2013年6月30日 第131回「今月の映画」
奇跡のリンゴ
監督:中村義洋   主演:阿部サダヲ   菅野美穂   伊武雅刀   原田美枝子   山崎努

●(1)<「今月の映画」第129回「舟を編む」>は・・・・・

<<<辞書編纂というコツコツと地味な上に、長期間を要し、周囲から理解されにくい仕事という点で、私の仕事にとても似ているように思えました。何がどうというわけではないのですが、フィーリングが私の仕事にとても似ている感じがしました。>>>

と書きましたが、今回の「奇跡のリンゴ」は、私(藤森)の人生(生き様)にピッタリです。
農薬を使わないリンゴ栽培を工夫するのですが、ありとあらゆる工夫をしても、やることが全部ダメ。食べることにまで事欠く始末。やってもやってもダメ。私自身をそのまま投影して、目が腫れるほどでした。

しかし、その中から抜群に素晴らしい発見をするのですが、その発見が、「独自の栽培方法はリンゴだけでなく、稲など他の作物にも拡大。国内はもとより、世界各国の注目を集め」るほどの大発見になります。ここだけは私と大違いですが、そこに至る苦難の連続は私とそっくりです。私の場合は、苦難の連続だけです。

下記の(3)は、ビッグイシューに載っていた日本を代表するジャズピアニスト・小曾根真氏の、内容こそ違いますが、パートナーに苦労かけた話、そして(4)は、世界最大の種子会社「モンサント」が開発したハイブリッド米の恐ろしい話。そして、(5)(6)(7)(8)は、映画の主人公・木村秋則氏の感動のお話です。

●(2)平成25年6月20日、日刊ゲンダイ「Book レビュー『ソウルメイト・・奇跡を支えた魂の絆』(木村秋則著)」

<奇跡のリンゴ誕生までの苦難>

 「奇跡のリンゴ」で知られる著者のエッセー集。
そもそも氏が絶対に無理だといわれた無農薬・無肥料でのリンゴ栽培に取り組んだのは、農薬を使うたびに体調を崩してしまう妻・美栄子さんがきっかけだった。

しかし、リンゴは花を咲かさず、10年間も悪戦苦闘が続くが、その間、文句ひとつ言わずについてきてくれた妻は、まさに氏にとってのソウルメイトだという。さらに、周囲の批判を一身に受け、婿である氏の挑戦を見守ってくれた義父母や、手を差し伸べてくれたレストランオーナーなど、奇跡のリンゴが生まれるまでの苦難の日々を振り返りながら、陰の力となってくれた人々への思いをつづる。(扶桑社、1300円)

●(3)平成25年6月15日「THE BIG ISSUE JAPAN」

<私の分岐点 小曾根 真さん>

 無償の愛を与えてくれたパートナー。
日々の生活の中から
本当の感謝を伝えたい

 身内のことを言うのは・・・・・と思われるかもしれないけれど、僕にとって、人生最大のターニングポイントは、彼女に出会ったことにつきます。そしてこれからの僕の人生は、彼女が僕にしてくれたことに報いるためにあると思っています。

“魂削る”とはこういうことなんだというくらい、彼女は僕につくしてくれました。彼女がいてくれなかったら、僕はとっくの昔に死んでいたんじゃないかな・・・・・かつての僕はそれくらい破天荒で“オレ様”な性格でしたから。車に乗ればスピード狂、仕事を始めたら周りのことがまったく見えなくなる。身勝手な個人主義で、都合がいいところはいろいろ世話をしてもらうくせに、ここから先はプライバシーって壁をつくって、自分の時間や空間を共有しようとしなかった。

本当に、僕の身勝手さをあげたらキリがないですよ。海外生活が多くて、そのたびに彼女を振り回した。彼女がお母さんの介護で大変だった時も仕事を逃げ道にほとんど協力しなかった。そればかりか僕の世話までお願いした。面倒みてくれる“お母さん”的な存在を期待して、彼女の存在をないがしろにしていたと思う。結果として彼女の時間や女優としてのキャリアを犠牲にさせてしまった。

それなのに、彼女は無償の愛を与えてくれた。自分のことを放ったらかしにして、僕のために時間とエネルギーを使ってくれました。僕の幸せや成功を自分のことのように涙を流して喜んでくれる。でも僕はそれを自分一人の手柄のようにしか思ってなくて、いてもらって当たり前・・・・・と感謝することをしなかった。本当にお子ちゃまです。

自分のことを放ったらかしにして、誰かのために生きるってことを僕はこれまでの人生でほとんどしてこなかった。恵まれた環境に育ったせいもあるかもしれない。それなりの苦労はあったけれど、明日からどうやって生きていくのか、というところにまで追い詰められたことはありません。やりたい音楽を存分にでき、才能を伸ばしてくれる環境が常にあった。まわりにいろんなことをやってくれる人がいて、それを当たり前だと思っていた。10代で海外留学、20代でソロリサイタルと、音楽人生は次々に切り開かれていきました。でも、人間としての部分は未開発のままだった。

キャリアが成功していると、人間的に未熟でも、世の中、まわってしまうことが多いんです。未熟さに気づかせてくれるチャンスがないから、どんどん“オレ様化”しちゃう。仕事もあってお金もあって生活にも苦労してない。「オレのどこが間違ってるの?」ってところに逃げちゃうんですね。でもその陰でたくさんの人を傷つけ、泣かせているかもしれない。そのことに気づいたら、「俺ってそういう性格だから」と卑屈になるのではなく、自分がしでかした醜いこと、汚いこともしっかり受け止めていかなければいけない。

僕の場合、ここではとてもお話できないほどひどいレベルで「彼女を失って当然だよ」ということをしでかした。何も言わなかった彼女から「私が傷ついたと言わないと、あなたは本当に無理なんですね」と言われた。それでようやく目が覚めたんです。

一方で、エゴがないと音楽家はつとまらないという側面もあります。イラッとする気持ちがエネルギーになるから曲がつくれることもある。それはコインの表裏のようなもの。そのバランスを取ってくれるのが、感謝する気持ちなんだと思うんです。

感謝ってプレゼントとか言葉とか直接的なものだけじゃない。「ありがとう、感謝してるよ」って口で言っても、本当かどうかは一緒に生活していればわかるものでしょう。本当の感謝はおのずと出てくる言葉や態度から表れるもの。だから日常が大切だと思うんです。

今年で結婚して18年。彼女がどれだけの時間を僕のために使ってくれたのか?時間は取り戻せないけれど、その時間が無駄になっていなかったと思えるように、彼女にどうやったら幸せになってもらえるのか、日々、考えながら歩んでいきたいと思います。(飯島裕子)

おぞね・まこと・・・・・1961年、兵庫県生まれ。父の影響でジャズに興味をもち独学で音楽を始める。ボストンのバークリー音楽大学を主席で卒業。米CBSと日本人初の専属契約を結び、アルバム『OZONE』で世界デビュー。日本を代表するジャズピアニストとして活躍している。

●(4)「わが身に危険が迫ってもこれだけは伝えたい 日本の真相!」(船瀬俊介著、成甲書房)

<害虫でアジア米作地帯壊滅・・・モンサントの仕掛けた罠(p233)

「種子を支配される」ということは「農業を支配される」ということだ。
それは「食料支配」に通じる。
国際的食糧危機もモンサント社によって演出されている。

たとえば、インドシナ半島から中国南部にかけては、世界屈指のコメの生産地帯だった。
そこが大凶作に見舞われ、食糧危機から周辺諸国は政情不安に陥っている。
なぜか?それはトビイロウンカという害虫が大発生したからだ。

なぜ発生したのか?それは、まったく農薬が効かない「多剤耐性型」の害虫だからだ。その悲劇の背景にモンサントの策謀があった。以下は国際問題評論家ベンジャミン・フルフォード氏の指摘だ。

「90年代、中国南部からメコンデルタ諸国で、あるコメの品種が大人気になった。アメリカ最大というか、世界最大の種子会社『モンサント』が開発したハイブリッド米と呼ばれる特殊なインディカ米の品種で、従来の2割以上の収穫量アップが見込めるという触れ込みに農家が飛びつき、害虫に強い現地種から収穫量の多いハイブリッド米に切り替わっていった・・・・・」(『勃発!第3次世界大戦』KKベストセラーズ)

“多収穫!”という甘いささやきの裏にワナが仕掛けられていた。
「このハイブリッド米、異常なほどに害虫に弱く、大量の農薬がなければ収穫できない」「じっさい、ハイブリッド米は、水田を農薬に漬けるがごとく生産されている」とその農薬まみれの恐怖を語る。「中国の富裕層が中国産の30倍の値段にもかかわらず、『安全だから』と日本の米を買い占めるのは、そのためなのである」(フルフォード氏)

こうして東南アジア諸国はモンサントの仕掛けたワナにまんまとはまった。
「大量の農薬を撒き続ければ、当然、害虫を食べる益虫益鳥もいなくなる。もともとトビイロウンカに強かった在来種もすでに消滅している。まさにそのタイミングで、2001年頃、突如、多剤耐性型のトビイロウンカが発生したのだ」(同氏)

自家採種自然農法で人類の農業を復活させよ!>

食料不安は政情不安を呼び、さらに反乱、内戦から戦火が世界に広がる。まさに地球を支配する石油・軍事・金融の巨大3大メジャーのシナリオどおり。ことは着々と進んでいくのだ。
日本もこの悪魔のシナリオに組み込まれていることを、忘れてはならない。

昨今、世論を二分しているTPP協定も、その正体はアメリカによる日本の植民地化条約だ。つまるところ米国を支配する巨大メジャーの軍門に日本が屈服することを意味する。
「百姓」という言葉は、「百の作物を育てる」という意味だ。
ほんらい農業国である途上国が食糧高騰で飢えている。それは、伝統的自給農業が国際資本により滅ぼされ、バナナ、サトウキビ、コーヒーなどの単品栽培(モノカルチャー)を強制されているからだ。そうして主食穀物は欧米先進国からの輸入への依存を押しつけられている。

では、どうしたらいいのか?
世界中の農家は、種を自家採種し、古来からの伝統品種を復活させる。その原点に戻る時だ。そして究極的には・・・・・「無農薬、無施肥、無除草、無耕起」・・・・・。「農聖」と称えられた、かの福岡正信翁の自然農法の理想に回帰する。

それこそ真の農業再生の道である。今こそ、強く確信してやまない。

藤森注・・・・・まさに、「奇跡のリンゴ」の主人公・木村秋則氏が編み出した「リンゴ栽培」の結論です。「現在、独自の栽培方法はリンゴだけでなく、稲など他の作物にも拡大。国内はもとより、世界各国の注目を集めて」います>

○(5)<パンフレットより>

<Introduction>

 リンゴはとてもデリケートなくだもので、
年に何度も農薬や肥料をやり、
気の遠くなるほどの手間をかけてやらないと
絶対に実らないと言われています。

この映画は壮絶な辛苦の果てに、
無農薬栽培で甘くて美味しい“奇跡のリンゴ”を
生み出したある家族の物語です。

2006年、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介され、
大きな反響を呼んだ実在のリンゴ農家・木村秋則に扮するのは
舞台、映画、ドラマと幅広く活躍し、人気、実力共に
日本を代表する演技派俳優・阿部サダヲ。

妻・美栄子には数々の映画、ドラマで圧倒的な人気を誇る菅野美穂。
そして秋則の義父には日本の誇る名優・山崎努。
さらに、池内博之、原田美枝子、笹野高史、
伊武雅刀らの実力派が脇を固めています。

○(6)<Story>

 1975年、青森県弘前。
リンゴ農家の木村秋則は、
妻・美栄子の身体を心配していた。

美栄子は年に十数回も散布する農薬の影響で
皮膚がかぶれ、数日寝込むこともあったのだ。

そんな妻を想い、秋則は無農薬による
リンゴ栽培を決意する。

しかし、それは“神の領域”といわれるほど
“絶対不可能”な栽培方法。

数え切れない失敗を重ね、
周囲の反対にあい、
妻や3人の娘たちも十分な食事にありつけない
極貧の生活を強いられる日々。

それでもあきらめなかった秋則は、
11年にわたる想像を絶する苦闘と絶望の果てに
常識を覆すある“真実”を発見する・・・・・。

○(7)<リンゴ農家 木村秋則>

 1949年生まれ、青森県中津軽郡岩木町(現・弘前市)出身。68年、弘前実業高等学校商業科を卒業。集団就職で川崎市の電機メーカーに就職するも、1年半で退職し弘前に戻る。72年、美千子さんと結婚。無農薬リンゴの栽培を始める。その壮絶な苦労は、06年にNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介され、大反響となる。現在、独自の栽培方法はリンゴだけでなく、稲など他の作物にも拡大。国内はもとより、世界各国の注目を集めている。

・・・・・まずは映画のご感想を。
<木村さん>昔を思い出して涙が溢れました。「明日を考える」とよく言いますが、私は今日を考えなければならなかった。当時はどん底の生活でしたから、無農薬リンゴの栽培をやろうとしたことに後悔もありました。
でも、弱音を吐くわけにはいかなかった。文句も言わずに応援してくれる家族のためにもリンゴを実らせなければと思い、バカになったわけです。害虫への警告を書いて、首から提げて歩いたのも本当の話です(笑)。
あらゆる出来事が忠実に描かれていたので、スクリーンをまともに観られなかったですね。劇場内が暗くなると涙をさっと拭くんですが、なかなか暗くならないと、ただ生温かいものが頬を流れました(笑)。

・・・・・奥様への思いは?
(木村さん)女房には無理ばかりさせてきましたが、他の人と一緒になっていれば、私は奇跡のリンゴは作っていなかったと思います。この栽培に取り組むきっかけも女房でしたし、彼女がいたからできたことです。

・・・・・リンゴの花が咲いたときのことは覚えていらっしゃいますか。
<木村さん>あのとき、畑全体が白かったんです。リンゴの花は、つぼみのときは赤いんですが、それが開くと白い。桜の花は下を向いて咲くのに、リンゴの花は上を向いて咲くんです。あのときの感激は、言葉では表せない。今も忘れられないですね。

・・・・・ご自身の実話が映画化されたことについてはいかがですか?
<木村さん>自分が生きているうちに映画になるのは不思議な気もしますが、何とも言えない嬉しさ、喜びがあります。
娘たちも今、この栽培に誇りを持ってくれていて、父親として、とても嬉しいですね。この映画は私にとっては夢です。でも私一人でこの道を歩いてきたわけではありません。家族みんなが私に協力し、ひとつの夢を追ってきたわけです。その姿がこうして映画になりました。
大勢の方々のお力をいただいたことに深く感謝いたします。

○(8)<リンゴの歴史>

バラ科リンゴ属に分類される「リンゴ」の原種はコーカサス地方(黒海とカスピ海に挟まれた地方)に自生していたものと考えられています。紀元前に古代民族の移動によりヨーロッパに伝わり、古代エジプト、古代ギリシャの都市国家、ローマ帝国でもリンゴはよく知られた果物でした。ただ、それは今よりも極端に小さく、酸味が強い文字通りの「木の実」でした。
アダムとイブが食べた禁断の実はリンゴとされていますが、実際の旧約聖書には「善悪を知る木の実」としか書かれていません。その実が広くリンゴであると考えられているのは、リンゴという単語が英語でもドイツ語でももともと木の実を意味する言葉であるからです。つまり、木の実=リンゴととらえられているほど、リンゴはほかの果物よりも以前からポピュラーであったと考えることができるのです。また、古代ギリシャの文献に、接ぎ木の方法が書かれていることからも、その時代から、接ぎ木によって、味の良い品種、強い品種が広められていったことがわかります。このようにして、リンゴの品種改良は始まりました。近代に入り、農業技術も飛躍的に発展。19世紀のアメリカではリンゴの品種改良はブームとなりました。これまでとは比較にならないほど、新大陸のリンゴは大きく、甘い実となりました。そして19世紀半ばに、リンゴに決定的な革命が起きました。農薬の発明です。

それまでは、たとえ甘く美味しいリンゴの実る木があっても、病害虫に弱ければ育つことができませんでした。しかし、病害虫の征伐を肩代わりしてくれる農薬の誕生によって、人々は甘く美味しいリンゴを実らせることに精力を傾けることが可能になったのです。以降、人類は農薬の使用を前提としたリンゴの品種改良に取り組みました。我々が現在、食べているリンゴのほとんどすべては、農薬誕生以降に生まれた品種です。リンゴが、農薬がなければ病害虫に弱い、デリケートな果物と言われるのはそういうことなのです。

日本には明治初期に本格的にアメリカから持ち込まれました。明治政府は国策としてリンゴの苗木を日本全国に配布しました。当初は全国的にもてはやされていましたが、栽培のむずかしさと適した気候の問題から青森県や長野県、その他の一部の地域以外はあきらめる農家が多く出ました。もちろん、残されたリンゴ農家でも悪戦苦闘が続きました。

一気に広がる病気、

一晩で葉を食べつくす害虫・・・・・。その特効薬が農薬でした。では、農薬を使えば、リンゴは楽々実るのか、というと、そうではありません。その

農薬も1年間に10~16回と決められた時期に、時期に応じて決められた種類、濃度、量を散布しなければ効果がありません。さらに、畑を耕し、下草を刈り、肥料を与え、虫を取り、剪定し、花摘みをし、

リンゴ固体ごとに袋で覆うなど、気が遠くなるような作業があります。もちろん、年ごとにおこる台風や冷害、日照り、少雨などの気象条件にも大きく左右されます。秋にまるまると赤いリンゴが実ったときはリンゴ農家にとって、一年の苦労が報われ、何ごとにも代えがたい至福の感動が得られる瞬間です。木村秋則はその特効薬の使用をやめてしまったのです。農薬を使ってさえ困難なリンゴ栽培を、農薬なしに成し遂げようとする。それは、誰が見ても

“狂気の沙汰”だったのです。

<文責:藤森弘司>

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