2014年11月30日 第148回「今月の映画」
蜩ノ記
監督:小泉堯史  役所広司  岡田准一  堀北真希  原田美枝子

●(1)武士の根性の凄さを改めて感じました。

平和な時代に生きる今の私たちには到底真似のできない根性ですが、我々の大先輩がこのように素晴らしかったというサンプルがあることは、到底真似が出来ないまでも、目標があることがありがたいものです。

下記の解説にあるように、<日本の美しき礼節と絆><不条理な運命><気高い生き方><崇高な絆>などは、少しでも大切にしたいものです。

<10年後の夏に切腹><一日一日を大切>にとありますが、考えてみますと、古希を間近に控えた私(藤森)にしてみれば、主人公の戸田秋谷(役所広司)とほぼ全く同じ運命にある訳です。戸田秋谷は、完全に10年後と区切られていますが、私は10年後かもしれないが、5年後かもしれません。
ですから<一日一日を大切>に生きるのは同じはずであるにもかかわらず、なかなか、<一日一日を大切>にする心境になれないのは、根性の問題なのでしょうか?

私たちは、常に<一日一日を大切>にする心構えが必要なはずですが、実際に過酷な運命に遭遇しなければ、(本当は過酷な運命?に遭遇しているのと同じ)古希を間近に控えながらも<一日一日を大切>にできない己の未熟さを痛感します。

<一日一日を大切>にすることがいかに難しいことか・・・禅語に「日々是好日(にちにち・これ・こうにち)」という言葉がありますが、日本第一級の禅師・白隠をして「ただならぬ」と言わしめるほど、<一日一日を大切>にすることが難しいのですね。
それは、明日があると思えるからなのでしょう・・・そして、その次の明日もある・・・それが無意識のうちに、永遠に明日が続くと勘違いしているからなのでしょうね。

いつか、もう来ない明日があるのですね。太田蜀山人は頓狂にふざけて・・・・・

今までは人の事だと思うたが
俺が死ぬとはこいつはたまらん

○(2)<解説>

 夫婦の愛、家族の愛、初めての恋、そして師弟愛・・・
混迷を深めるこの時代に、
すべての日本人に捧げる普遍の「愛」を紡ぐ物語。

 <日本の美しき礼節と絆>を、日本最高のスタッフ・キャストが絶妙なアンサンブルでスクリーンに映し出す、感涙のヒューマンドラマが誕生した。

原作は、時代小説として破格の累計発行部数50万部を超える葉室麟「蜩ノ記」。2012年第146回直木賞選考会では満票で受賞が決定し、浅田次郎氏に「これまでにない完成度」と言わしめた秀作である。

主人公は、ある罪で10年後の夏に切腹を命じられ、不条理な運命にある戸田秋谷(しゅうこく)。彼は、いよいよ3年後に迫った切腹までに藩史の編纂を仕上げるよう命じられ、その作業の過程で、藩の重大な秘密を握っていた。そして、彼の監視役として派遣される檀野庄三郎。物語は、秋谷に不信を抱いていた庄三郎が、切腹に追い込まれた事件の真相を知り、彼の人としての気高い生き方に触れて成長する師弟愛、秋谷とその妻・織江との温かな夫婦愛や家族愛、庄三郎と秋谷の娘・薫との初々しい恋、そして人間同士の崇高な絆が描かれる。

○(3)<物語>

 郡奉行の身で、側室と不義密通して小姓を斬り捨てるという前代未聞の事件を起こした罪で、10年後の夏に切腹すること、また、その切腹の日までに、藩の歴史である「家譜」を編纂し、完成させることを命ぜられた戸田秋谷(役所広司)。その切腹の日は3年後にまで迫っていた。

ある日、城内で刃傷沙汰を起こしてしまった檀野庄三郎(岡田准一)は、家老・中根兵右衛門から、罪を免ずる代わりに切腹の日まで秋谷を監視せよ、という藩命を受ける。監視の内容とは、秋谷の起こした事件が家譜にどう書かれているか報告し、家譜編纂により、藩の秘め事を知る秋谷が逃亡を企てたときは妻子ともども容赦なく斬り捨てよ、というものだった。

幽閉中の秋谷を訪ねた庄三郎は、秋谷の妻・織江(原田美枝子)、娘・薫(堀北真希)、息子・郁太郎(吉田晴登)と生活をともにし始める。

編纂途中の「三浦家譜」と、秋谷の日記「蜩ノ記」を見た庄三郎。切腹という過酷な運命が待っているにもかかわらず“何ごとも生きた事実のまま書きとどめよ”という前藩主の言葉を守り、一日一日を大切に家譜づくりに勤しむ姿に感銘を受け、切腹に追い込まれた事件に疑問を抱く。そして彼を救うべく、真相を探り始める。

監視をする立場を超えて、次第に秋谷の人間性に魅了されていく庄三郎。そんな庄三郎に薫は徐々に心を開いていき、庄三郎も心の美しい薫に惹かれていく。織江は、夫の不義密通事件、更には切腹という苛烈な運命が待っているにもかかわらず、夫に深い愛情と信頼を寄せ、家族に尽くしながら日々を過ごしている。

やがて、庄三郎は、事件の裏に隠された謎を解き明かす文書を入手する。それは、藩政を揺るがし、7年前の事件の真実を暴く、重大な文書だった。
果たして、秋谷と庄三郎、織江と薫に待ち受ける運命とは・・・・・。

○(4)<暮らしの美しさが描かれた時代劇>(佐藤忠男・映画評論家)

良い映画を見たと思った。
見終わって印象に浮かぶ場面はというと、まずは、草深い田舎の家での武士の家族の日常的な生活の情景である。武士である主人の戸田秋谷、妻の織江、娘の薫、息子と、そして彼らと同居することになった若い侍の檀野庄三郎。昔の人、特に武士は食事中はあまり喋らなかったようだし、ここでも現代風の楽しい団らんとは違うが、とても温かい空気が流れている。

なんでもないことのようであるがこれが時代劇では珍しい。時代劇はどうも、物々しい形さえ整えればそれでいいということになりやすく、一人一人の心の寄り添い方までこんなにしみじみ感じさせるところまでは容易にいかない。勿論そこには、主人の戸田がいずれ切腹することを皆が知っていて、しかもそれにはあえて触れず、残り少ない日々を大切なうえにも大切にしようという気持ちが見る者にも分かっているという特別な事情がある。だから原田美枝子をはじめ家族を演じる俳優たちの表情や姿勢に格別の情感がにじむ。しかしそれだけでなく、この家のひなびたたたずまいに何とも言えない良い風格が有るし、この家の外にひろがる田舎の風景の緑の濃さが素晴らしい。

江戸時代の武士は、お城を囲んで城下町に住んでいた。戸田の一家が農村部に住んでいるのは、10年かけて藩の歴史を調査執筆したうえで切腹せよという異様な藩命をうけて、城下町を遠く離れたこの田舎に蟄居させられているからである。

戸田の切腹は殿様の側室と通じた上に小姓を斬ったという罪からとなっているが、それがただの冤罪にすぎないことは、戸田の見るからに清廉潔白な人柄を一目見れば分かる。それを戸田があえて弁明しないのも、小藩に何か問題があればすぐ取り潰しにされる幕府の政策に通じる責任ある立場の武士なればのことだろう。戸田は自分一人が犠牲になることで殿様と藩を救う覚悟を決めている。だからいまお城や城下に乗り込んでいって自分を陥れた者どもと対決する気はない。

ところが意外なところから味方が現われる。ひとりはもと殿様の側室お由の方だった女性であり、彼女は彼の潔白の証明につながる書状を庄三郎に渡す。しかし戸田はそれを後々のために良き理解者である寺の和尚に託すだけで、いま自分の命を助けるためには使わない。
彼が腹を切るのは藩を救うためだからだ。

戸田を否応なしに藩の諸悪の元の家老中根兵右衛門との対決の場に引き出すのは、もっと意外な力である。そしてそれはこれまでの時代劇にはなかった新しいものだ。戸田は城下から離れた田舎に蟄居させられている。もともと藩では郡奉行として、つまり村の農民たちを支配する役職で功績があったのだが、いまでは村に住むことでいっそう農民とは親しくなり、祭りなどでは仲間のような親しさで出かけてゆく。

江戸時代には武士と農民は別れて住み、農民は領主に約束した年貢を村でまとめておさめるだけで、村の中のことは原則としてほぼ自治で行なわれていた。だから農民と殿様の間に主従関係の絆は失われていた。そんな時代に戸田のように農民と暮らしてその生活の実情を知り、藩への抵抗の動きまで察知しながら農民にも信頼されている侍は特異な存在である。彼は農民を理解しながら、あくまでも武士として、藩の誤りはどこにあるかを考えている。

ここで戸田の息子の存在が大きくうかびあがる。村で育った彼には村の少年が肝胆相照らす親友であり、その少年が農民の主張を真っ直ぐ言って城の侍に捕まり、ひどい目に遭えば、武士の子としての信義にかけて救出に行かなければならない。それをまた戸田の一家と生活をともにしている内に、彼らこそ正しい生き方をしていると知るようになった檀野庄三郎が助けて城下の家老の屋敷におしかける。こうなればもう戸田も、田舎の家でじっとしているわけにはいかない。こうして時代劇らしい痛快なクライマックスが繰り広げられる。納得である。

時代劇の難題の一つは、いつも侍だけがヒーローで農民のいい出場がないことであり、そのためにかつての日本人のいちばん当たり前で大事な生活の場だった村の暮らしの風情を慈しむ美学を忘れてしまったことではないだろうか。侍の戸田が村で蟄居させられているという、一見なんでもない設定から、これだけみずみずしい昔の村の暮らしと情景を紡ぎ出して見せてくれた小泉堯史監督とスタッフ全員の仕事を高く評価したい。もちろん、役所広司と岡田准一の侍としての立派さ恰好よさは言うまでもないが、この作品の核になっているのはやはり始めに述べたように田舎の家での家族の食事や祝言の暮らしの美しさだと思う。

<文責:藤森弘司>

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