2013年7月31日 第132回「今月の映画」
原作:岡本嗣郎 監督:ピーター・ウェーバー キャスティング:奈良橋陽子/ジェーン・ジェンキンス
主演:マシュー・フォックス トミー・リー・ジョーンズ 初音映莉子 西田敏行 夏八木勲 羽田昌義
●(1)「終戦のエンペラー」は、日本の統治機構の不可思議さが炙り出されているように思えます。
まずは、「NHKスペシャル」で放映された番組・・・・・「日本人」<日本人はなぜ戦争へと向かったのか><第4回 開戦・リーダーたちの迷走>を文字化した<2013年1月15日、「トピックス」第86回「驚愕の真実・戦犯とは何か(後編)」>を、是非、ご参照ください。 また、下記の<(2)STORY>に、「戦争を始めたのが誰かは分からない。だが、終わらせたのは天皇だ」とありますが、壊滅的な被害を受けた「太平洋戦争」を誰が始めたのか分からないとは摩訶不思議なことです。 さらには、「現人神(あらひとがみ)」と尊崇されていた昭和の天皇陛下の決断を、下記の(9)・・・・・ <宮城事件>・・・・・日本の降伏に反対する陸軍将校らがクーデターを画策し、1945年8月14日深夜から15日未明にかけ、終戦の詔書の玉音(天皇の肉声)を録音したレコード盤を奪取しようとしたクーデター未遂事件。決起した将校らが皇居を守る近衛師団長を殺害し、一時、皇居を占拠したものの、陸軍上層部に賛同は広がらず、結局、失敗に終わった。 とあるように、皇居を襲撃するとはいやはやです。天皇陛下の存在って一体全体どんなものだったのでしょうか? |
●(2)平成25年6月14日、夕刊フジ「井沢元彦 激闘の日本史」
<戊辰戦争の人々> 歴史は勝者によって作られる。 問題はその時代に形成された常識や誤解曲解が、昭和20年以降も残っていることである。しかしもはやそんな時代ではない、だから本当のことを述べよう。 まず第一に、松平容保が薩摩とともに長州を追放した「8月18日の政変」の時点で、長州は朝敵であり逆賊であったということだ。 一つは前回も述べた情報の問題がある。われわれは情報化社会という、基本的に情報が公開され国民がそれを共有することが当たり前の社会に生きている。新聞も雑誌もテレビもラジオも、インターネットすらある。 考えてみればひどい話だ。だから実はこうした時代こそ宣伝が必要なのである。この時代よりも300年も前の織田信長は、将軍足利義昭を追放する前に、いかに義昭があく将軍であるかという「宣伝文書」を作り全国の大名にばらまいている。石田三成も打倒徳川家康の兵を挙げる際に「糾弾文書」を作っている。戦国時代の日本人にはそういうセンスがあった。また長州の高杉晋作もそういうセンスを持っていた。残念ながら会津人には全くなかった。正しいことをしていれば天はそれを必ず認めてくれる、と思っていたのである。 二つ目の理由だが、これがちょっとわかりにくいかもしれない。実は朱子学である。正確に言うと、「神道と合体した日本的朱子学」といったほうがいいが、三条実実ら天皇と直に接触する機会のある人間は、さすがに「自分たちは天皇の意思とは違うことをやっている」という自覚があったはずである。彼等もそれが認識できないほど馬鹿では無い。しかしそれでも天皇の意思を無視するという「不忠」になぜ走るのか? それは現実に生きて存在している孝明天皇より、彼等の中で理想化され神格化された「天皇像」の方に忠実だからである。といってもそれは身も蓋も無い言い方をすれば彼等の勝手な「思い込み」なのだが、彼等にとってみれば「あるべき天皇像」とは倒幕に立ち上がる天皇であり、だからこそ現実の孝明天皇の意思を無視してまで倒幕の方向に日本を誘導するのが正しいということになる。 それに対して「現実の天皇」の意思を尊重すべきというのが容保の立場なのである。 |
○(3)(パンフレットより)<『終戦のエンペラー』を制作するにあたり>
イラクやアフガニスタンでの出来事、今なお世界中で終わることのない争いの数々――。平和を願うもののひとりとして、世界が再び同じ過ちを起こさないために何かできることはないか――常々そんな想いを抱いてきました。 ハリウッド映画のキャスティングに携わる中、『ラスト サムライ』、『SAYURI』、『47RONIN』など、アメリカ側から日本をテーマに描いた映画のキャスティングを依頼されることが多々ありました。そうした中で、日本から世界へ紹介できるようなテーマがあってもいいのではと考えるようになったのです。興味深いストーリーと強いメッセージ、日本、そしてアメリカ――。そんな時、1冊の本と出会いました。 日本を愛したアメリカ人と、そのアメリカ人に日本の魅力を伝えた日本人留学生。戦争が始まりふたりの交流はいったん途絶えてしまうのですが、終戦後、彼はGHQのマッカーサーの部下となって再び日本へ来ることになるのです。そして、その後の日本の運命を決定づけるある調査に関与していきます。もしも日本という国に、そして日本人に関心のない人物がその任務についていたとしたならば、この国は今とは違う未来を辿っていたかもしれません。 本作は事実に基づいていますが、フィクションの部分もあります。私たちは今回ドキュメンタリーを作っている訳ではないので、より本作のテーマを感じとって頂けるように、様々な変更を加えこの映画を製作しました。日本を理解しようとしたアメリカ人、誇りを守ろうとした日本人。終戦直後、依って立つべき価値観をなくし、混乱の渦中にあった日本が、どのように新しい道を歩み始めたのか。その歴史を振り返ることは、現代の私たちに大切な何かを教えてくれるのではないでしょうか。 さて、劇中に登場する関屋宮内次官は、私の祖父(関屋貞三郎/奈良橋の母方)にあたり、共同プロデューサーであり、息子である野村祐人の曾祖父にあたります。その為、この映画は私たち家族の話でもあります。父(奈良橋一郎)は外交官で、私は子どもの頃から外国との関係を身近に感じていました。些細な行き違いから始まる誤解や喧嘩。ひとりひとりがそれぞれ平和を願う立場を理解すれば、戦争はなくせる――。私自身が孫を持つ今、心から平和な未来を願うひとりの人間としてこの映画を皆様にお届けします。 『終戦のエンペラー』プロデューサー・・・奈良橋陽子 |
○(4)<STORY>
<1945年8月30日、マッカーサー元帥、日本上陸・・・> 第二次世界大戦で降伏した日本に、GHQを引き連れたマッカーサー(トミー・リー・ジョーンズ)が降り立った。武器も持たず、悠然とコーンパイプをふかしたのは、日本国民に史上最悪の戦争の終結を知らしめるためだった。 直ちに、A級戦犯の容疑者たちの逮捕が命じられる。日本文化の専門家であるボナー・フェラーズ准将は、“名誉”の自決を止めるため、部下たちを急がせる。前首相の東條英機は自ら胸を撃つが、心臓を外して未遂に終わる。 <マッカーサーがフェラーズに命じた、ある極秘調査・・・> マッカーサーはフェラーズに、困難な極秘任務を命ずる。戦争における天皇の役割を10日間で探れというのだ。連合国側は天皇の裁判を望み、GHQ内にもリクター少将をはじめ、それを当然と考える者たちがいる。だが、マッカーサーは、天皇を逮捕すれば激しい反乱を招くと考えていた。さらに君主を失くした日本に、共産主義者が入り込むことも恐れていた。 生々しい空襲の跡を見て、フェラーズは崩壊寸前の日本を助けようと決意するが、そこには個人的な想いもからんでいた。大学生の頃、フェラーズは日本からの留学生アヤと恋に落ちるが、彼女は父の危篤のため帰国していたのだ。あれから13年、フェラーズは片時もアヤを忘れたことはなかった。 <近衛元首相が明かす、パールハーバー直前の駆け引き・・・> まずは、開戦前後の天皇の言動を証言できる者を捜さなければならない。フェラーズは巣鴨拘置所で軍事裁判を待つ東條を訪ね、証人を選ばせる。それは、開戦直前に首相を辞任した近衛文麿だった。 辞任の理由を告白され、衝撃を受けるフェラーズ。開戦の3ヶ月前、戦争回避のため秘密裏に米国側と接触したが、国務省が事実上拒否したというのだ。近衛は、罪は日米双方にあると強く主張しながらも、証人として天皇に最も近い相談役である内大臣、木戸幸一の名をあげる。木戸はフェラーズの要請に応じ、料亭を面会場所に指定するが、現れることはなかった。 <日本文化を愛するフェラーズの、秘められた過去・・・> アヤの捜索を頼んでいた運転手兼通訳の高橋からフェラーズに、アヤが教員をしていた静岡周辺は空襲で大部分が焼けたという悲しい報告が届けられる。 5年前、任務で日本を訪れたフェラーズは、アヤを訪ねていた。アヤは「日本兵の心理」という論文執筆に行き詰るフェラーズを、おじの鹿島大将に引きあわせる。鹿島はフェラーズに、日本人の心理や天皇への格別な忠誠心について教えてくれた。アヤは米国人とは結婚しないという亡き父との約束を秘めていたが、再会したふたりの想いは静かに燃え上がる。だが、開戦が再びふたりを引き裂いた。 <マッカーサーの命令書を楯に、立ち入り厳禁の皇居へ・・・> 調査は行き詰まり、フェラーズはリクターからマッカーサーの大統領戦出馬に利用されているだけだと忠告される。宮内次官の関屋貞三郎に狙いを定めたフェラーズは、マッカーサーの命令書を楯に強引に皇居に踏み込みむ。関屋は開戦前の御前会議で、天皇が平和を望む短歌を朗読したと語る。フェラーズは説得力のない証言に腹を立てて立ち去る。 「無実を示す証拠は皆無」という報告書を仕上げるフェラーズ。ところが、深夜に人目を避けて訪れた木戸が、天皇が降伏を受託し、反対する陸軍を封じるために玉音放送に踏み切り、なんと千人の兵士から皇居を襲撃されたという経緯を詳細に語る。だが、その話を証明する記録はすべて焼却、証人の多くも自決してしまった。 <日本の未来を決定した、世紀の会見・・・> 戦争を始めたのが誰かは分からない。だが、終わらせたのは天皇だ・・・フェラーズはマッカーサーに、証拠のない推論だけの報告書を提出する。マッカーサーは結論を出す前に、天皇本人に会うことを希望する。 異例の許可が下り、社交上の訪問としてマッカーサーと会うという建前に沿って、ついに天皇がマッカーサーの公邸に現れる。だが、天皇は周りの誰も知らない、日本の未来を決める、ある一大決意を秘めていた・・・。 |
○(5)<ダグラス・マッカーサーについて(1880~1964)>
戦争の歴史の中で最も平和的な占領を行なった軍人として称賛される。1945年当時、いずれアメリカ大統領に立候補することが確実と思われていたが、1951年朝鮮戦争におけるトルーマン大統領との意見衝突により解任される。5年9ヶ月余日本に滞在。マッカーサーが帰国の途につく沿道には20万人の日本人が詰めかけたという。帰国後の退任パレードではアメリカ人にも熱狂的な祝福を持って迎えられた。 翌年、再び大統領選出馬を画策するも失敗。ヴァージニア州にあるマッカーサー記念館には、夫妻の墓やトレードマークだったコーンパイプなどの私物が展示されている。その中には、伊万里、久谷、薩摩の磁器などマッカーサーが持ち帰った日本の工芸品も展示されている。 <マッカーサーの生涯> *1880年1月26日、軍人である父の任地、アーカンソー州の兵舎に生まれる。 *1899年、ウエストポイント米陸軍士官学校にトップ入学。 *1903年、同学校を卒業。工兵隊勤務としてフィリピンに配属。 *1905年、駐日米大使館付武官を務めていた父の副官として、初めて日本を訪れる。 *1914年、陸軍省に戻り、広報部を担当。第一次世界大戦勃発。 *1922年、フィリピン勤務を命じられる。10月にマニラ入り。 *1930年、米陸軍最年少で、参謀総長に就任。 *1935年、参謀総長を退任し、フィリピン軍の軍事顧問(元帥)に就任。 *1941年、太平洋戦争勃発。フィリピン駐屯の極東軍司令官に就任。日本軍と交戦。 *1945年、日本のポツダム宣言受託を受け、連合国軍最高司令官として日本入り。 *1950年、朝鮮戦争勃発。国連軍の全指揮権を付与される。 *1951年、トルーマン大統領と意見が衝突。連合国軍最高司令官を解任される。アメリカに帰国。4月に連邦議会で退任演説を行なう。 *1964年4月5日、死去(享年84歳)。 |
○(6) <誰もが知る歴史の1ページには、知られざる衝撃と感動のドラマがあった――> 1945年、第二次世界大戦終結。 その時、日本は終わった。そして、再び始まった。 終戦直後の日本で、マッカーサーが命じた極秘調査とは?1945年8月、日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦は終結した。まもなく、マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が上陸。日本は米軍の占領統治を経たのち、再び息を吹き返した。誰もが知っている、歴史の1ページである。だが、そこには、1ページではとても語り尽くせない、驚きの真実が秘められていた。すべては、マッカーサーが部下のボナー・フェラーズ准将に命じた、ある 極秘調査から始まった。この戦争の真の意味での責任者を探せ――。それは日本文化を愛するフェラーズにさえ、危険で困難な任務だった。 本当は誰なのか、終わらせたのは誰か?玉音放送前夜のクーデターとは? その放送に込められた天皇の想いは? 連合国側の本音と、マッカーサーの真の狙いは? マッカーサーと天皇が並ぶ写真が写された理由とは?そして、崩壊した日本の新たなる礎は、いかにして築かれたのか――? 日本の運命を決定づけた知られざる物語が今、始まる。 日本の名優が豪華競演! 監督は、『真珠の耳飾りの少女』(03)のピーター・ウェーバー。撮影は『ピアノ・レッスン』(93)でアカデミー賞にノミネートされたスチュアート・ドライバーグ、徹底的なリサーチで作られた衣装は『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(03)で同賞を受賞したナイラ・ディクソン、大使館や皇居を史実に基づいて再現した美術は、やはり同作で同賞を獲得したグラント・メイジャーと、一流スタッフが顔を揃えた。 実話をもとに、日本の再建というテーマを深く伝えるためのフィクションを織り交ぜた企画を立ち上げたのは、日本人女性プロデューサー・奈良橋陽子(『ラスト サムライ』(03)、『SAYURI』(05)、『バベル』(06)キャスティング)と、役者・プロデューサーとして活躍する野村祐人・親子。ハリウッドが世界に贈る、歴史サスペンス超大作が誕生した! |
○(7)<SPECIAL INTERVIEW><浅井信雄(国際政治学者) インタビュー>
<政治や報道よりも、国と国をつなぐ力となるのは、個人の“心”―― 私は『終戦のエンペラー』が扱っている戦後処理の問題に前々から関心がありまして、この映画に興味を持ちました。第二次世界大戦の終結後、ダグラス・マッカーサーを中心にGHQが行った日本の占領統治に関しては、まだ謎の部分が多く、思いがけなく新しい資料が出てきたりするんですね。数々の証言には食い違いもあるし、米ヴァージニア州ノーフォーク市のマッカーサー記念館には多くの資料が保管されていますが、もちろんアメリカ側の文書だけでは判断できないところも多い。その歴史の空白部分をどう埋めているのか?――という興味もあって映画を拝見したら、巧みなバランスで構成された、とても面白い作品だと思いました。 この映画は、史実にフィクションが盛り込まれています。例えばボナー・フェラーズ准将とアヤのラブロマンスのパートがそうだし、エピソードやセリフには推測でつないでいる箇所もあると思います。でも、それは当然のこと。映画にしろ小説にしろ、実録をもとにした創作物の狙いは、フィクションという形に仕立てることで逆に現実を強く印象づけることです。プロデューサーの奈良橋陽子さんは、劇中で夏八木勲さんが演じている関屋貞三郎宮内次官のお孫さんに当たるそうですね。つまり実際に昭和天皇の周辺にいた要人のご子孫が、自らのルーツを探るように映画作成に臨まれている。ですから、きっと奈良橋さんご自身が「単なる作り物にはしたくないという意識をしっかり持っておられたんじゃないでしょうか。それだけに生々しいリアリティを感じさせる作品だし、難しい題材を取り上げながら、史実をベースにしたドラマとして“王道”の仕上がりという印象を受けました。 映画の作り方として興味深いのは、マッカーサーが部下のフェラーズ准将に「本当の戦争責任者は誰なのか?」と問い掛け、極秘調査を命令するところが物語の重要な起点になっていること。どうやって日本を再生し、新しい国際関係を作っていくか――。このテーマを、現実の政治的観点から見ると、もちろん国同士の利害関係やパワーバランスも大きく絡んでくるわけです。例えば日本に天皇制をそのまま残したことは、アメリカにとっては日本を統治するために都合のいいことでもあった。敗戦のショックで混乱の危機のあった日本国民をひとつにまとめていくには、天皇というシンボルが必要だと考えたんですね。 ただ、この映画ではそういう国際政治上の打算的な側面より、もっと“心”の問題に焦点を当てています。もともと親日家のフェラーズが、日本文化の精神的構造を探求していく過程が描かれていく。それがマッカーサーの決断に影響を与えたという設定になっていますね。思えば実際、戦争が始まる前、日本と諸国の関係が非常に緊迫してきた頃から、日本人を理解するための研究書が海外でたくさん出始めたわけです。特にそんな研究を蓄積し、戦後の1946年に出版されたアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの「菊と刀」は、日本文化固有の価値を分析した名著として有名です。この映画がそのへんの経緯を踏まえているのかどうかは、私には判断できませんが、ただ精神的なストーリーの前面に出すことで、政治や言葉の壁を越えた、異文化同士の相互理解の大切さというメッセージが明確に打ち出されているように思います。 そう考えると、ラブロマンスのパートも大きな意味を持つんですね。つまりフェラーズが請け負った公の任務には、自分が国を越えて愛した日本人女性アヤへの個人的な想いが重なっている。アヤというヒロインは、今の観客には共感しやすい女性像ではないかなと思います。積極的に海外で留学や仕事をしたり、インターネットで世界とつながる現代人の先駆的なキャラクターですね。この映画では、そんな個人の突破力に平和への願いが託されている。世界各地で紛争が繰り返されている現代においても、通用するかもしれない個人の突破力です。個人の突破力が集積すればさらに強い。 この映画ではマッカーサーと昭和天皇の会見という、あまりに有名な歴史の1コマも再現されていますね。それまで日本国民に「神」と崇められていた天皇ですが、長身のマッカーサーと並んだ天皇の、いかにも日本人的なイメージ。その写真が新聞で公表されたのが衝撃だった。あれで、敗戦とういのはこういうことかと、当時の日本国民は痛感したでしょう。今の日本の原型がここで創られたといってもいい。 ただこの映画で描かれているように、戦後処理に際してはアメリカ側も相当悩ましい経験をしたわけです。だから戦争というのは、勝った側にも負けた側にもつらいものを押しつけるなあ、という想いを改めて持ちました。 私は昭和10(1935)年の生まれですから、少年の頃に戦争と軍国教育を体験した世代です。しかも終戦の2週間前に大空襲を受けた新潟県長岡市の出身。海軍軍人の山本五十六が長岡の人でして、戦時中は「軍神」と呼ばれていた。五十六が戦死し、国葬が長岡にもやってきて、私たち子どもも駆り出されて道路脇にひざまずき頭を下げたものです。 当時、子どもながらにびっくりしたのは、長岡の郊外に捕虜収容所があったんです。大空襲の時、ほぼ長岡全域が焼け野原になったのに、なんとこの収容所は爆撃を逃れて残っていた。そして戦後は、ハリウッド映画やTV番組などで夢のように華やかなアメリカ文化を知っていくわけです。それにつれて、巨大な国と戦争したんだなあ、と実感させられていった。でも戦時中の日本政府は、最期は神風が吹いて我々が勝つ、とずっと報道させていたんですから、メディアの持つ影響力というのは本当に恐ろしいものがあります。 同様の問題は現在も続いています。例えば今の日本のマスメディアは、海外諸国の報道の際にネガティブな側面を強調したり、逆に海外では、日本の現状について偏った情報しか流されていない場合も多い。しかし、どこの国だって良い面と悪い面がある。私たちは表面的な情報を鵜呑みにせず、想像力を働かせ、世界各国へのバランスのとれた理解や敬意を持たなければいけない。そして政治や報道よりも、国と国をつなぐ力となるのは、個人の“心”に直接訴えかける映画や音楽のような文化の交流です。その意味でも『終戦のエンペラー』が作られたことには、大きな意義があると思いますね。(談) interview & Text by 森直人 あさい のぶお・・・・・1935年新潟県出身。東京外国語大学卒業。読売新聞社ワシントン支局長、アメリカ戦略国際問題研究所客員研究員、三菱総合研究所客員研究員、(財)中東海外在住10年余、約100ヵ国を調査。現在、明快な解説と的確な分析で新聞・TV・ラジオ・講演・執筆などで活動中。TBS「サンデーモーニング」にコメンテーター |
○(8) <TIMELINE・・・終戦~GHQによる進駐が終わるまで>
<1945年> 8月15日 8月28日 8月30日 9月2日東京湾に停泊する戦艦ミズーリにおいて、対連合国降伏文書への調印が行われる 9月8日 9月11日 9月15日東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、第一生命ビル)を接収 9月16日 9月17日 9月27日 10月4日 10月11日GHQが女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励、児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示 10月15日 12月6日近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令 12月16日近衛文麿、服毒自殺 <1946年> 2月3日 3月6日 4月29日 5月3日 7月23日 11月3日 <1947年> 7月11日マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案 <1948年> 11月 12月23日 <1951年> 4月16日 9月8日 <1952年> 外交文書上で正式に戦争が終わった日は1945年9月2日であるが、講和条約発行まで含めると1952年4月28日が終戦の日となる。 |
○(9)<KEYWORDS & MAP Text by 茶谷誠一(成蹊大学助教)>
<『終戦のエンペラー』をより深く理解するための基礎知識> <近衛内閣> (第一次1937年6月~39年1月/第二次1940年7月~41年7月/第三次1941年7月~41年10月) <東條内閣> 第三次近衛内閣の総辞職後、木戸幸一内大臣が中心となり、敗戦時の責任問題や東條英機の事務処理能力などを考慮し、陸軍軍人の東條を後継首相に推薦した。1941年10月18日に発足した東條内閣は、天皇から国策の再検討を指示されたものの、結局、対米英開戦に踏み切った。サイパン島陥落の責任により、1944年7月18日に総辞職。 <真珠湾攻撃・太平洋戦争> 日米交渉が行き詰まり、アメリカから日本軍の中国、仏印からの全面撤兵などを求めるハル・ノートを提示された日本は、これを最後通牒とみなし、御前会議にて対米英開戦を決意した。1941年12月8日、海軍がハワイ真珠湾に停泊中の米太平洋艦隊を攻撃するとともに、陸軍はマレー半島への上陸作戦を開始し、太平洋戦争が始まった。 <内大臣> 1885年、天皇を補佐するために設置された宮内官。もともとは御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)(天皇と国家の印)を保管し、宮中の文書を管理する仕事をおもな任務としていたが、天皇を「常侍輔弼(じょうじほひつ)」(補佐)する政治相談役としての職務に加え、大正期以降、元老とともに後継首相を天皇に推薦する役割を担い、政治的比重を増した。1940年6月から木戸幸一が内大臣を務めた。1945年11月に廃止された。 <宮内次官> 皇室関係の事務をつかさどった宮内省において、長官である宮内大臣を補佐し、省務全体を整理する役割を担った。1886年の宮内省官制により設置。現在の宮内庁次官に相当する。戦前の宮内省は、「宮中と府中の別」という原則のもと、内閣から独立していた。なお、宮内省と内大臣府は宮中にあった機関だが、組織として別であり、庁舎も別であった。 <陸軍省・陸軍大臣> 戦前、陸軍の軍政事項(人事、編成、衛生など)をつかさどった中央の行政官庁。1872年2月、それまでの兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省に分離した。長官が陸軍大臣であり、国務大臣のひとりとして閣議にも列席し、陸軍の代弁者として時に内閣を苦しめた。戦後の1945年11月30日に陸軍省は廃止され、翌日から第一復員省となった。 <陸軍省・海軍大臣> <ポツダム宣言> 1945年7月26日、米英中3国の首脳名で発せられた対日降伏勧告宣言。その後、ソ連も対日宣戦布告の後に参加した。13項目からなり、日本の軍国主義を排除すべく、占領軍の日本駐留をはじめ、軍隊の武装解除や戦争犯罪人の処罰などを求めていた。同28日、当時の鈴木貫太郎内閣は、「黙殺」すると発表したが、最終的に8月14日、これを受け入れた。 <8月9日の最高戦争指導会議> 広島、長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦をうけ、天皇と木戸内大臣は国体護持のみを条件とする降伏を決意する。1945年8月9日の御前会議において、鈴木首相らは国体護持のみの一条件による降伏を主張したが、阿南惟幾陸相らは、ポツダム宣言にある武装解除、保障占領、戦犯処罰に反発し、意見は3対3に分かれた。最期に天皇の聖断が下り、一条件での降伏を決めた。 <玉音放送> 1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾後に「終戦の詔書」が作成され、翌15日正午に玉音放送として天皇の肉声で戦争の終結を国民に伝えることとなった。放送された文章は難解な漢文訓読文で、雑音も多く入っていたため、内容を理解するのが困難であった。しかし、敗戦を知らせる放送であることが分かると、国民は大きな衝撃をうけた。 <宮城事件> <GHQ General Headquarters> 連合国軍最高司令官総司令部。第二次世界大戦後、日本が連合国の占領下におかれた際の占領管理機関のひとつ。1945年10月2日発足。東京有楽町の第一生命ビルを本部とした。機構は、参謀部と幕僚部からなり、連合国軍最高司令官のマッカーサーを支え、日本の占領政策を遂行した。1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効にともない廃止された。 <極東国際軍事裁判(東京裁判)> 第二次世界大戦後、連合国がポツダム宣言第10項に基づき、日本の戦争指導者の戦争犯罪を審理した国際軍事裁判。従来までの通例の戦争犯罪に加え、侵略戦争の計画、遂行を裁く「平和に対する罪」も採択され、適用された。1946年5月3日に開廷された裁判は、東條英機ら28人のA級戦犯を起訴し、1948年11月の判決言い渡しまで続いた。 <厚木飛行場> 旧日本海軍が本土防衛のために築いた飛行場。現在の神奈川県綾瀬市と大和市にある。降伏に納得しない海軍大佐が騒乱事件を引き起こしたが、数日後に鎮圧された。マッカーサーら占領軍一行は、厚木海軍飛行場への着陸を日本側に伝達した。先遣隊到着後、マッカーサーと幕僚一行を乗せたバターン号(C54輸送機)が8月29日にマニラを離陸、翌30日午後2時15分頃、厚木の地に到着した。コーンパイプをくわえてバターン号のタラップを降りてくるマッカーサーの姿が有名である。 |
<文責:藤森弘司>
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