように理解したら良いのだろうか?その立場になれば、誰でもなりかねない問題なのだろうか?

主人公が解放された時、良かったなあとはとても思えませんでした。

第106回の「トピックス」「袴田事件と深層心理」でも述べますが、あまりにも悲惨過ぎて、とても喜べないと同時に、こういう事件についてもしっかり向きあい、自分という人間性を見つめることも大事だと改めて思いました。

○(2)(カタログより)<SYNOPSIS 物語>

 家族と幸せに暮らしていた男が、
突然、財産も名前も奪われ、奴隷にされる。
妻と子供たちに再び会うために、
彼が生き抜いた12年とは?

 1841年、ニューヨーク州サラトガ。バイオリニストのソロモン・ノーサップは、愛する家族と幸せに暮らしていた。妻アンは腕のよい料理人で、娘マーガレットと息子アロンゾも元気に育っている。ソロモンは生まれたときから自由証明書で認められた自由黒人で、白人の友人も多くいた。

妻子が留守中のある日、ソロモンは知人を介して知り合った二人組みの興行師に、ワシントンでのショーで演奏してほしいと依頼される。ワシントンへ行き、無事に仕事を終えたソロモンは、彼らと祝杯を重ねるうちに酔いつぶれてしまう。

目覚めると、身ぐるみ剥がれ、どこかの地下室で鎖につながれていた。自由証明書を奪われ、名前すら証明できないソロモンは、南部のジョージア州から逃げてきた奴隷ということにされ、監視役の男たちに逆らうと容赦なく鞭打たれた。興行師たちに騙されたと気づくまでには時間がかかった。

数人の黒人男女とともにニューオーリンズ行きの船に乗せられたソロモンは、屈強な男性二人とともに反乱を目論むが、船員に狙われた女性を助けようとした一人が虫けらのように刺殺されるのを見て、抵抗は無駄だと悟る。

港に着くと、一行は奴隷商人の手に引き渡され、買い手の前に並ばされた。家畜同然の扱いだった。プラットという名前を付けられたソロモンは、わが子二人から引き離されたイライザとともに、牧師で大農園主のフォードに買われ、彼の製材所で働くことになった。

有能なソロモンはすぐにフォードに気に入られたが、大工のティビッツからは何かと難癖をつけられる。ついにソロモンの中で何かが弾け、殴りかかるティビッツに反撃してしまう。仲間を引き連れて戻ってきたティビッツは、ソロモンの首に縄をかけて木に吊るす。農園の監督官が彼らを銃で追い払うが、フォードが戻るまで、ソロモンはかろうじて爪先が地面に着く状態で何時間も放置される。

フォードは、執念深いティビッツにソロモンを殺されないうちに、借金返済を兼ねてエップスに彼を売ることにする。フォードは寛容な主人だったが、所詮、奴隷は財産の一部にすぎないのだ。

こうしてソロモンは、広大な綿花畑を所有するエップスの下で働き始めた。エップスは暴力で奴隷たちを支配する一方で、若い女性の奴隷パッツィーをサディスティックに弄んでいた。おかげでパッツィーは、嫉妬したエップス夫人からも目の敵にされ、まさに地獄の日々。耐えかねたパッツィーはソロモンに「私の人生を終わらせて」と頼むが、彼にはできなかった。

焼け付く太陽の下でひたすら綿花を摘み、量が少ないと鞭打たれ、逃亡奴隷へのリンチを目撃し、信用した白人に裏切られ、仲間であるパッツィーの鞭打ちを命じられる・・・・・。出口の見えない絶望の淵でソロモンを支えたのは、もう一度家族に会いたいという願いだけだった。そしてソロモンは、カナダ出身の大工で奴隷解放論者のバス(ブラッド・ピット)に、最後の望みを託す。家族も、財産も、名前までも奪われたソロモンが、唯一失わなかったものとは・・・・・?

○(3)<プロダクション・ノート>

<今すぐ伝えたい物語>

本作は、南北戦争勃発の8年前に出版されベストセラーとなったアフリカ系アメリカ人の体験記「12 Years a Slave(12年間、奴隷として)」の映画化だ。原作者ソロモン・ノーサップ(1807-没年不明)は、自由民の女性スザンナと、ニューヨーク州フォート・エドワードに土地を所有して選挙権を得た元奴隷の農民ミンタスの間に生まれ、子供時代からバイオリンに情熱を傾けていた。奴隷として過ごした12年間(正確には11年8ヶ月と26日)には、慣れ親しんだことや当たり前のことは何もなかった。彼の生地はアディロンダック山地(ニューヨーク州北部)で、木を切ったりシャンプレイン湖周辺で筏に乗ったりしながら育ったのだから。

南北アメリカは、1501~1866年の奴隷貿易の歴史の中で計約1100万人のアフリカ人を迎え入れた。アフリカ大陸から船で運ばれてきたこれらのアフリカ人たちのうち、アメリカ合衆国が迎え入れたのは約40万人だが、南北戦争勃発までに彼らの子孫は約400万人に増加していた。1808年に奴隷輸入が連邦議会で禁止された後は特に、奴隷売買は儲かる商売となった。

スティーヴ・マックィーン監督には、原作を読む前から本作のアイデアがあった。アメリカの奴隷制をこれまでにない方法で、つまり自由の喜びと不当に奴隷にされることの両方を経験した男の視点から描きたいと思っていたのだ。そのことを妻に話すと、彼女がソロモン・ノーサップの原作を伝えなくてはと思った。「これはアメリカ史において、ヨーロッパ史における『アンネの日記』と同じくらい重要な物語だと思う。驚くべき非人間性を経験した男の優れた証言だ」

そして最終的にマックィーンを触発したのはこの原作だった。「原作の核にあるのは、家族の物語であり、愛する彼らのもとへ帰るという希望だ」と彼は言う。「これは普遍的な物語だが、非常に今日的でもあると思う。周囲を見回せば今でも毎日、奴隷制の影響が見える。この旅がなぜそれほど重要で意義深いかといえば、僕たちの誰もがソロモン・ノーサップだからだ。物語が進むにつれて観客はソロモンに感情移入し、彼のような勇気と気高さが自分にもあるかどうかを考えるんだ」

この物語の運命は、早い段階でブラッド・ピットと彼の製作会社プランBが参加したことによって救われた。「ブラッド・ピットがいなかったら、この映画は作れなかったと思う」とマックィーンは言う。「彼はプロデューサーとして本当に貢献してくれた。映画作家を全力で直接支えてくれるんだよ。俳優としても、小さな役で数分登場しただけで大きな成果を上げることができる。とても感謝しているよ」

<俳優たちそれぞれの挑戦>

ソロモン役にキウェテル・イジョフォーの名前が挙がるや、彼にはすべてが備わっているとスティーヴ・マックィーンは確信した。「彼には映画全体を支えられる高潔さがある。人として、俳優としての誠実さと礼儀正しさ。それをソロモンにもたらしてくれたんだ」

イジョフォーは、この男の物語を今の時代に伝えることの重要性だけが、全シーンを通じて自分を極限へと導いてくれる北極星となったと言う。「この物語はあまりに衝撃的で、あまりにリアルだ。時空を超えて響くもの、僕たち皆の心の奥に触れるものがあると思う。それは、僕たち自身が自分たちの自由と、家族や周囲とのつながりを信じる気持ちだ。それがソロモンの物語の真の力なんだ」

忘れがたいシークエンスがる。ソロモンがロープで吊るされ、足が地面にかすかに触れる状態で放置される。彼が何時間も窒息しないようにもがいているそばで、子供たちが太陽の下で戯れている。これはイジョフォーにとって本作最大の試練の一つとなった。
マックィーンは説明する。「このシーンは不可欠だ。実際に起きたことから目を背けたくなかった。観客に衝撃を与えるのが狙いではない。責任をもって物語を伝えたかったんだ」

マックィーンとの3度目の仕事となるマイケル・ファスベンダーは、悩める酔っ払いの奴隷所有者エドウィン・エップスを演じる。実際にエップスの言語道断な振る舞いは有名で、今でも地元の人々は「エップスのマネはやめろ」などと言う。原作には「とっつきにくくて粗野」で「教育の利点を活かしたことが一度もない」と書かれている。

ファスベンダーはこの男を完全に理解し、ひるまずに演じた。「彼は完全にエップスになりきっている」とマックィーンは言う。「彼は本当に名優だ」
ファスベンダーは「僕にとってはいつもと同じプロセスだ」と言う。「人物のある側面が物語のどの部分で出てくるかを探りながら演じていくんだ。彼の望みは何か?暴力には原因があるのか?エップスの中では絶えず綱引きが行なわれているんだ」

エップスの奴隷兼愛人パッツィーを演じるのはルピタ・ニョンゴ。マックィーンは大規模なオーディションの過程で彼女を見出した。「1000人以上の女性に会ったが、ルピタはまさに輝いていた」と彼は振り返る。「彼女と出会ったとき、『パッツィーだ』と思った。彼女は傷つきやすさだけでなく途方もない強さを役にもたらした。彼女の前では自分が小さく思えたよ」

ベネディクト・カンバーバッチはソロモンの最初の「主人」フォードを演じる。エップスとは対照的に温厚な人物だが、最初の登場シーンでイライザを買い、非常にも子供から引き離す。「いくら(牧師として)説教をしたり親切に振る舞ったりしても、フォードは基本的に奴隷制支持者であることがあの瞬間にわかるんだ」とカンバーバッチは言う。
「フォードの中では、自分の道徳観念と環境に適応する必要性との葛藤がある」とマックィーンは言う。「ベネディクトはその二重性、面倒見のよさと弱さの両方を表現している」

ポール・ダノが演じるのは、フォードの農園を監督する大工ティビッツ。原作に「無知で短気で意地悪・・・・・白人に評価されず、奴隷からも尊敬されない」と書かれている人物だ。
「初めて脚本を読んだとき、気が重くなった」とダノは認める。「この人物のどこかに共感できるところがないか、なぜあんなふうになったのかのかを探らなければならなかったよ」

そのため、マックィーンとダノはティビッツの生い立ちについて長時間話し合い、短気で暴力的な男になるまでの物語を作り上げた。「彼を一面的に捉えたくなかった」とマックィーンは言う。「ポールと僕は、ティビッツがおそらく過去に暴力を振るわれた。そして虐待したのは父親だと考えたんだ」

エップス夫人を演じるサラ・ポールソンは、夫人は夫の不貞に深く傷ついているが、それでも愛情が垣間見えることがあると考えた。「驚いたことにスティーブは、私がパッツィーを乱暴に扱うダンスシーンで、マイケルに言ったの。『妻に肉体的な愛情表現をしてほしい。言葉とは裏腹な優しい仕草をね』と。もちろんマイケルは指示を理解し、私の喉に手を当てて親指を口の周りに這わせた。その瞬間、彼にキスしたくなったわ」

<ルイジアナ州の本物の農園で撮影>

スティーヴ・マックィーンは本作で、めったに経験できないような世界を創り上げた。彼独自の妥協のない直観的なやり方でやり遂げたのだ。「手加減はしない。ソロモンが目撃したことをすべてできるだけリアリスティックに表現したかった」と彼は言う。そのリアリズムが観客をルイジアナ州の農園の風景、音、臭い、酷暑、虫の大群、悪臭を放つ湿地、そして奴隷居住区の長く暗い夜へと導く。

撮影監督ショーン・ボビットは、観客がソロモンと彼の経験にぴったり寄り添えるように撮影した。クローズインのカメラワークであろうとロングであろうと、連続ショットのおかげで観客はショッキングな状況においてもハエのように壁に留まっていられるのだ。

ソロモンへのリンチ同然のシーンやパッツィーへの鞭打ちシーンは、彼にとっても難題だったが、印象的な方法で撮影することができた。「本当にショッキングな出来事はできるだけカメラを近づけて撮ることが大事だが、ソロモンはそこから逃げられない。このシーンについてスティーヴと僕は、時間の経過の感覚や、彼の命が何時間もバランスを取りながらぶら下がっている感じをどう構築するかを話し合った。結局、たくさんのショットを撮り、個々のショットがそういう感覚を生み出していくようにしたんだ」

パッツィーが鞭打たれるシーンは、逆にロングのシングルテイクで撮影(カメラを回したのはボビット。元放送・戦争ジャーナリストの彼は常に自分でカメラを操作する)。観客に恐ろしい出来事に参加しているような臨場感を与える。ボビットは振り返る。「僕たちはここをノーカットで撮ることに決めた。観客に『一巻の終わりか』とか『これは映画だ』とか考える暇を与えないようにね」

<後略>

○(4)<デイヴィッド・フィスク「歴史家」インタビュー>

<事件の歴史的背景と、関係者たちのその後>

*誘拐され奴隷として売られた自由黒人はソロモン・ノーサップだけではありませんね。南北戦争以前にこの種の誘拐はどれくらい起きていたのでしょう?

植民地時代にも、黒人たちは奴隷であるなしにかかわらず拉致され、奴隷として売られました。卑劣な行為は、連邦政府が奴隷の輸入を禁じた1808年以降、大幅に増加しました。奴隷は外国から買えなくなったのはよいことですが、不幸な副作用ももたらしたのです。奴隷労働者(南部の農園主たちは大量に必要としていました)の供給が減ると、奴隷価格が高騰し、黒人を誘拐し奴隷市場に運ぶ犯罪者たちは大きな利益を手にするようになりました。奴隷商人たちは南部へ送る奴隷が手に入ればいいので、その黒人がどこの出身かは問題ではなかったのです。
 *救出された後、ソロモン・ノーサップはどんなことをしましたか?

解放されて数週間後に家族と再会しました。1853年2月初めには、フレデリック・ダグラスら著名な奴隷制廃止論者たちとの会議に出席しました。わずか1ヶ月前はまだ奴隷だったのにですよ。
誘拐され、奴隷にされ、救出された身の上は世間の関心を集めたので、彼は弁護士で作家のデイヴィッド・ウィルソンの協力を得て一冊の本

「12 Years a Slave (12年間、奴隷として)」を書きました。この本は大変な人気を集め、ノーサップは講演と本の販売のために各地を回りました。また、この本を原作とするいくつかの劇の上演にも関わることになりました。自由を求めてカナダを目指す逃亡奴隷たちを助けるため、ヴァーモント州の牧師に協力して、「地下鉄道」という結社に参加した証拠も残っています。
ノーサップの生存に関する最後の証言はその牧師の息子によるもので、彼はノーサップが

1863年の奴隷解放宣言の後に一度、父を訪ねてきたと言っています。その後のノーサップに関する新聞記事や書類は見つかっていません。死亡時の状況も墓も不明です。 

*ノーサップがルイジアナ州で奴隷になっていた間、家族はどうしていたのでしょう?

ノーサップが本に書いているように、妻アンは売れっ子の料理人で、ニューヨーク州のサラトガやグレンズフォールズ界隈のさまざまな所で働いた経験を持っていました。夫が失踪して彼の収入もなくなった分、収入を増やす必要があったのでしょう。1841年秋に家族とニューヨーク市内に引越し、アーロン・バー元副大統領の元夫人である裕福なマダム・イライザ・ジュメルのもとで働きました。
マダム・ジュメルの専属料理人となり、ワシントンハイツにある屋敷(現在モリス=ジュメル邸として一般公開されています)に住み込んでいたのです。子供たちにも役割があり、娘エリザベスは屋敷のことを手伝い、マーガレットはジュメル家の親戚の少女の遊び相手、息子アロンゾは下男として雑用をこなしていました。

ジュメル邸に1~2年住み込んだ後、母子はサラトガに戻りました。数年後、サラトガの少し北のグレンズフォールズに移り、アンはグレンズフォールズ・ホテルの厨房を切り回します。ノーサップが救出されて家族のもとに戻った1853年には、一家(この頃にはマーガレットの夫フィリップ・スタントンと子供たちも加わっていました)はグレンズフォールズに住んでいたのです。

 

*ノーサップの奴隷時代の主人たちは、その後どうなりましたか?

ウィリアム・プリンス・フォードは財政難からノーサップを売らざるを得なくなりましたが、買い手のジョン・M・ティボート(ノーサップの本や映画ではティビッツ)は代金を全額は払えなかったので、フォードはある意味で何割かの所有権をまだ持っていました。ティボートがノーサップを殺すのをフォードが阻止できたのは、このおかげです。フォードはバプテスト派の高名な牧師で、複数の教区を抱えていましたが、その一つスプリングヒル・バプテスト教会は、彼があるメソジスト教徒に教会内で聖餐式を行なうのを許可したこと(彼の寛容さが窺える一例ですが)などを理由に、彼を異端として放逐しました。フォードはほかにも仕事を掛け持ちし、ノーサップが働いていた製材所の経営に加え、レンガやマットレスも製造していました。
エドウィン・エップスは、自分の下から離脱したノーサップを取り戻すために闘うつもりでしたが、この事件はあまりにも明快なので(ルイジアナ州マークスヴィルの裁判所に提出された書類は、ノーサップが生来の自由黒人であることを証明していました)、無駄な裁判費用をかけるよりノーサップを諦めたほうがいいという法律家の忠告に従いました。

エップスは、ノーサップがいた頃からすでに酒を断っていました。ノーサップの本にそう書いてあります。ノーサップが去った後も、エップスは自分の農園で働き続けました。1860年の連邦国勢調査によると、彼の資産は2万ドル以上にもなっていました。

ノーサップと大工サミュエル・バスがエップスのために建てた家は現存します。何度も取り壊しを免れ、何度も移築されました。現在はルイジアナ州立大学アレクサンドリア校の校内にあり、歴史的建造物に指定されています。

 

*ソロモン・ノーサップの誘拐実行犯は、法で裁かれましたか?

サラトガからノーサップを連れ去った男たちから彼を買ったワシントンDCの奴隷商人は、ジェイムズ・H・バーチという名で、ノーサップがルイジアナ州から家路につくのと同時にワシントンDCで告訴されました。ただ、ワシントンDCでは、当時の法律は黒人が法廷で証言することを禁じていたため、ノーサップの証言以外に犯罪の証拠がほとんどないバーチは有罪に至りませんでした。バーチが市内の有力者たちと親しかったことも、もちろん判決に影響しました。
ノーサップが自由を取り戻して1年余り経った1854年、

「12 Years a Slave」の読者が、ノーサップをワシントンDCに連れ去った二人の男(本名はアレクサンダー・メリルとジョゼフ・ラッセルですが、ノーサップには偽名を名乗っていました)を特定する手助けをしました。彼らは逮捕され、投獄され、起訴されて被告席に立ちました。度重なる延期と上訴の末、何の説明もなく裁判が打ち切られたのが1857年のことです。彼らが受けた罰は、裁判を待っていたときから保釈されるまでの7ヶ月間の獄中生活だけでした。

<文責:藤森弘司>

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