2014年2月28日 第139回「今月の言葉」
監督:小村敏明 声:吉永小百合 吉岡秀隆 松山ケンイチ 真木よう子 観世清河寿
●(1)(電子辞書・ブリタニカより)
「宗教(religion)とは」・・・・・ラテン語のrelegere(再読する)、またはreligare(つなぐ)に由来するとされている。日本語の「宗教」は古くから漢訳仏典にあったものを、明治にreligionの公式訳語として採用して以来広まったもの。 「マナ(mana)とは」・・・・・宗教的観念の一種で、宇宙に偏在する非人格的、超自然的な力をいう。本来はメラネシア語で「力」の意。19世紀前半イギリスの人類学者R.コドリントンによって初めて報告され、のちR.マレット、M.モース、E.デュルケムなどによって探求されて原始宗教の基本的概念となった。 |
●(2)The original meaning of religion is “to bind again”(宗教=religionとは、再びつなぎ合わせるという意味)
<禁断の果実とは>(ウィキペディアより)・・・・・それを手にすることができないこと、手にすべきではないこと、あるいは欲しいと思っても手にすることは禁じられていることを知ることにより、かえって魅力が増し、欲望の対象になることをいう。 メタファーとしての「禁断の果実」という語句は、旧約聖書の「創世記」をもとにしている。創世記では、禁断の果実とは、善悪の知識の木(知恵の樹)の果実を指す。アダムとイブはエデンの園にある果樹のうち、この樹の実だけは食べることを禁じられるが、イブはヘビにそそのかされてこの実を食べ、アダムにも分け与える(イブが先と書くのは旧約聖書においてであり、イスラム教のクルアーンにおいてはどちらが先に口にしたかは書かれていない)。 この果実を口にした結果、アダムとイブの無垢は失われ、裸を恥ずかしいと感じるようになり局部をイチジクの葉で隠すようになる。これを知った神は、アダムとイブを楽園から追放した。彼らは死すべき定めを負って、生きるには厳しすぎる環境の中で苦役をしなければならなくなる。 メタファーとして・・・「禁断の果実」という語は、不法・不道徳・有害な快楽や耽溺を表すメタファーとして使われる。特に、人間の性に関連する快楽に関連付けられる。 |
●(3)<日本語の「宗教」とは何か?>
日本の宗教史を見ていくと面白い事実に気づく。それは、新しい宗教が誕生してくる時期が3つの時点に集中している。 ①一つは、平安時代から鎌倉時代にかけて・・・浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗。 ②二つは、江戸時代から明治時代にかけて・・・天理教、金光教、黒住教などの神道系の宗教。 ③三つは、太平洋戦争から戦後にかけて・・・霊友会、立正佼成会、創価学会など。 では、いかにして3つの時点にこれらの宗教が興ってきたか。 つまり、大きな変革の時代であり、混乱の時代であった。そんな中で、当然のこととして、多くの人々は、どう生きたらよいのかさまざまに考え、迷ったと思う。 「宗」とは・・・・・⑥もと。物事のおおもと。本源。(角川漢和中辞典) |
●(4)<「老子」蜂屋邦夫、NHKテレビテキスト>
故に、道を失いて而(しか)る後に徳あり、 夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにして、 <そこで、無為自然の道が失われると、徳化をかかげる世の中になり、徳化の世の中が失われると仁愛をかかげる世の中にとなり、仁愛の世の中が失われると社会正義をかかげる世の中になり、社会正義の世の中が失われると、礼をかかげる世の中にとなった。 |
●(5)<「三日月会」とは?>
古人云(いわ)く、 昔の人は、「霧の中を歩いていくと、知らないうちに着物がしめってくる」と言っている。それと同じように、よき人に近づき、親しむなら、知らないうちに、私たちもよき人になるものである。<「名僧・悟りの言葉」由木義文著、PHP研究所> |
○(6)(パンフレットより)<STORY>
2500年前のインドの地。さまざまな王国による争いと、厳しい身分制度に人々があえぐ時代、ひとりの若者が生きることの意味を求めて旅を続けていた。彼の名は、シッダールタ。今は修行僧のシッダールタだが、もともとは王族の出身。ヒマラヤの麓にあるシャカ国の世継ぎで、産まれたその時に世界の王になると予言を受けた人物だった。 国王スッドダナと后マーヤーの息子として、地上のあらゆる自然や生き物たちに祝福されるかのように生を受けた、シッダールタ。そんな息子にマーヤーは「シッダールタ(=目的を遂げる者)」という名前を託して、産後7日で息を引き取ることとなる。そのシッダールタを「世界の王になる」と予言したのは、王子誕生の祝福にやってきた偉大な聖者アシタだ。やがてシッダールタは武芸に秀でた王子として成長しながら、人々の苦しみと死に心を痛め続けていた。 そんな中、家臣の目を盗んで街に出ていたシッダールタは、ミゲーラという盗賊の少女と出会い、お互いに心を通い合わせるようになる。 強大な勢力を誇るコーサラ国が、シャカ国を征服するべく領土に進攻。ついに戦いが始まってしまった。殺し合いに反発するシッダールタだったが、戦わなくても命は奪われ、戦わなければ国が滅びてしまう。望まない戦いに身を投じるシッダールタは、コーサラ軍の勇士で大将に上り詰めたチャプラと向かい合うことになる。決して剣を抜こうとしないシッダールタと、容赦なく敵を切り捨てていくチャプラ。さらなる武勲を打ち立てるべく、チャプラがシッダールタに迫り、ふたりが相対したその時、チャプラの動きが止まった。シャカ国が放った毒矢ももろともしないチャプラだったが、すべてを受け止めるようなシッダールタの汚れない目に射貫かれたのだ。 じつはチャプラもまた奴隷階級の出身で、その身分を隠してコーサラ軍のブダイ将軍に取り入り、養子となっていた。すべては奴隷の身分から抜け出すため。のし上がって、母親を救うことが彼の真の戦いだった。チャプラは母親の計らいと、幼友達で動物に乗り移る力を持つ少年タックの助けで一命を取り留めるが、自ら身分を明かして裁判に掛けられ、母親とともに処刑台へ送られることになる。 人はどうしたら救われるのか。人はどうしたら幸せになれるのか。そして本当に人にとって大事なものとは何なのか。ミゲーラを解放することを条件に、隣国のヤショーダラ姫と結婚して、ラーフラという息子を持ったシッダールタだったが、彼は何不自由ない恵まれた立場を捨て、真実を求めるために国を出る。そんな旅路の先に待っていたのは、さまざまな人たちとの巡り合いだった。 猟師の家で休息を取らせてもらうことになったシッダールタは、修行僧で左目に火傷を負ったデーパという男と出会う。苦行こそが真実にたどり着く道と考え、その意味を示すために自ら松明で目を焼いたデーパ。その一方で、シッダールタは自分の道を見つけられずにいる。デーパの導きで、シッダールタ、そして猟師から預けられた彼の息子のアッサジは、修行の場・苦行林を目指すことになる。 その道中に出会った、盗賊の男。アッサジが病に倒れた際、助けてくれたその男は、不思議な能力を失って、急激に大人になったタッタの姿だった。そして、タッタの傍らにいる目が見えない女。デーパにとっては、ふたりとの出会いは再会でもあった。彼が目を焼いたのは、その女に苦行の意味を否定されたがためなのだ。 そしてシッダールタにとっても、それは再会だった。その女こそ、かつて愛した人・ミゲーラ。捕らえられた際、ミゲーラは解放される代わりに両目を焼かれていたのだ。今のお互いの境遇に、動揺を隠せないふたり。ミゲーラは、シッダールタに立派な王になって欲しいという一心で、身を引き、目を焼かれた。また、幼い頃に母と姉をコーサラ国に殺されていたタッタも、シッダールタには国王に戻ってもらい、コーサラ国を倒して欲しいと願っていたのだ。 さらにシッダールタは、アッサジの予言にも心苦しめられることになる。一見、抜けているようでいて、未来を予知する不思議な力を持っているアッサジ。足を踏み入れたマガダ王国で、若き国王ビンビサーラが30年後に息子に殺されると予言してみせたアッサジは、自分の死ぬ日もまた予言していて、それを受け入れていた。それもそう遠くない先のこと。 ついに訪れたその日、アッサジは飢え死に寸前のオオカミの子どもたちに身体を投げ出して、彼らの命を繋ぐことと引き換えに天に召されていく。アッサジを救えず、その境地にもたどり着けないシッダールタは、苦行林で死と隣り合わせの過酷な苦行に身をゆだねる。そんな彼を、亡き母で天上人となったマーヤー天は、見守るが・・・・・。 一方、コーサラ国では、パセーナディ王の息子で、粗暴な行いで知られるルリ王子が、シャカ国を侵略するべく動き出していた。彼の母親はシャカ国の出身だが、じつはシャカ国はコーサラ国を欺き、奴隷を王族として差し出していたのだ。それがもとで、シャカ一族と王子のシッダールタに憎しみの炎を燃やすルリ王子。のみならず、王族として示しがつかないと、ルリ王子はじつの母親を奴隷部屋に閉じ込めていた。家臣の大男ヤタラは、ルリ王子の母親に自らの母親の面影を見て世話するが、ルリ王子は一切の慈悲も見せない。 未来を求めて出自を忘れようとするブッダと、過去にこだわって出自にとらわれるルリ王子。国を捨てて戦いを止めた男と、その国を滅ぼすために戦う男の相反する思いが交錯した時、彼らの関わる人々すべてが、そしてこの世界が、大きく動き出す! |
○(7)<ダライ・ラマ法王14世>
仏陀のメッセージはごくシンプルなものにまとめられます。 仏陀の教えは今なお、とても大きな意味を持っています。国家や地域や個人レベルで暴力の萌芽を多く抱えている今のような時代においては、仏教の非暴力の教えが大きな力となるからです。非暴力の究極の礎が慈悲の心です。仏教だけでなく、世界の大宗教はいずれも愛や慈悲の大切さについて、またそれを妨げる怒りや憎しみへの対処法を説いています。たとえば人から嫌な思いをさせられたり、罵倒されたりしても、腹を立てることなく、赦しや忍耐の心をおこす。貪欲の心が強すぎれば、その逆、つまり「足るを知る」心を育む。そのようにすることで、愛や慈悲の心が守られるのです。 私たち人間はみな、慈悲や思いやりの心の萌芽をもっています。私は子供の頃に母が注いでくれた優しさ、愛情に感謝しています。母が私の手を握って微笑んでくれると、安心し、至福感を味わったものです。全世界の70億の人々すべてにそのような体験があるはずです。その体験は貴重なものであり、一生涯、慈悲の心を起こすための拠り所としてみてください。そうすれば人生はより幸せになり、友だちも贈り物も増えていくことでしょう。 また仏教は心や感情についてきわめて明確に定義しており、どのように感情を育み、チェックすべきか詳しい説明があります。現代科学、とりわけ健康科学の分野では、どうすれば心のやすらぎを保てるかに関心が集まっており、その意味で、心の科学としての仏教に大きな注目が向けられています。感情の乱れは健康によくありません。健やかな心は健やかな体をつくりだす大切な要因となります。そして仏教には健やかな心をつくりだすための方法が数多く説かれており、その点で仏教は現代科学に大きな貢献ができるはずです。 仏陀は初転法輪(最初の教え)で、この世は本質的に苦そのものであると説かれました。苦の究極の源は無知です。だから苦を減らすには、私たちの中にある無知を取り除かなければなりません。無知にも、現実を正しく見られない、長期な展望で物事をとらえられない、深いレベルで物事をとらえられないなど、いろいろなレベルがあります。仏陀はさらに無知を取り除いてくれる「智慧」についても多くのことを説かれました。智慧といっても宗教的なものというより哲学的なもの、我々の視野や認識を広げてくれるものであり、さまざまなレベルのもがあります。 この映画は仏陀の生涯を描くにとどまらず、仏陀の哲学的な教えをも伝えていると思います。仏教の修行者として、また人類の一員として、人間性の価値を高めるこのような映画を製作してくださることに感謝いたします。また仏教徒として、ブッダの物語を世界に広めてくださることに謝意を表したいと思います。(2013年11月18日取材) |
<文責:藤森弘司>
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