2013年9月30日 第134回「今月の言葉」
監督:是枝裕和 主演:福山雅治 小野真千子 真木よう子 リリー・フランキー
カンヌ国際映画祭審査員賞受賞
●(1)私たちは、皆、本当に未熟な存在です。「皆」というのは、僭越ではありますが、でも、「皆」と言っても、決して、過言ではないでしょう。
私たちは「未熟な存在」だと思えることが大事です。未熟だからこそ、病気をしたり、仕事がうまくいかなかったり、人間関係を悪くしたりします。 そいういう中で、特に「夫婦」や「親子」の関係がうまくいかなかった時、自分自身の内面を見つめざるを得ない機会に恵まれ、その結果、自分自身の「未熟さ」に気づいて深い反省をすることで、より「人間」らしく生きるための「チャンス」がそこにあることに気づかされます。 悲しいことは、「今そこにある危機」・・・現実に、種々の問題が噴出しているにもかかわらず、どこまでも「自己正当化」の姿勢を「堅持」しようとすることです。もちろん、その「姿勢」そのものは、その人にとって止むを得ないことではありますが、いつか、どこかで、自分自身を反省できるだけの「人間性」が回復できることを祈らずにはいられません。 今回の映画「そして父になる」の「そして」の意味が深い。私たちは、皆、それぞれの「ある出来事」を通して、「そして父に」なり、「そして母に」ならせていただくように思えてなりません。深く感じ入る映画です。 |
●(2)平成17年5月26日、朝日新聞「私は都立産院で取り違えられた」
<46歳から親捜す日々> あなたは両親と血のつながりがない・・・・・。そんな事実を昨春、46歳になって突きつけられた男性がいる。「産院でほかの新生児と取り違えられたに違いない」。親捜しに手を尽くし、「元気で生きているだろうか」と思いを募らせている。(青池学) 男性は1958年4月、東京都立墨田産院で生まれた。いまは福岡市で暮らす。 昨春、九州大学医学研究院の池田典昭教授(法医学)を紹介され、。DNA鑑定を依頼した。その結果、両親と血のつながりがないことが確定した。 男性は墨田産院で出生した妊婦の氏名や住所を都に尋ねた。答えは「当時の診療記録はすべて廃棄された」。産院自体も88年に廃止されていた。 裁判で都は「取り違えは想像にすぎない」と反論。新生児の足の裏に母親の名を書くなど対策はとっていたと思われる・・・・・などと主張している。 73年の論文で、57~71年に全国で計32件の取り違えが発覚した状況を報告した。終戦直後は自宅出産がほとんどだったが、提訴した男性が生まれた58年をはさみ、病院など施設での出産の比率が55年の18%から60年の50%へと急増。70年には96%になった。赤石教授は「施設での出産の急増と助産婦の数とのアンバランスと取り違えの大きな誘引だろう」と指摘している。 裁判の傍ら、男性は産院の地元・墨田区に「だれが出生届けを出したか知りたい」と当時の受付簿の開示を求めた。しかし、「個人情報だ」と拒まれた。 |
●(3)平成17年5月28日、読売新聞「赤ちゃん取り違え 認定」
<47年前、都立病院 賠償請求は棄却 東京地裁判決> DNA鑑定の結果、育ててくれた夫婦が本当の親ではないとわかった男性(47)が、この夫婦とともに、「産院で他人の子供と取り違えられ、精神的苦痛を受けた」として、産院を運営していた東京に計3億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が27日、東京地裁であった。水野有子裁判官は、取り違えがあったことを認めたが、不法行為から20年たつと賠償請求権が自動的に消滅する民法の「除斥期間」を適用して請求権は棄却した。 この訴訟で、都は「医師や看護婦、両親が取り違えに気づかないことはあり得ない」と主張したが、判決は、血液型やDNA鑑定の結果から、新生児室での取り違えを認定。その上で、「原告らの損害は、真実の子を育てる機会を奪われ、また、真実の親との関係を一方的に断ち切られる重大なもの」としたが、除斥期間を適用し、請求権は消滅していると判断した。 男性は1958年4月に都立墨田産院(88年に閉鎖)で生まれ、夫婦の長男として育てられた。しかし、97年に血液型が合わないことに気づいた男性と夫婦がDNA鑑定を受けた結果、昨年5月に「男性は夫婦の子供ではない」との結果が出たため、提訴した。 判決後、男性は東京・霞ヶ関で会見し、「取り違えが認められたのは一歩前進だ」と、淡々と語った。男性は、誕生日の近い人を調べ、直接訪ねたり、電話をかけたりして、本当の親を捜し続けている。 石原知事は定例会見で、「当人が納得できる問題ではない。都が所有する資料は開示する」と、親捜しには協力する姿勢を示した。 |
○(4)<INTRODUCTION>
6年間育てた息子は他人の子だった・・・・・ 6歳になる息子は、病院で取り違えられた他人の子だった。人生に勝ち続けてきたエリートの男に、突然降りかかった「事件」。実の子か育ての子か、迫られる非常な「選択」に、観る者は「もし自分なら、一体どうする?」と問わずにはいられない。やがてそれは「血のつながりとは、家族とは何か?」という誰もが人生の中で何度もぶつかる問いへと変わっていく。他人の手によって壊され、傷ついた家族が、それでも愛と絆の新たな形を探し求める姿を描く、衝撃の感動作が誕生した。 初披露の場は第66回カンヌ国際映画祭コンペティション部門という華々しくも、映画人たちの厳しい目にもさらされる大舞台。日本のふた組の家族の物語が、国境を越え親子という人類共通のテーマとして共感を得、10分以上に亘る熱烈なスタンディングオベーションを受けた。それは是枝裕和監督が「届いた」と感じた瞬間だった。本作はカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞。審査委員長スティーヴィン・スピルバーグは「初めて観た時から本作が賞に値するという確信は揺るがなかった」と語り、ニコール・キッドマンは「後半1時間、涙が止まらなかった」と言う。 主人公を演じるのは、音楽・映画・ドラマ、そのすべてで大ヒット記録を更新し続け、国民的人気を誇る、福山雅治。初の父親役にして、人生で初めての壁にぶつかり葛藤する男という難役に挑んだ決意の一作だ。 誰も見たことのない俳優・福山雅治の新たな顔を引き出したのは、世界が新作を心待ちにしている監督・是枝裕和。日本でも昭和40年代までは頻繁にあった「取り違え事件」を丹念にリサーチした上で、オリジナルの脚本を書き上げた。 息子を取り違えられたふたつの家族 一流大学を卒業し、大手建設会社に勤め、都心の高級マンションで妻と息子と暮らす野々宮良多。彼は自分の人生で、手に入らないものはないと信じていた。ある日、病院からの電話で、6歳になる息子が取り違えられた他人の子だと判明する。妻のみどりは、気づかなかった自分を責める。一方良多は、優し過ぎる息子に抱いていた不満の意味を知る。 良多は戸惑いながらも相手方の家族と交流を始めるが、群馬で小さな電気屋を営む斎木雄大とゆかり夫婦の粗野な言動が気に入らない。世間では100%血のつながりを取ると言うが、狭い住居で笑いの絶えない賑やかな家庭を作ってきた斎木夫婦と、ひとり息子に愛情と時間を注いできたみどりは、育ての子を手放すことに悩み苦しむ。しかし、少しでも早い方がいいという良多の意見で、ついに「交換」が決まる。だが、良多はその時思いもしなかった。まさかそこから、「父」としての本当の葛藤が始まるとは・・・・・。 今もっとも魅力的なふたりの女優と、 福山雅治演じる野々宮良多の妻みどりには、尾野真千子。夫に従順な妻が、子どもへの愛を貫くため、強い母親へと変わっていく姿を細やかに演じた。相手方の斎木家の夫・雄大にリリー・フランキー、妻のみどりに真木よう子。学歴もお金もないが、子どもたちへの愛だけは溢れんばかりの夫婦をリアルに演じ、スクリーンに真実の感情をもたらした。 その他、夏八木勲、樹木希林、國村隼、風吹ジュンらベテランから、中村ゆり、高橋和也、田中哲司、井浦新ら個性派俳優まで、演技と存在感に定評のある豪華キャストが実現した。 |
○(5)<STORY>
完璧な人生を揺るがす、 一流大学を卒業し、大手建設会社に勤め、都心の高級マンションに暮らす野々宮良多は、そのすべてを自分の能力と努力で勝ち取ったと自負していた。そんな良多は、6歳になった一人息子の慶多の、優し過ぎる性格をもどかしく思っていた。 住む世界がまったく違う、 病院側の仲介で、まずは親だけで会うことになる。良多は群馬で小さな電気屋を営む斎木雄大と妻のゆかりの身なりとガサツな態度に眉をひそめる。病院側から、「世間では100%血のつながりを選んで交換する、できるだけ早い決断を」と畳みかけられ、みどりは困惑し、ゆかりは腹を立てる。 初めて会う、 翌月、ふた家族だけで子どもを連れて会うことになる。不安そうなみどりに「俺に任せとけ」と自信を見せる良多。ショッピングモールのカフェで、病院宛ての領収書をもらう雄大に、良多は不快感を覚える。良多は実の子である琉晴をまじまじと見つめ、自分とのつながりをさぐる。 育ての子に、 年が明け、実の子を家に一泊させることになる。慶多と濃密な時間を過ごしてきたみどりは、引き裂かれる想いに苦しむ。みどりとゆかりは同郷の母親同士ということもあって心を開き始め、電話で子どもたちの情報を交換する。 良多が考える、 みどりの母と雄大も付き添った慶多の小学校入学式が終わっても親たちは結論を出せない。子どもたちと遊び、壊れたオモチャを魔法のように直す雄大。躾に厳しく、日曜日も仕事に出かける良多。真逆の家族を行き来させられる子どもたちの戸惑いは深くなるばかりだ。 裁判で突然明かされる、 「わざとやりました」。元看護師の告白に揺れる傍聴席。幸せな野々宮家が妬ましかったが、今は自分も幸せになり罪を償いたいと頭を下げる。閉廷後、怒りを露にする4人。 「交換」という結論の、 「子どもたちはこれからどんどんそれぞれの親に似てくる」。嫌っていた父の言葉を借りて、みどりとゆかりを説得する良多。早くしなければ子どもたちも辛いという言葉にゆかりは「交換」を決める。みどりは初めて良多を激しく責めるが、他に方法がないことは分かっていた。写真や赤ちゃんの頃の手形や、慶多の思い出の品々を、。ひとつずつ慈しむように荷造りするみどり。最後に河原でバーベキューをして、全員で記念写真を撮るふたつの「家族」。だがここから、良多の本当の「父」になる道が始まる・・・。 |
○(6)<取り返しのつかないこと>(重松清・作家)
世の中は「取り返しのつかないこと」であふれている。僕たちは誰もが、それぞれに「取り返しのつかないこと」を背負って生きている。時計の針を戻して、もう一度やり直せるなら・・・・・と願っても、それは叶わない。時間は、過去から現在へ、現在から未来へと流れるだけなのだ。 「取り返しのつかないこと」は、「後悔」や「傷」や「罪」や「喪失」という形をとりながら、僕たちをさまざまに苦しめる。ずいぶん重い荷物である。肩の肉に食い込み、背骨を軋ませる。それを捨て去ってしまえるなら、どんなに楽だろう。 けれど、その重荷が背中から胸に回る、奇跡のような瞬間がある。すると、「取り返しのつかないこと」は、やり直しの利かない唯一無二のものだからこそ、「かけがえのないこと」に変わる。背中にあったときにはあれほどつらかった重荷なのに、せつなさや悲しさはなにも変わっていないのに、胸に回ったときには、抱きしめずにはいられなくなる。 僕は、それが物語の力、フィクションの力だと信じている。そして、是枝裕和さんは映画やテレビドラマや小説、要するに是枝さんのつくる物語はすべて、「取り返しのつかないこと」が「かけがえのないこと」に変わる瞬間を描いているのではないか、と思うのだ。 * 本作『そして父になる』も、「取り返しのつかないこと」を突きつけられるところから物語が始まる。 血のつながらない「わが子」とともに生きてきた歳月が「取り返しのつかないこと」なのか。あるいは逆に、血のつながった「わが子」とともに生きることができなかった歳月こそが「取り返しのつかないこと」なのか。 いずれにせよ、家族の6年間は、ボタンが最初に掛け違えられたまま、どうしようもなく、ここに、ある。消しゴムをかけて無に戻すことはできないし、おそらく、それができないところが、人間というものの、優しさと、弱さと、せつなさと、美しさなのだろう。 どうする・・・・・? 物語の中の夫婦だけではない。あなたも、その隣のあなたも、少し離れたところにいるあなたも、もちろん僕も、ほんとうに、どうすればいいんだ・・・・・? * 葛藤は物語全編を覆い尽くす。「取り返しのつかないこと」は、二人の「わが子」の笑顔とともに、いまもつづいている。時の流れを止められるのは親しかいない。決断しなくてはならない。なにかを始め、もう一つのなにかを断ち切らなくてはいけない。 その葛藤に、是枝さんは過剰に手を差し伸べることはしない。もっと正確に言うなら、葛藤のおっせかいな説明を拒む。たとえば、本作と重なり合う主題を持つ『歩いても 歩いても』(08)で、是枝さんは回想のシーンを徹底的に封じていた。回想を一つ挟むことで物語の筋道がうんとわかりやすくなったり、涙を誘いやすくなったりするところでも、いや、そういうところであればあるほど、断じて回想には頼らなかった。 僕はそこに、是枝さんの「取り返しのつかないこと」を取り返しのつかないままに描きつづける。すとんと理に落ちる納得や、涙に代表されるわかりやすい感情で僕たちを安心させてはくれない。僕たちは皆、それぞれの立場や価値観のもとで、登場人物と同じ問いを突きつけられる。安全圏にはいられない。あなたなら、どうする。あなたにとっての「わが子」とは、「家族」とは・・・・・。 やがて僕たちは気づくだろう。『そして父になる』という題名の「そして」には、さまざまな意味が隠れていることを。「だから」のニュアンスだけでなく、「しかし」のニュアンスだってあるかもしれない。「そうはいっても」「結局のところ」「やむをえず」「紆余曲折をへて」「そのあとで」「やがて」「いずれは」「遅かれ早かれ」「いつかそうなってほしい」・・・・・そんないくつものニュアンスが、一人ひとりの胸の奥で、それぞれのバランスで配合される。文字どおり一筋縄ではいかない、いわば和音としての「そして」の響きが、物語を深く豊かにしてくれるのだ。 その響きとともに、描かれなかった物語も浮かび上がってくる。カメラは福山雅治さん演じる良多を追っていくが、もちろん「そして父になる」ために葛藤するのは、リリー・フランキーさん演じる雄大も同じだ。尾野真千子さんと真木よう子さんが演じる母二人は「そして母になる」物語を並行して生きているはずだし、ならば子どもたちは「そして息子になる」・・・・・物語すべてが和音になる、と言っていいかもしれない。いや、なにより、僕たち自身の胸の奥で、僕たち自身の人生を舞台にした「父」「母」「家族」の物語が、静かに動き始めてはいないだろうか? * 映画は終わった。けれど二組の家族の物語はつづく。映画館を出る。けれど僕たち自身の人生はつづく。映画館の外に歩きだして、何歩か進んで、気づかないか?背中に背負っていた「取り返しのつかないこと」がいくつも、いつのまにか胸に回って、「かけがえのないこと」になっている・・・・・。 <しげまつ・きよし・・・・・1963年、岡山県生まれ。91年、「ビフォア・ラン」で作家デビュー。99年、「ナイフ」で坪田譲治文学賞、「エイジ」で山本周五郎賞を受賞。2000年には、「ビタミンF」で直木賞、10年には「十字架」で吉川英治文学賞を受賞するなど高い評価を得る。近著に「星のかけら」「ファミレス」「みんなのうた」などがある> |
<文責:藤森弘司>
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