2013年8月31日 第133回「今月の映画」

標的の村

●(1)今回の映画「標的の村」は驚くべき内容の映画です。
中央線「東中野」駅前の「ポレポレ」という100人くらいの映画館でみましたが、沖縄の基地問題の現状をこれほどリアルに感じたのは初めてです。中心的な内容は、那覇からでも海側からでなくては入れなかったほどの「東村(ひがしそん)高江区」で、人口はわずか160人程度の、森に囲まれたのどかな村です。この森に囲まれた村を、米軍のヘリパッドで囲み、住民を標的にするために軍用ヘリコプターが飛び回ります。日野の私(藤森)の自宅の真上を、立川の自衛隊基地に向かってヘリコプターが10機ほど編隊を組んで、時折、通り過ぎることがあります。高度は50メートル(?)くらいでしょうか。真上を通り過ぎる1分くらいの間だけでも、かなりの爆音で、不気味な感じもあり、思わず注目してしまいます。

しかし、高江の場合は、森で囲まれた高江地区の住民を標的にする軍事訓練のために飛行しています。米軍の隊員が、いかにも住民を狙っているかのような様子が映像でリアルに分かる程度の高度でその周囲を旋回するのですから、農作業をしている住民は恐ろしいだけでなく、人権が蹂躙されている屈辱感は相当のものです(喩えて言いますと、相模湖程度の広さが住民の地区で、その周囲が森で囲まれています。その周囲を囲むように多数のヘリパッドがあり、さらに増設しようとしています)。

そういうヘリパッドの増設に抵抗して座り込みをする住民を、さらに追い詰めるための「SLAPP裁判」が起こされています。その高江区がベトナム戦争時、「ベトナム村」に模されていたことも驚きです。「辺野古基地計画」や「オスプレイ配備」問題の真実など、日本人として知らないことが恥ずかしい大問題が提起されています。

安直な感想を許さない、とにもかくにも「強烈」な映画でした。下記にパンフレットの内容を紹介しますので、熟読されることをお勧めします。

<SLAPP裁判>
国策に反対する住民を国が訴える。力のある団体が声を上げた個人を訴える弾圧・恫喝目的の裁判をアメリカではSLAPP(Strategic Lawsuit Against Participation)裁判と呼び、多くの州で禁じられている。

<ベトナム村>
1960年代、ベトナム戦を想定して沖縄の演習場内に造られた村。農村に潜むゲリラ兵士を見つけ出して確保する襲撃訓練が行なわれていた。そこで高江の住民がたびたび南ベトナム人の役をさせられていた。

○(2)<INTRODUCTION>

<スクリーンに叩きつける、伝えきれない沖縄>

2012年9月29日。
アメリカ軍・普天間基地は完全に封鎖された。
この前代未聞の出来事を「日本人」は知らない。
全国ニュースから黙殺されたドキュメント。

日本にあるアメリカ軍基地・専用施設の74%が密集する沖縄。
5年前、死亡事故が多発する新型輸送機オスプレイの着陸帯建設に抗議し座り込んだ東村・高江の住民を国は「通行妨害」で訴えた。反対運動を萎縮させるSLAPP裁判だ。人口160人の高江集落は米軍のジャングル訓練場に囲まれている。わがもの顔で飛び回り、低空で旋回する米軍のヘリ。自分たちは「標的」なのかと憤る住民たちに、かつてベトナム戦争時に造られたベトナム村の記憶がよみがえる。

2012年6月26日、沖縄県会議がオスプレイ配備計画の撤回を求める抗議決議・意見書を全会一致で可決した。9月9日の県民大会には10万人の人々(主催者発表)が結集した。しかし、その直後、日本政府は電話一本で県にオスプレイ配備を通達した。そして、ついに沖縄の怒りが爆発した。

9月29日、強行配備前夜。台風17号の暴風の中、人々はアメリカ軍普天間基地ゲート前に座り込み、22時間にわたってこれを完全封鎖したのだ。4つのゲートの前に身を投げ出し、車を並べ、バリケードを張る人々。真っ先に座り込んだのは、あの沖縄戦や復帰前のアメリカ軍統治の苦しみを知る老人たちだった。強制排除に乗り出した警察との激しい衝突。取材に駆け付けたジャーナリストや弁護士さえもが排除されていく。そんな日本人同士の争いを見下ろす若い米兵たち・・・・・・。

この全国ニュースからほぼ黙殺された前代未聞の出来事の一部始終を記録していたのは、地元テレビ局・琉球朝日放送のクルーたちだった。本作は、反対運動を続ける住民たちに寄り添いながら、沖縄の抵抗の歴史をひもといていく。復帰後40年経ってなお切りひろげられる沖縄の傷。沖縄の人々は一体誰と戦っているのか。奪われた土地と海と空と引き換えに、「平和と安全」を味わうのは誰か?

10月1日、午前11時20分。沖縄の空をオスプレイが飛んだ。抵抗むなしく、絶望する大人たちの傍らで11才の少女が言う。「お父さんとお母さんが頑張れなくなったら、私が引き継いでいく。私は高江をあきらめない」。

○(3)<ストーリー>

沖縄本島北部に広がるヤンバルの森。東村(ひがしそん)・高江区は豊かな自然に囲まれた人口160人ほどの山村だ。その静けさを破るように、上空には頻繁に巨大な軍用ヘリが飛び交う。高江は戦後、国内最大の米軍専用施設、総面積7800haのジャングル戦闘訓練場に囲まれてしまった。ゲリラ戦やサバイバル訓練をする世界で唯一の演習場で、民家との間にはフェンスもなく、兵士が庭先に現れることも珍しくない。すでに今、戦場の中に暮らすような恐怖を味わっている高江の周りに、6つのヘリパッドが新設されるという。そこには、死亡事故の多い垂直離陸機・オスプレイも配備される。

高江に暮らす安次嶺(あしみね)現達さん、通称ゲンさんは5年前、突然国に訴えられた。家の近くにヘリパッドができては困ると座り込んだら、通行妨害の容疑で被告になってしまった。ゲンさんは高江の森に惚れ込んで10年ほど前に家族で越してきた。川に囲まれた手作りの家はカフェにもなっていて、ゲンさんの作る新鮮な野菜と妻の雪音さんが仕込む窯焼きパンが人気。そんな楽園のようなこの場所で6人の子供たちがのびのび育っている。しかしゲンさんは言う。「ヘリパッドができたら、もうここには住めない」。

ヘリパッドの新設を知った高江区民は2007年1月22日、那覇防衛施設局に抗議をした。それに対して局員は「米軍の運用に関しては、日本側は関知できない」と突き放す。再三の反対決議も虚しく、一方的な工事の通告がされた。説明もなく、声も届かない。この年の7月2日から住民による建設現場での座り込みが始まった。

8月21日、ついに防衛施設局が工事にやってきた。立ちはだかる住民に対し、局員は言う。「手続きも済んでいるんだから工事をやります。北部訓練場の過半の返還で合意された工事です。作業開始!」「公務執行妨害だぞ!ゲートを開けろ!」怒号が飛んだ。住民らは切々と訴えた。「米軍に基地を提供しているあなた方に、沖縄の人の気持ち分かる?米軍には土地を取られてさ。あなた方には山を滅茶苦茶にされて、我が家は自分の家の墓にも入れない。婦女暴行され、ジェット機は落とされ、ヘリコプターは落とされ、この基地はそういう基地でしょう?あなたは任務かも知れない。我々はここでの歴史的な任務だよ。次の世代にこんな苦しみ与えたくない。やるならやる。我々もやるよ!」防衛施設局員は言葉を失い、この日は帰って行った。しかし、次はいつくるのか?毎日の座り込みで生活が犠牲になるが、他に手立てがない。

それから間もなく住人15人が法廷に呼び出された。2008年11月25日、現場での座り込みが「通行妨害」にあたるとして国が仮処分申請をしたのだ。国策に反対して座り込んだ住民を国が訴えるという前代未聞の裁判。力を持つ企業や自治体が声を上げた個人を弾圧・恫喝するために訴えることをアメリカではSLAPP裁判(Strategic Lawsuit Against Public Participation)と呼び、裁判を圧力代わりに悪用させないため、多くの州で禁じている。しかし日本にこの概念はない。訴えられた15人の1人、若い母親は、精神的苦痛と裁判所に行くための時間や交通費の負担が大変だったと話す。ゲンさん家族は、妻・雪音さんと兄弟の中で唯一の女の子・海月ちゃんまで訴えられた。海月ちゃんは当時まだ7歳で現場に行ったことは一度もなく、理不尽な訴えだった。

裁判では、横並びに立ったり声を掛けあって座り込んだりする行為が、妨害行為に当たるかどうかが争われた。結局、2009年12月11日の仮処分決定では15人のうち13人の処分は却下されたが、住民の会の代表だった伊佐真次さんとゲンさんの二人には「通行妨害禁止命令」が出され本裁判に発展してしまった。声を上げた住民は動揺した。反対運動を萎縮させる、これこそSLAPP裁判の狙いだと伊佐さんは言う。「これは見せしめのようなもの。何としてもひっくり返したい」。

伊佐さんは木工職人。沖縄独自の位牌・トートーメーを作っている。豊かな木材と静かな製作環境を求めて、20年以上高江で暮らしている。「本当は漆細工もしたい。でも、漆は心を落ち着けてやらないといけないし、途中でやめられないから。」防衛局が来たら駆けつけなければならないような今の生活では、漆細工は無理なのだ。

2010年2月1日、ようやく高江で防衛局主催の住民説明会が開かれた。住民は不安と疑問をぶつける。高江区民を犠牲にするつもりなのか。オスプレイは配備されるのか。しかし防衛局の回答はうやむやだ。「はぐらかすな」と迫る住民に対し、沖縄防衛局局長・真部朗氏はこう明言した。「オスプレイ配備が行われると私どもが確認できた場合は、皆さんにお伝えすることはできると思います」。

米軍ヘリには日米どちらの空港法も適用されない。民家や学校の上空もお構いなしに飛び、夜間は集落のわずかな明かりを目印に旋回する。まるで標的にされているようだと感じる住民は多い。「ベトナム村と一緒ですよ」とゲンさんは言う。「集落を敵国の住宅と見て訓練している」。

ベトナム村とは1960年代のベトナム戦争当時、沖縄の演習場内に作られたベトナムの山村を模した村で、実践直前の襲撃訓練に使われていた。1964年9月9日付の地元紙「人民」には、ゲリラ戦の訓練で高江区民が駆り出されたと書かれている。

「この訓練には乳幼児や5、6歳の幼児をつれた婦人を含む約20人の荒川(高江)区民が徴用され、対ゲリラ戦における南ベトナム現地部落民の役目を演じさせられた」。

ベトナム村を写した写真には村を見下ろすワトソン高等弁務官の姿がある。当時のアメリカ軍統治の最高責任者だ。「沖縄県民を生かすも殺すも彼次第、と言われるくらい権限を持っていたんですよ」。記事を書いた元記者の知念忠二さんはそう説明する。

ベトナム村のゲリラ訓練場に参加していた元米軍海兵隊員で、カリフォルニア州に住むジョン・ヒースコートさんが当時の訓練の様子を語った。「ベトナム村にヘリコプターが近づき、降りてきた海兵隊員がシューティングしながら村に近づいていく。ベトナム兵役は村に潜んでおり、隊員が村を攻撃して米兵を救い出しゲーム終了」。そしてもう一つの重要な証言。彼は沖縄のベトナム村周辺に枯葉剤を撒き、自身が今でもその後遺症に苦しんでいると言うのだ。「枯れた植物を処理したのは地元の人だ。彼らの方が枯葉剤の影響を受けていたのでは」と、ヒースコートさんは懸念する。

「当時の米軍はひどかったが、それでも陸の孤島だった高江やジャングル戦闘訓練場のある地域で米兵がやっていたことは、私たちの想像を超えるものだった」と、知念さんは当時の驚きと怒りを語った。知念さんは高江の民家の小屋を狙って焼夷弾が投下された事件についても書いている。

「米軍は高江の住民をほんとうのゲリラとみなして、これを対象に対ゲリラ戦訓練を行っている」。

沖縄でも知る人は少ないが、高江にはまだベトナム村の記憶は残っている。三角帽子にベトナム風の黒い衣装があったこと、家族総出で駆り出されたこと。ベトナム村がなくなり40年が経つが、訓練の標的として、今や高江の集落そのものがベトナム村同然に見られているのではないか。そう区民が感じる背景には過去の経験があったのだ。

2010年7月23日、住民が提出した「公開質問状」の回答を求めた住民に対し、防衛局は裁判中を理由に回答を避けた。本来問われるべき県民の尊厳と基地との問題を「通行妨害の有無」に矮小化して続けられる不毛な裁判。訴えられてから3年半、2012年3月14日に判決を迎えた。裁判所は、ゲンさんに対する訴えを棄却する一方、伊佐さんに対しては「表現活動の範疇を超える行為があった」として妨害禁止命令を言い渡す。これで住民運動を通行妨害で絡め捕る手法が成立してしまったことになる。しかも同じ行動をしていた二人が分断された。この判決が確定すれば、沖縄県民が長い間最後の抵抗手段としてきた座り込みさえできなくなってしまうと、住民側は控訴することを決めた。

沖縄へのオスプレイ配備が迫る2012年6月13日、米軍の「環境調査報告書」が公表され、県民は初めて訓練の内容を知った。高江のヘリパッドはオスプレイが使うと明記されている。ゲンさんの家から400mと最も近いヘリパッドには、年間1260回も飛来するとある。しかも、同じころ、フロリダではオスプレイの墜落事故が起きていた。わずか2か月前にもモロッコで墜落したばかりだった。

政府がひた隠しにしてきたオスプレイ配備の実態。この裏には、普天間基地の移設問題が深く絡んでいる。沖縄に配備されることが取りざたされて20年がたつというのに、政府がオスプレイの配備を公表したのは2011年6月。したがって、これまで辺野古の基地建設に向けた環境アセスメントもオスプレイ抜きで検証されてきた。しかし、防衛官僚の高見澤将林氏が、すでにオスプレイの配備を知りながらそれを伏せていたことがアメリカの裁判で出てきた文書「タカミザワ文書」で発覚。2010年3月の国会で、沖縄県選出の山内徳信参議院議員がこの件で高見澤氏を追及している。政府が意図的に隠していたのであれば、重大な環境影響評価法違反になるからだ。高見澤氏は、普天間返還をはじめ米軍基地の整理・縮小等を日米間で協議した1996年のSACO合意で交渉の実務を担当した人物である。「タカミザワ文書」の日付は合意発表直前の1996年11月27日。内容は、SACO報告でオスプレイ配備について県民にどう説明したらよいのか、Q&A付でアメリカに打診していたもの。アメリカは早く公表せよという立場だったが、5日後のSACO最終報告では、オスプレイの記述は抹消されていた。

実際、オスプレイの沖縄配備は遥か前から決まっていた。1992年6月の海兵隊普天間基地のマスタープランには、オスプレイが配備されること、そしてその格納庫の位置まで明記されていた。そもそも、普天間基地返還のきっかけとなったのは1995年9月、米兵が少女を襲った暴行事件により、今まで燻りつづけた県民の反基地・反米感情が爆発したことによるとされる。安保体制が揺らぐことを恐れた日米両政府は、沖縄のために普天間の返還を決めた、という流れを作った。1996年4月、橋本龍太郎総理は、6~7年以内に普天間基地を全面返還すると発表。しかし、それは県内移設という重い条件付きのものだった。移設先の名護市では反対運動が活発化。1997年12月の住民投票では反対が上回ったものの、翌年には基地を容認する県知事が誕生し、さらにその翌年には名護市市長が受け入れを表明した。

そして2004年4月、辺野古で海上座り込み闘争が始まる。民間船が防衛局の作業船の進行を妨害、賛成派と反対派の市民同士の衝突まで生んだ。激しい反対運動の末、2005年10月には海上基地の現行案が消え、埋め立ての「辺野古沿岸案」に変わった。しかしこの「辺野古沿岸案」、実は軍港を擁する広い飛行場を確保するため、1966年から米軍がここに計画を持っていたものと瓜二つなのだ。実際に、普天間基地返還が発表されたタイミングで、アメリカ軍の幹部が「当時の辺野古基地計画を参照するように」と指示したメールが見つかった。つまり、ベトナム戦闘時の予算不足で断念していたこの辺野古計画を「沖縄への負担軽減のため移設」という口実で日本から予算を取って実現させるため、沖縄県民の怒りは利用された。オスプレイは、県民を欺き続けた政府のたくらみの象徴ということなのだ。

2012年7月19日。早朝、工事車両が列をなして高江へ向かっていると連絡が入った。座り込みテントに緊張が走る。間もなく、大勢の作業員と防衛局員がやってきた。もはやオスプレイのためのヘリパッドであることは争えない。「真部局長は説明をすると言ったはずだ」「説明会をしてくれ」、そう訴える住民と作業を強行しようとする作業員たちの怒号と押し問答が続く。作業員が住民の頭越しに資材をクレーンで運び込もうとすれば、住民はフックにしがみつき工事に抵抗、危険な状況だった。裁判中の伊佐さんは一歩離れたところから衝突を見守ることしかできず、歯がゆい思いでいた。

しかし、双方の怒りが高ぶり危険が迫ると、住民は「喧嘩はしないよ」と声を掛けあい、誰ともなく三線(さんしん)を奏で、口笛を吹き、歌いだす。そこで歌われたのは権力に屈しなかった八重山農民の抵抗の歌を元にした「安里屋ユンタ」。次々に到着するダンプの前に座り込み、みんなで腕を組む。ゲンさんの息子が、雪音さんに手を引かれてやってきた。大人たちの怒号の中、頭上を超えてゆくクレーンを見つめる幼い瞳。結局この日は、ダンプ一台分の資材が運び込まれてしまった。建設予定地はアメリカに提供した区域。もともとは自分たちの土地であっても、そこに入れば罰せられる。オスプレイは困ると声を上げれば裁判にかけられる。この国の法律と仕組みは誰のためなのか?

ゲンさんたちも疲弊していた。気持ちを切り替えながら続けないと持たない。「気がついたら基地が出来上がっている夢を見る」というゲンさん。しかし希望は捨てない。「これだけオスプレイのことが盛り上がれば支援者も集まってくれるだろう」。その言葉通り、高江の状況を知って駆けつけてくれる県民も増えている。週2、3日のペースで恩納村から通ってくれる池原さん母娘。娘の寿里さんは毎回泣きながら座り込んでいる。罵声が飛び交う中、混乱してしまうし、本当は言いたいこともあるのに怖くて、泣くしかできないと言う。それでも、ダンプの前には怖気づくことなく座り込むことができる度胸は、実は母譲りだった。寿里さんの母・澄江さんは1989年、恩納村の都市型ゲリラ訓練施設反対闘争に参加し米軍に計画を撤回させた経験があった。沖縄県民の抵抗が実を結んだ激しい闘いだった。「あなたたちどこの子孫ですかって、防衛局のニイニイたちにも言ってるわけ。自分たちと一緒にこっちに来て座るべきじゃないの、って」。

沖縄全体が、この状況を異常だと感じていた。

2012年7月23日。山口県岩国基地にオスプレイ12機が陸揚げされた。沖縄への配備は秒読み段階に入った。

2012年9月9日、オスプレイ配備を目前に、怒りの県民大会が開かれた。保革を問わずリーダーたちが参加した会場では翁長雄志那覇市長の演説が響く。「戦後、銃剣とブルドーザーで土地を強制接収したこととなんら変わらない構図が継続している」。これまで地道な座り込みや抗議活動を続けてきた伊佐さんの妻、育子さんも多くの県民が高江にエールを送ってくれるようになっていることを実感していた。高江の子供たちも会場にいた。幼いころはおもちゃを持って逃げたいと言っていた海月ちゃんも「来ないように頑張る」と言い切る。大会の2日後、福岡高裁那覇支部で、伊佐真次さんのSLAPP裁判の控訴審が始まった。

県民大会の熱気も冷めやらぬ2012年9月19日、政府が突然、根拠も示さないままオスプレイの安全宣言を出した。これを受けて9月24日、仲井真知事は急遽上京し、森本防衛大臣に直接オスプレイの配備中止を要請。ところがその直後、政府は電話一本で9月28日にオスプレイを配備すると通告した。

9月27日、普天間基地西側のメインゲート、大山ゲート前には何が何でもオスプレイを止めたい住民が押し寄せた。真っ先に座り込んだのは悲惨な沖縄戦や復帰前の屈辱を乗り越えてきた世代の人々。「もう実力行使しかない」。普天間基地への出入りを封じ、基地の機能をマヒさせるのだ。

北側、野嵩ゲート前でも沖縄の県議、市議たちが党派を問わず座り込みに参加。オスプレイ配備への怒りは一気に燃え上がった。しかし予告された28日は台風17号が来襲。翌29日、暴風収まらぬ悪天候の中、市民らが大山ゲート前に車を何台も停めて出入り口を塞いだ。同時に4つのゲートが封鎖された。普天間基地のゲートが完全に封鎖されたのは67年の歴史の中でも前代未聞のこと。「こうでもしないと止められない。何としてでも止めたい」。車に立てこもる人々の決意は固い。基地南の佐真下ゲートも東の第4ゲートも次々と住民が押し寄せる。フェンス越しに向かい合う米兵も動揺していた。米兵は、取材陣の目やカメラに向けてわざとライトを当て、撮影させないようにしてくる。ゲート前に次々に車を停め封鎖する市民にたまりかねた米兵がフェンスを開け、住民と衝突。あわや暴力沙汰という緊迫した場面も。封鎖に加わった人々はそれぞれゲート前で夜を明かした。

9月30日。オスプレイ配備前日の昼まで完全封鎖が続いていた。12時半、沖縄県警の機動隊が座り込み排除に動き出し、現場は騒然となる。先の国会でタカミザワ文書について追及していた山内参議院議員もゲート前で「これが森本(防衛大臣)が言う、丁寧に説明する、という姿なのか」と怒りを露わにする。報道カメラも記者もお構いなしに排除していく沖縄県警。昼下がりの太陽が照りつける中、熱い車内に立てこもり、あるいは車の下に入り込んで抵抗する住民たち。レッカー移動を迫られる池原さん母娘の車の中では、澄江さんがカメラに向かって助けを求め、寿里さんはタオルに顔をうずめて泣いている。県民同士の殺伐とした攻防の様子を基地内に立つ米兵が首を振って薄ら笑いを浮かべながら見下ろしている。「座り込んで反対する側も、排除しようとする県警も、それを伝える我々も、沖縄県民同士。なぜこんな場面を伝えなければならないのでしょうね……」。

記者も声を詰まらせる。午後3時、大山ゲート解放。22時間の完全封鎖が解かれた。

夜7時過ぎ。野嵩ゲートにも機動隊が出動。住民、弁護士、ジャーナリスト、国会議員も次々に強制排除され怪我人も出る大混乱になった。盾を挟んで膠着する県警と住民。住民は機動隊員に泣きながら呼びかける。「何十年、こんなこと続ける?アメリカもないちゃー(本土の人)も何にもしてないよ。うちなんちゅ(沖縄の人)同士ばかりでこんなことしているんだよ?」「警察も本当はこんなことやりたくないだろう?誰か意地出して、署長に『帰ります』って言え!『これ以上県民と戦いたくないです』って言え!」「市民を守るために警官になったんだよねえ?」。

10月1日、午前8時50分、オスプレイが沖縄に向けて岩国基地を離陸した。ゲート前で徹夜した目をこすりながら、伊佐真次さんは希望を語った。「踏ん張りどころだと思う。過去にはB-52だって追い返したこともあるし、恩納村の都市型ゲリラ訓練場を阻止したこともあるわけだから。一つになればできる」。ゲンさんは6人の子供全員を連れて高江から駆け付けた。子供たちも嘆く。「オスプレイ来たら大変だもん。学校に来たらうるさくて授業ができない。なんで言うこと聞いてくれないんだろうねえ、やめてって言ってるのに」。「オスプレイ今日来ちゃうの?嫌だなあ……!」。雪音さんはショックを隠せない。「ヘリパッドをがんばって止めればオスプレイは来ないと思ってたのに、ヘリパッドがまだできてないのにオスプレイは来るんだ……と思って。もう、絶望かもしれない」。

午前11時20分。最初に2機のオスプレイが飛来。伊佐育子さんは静かに泣いていた。「平和が崩れていく気がしました。ついにこんなところまで来たなって」。ゲンさんたちは基地が見渡せるビルの屋上に上がり、5年間座り込んで反対してきたオスプレイが駐機する姿を見て、自嘲気味に言った。「簡単に飛んでくるんだねえ。本当に、沖縄県民をバカにしている」。大人たちと一緒に一生懸命反対の声を上げていた海月ちゃんは、そんなゲンさんたちの姿を見て考えていた。「本当なら今からでも帰ってほしい。お父さんお母さんは、農業とか子育てとか仕事があるのに、子供たちの将来のためにオスプレイに反対してくれているから、今度は、お父さんお母さんが疲れちゃて、もう嫌だなってなった時には、私が代わりにやってあげたい」。その日、高江の住民たちは夕方まで基地の前で、のぼりを掲げ手を振り続けた。

オスプレイは、沖縄配備3日後には高江で訓練を始めた。夜間の上空旋回もあった。沖縄にはさらにMV-22が12機、CV-22が8機と、すでに配備された12機と合わせて計32機のオスプレイが配備される予定だ。2013年3月26日、6つのヘリパッドのうち、ゲンさんの家から目と鼻のさきにある<N4>も完成した。

ある日の夕暮れ、ゲンさんのカフェ・山?で音楽祭が開かれた。海月ちゃんたち「高江キャンディーズ」のフラが披露され、ゲンさんや伊佐さんたちのバンド「スワロッカーズ」も演奏。反対運動で命まですり減らすことのないよう、高江では座り込みの合間に音楽やささやかなごちそうで鋭気を養ってきた。基地・オスプレイ反対ソングも定番だ。

2012年12月23日、高江に心を寄せる人々が呼びかけた「愛と怒りのサウンドデモ」には3000人の参加、国道58号を、あの大山ゲートを目指して進行した。道のりは長いが、決してあきらめはしない。我々の高江の空を取り戻すまで――。

○(4)<COMMENTS>

公正中立などありえない。
なぜなら情報は視点なのだ。主観的で当たり前。
ところが現在のマスメディアは、
ありえない公正中立を偽装している。
特に大メディアになればなるほど、
この建て前は崩せないのだろうか。

・・・・・僕のその思いを、
この作品はあっさり覆した。
全編にみなぎる人々の怒りと悲しみは、
撮影クルーや取材する記者たちの
怒りと悲しみの声でもある。
すがすがしいほどに主観全開。それでいい。
だってそれが本来のメディアなのだから。
<森達也(作家・映画監督)>

「標的の村」は僕らに問いかけてくる。
あなたたち=日本はなぜこんなことを
私たち=沖縄に無理強いするのか、と。
米軍ヘリパッドを押しつけられた高江地区。
着工に反対する住民に対し、
防衛施設局業者の顔から垂れ出ていた憎悪。
オスプレイ配備が強行された普天間基地。
住民たちが全ゲートを封鎖し、
その住民を沖縄県警が強制排除に乗り出す。
悔しさの底で「安里屋ユンタ」を歌う女性の顔を伝っていた透明な涙。
標的に照準をあわせ引き金を引こうとしているあなたは誰?
<金平茂紀(TVジャーナリスト)>

日本は未だにアメリカの植民地じゃないか。
それが沖縄の現実だ。
その最も象徴的な理不尽さに闘いを挑んでいる
東村高江の人々。
米軍の軍事訓練の標的にされながら
生活するその過酷な日常は
殆ど報道されず、黙殺されている。
この映画はそれを訴える。
これは僕らの現実でもあり
高江の人々の闘いは僕らの希望なのだ。
<遠藤ミチロウ(ミュージシャン)>

観る者の心に、いつ、どんな風に炸裂するか分からない
時限爆弾のような問いを、
三上監督は、埋め込もうとしているのかも知れない。
<阿武野勝彦(東海テレビ放送プロデューサー・ディレクター)>

人々は癒しを求め沖縄を訪ねる。
でも本当に癒されるべきは、沖縄自身なのだ。
私の頭をガツンと殴って下さった
制作チームに感謝。
琉球朝日放送はメディアの希望だー!
<ヤン・ヨンヒ(映画監督)>

矛盾の上に咲く花は
根っこの奥から抜きましょう
同じ過ち繰り返さぬように
根っこの奥から抜きましょう
<キヨサク(MONGOL800)>

○(5)<「標的の国・日本」の現実>(前泊博盛・沖縄国際大学教授)

まず、最初に伝えておかなければならない。この映画が伝えているのは、小さな島の小さな集落の少人数の人たちが、得体のしれない濁流に飲み込まれ、生命と財産、人権を脅かされ続けている悲劇の話ではない。明らかに日本というこの国の「民主主義」の悲しい現実、実相がある。
映画を見る限り、この国には基本的人権も財産権も存在しない。

この国の政治家や行政、そして国民は、いつから人の痛みを感じることができない鈍感で横暴で、横着な国民に成り下がってしまったのであろうか。
映画の基となるドキュメンタリー番組「標的の村 国に訴えられた東村・高江の住民たち」をみた学生たちの多くが頬を涙で濡らした。涙の多くは「悔し涙」だった。
「どこまで虐げられ続けるんですか」
「なぜ止められないんですか」
「なぜ強行するんですか」
「そんなに日米安保って大切なんですか」
「国民の命よりも、大切な安保っておかしくないですか」
「どうしてこんなことが許されるんですか」
「なんでいつも“沖縄”なんですか」
「この国って何なんですか!」

言葉の多くが、涙で詰まって、うまく語れない。教壇の前で、向き合った一人の女子学生が目を真っ赤にして「先生、なんとかしてください」と訴えてきた。
残念だが、どうすることもできない。これが、日本の民主主義の現実である。

悲しい現実に、もちろん、沖縄は何もしなかったわけではない。オスプレイの配備が決まった時、沖縄県議会は「配備反対」を決議し、県知事も反対を表明した。県内41全市町村の議会が「反対」を決議し、全首長も「反対」と抗議の意思を示した。知事、議会、首長らは上京し、外務省、防衛省、内閣府、そして官邸に直接訴えもした。10万人を超す県民大会も開催され、子供たちも一緒になって「命を守ってほしい」と訴えもした。

地域の行政として、政治家として、住民として、この国の民主主義のルールに則って、伝えるべき意思、民意はしっかりと表明し、確実に伝達してきた。
しかし、「配備の中止を」と訴える国民に、当時の野田佳彦首相は「(オスプレイの)配備自体はアメリカ政府の基本方針で、同盟関係にあるとはいえ、(日本側から)どうしろ、こうしろという話ではない」(2012年7月16日、民放テレビ番組)と一蹴した。日本の主権を担う首相が、米軍のオスプレイ日本・沖縄配備に対して「どうこういえない」というのは、何を意味しているのか。

日本はいまだ「占領下にある」との指摘がある。英国出身の東アジア現代史の研究者・ガバン・マコーマック教授は、日米は米国の「属国」と表現した。属国とは従属国。つまり「政治的・経済的に他国の支配に拘束されている国。形式上は独立しているが、実際には他の強国に従属している国」(広辞苑)のことである。広辞苑には「宗主国の国内法に基づいて外交関係の一部を独立処理し、他の部分は宗主国によって処理される国家」との説明もある。

日本は主権国家、つまり主権を完全に行使し得る「独立国」だと、国民のだれもが信じてきたし、いまも過半が信じているはずである。一方で「多くの国民は『対米依存』『対米従属』は当たり前だと思っている」と鳩山由紀夫・元首相は指摘している(「終わらない<占領>」法律文化社)。鳩山氏は「日米安保条約によって万一の時はアメリカが守ってくれるのだから、アメリカの言うことを聞くのは当然であると思っている」「日本を守るために米軍基地が存在するのは当たり前で、地理的な状況から米軍基地は主として沖縄にあることが必然で、自分の故郷にはおいて貰いたくないと考えている。これが平均的日本人の思考である」と断じている。しかも、「対米依存」が、この国の保守の思想の中核になっているとまで指摘している。

鳩山氏は「対米従属から対等な日米関係へ」のマニフェストを掲げ、政権交代を実現しながら、結局は「対米追従」に終始して政権を失った民主党の代表、党首だった人で、この国の首相を務めた人である。

鳩山氏は、この国には「対米従属派」「対米自立派」が存在し、対米従属派は「領土問題があるから米国の存在は重要で、抑止力を維持し、むしろ高めるために沖縄の米軍基地は必要」と主張し、対米自立派は「領土問題がこじれて戦闘状態になったときに、アメリカが日本を支援するとは限らない、それどころか領土問題が今日まで解決しないできているのもアメリカの存在が影響している」と主張しあっているという。

なぜこの国には、講和条約が発効し、終戦を迎えたにもかかわらず、戦後68年目を迎えてもなお他国の強大な基地が存在し、5万人を超す米軍が駐留しているのか。米軍基地問題を追いかけていくと、そこには、この国の民主主義と政治の暗部がみえてくる。

この国を覆う闇と悲劇を、東大教授の高橋哲也氏は「犠牲のシステム」と呼ぶ。国民の中に被害者と加害者が併存しているが、加害者に加害意識がない。被害者の痛みは共有されず、犠牲は長く放置され続ける。その「犠牲のシステム」について、高橋氏は著書「犠牲のシステム~福島・沖縄」(集英社新書)の中で、次のように表現している。

「犠牲のシステム」には、犠牲にする者と犠牲にされるものとがいる。それは「或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。そして隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不当性が告発されても、犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する」

犠牲のシステムは、「原発ムラ」と「安保ムラ」で顕著になっている。「安全」といって設置された原発が、放射能をまき散らす。しかし、「絶対に安全」を主張してきた東電も学者も政治かも官僚も、誰も責任をとらない。いや、とれない。「日本・国民の安全を守る」はずの日米安保は、本土復帰後の40年間だけでも5800件(うち約1割=570件が殺人、強姦などの凶悪事件)を越える米兵犯罪被害を沖縄に強いてきた。

この国の犠牲のシステムが、政治学者の丸山眞男がいう「無責任の体系」を含んで存立しているのである。無責任の体系の中で、原発は再稼動され、オスプレイは追加強行配備が決定される。決定する政治家も官僚も自分たちは安全な場所にいて、決して基地や原発の近くに住むことはない。

映画では国による「スラップ(SLAPP)裁判」の実態も明らかにされる。「力を持つ企業や自治体が、声を上げた個人を弾圧・恫喝するために訴える裁判」のことである。静かな環境で平穏に暮らす権利を侵害するために、裁判が国民を弾圧し、言論を封じ込めるための手段とされる。しかも、他国の軍隊が使うための基地建設や訓練のために、司法までがその手先となる。これが、この国の為政者たちの実態である。

国家の「意思」の前では、個人としての国民は「ハエ、蚊」のごとき存在として扱われている。悲しすぎる現実に、目を背けたくなる。知らなければ良かった。しかし、知らなければ、同じように次は「あなた」が、権力の前で傳き、跪かされることになる。

映画では沖縄本島北部の東村高江の集落が「標的の村」となっている実態をクローズアップしているが、オスプレイの配備で、低空飛行訓練の場所は日本全国に広がっている。高知県や愛媛県では、低空飛行訓練による爆音被害が報告されている。

訓練で事故は必ず起きる。沖縄県が確認している数だけでも、米軍機事故は復帰後40年間に540件を数え、うち43件が墜落事故である。死傷者(行方不明含む)は84人にも上っている。

訓練には「標的」が設けられてきた。映画でも紹介されているが、ベトナム戦争時、高江には米軍によって「ベトナム村」が建設され、幼子を含む住民が「標的」役を担わされた歴史がある。戦後、同様に本州、四国、九州の各地で米軍機事故は多発し、多くの国民が事故の巻き添えとなり犠牲になってきた。米軍の低空飛行訓練ルートは、北海道、本州、四国、九州、南西諸島と日本全土を覆っている。「標的」は、高江だけではない。60ヶ所を超すヘリパッドを抱える沖縄は県土全体が「標的の島」となっている。そして、オスプレイに限らず、米軍ジェット戦闘機が、日常的に日本の上空・領海・領土で低空飛行訓練を繰り返しているが、そのことに「標的」となっている国民の多くが気付いていないのである。

日本の法律(航空法)の適用を免除された米軍機が、国民を標的代わりにして住宅密集地の上空を超低空で訓練飛行を繰り返す。その権利を誰が譲り渡しているのか。この国を「標的の国」にしているのは誰か。映画は、事実を淡々と並べることで、この国の政治の闇を浮き彫りにしている。

<前泊博盛(まえどまり・ひろもり)・・・・・1960年生まれ。84年琉球新報社入社。98年から編集委員、2010年より論説委員長を務める。11年に沖縄国際大学教授に就任。1995年、「子供たちの赤信号」でアップジオン医学記事賞特別賞、2004年に外務省機密文書のスクープと日米地位協定改定キャンペーン記事「検証 地位協定~不平等の源流」で第4回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、日本ジャーナリスト会議大賞など3賞を受賞。著書に『もっと知りたい本当の沖縄』(岩波ブックレット)、『沖縄と米軍基地』(角川ONEテーマ21)、『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)など>

○(6)<『標的の村』に彷徨(さまよ)う>(阿武野勝彦・東海テレビ放送プロデューサー、ディレクター)

<安全圏の戯言>

『標的の村』を、どう考えたらよいのか、彷徨っている。ただ、「高江の民を追い詰めているのは、誰なのか。スクリーンを直視できなくなり、私は・・・・・。」などと撫でるようなことを言うのはやめたい。本作は、三上智恵監督の渾身の作品なのだ。カラダを捩じらせて、私も本気で思っていることを捻り出さなければなるまい。
情感に訴えてくる。そういうものに、私は弱い。だから、逆に、揺さぶられる自分の感情を疑う癖がついている。『標的の村』は、私を、激しく揺さぶる。だから、何が反応しているのかを考えている。

国と民の衝突……。座り込みと排除の情景を、これでもかと映し出す。アメリカと日本、本土と沖縄、沖縄と沖縄、抑圧と抵抗、暴力と非暴力、基地を巡る様々な断層が姿を現す。観ていて胸が潰れそうになるのだが、暫くすると、視界がぐらっと変容する。それは、スクリーンの裏に露骨な視線を感じてしまう瞬間だ。例えば、映像を補足する範疇を超えて、制作者の立場を明らかにした語尾でナレーションが畳み込まれる。民を見舞う理不尽を音楽で謳い上げ続ける。これは、明確な演出であり、制作者の視線そのものだ。その視線に、私の感情は揺さぶられ、そして、覚醒する。三上監督は、本作の全国上映を急いでいた。それは、反基地闘争の運動体として映画公開を位置付けていたからだと思う。ドキュメンタリーの映画上映を幾分早く始めたテレビマンとしては、私は、この試みの成就を心から願っている。
ただ、「テレビ局がドキュメンタリー映画の公開なんて、安全圏から何を調子のいいことを……」と言われてきた私には、頭のなかでグルグル回っているシェーマがある。

<組織と個人……>

私の表現の立脚点は、東海テレビというローカル局だ。制作費も配給宣伝費も、この組織から調達している。作品の全国展開が、ステーションイメージの底上げに寄与するという謳い文句で予算は捻出されている。しかし、表現は、極めて私的な発露であり、決して組織の主張などに合致するものではない。これまで、取材する時、放送する時、映画化する時、私は、組織と個人というシェーマを過剰なほど意識してきた。ドキュメンタリーは現実に関わるものだ。その現実と組織は地続きで、つまり、自分の足と足元の関係をどう捉えているかが、表現に滑り込んでくると思っているのだ。言い換えるなら、資本の論理が貫徹し、個人の自由な表現など認めたがらない集団の中で、表現の地平を切り拓く方法を編み出さなくてはならない。それが、私にとって「組織と個人」、そして「表現」なのだ。

<阿修羅と寄り添う人々>

取材者は、三上監督であり、ナレーションも三上監督だ。カメラの向こう側で住民と怒りを共有しているのも、三上監督だ。
しかし、闘いが、高江から普天間へと展開し、座込みと排除の現場で、琉球朝日放送の複数の記者たちが登場し、オンマイクで叫び始める。その瞬間、私は、組織が姿を現したと感じた。記者が絶叫リポートを続ける。「リポートしなくても、見ていれば分かるよ」と、私は幾度も心の中で呟く。しかし、執拗にリポートは続く。そして、一人の記者のリポートが、消え入るようにトーンが落ちて、最期に絶句する。私は、彼の心情を思い、感情を揺さぶられる。しかし、同時に見たくないものを見てしまった、と思った。一枚岩のように組織が出てきて、挙句の果てに、無力であることを表明したように思えたのだ。
「これが、基地問題を抱える地元テレビの本性か……」
社会的正義の実現のためだ、弱者の立場に立った報道だ、お題目のように色々なことを言うかもしれない。しかし、私に見えたのは、組織と個人、つまり、琉球朝日放送と三上智恵監督の裂け目だ。

「主観的中立」という相容れない二つの言葉が接着されて思い浮かんだ。『標的の村』は、この国の報道機関が標榜してきた「客観・中立」ではない。そんなものが無いことは百も承知で、三上監督が、琉球朝日放送の記者たちが、住民の側に立ち、国の理不尽に抗議することに、何の違和感もない。むしろ、徹底的にやり尽くして欲しいと思っている。だから、スクリーンの向こうの阿修羅の如き形相の三上監督と、絶句する記者たちが、どうにも結びつかないのだ。

取材対象に寄り添う、私たちは、そんなことをよく口にする。最近は、冒頭に「○○さんの一年に寄り添いました……」などとナレーションするテレビドキュメンタリーが増えている。テレビに対する信頼が低下し、取材対象との関係が変容し、「取り上げる」という上からの目線ではいられなくなり、「寄り添う」という方便が流行っているだけだ。心優しいテレビマン達が、現実にたじろぎながら浮遊している。だから、「寄り添う」と言いながら、実は、「寄り掛かっている」だけなのだ。取材者と取材対象という何とも言い難い関係を、寄り添うなどと安易にまとめるのはやめたい。

「私たちは、どこに立っているのか。」
記者のリポートを使うなら、例えば、波状的に、いくつもいくつも、途中でリポートをぶった切り、ぶった切っては、またリポートが始まる。リポートは、あっちでもこっちからも聞こえてくる。いつまでも記者たちのリポートが終わらない。そんな演出だってできたはずだ。しかし、『標的の村』は、記者のリポートが整然と展開し、絶句で終息させる。もしかして、三上監督は、自分達の立脚点を、自らに突き付けるために、このシーンを仕組んだのではないか。

沖縄と本土、民と権力……。パラダイムが変わらないことを前提に「報道」という皮をかぶって悲劇をなぞっていはしないか。あらかじめ奪われた地平で、正義をかざして「報道」を演じているだけなのではないか。もっと言ってしまおう。負け続ける「報道」なんて、もうたくさんだ、と。
三上監督は、自らの徹底的な主観の中に、同僚たち、そして組織を誘い込み、尖った刃を突きつけたのではないか。「私たちは、一体、どこに立っているのか。」

<絶望と時限爆弾>

言葉で拮抗できないような現実を目の前にすると、無言で見詰め、最後の最後、映像を差し出すしかない、私は、そう思ってしまう。表現に至る過程は、取材対象との間合いを熟考し、ナレーションを抑制し、余白を多く残したいと思う。観る人の想像力を信じているからだ。『標的の村』は、私の志向している表現とは対極にある。間合い、余白など、どうでもいい、高江の、沖縄の、そして、日本の現実をあからさまにぶち込む表現だ。その露わな表現の中に、重い問いを仕込んでいるのだ。

「何十年、こんなことを続ける!?ウチナンチュ同士ばかりで!?」「警察も本当はこんなことやりたくないんだろ。誰か意地を出して、署長に、帰ります。これ以上、県民と闘いたくないですって言えよ!!」

『標的の村』を観終わってから、排除の際に展開した場面がずっと、私の頭から離れない。民衆の突き上げをくらう若き那覇防衛施設局の職員、そして、沖縄県警の警察官の姿である。困ったような、悲しいような、無表情を装うような、あの若い警官の顔……。あの場面に、最も胸が詰まったし、胸が締めつけられたし、胸が潰れた。正直に打ち明けるが、このシーンを見て、私は権力の側にいる彼らの視線でスクリーンを見詰めていたことに気がついた。私は、問い詰められている側にいたのだ。

南国に降り注ぐ太陽の下で、繰り広げられる絶望的な対立……。
三上監督の狙いは、これなのか……。
罪深き骨肉の争いを持ち込んだのは、誰なのか。そして、この構図を温存させているのは、一体誰なのか。
観る者の心に、いつ、どんな風に炸裂するか分からない時限爆弾のような問いを、三上監督は、埋め込もうとしているのかも知れない。

<阿武野勝彦(あぶの・かつひこ)・・・・・1959年生まれ。主なディレクター作品に「ガウディへの旅」、「村と戦争」、「黒いダイヤ」、「約束~日本一のダムが奪うもの~」など。プロデュース作品に「とうちゃんはエジソン」、「裁判長のお弁当」、「光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日~」など。2009年に日本記者クラブ賞、12年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。11年よりテレビ局制作ドキュメンタリーの劇場公開を始め、『平成ジレンマ』『死刑弁護人』『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』でプロデューサー、『青空どろぼう』『長良川ド根性』で共同監督を務める。劇場公開の第6弾となる『ホームレス理事長』が待機中>

○(7)<ディレクターズノート>(三上智恵・みかみちえ)

<事実だった「標的にされた村」>

「米軍は私たちをターゲットに訓練をしている」「上空のヘリから銃を向けられた」。初めて高江の人々の話を聞いた時は、まさかと思った。あんな訓練場に囲まれて暮らしているのだから被害妄想気味になるのも無理はない、と。沖縄県本島北部。やんばるの森の中にある東村高江。木を伐り出し、竹を取って山原船に乗せ細々と生活をしてきた山村だが、戦後、集落だけを残してまわりが米軍のジャングル戦闘訓練場に取られてしまった。おかげで頭上にはヘリが飛び交い、日常的に銃声が響く。顔まで迷彩色に塗った兵士が庭先に現れる。高江に通い、何度もヘリに頭上を旋回されれば、確かに目標物になった気分になる。それでも、いくら米軍でも日本の国民を標的扱いまではするまい、そう思っていた。「ベトナム村」の歴史を知るまでは。

ベトナム戦争当時、高江に接する訓練場内にはベトナム風の家屋を並べた訓練場が作られていた。兵士はそこで、村に潜む南ベトナム兵を見つけ出して確保、家畜を殺して野営する実践的なゲリラ訓練をしていた。その村に、高江の住民がベトナム人役として度々駆り出されていたのだ。沖縄でも知られていないが、当時の新聞、USCAR(米国民政府)の写真、アメリカ軍の記録フィルムに辿り着いて、事実だったと愕然とした。

<なぜ「ベトナム村」は表に出なかったのか>

老女Kさんは証言する。「子供まで連れて行ったさ。米兵が匍匐前進してきて銃をかまえたら“伏せろ”と言われ、地面に伏せた。帰りに、デザート付き食事をもらって帰った」。が、その老女は頑としてインタビューを拒否した。家族に防衛関係者がいるのも理由の一つだった。しかし高江の年配者の口はいずれも重い。「軍には世話になった。毛布もくれたし道も作ってくれた」「怖い思い?したことはないよ。」高江では軍を悪く言う人は少ない。当時の新聞には焼夷弾を落とされた事件や暴行未遂、誤射など悲惨な出来事の記録がある。それでも住民にとっては、船でしか行けない那覇の行政システムや、まして遠い日本国などより、食べ物をくれたり学校を作ってくれるアメリカ軍のほうがよっぽど頼りになった。今さら「私達は人権を侵害されていました」と訴え出るつもりもない。50年前のベトナム村の出来事は歴史のエアポケットに落ち込み、消えかかっていた。人権蹂躙なんて当時はどこにでも転がっていたのだ。

<歓迎されない取材>

そんな米軍や戦闘訓練場と折り合って生きるしかなかった人々にマイクを突きつけ「ベトナム村でベトナム人の役をしたのですか?」と聞くのは残酷だ。「ひどいことをされた」と思うよりも「軍には協力した。ギブアンドテイクだった」と記憶する方が楽だ。

高江だけではない。60年も軍との共生を強いられた地域は、反対運動でヒリヒリするようなせめぎ合いを続けるよりは、鈍感になるか、損をして得を取る発想に転換するしかなかった。「ベトナム村」を蒸し返す取材は、これからも折り合って生きていこうとする小さな集落に歓迎されるものではなかった。だからといって、私達は報道をやめるわけにはいかない。そこには重大な人権侵害が「あった」のだ。そしてそれは過去のことではなく、今まさにオスプレイのヘリパッドを高江集落の周囲に配置するという「生ける標的の村」として繰り返されようとしているのである。戦後も、復帰後も米軍の戦争訓練に巻き込まれ続け、我慢に我慢を重ねてもなおヘリパッドを増やされる高江集落。それは、今の沖縄の縮図そのものなのだ。

<辺野古の次は高江>

高江に入ったのは2006年だった。2004年、2005年と辺野古基地建設に反対する海上闘争を丁寧に取材してきた私達は、それが「沖縄県民の負担を減らして普天間基地を返すための移設である」という日米政府の口実がデタラメであること、すべてオスプレイの配備ありきだったことを過去の文書などから地道に報道してきた。その流れから、高江の新設ヘリパッドは辺野古と一体でオスプレイの訓練に使われること、高江が次の焦点になることも自明だった。既存のヘリパッドが15箇所ある中で、なぜか高江集落を囲むように計画された6つのヘリパッド。地域からは即座に反対の声が上がった。ところがヘリパッド反対を掲げて当選した東村の伊集盛久村長は容認に廻り、仲井眞弘多沖縄県知事も「負担軽減のための移設」とする国の立場を支持してしまう。村にも県にも見放された高江区民は座り込むしかなかった。孤立無援になった高江の声に耳を傾けるメディアも少なかった。そんな時、住民15人の元に裁判所から分厚い封筒が届く。国が住民を「道交法違反」で訴えたのだ。

私は血の気が引いた。こんな小規模な座り込みを司法の力を借りてまで徹底的に潰そうとする国。それは辺野古で海上の座り込みに手こずった国側が「通行妨害」という名目で「座り込み」自体を禁じ手にし、今後の辺野古や未来の沖縄の抵抗すべてを封じ込めようという布石の第一歩。この裁判は、国家権力の沖縄の抵抗の歴史そのものへの挑戦でもあった。

<7歳の少女を被告にした「国」>

サラサラ流れる川と森に囲まれたお伽話のような手作りの家。高江の「カフェ山?」は沖縄には珍しいカフェで、最初に訪れた2006年早春、一人娘の海月(みづき)ちゃんは男の子のようなくりくり頭で、裸足でお兄ちゃんと走り回っていた。オスプレイ用ヘリパッドに最も近くなってしまうこの家の主、安次嶺現達さんは住民運動の中心的な存在になっていく。訴えられる直前、7歳の海月ちゃんはこう言った。「ヘリ?怖い。もしこっちに落ちたらぁ、もう、いらないおもちゃは捨てて、大事なのは持ってお引っ越しする。お着替えも。靴下も・・・・・」頬に小さな手を当てて「もしも」のことを考える姿に胸が痛んだ。国はこの少女を始め15人を被告にしながら、容赦なく作業員を送り込んでヘリパッドの建設を進める。連日、座りこみ現場では怒号が飛交い、非暴力ながら体を張った抵抗が続く。楽器が得意で優しい海月ちゃんのお父さんは、畑を放り出して駆けつける。他のお父さんたちも形相が厳しくなり、5年に及ぶ座りこみで高江の人々もすっかり疲れ果ててしまった。

<強行配備されたオスプレイ>

そんな高江の抵抗、10万の県民大会や県議会反対決議などあらゆる抗議も空しく、去年10月1日、ついにオスプレイ12機が沖縄に飛来した。配備直前、基地の前に身を投げ出した県民によって普天間基地は史上初の完全封鎖の混乱に陥ったが、大量に動員された機動隊によって排除され、県民同士が対立した傷だけが残った。

オスプレイが沖縄に向けて岩国基地を離陸した朝、普天間ゲート前に駆けつけた高江の関係者も、それを取材する私も、涙を止めることができなかった。しかし海月ちゃんは涙も見せず、ヘリパッド反対の旗を持ち着陸するオスプレイに拳を突き上げていた。そしてグダグダで質問もできない私に向かってこう言った。「もしもお父さんお母さんがオスプレイ反対に疲れてしまったら、私が代わりにやってあげたい」。おもちゃを持って逃げると言っていた少女は、たった11歳で沖縄の悲劇を背負おうとしていた。この島と国家の不幸な関係を、我々は子供の世代に丸投げしてしまったのだ。1995年、米兵に暴行を受け、それを勇気をもって告発したのも沖縄の少女だった。この17年、私たち大人は一体何をしていたのだろう?

<沖縄局から全国の劇場へ>

この「コザ暴動」以来といわれた普天間基地封鎖の混乱は、全国報道からほぼ黙殺された。各局カメラマンは大勢いたが、機動隊との衝突を報じたのは私の知る限りANN系列だけだった。その普天間ゲート前のシーンを入れた「標的の村」46分バージョンも沖縄ローカル放送で終わっているので、知らない人がほとんどだろう。しかしすぐにネット上に上げられ、こんな地味なドキュメンタリーがアクセス数3万を超えた。これまでにない現象だった。オスプレイの強行配備の背景も、ここまでの抵抗も、すべてが今正念場を迎える辺野古の基地建設に繋がっていく事も、何も伝わっていないと焦る一方で「沖縄の現状をちゃんと知りたい」「これ以上、知らないことで加害者になりたくない」という声が届くようになった。

ローカル発の1時間ドキュメンタリーには全国放送のチャンスがない。であれば、情報を持つ全国の人々に向かって、地元放送局がやれることはないのか。それが、本作を作り、初めての劇場公開に乗り出す動機になっている。ローカル放送版46分の2倍の91分になっているが、特にテレビでは流せなかった「非暴力・実力行使」の場面は、賛否分かれるかも知れない。しかし実際の反対・阻止行動が内包する危うさや切迫感、その中で沸き起こる歌や笑い、衝突の怒りが次の瞬間、相手に対する敬意に変わる場面など、日々展開される実際のドラマをオブラートに包むことなくスクリーンに映し出したかった。沖縄は何と闘っているのか。誰がこの状況を作りだしているのか。その目で見届けて、高江の子供たちの笑顔を奪うものの正体を暴いてほしい。

<「標的の村」自主上映会募集中・・・・・問い合わせ「合同会社 東風」160-0022新宿区新宿5ー4ー1-306(平日11:00~18:00)
℡03ー5919ー1542  ファクス03ー5919ー1543  E-mail:info@tongpoo-films.jp>

<文責:藤森弘司>

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