2013年5月31日 第130回「今月の映画」
リンカーン
監督:スティーブン・スピルバーグ  主演:ダニエル・デイ=ルイス  トミー・リー・ジョーンズ  サリー・フィールド

●(1)今回の主人公・リンカーンは、私(藤森)が夢中で仕事をしていた20代の時に読んだ、名著「人を動かす」という本の中に描かれていて、その姿がとても印象的でした。そのときの内容は、もしかしたら、私の一生を支えていてくれたのかもわかりません。
たぶん、長年、私の肥やしになってくれていて、還暦を過ぎた頃になってやっと、彼のような心が芽生えてきたように思われます。
<2003年4月「今月の言葉」第8回「不弁他非、弁自非」(他人のことをとやかく言わず、自分の至らないことを反省しなさい)ご参照>にも通じるリンカーンの下記の部分を紹介したいと思います。 「人を動かす」(デール・カーネギー著、山口博訳、創元社)<略>

それからずっと後のことだが、

南北戦争のとき、ポトマック河地区の戦闘が思わしくないので、リンカーンは、司令官をつぎつぎと取りかえねばならなかった。マックレラン、ポープ、バーンサイド、フッカー、ミードの5人の将軍をかえてみたが、そろいもそろって、へまばかりやる。リンカーンはすっかり悲観した。国民の半数は、この無能な将軍たちを痛烈に非難したが、リンカーンは“悪意をすてて、愛をとれ”と自分に言いきかせて、心の平静を失わなかった。“ひとを裁くな・・・ひとの裁きを受けるのがいやなら”というのが、彼の好んだ座右銘であった。リンカーンは、妻や側近の者が、南部の人たちをののしると、こう答えた・・・・・
「あまりわるく言うのはよしなさい。われわれだって、

立場をかえれば、きっと南部の人たちのようになるんだから」ところが、当然ひとを

非難していい人間が世の中にいたとすれば、リンカーンこそ、その人なのである。一つだけ、例をあげてみよう。1863年の7月1日から3日間にわたって、ゲティスバーグ(ペンシルバニア州南部の都市)に、南北両軍の激戦がくりひろげられた。4日の夜になると、リー将軍キカ(漢字がでません。部下)の南軍が、おりからの豪雨にまぎれて後退を始めた。敗軍をひきいて、リー将軍がポトマック河まで退却して来ると、河は夜来の豪雨で氾濫している。とても渡れそうもないし、背後には、勢いずいた北軍が迫っている。南軍は全く窮地に陥ったのである。

リンカーンは、南軍を壊滅させ、戦争を即刻終結させる好機にめぐまれたことをよろこび、期待に胸をふくらませて、ミード将軍に、作戦会議は抜きにして時をうつさず追撃せよと命令した。この命令は、まず電報でミードに伝えられ、ついで、特使が派遣されて、ただちに攻撃を開始するように要請された。ところが、ミード将軍は、リンカーンの命令とまるで反対のことをしてしまった。そのうちに、河が減水して、リー将軍は南軍をひきいて向こう岸へ退却してしまった。
リンカーンは、怒った。
「いったい、これはどういうことだ!」
彼は、息子のロバートをつかまえて叫んだ。
「くそっ!なんということだ!敵は袋の鼠だったじゃないか。こちらは、ちょっと手を伸ばすだけでよかったのに、わたしがなんと言おうとも、味方の軍隊は指一本うごかそうとはしなかったのだ。ああいう場合なら、どんな将軍でも、リーを打ち破ることができただろう。わたしでもやれるくらいだ」

ひどく落胆したリンカーンは、リード将軍にあてて一通の手紙をj書いた。このころのリンカーンは言葉づかいがきわめて控え目であったということを念のためにつけ加えておこう。それで、1863年に書かれたこの手紙は、リンカーンがよほど腹を立てて書いたものにちがいない。

拝啓
私は、敵将リーの脱出によってもたらされる不幸な事態の重大性を、貴下が正しく認識されているとは思えません。敵はまさにわが掌中にあったのです。追撃さえすれば、このところわが軍の収めた戦果と相まって、戦争は終結にみちびかれたに相違ありません。しかるに、この好機を逸した現在では、戦争終結の見込みは全くたたなくなってしまいました。貴下にとっては、去る月曜日にリーを攻撃するのが最も安全だったのです。それをしも、やれなかったとすれば、彼が対岸に渡ってしまった今となって、彼を攻撃することは、絶対に不可能でしょう。あの日の兵力の三分の二しか、今では、仕えないのです。今後、貴下の活躍に期待することは

無理なように思われます。事実、私は期待していません。貴下は千載一遇の好機を逸したのです。そのために、私もまた計りしれない苦しみを味わっています。ミード将軍がこの手紙を読んで、どう思っただろうか?
実は、ミードは、この手紙を読まなかった。リンカーンが

投函しなかったからだ。この手紙は、リンカーンの死後、彼の書類のあいだから発見されたのである。
これは、私の推測にすぎないが、おそらく、リンカーンは、この手紙を書き上げると、しばらくのあいだ、窓から外をながめていたことだろう。そして、こうつぶやいたにちがいない・・・・・
「待てよ、これは、あまり急がないほうがいいかも知れない。こうして、静かなホワイト・ハウスの奥にすわったまま、ミード将軍に攻撃命令を下すことは、私にとっては、いともたやすいが、もしも私がゲティスバーグの戦線にいて、この一週間ミード将軍が見ただけの

流血を目のあたりに見ていたとしたら、そして、戦傷者の悲鳴、断末魔のうめき声につんざかされていたとしたら・・・多分、私も、進んで攻撃を続行する気がしなくなったことだろう。もし私がミードのように生まれつき気が小さかったとしたら、おそらく、私も、彼と同じことをやったにちがいない。それに、もう万事手おくれだ。なるほど、この手紙を出せば、私の気持ちはおさまるかも知れない。だが、ミードは、どうするだろうか?自分を正当化して、逆にこちらを非難するだろう。そして、私に対する反感をつのらせ、今後は司令官としても役立たなくなり、結局は、軍を去らねばならなくなるだろう」そこで、リンカーンは、この手紙を、前述のとおりにしまいこんだのに相違ない。リンカーンは過去のにがい経験から、手きびしい

非難詰問は、たいていの場合、なんの役にも立たないことを知っていたのだ。
セオドア・ルーズヴェルトは、大統領在任中なにかと難局に出くわすと、いつも、居室の壁に掛かっているリンカーンの肖像を仰ぎ見て、
「リンカーンなら、この問題をどう処理するだろう」
と、考えてみる習わしだったと、みずから語っている。
<略>

南北戦争の最中、リンカーンは故郷のスプリングフィールドの旧友に手紙を出して、ワシントンへ来てくれと言ってやった。重要な問題について、相談したいというのである。その友人がホワイト・ハウスに着くと、リンカーンは、奴隷解放宣言を発表することが、はたして

得策であるかどうか、数時間にわたって話した。自分の意見を述べおわると、こんどは、投書や新聞記事を読みあげた。あるものは解放に反対し、あるものは賛成している。こうして、数時間の長談義が終わると、リンカーンひとりがしゃべっていたのだが、それで、すっかり気が晴れたらしい。その友人も、リンカーンは言うだけのことを言ってしまうと、よほど気が楽になったようだと、後で述べている。リンカーンには、相手の意見を聞く必要はなかったのだ。ただ、心の重荷をおろさせてくれる人、親身になって聞いてくれる人がほしかったにすぎない。心に悩みがある時は、だれでもそうだ。腹を立てている客、不平を抱いている雇人、傷心の友など、みなよき聞き手を欲しているのである。<略>

○(2)<パンフレットより>

<INTRODUCTION>

 社会を大きく左右する決断を迫られたとき、未来を見据えた選択ができるかどうかでリーダーとしての資質が決定づけられる。
アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーンは、“すべての人間は自由であるべき”という信念と、その理想が引き起こした国を二分する南北戦争の狭間に立たされながらも、その後の人類の未来を大きく変える偉業を成し遂げた人物として、現在でも世界中に知られている。

アメリカ映画界を代表する巨匠スティーブン・スピルバーグは、伝説化されたリンカーンの実像に迫る作品の製作を12年に亘って温め続け、魂の震えるような感動をもたらす、サスペンスにみちたドラマを構築した。ピュリッツァー賞作家ドリス・カーンズ・グッドウィンの同名ノンフィクションをもとに『ミュンヘン』のトニー・クシュナーが手がけた脚本を得て、最期に至るドラマチックな4カ月間を映像にくっきりと紡ぎだす。

すべての人が自由であるための道を拓くために合衆国憲法修正第十三条を議会で通過させて、悲惨な南北戦争という内戦をどのようなかたちで終結させるか――若者を死地に送る痛みに苛まれながらも、人間の自由を確立しなければならない。葛藤を繰り返しながら、ふたつの命題を実現するために、リンカーンは知恵と勇気、不屈の闘志を駆使する。リンカーンの理想を貫くためにさまざまな策も厭わない現実主義的な一面、これまであまり伝えられなかった妻や子供との葛藤などが、ぐいぐいと引きこむようなスピルバーグの語り口で浮き彫りにされていく。

そこには自らの信念にしたがって、孤立や誤解を恐れずに戦いぬいたひとりの男のドラマが香り立つ。感動的な人間ドラマであると同時に、汲めど尽きせぬ面白さに彩られた、スピルバーグの傑作がここに誕生した。

○(3)<STORY>

 1865年1月、エイブラハム・リンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)が大統領に再選されて2カ月後、彼は大きな苦境に立っていた。自身が目指す奴隷解放の賛否を巡って起こった国を二分する南北戦争は4年目に入り、多くの若者の命が奪われていた。「すべての人間は自由であるべき」だと信じるリンカーンは、自らの夢である<奴隷解放>を実現するには、憲法改正が必要であると考え、合衆国憲法修正第十三条を議会で可決しようとする。しかし、長引く戦争への嫌気から、味方であるはずの共和党の中からも奴隷制を認めて、南軍との平和を実現するべきだという声が強くなっていた。

リンカーンは国務長官ウィリアム・スワード(デヴィッド・ストラザーン)を介して、議会工作を進めるべく指示する。同じ共和党の保守派プレストン・ブレア(ハル・ホルブルック)を使って党の票をまとめても、成立させるためには20票、足りない。リンカーンはあらゆる策を弄するように命じ、スワードはW.N.ビルボ(ジェームズ・スペイダー)をはじめとするロビイストを駆使して、敵対する民主党議員の切り崩しにかかる。その動きを冷静に見つめていたのは、奴隷解放を唱える共和党急進派の下院議員、タデウス・スティーブンス(トミー・リー・ジョーンズ)だった。彼はリンカーンがどこかで妥協するのではないかと考えていた。

リンカーンの妻のメアリー・トッド(サリー・フィールド)は幼い息子を亡くした心労で、夫とは良好な関係とはいえなかったが、心の底では夫を信じていた。リンカーンにとってホッとできるのは末息子のタッド(ガリバー・マクグラス)と過ごすひと時だけだった。そんな中、長男のロバート(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)が正義感から母の強硬な反対を押し切って、北軍に入隊してしまう。リンカーンは学生として、安全な人生を歩んでほしいという父としての願いを抑え、ただ見守るしかなかった。すでに二人の息子を幼くして失っていたリンカーンの妻メアリー・トッドは息子を戦場に送ることに反対し、戦争を進める立場のリンカーンを責める。リンカーンは1月25日、下院議員に合衆国憲法修正第十三条を提出する。

自分の理想のために失われていく多くの命。人間の尊厳戦争終結の狭間に立たされるリンカーン。合衆国大統領として、ひとりの父として、人類の歴史を変える決断が下される。

○(4)<リンカーン年表>

*1860.11.6・・・・・ 奴隷制に反対するリンカーンが第16代大統領に選出される

*1861.2.4・・・・・ 奴隷制存続を支持する南部の6州が合衆国を脱退し、南部連合を結成

*1861.4.12・・・・・ 南軍がサムター要塞を攻撃し、南北戦争が始まる

*1862.9.22・・・・・ リンカーンが南軍支配地域の奴隷解放を宣言する

*1863.11.19・・・・・ 南北戦争の激戦地で“人民の人民による人民のための政治”で有名なゲティスバーグ演説を行う

▼以下、本作で描かれる部分

*1864.11.8・・・・・リンカーン2期目の大統領選に当選

*1865.1.31・・・・・ 憲法修正第十三条が下院で可決され、永久に奴隷制が禁止される

*1865.4.9・・・・・ 南軍のリー将軍が降伏し、南北戦争が事実上終結する

*1865.4.14・・・・・リンカーンがフォード劇場で暗殺される

 

○(5)< リンカーンの光と影~奴隷制度完全撤廃までの道程>

 リンカーン大統領は1809年2月12日に、ケンタッキー州の現在でも3000人未満の人口の小さな町、ホッジェンヴィルに生まれた。2歳年長の姉がいた。彼が2歳になると家族は、現在は立派な「誕生記念館」の建つこの地から20kmほど離れた開拓地に移住、さらに7歳になると隣のインディアナ州のリトル・ピジョン・クリークという開拓地に移った。ここで21歳になるまで過ごしたが、9歳のときに実母と死別している。

継母サラがやって来たのはその1年後だったが、この継母がリンカーン少年に読み書きを教え、積極的に読書することを奨励した。辺鄙な開拓地での記録が残っていないため、彼の幼少期のことはほとんど不明だが、正規の学校教育を受けなかったことはたしかだ。
21歳で親元を離れイリノイ州に移り、様々な職業を経験しながら、独学で幾何学や法律を学んだ彼は、ついに27歳で弁護士になった。その後は、特に弱い立場の人々の味方の弁護士として知られることになった。33歳のときに、ケンタッキー州の上流階級のメアリー・トッドと結婚し、最終的に四人の男児に恵まれた(うち二人は夭折)。スプリングフィールドに家を買い、平凡な生活を送った。

40歳を過ぎた頃から政治に感心を持ち出し、1856年、47歳のときに共和党が創立されるとこれに入党した。2年後の上院議員選挙に出馬し、共和党の公式な候補者になった。民主党の現職議員スティーブ・ダグラスが相手だった。大物議員として知られていたダグラスは、弁護士に成り立ての頃のリンカーンの「親しい友人」の一人だった。運命の悪戯で対決することになったが、最初から勝負は決まっていた。ダグラスは余りにも大きな壁だった。だが、この大物議員相手に数回の公開討論会で果敢に立ち向かった「無名の新人」として、リンカーンの名前は全国的に知られるようになった。

このあとの一年間は演説上手の政治家として全国各地を遊説して回ることになった。
1860年の大統領選挙で勝利して、翌年、第16代大統領に就任した。彼は2期目早々に暗殺されるまで4年42日間その地位に留まることになるが、この期間はほぼ南北戦争と一致する。就任1ヵ月で開戦、そして終戦1週間後に暗殺された。

南北戦争が南部の維持していた黒人奴隷制度が主な原因だったこと、この戦争の最中にリンカーンが「奴隷解放宣言」をして黒人奴隷に自由を与えたこと、そのために彼が「奴隷解放の父」と称されていることは周知のことだろう。
しかし、世に知られた「奴隷解放宣言」は実は「すべての」黒人奴隷を解放したわけではなかった。この宣言が対象としたのは「敵」である南部の奴隷だけだったからだ。ミズーリ、ケンタッキー、メリーランド、デラウェアの4州と南部に加わったヴァージニアから独立したウェスト・ヴァージニアが合衆国、つまり北部に留まっていたために、「敵」ではないこれらの地域の奴隷は解放宣言の対象外だったのだ。

元来、リンカーンは存在している奴隷制度は保持するしかないと考えていた。奴隷制度を持たない北部の人々が南部の奴隷制度を批判すれば、必ず大きな対立となり、それは究極的にアメリカ合衆国の分裂につながると信じていた。したがって、南北統一体としての合衆国(彼はユニオン=Unionと呼んだ)を守るためには奴隷制度を政治問題にしてはならなかったのだ。大統領選挙戦でもこの問題には触れなかった。

皮肉なことに、そんなリンカーンの大統領選直後にサウス・カロライナ州が合衆国から脱退し、これに続いた6州と共に、新しい憲法を持つ「南部連合」を組織した。リンカーンは就任演説でこれら諸州に戻って来いと呼びかけたものの、1861年4月12日、ついに戦争に突入してしまった。
南部にとってこの戦いは奴隷制度を守るためだった。リンカーンにとってはユニオンとしての合衆国を守るためだった。経済力・軍事力で圧倒的に劣る南部はすぐに降伏する、戦いはすぐに終わると誰もが思っていたのだが、南部を率いたリー将軍の卓越した能力のために、戦争は長引いた。

戦争を出来るだけ早く終え、戦死者を増やさないようにしたい一心で、リンカーンは政権内の反対を押し切って南部に対してある提案をした。1862年9月22日のことだ。その内容は100日後の「1863年1月1日に合衆国と戦っている州や地域の奴隷をすべて解放する」だった。つまり、奴隷制度を維持したかったら、翌年の元旦までに戦いを止めろ、というのだ。

この提案を南部が受け入れていたら――南北戦争はその後2年半も続くことはなかったし、62万を超える戦死者も生じなかったはずだった。だが、南部は拒否した。そのために、リンカーンは指定した元旦に「奴隷解放宣言」を出さなければならなかった。戦争を終えたかったのに、終わらず、存続することを許そうとした奴隷制度は崩壊した。戦争終結を目指した「軍事措置」としての宣言はその真の目的を達成するものではなかったのだ。

歴史に残る解放宣言は実は一部地域の奴隷のみの解放にすぎなかったことは問題だったが、また同時に、この戦争終結を目的とした軍事措置は終戦後には効力を失うという問題があった。それは解放された黒人をまた奴隷に戻すという非人道的な政策を意味する。終戦後には、開放された黒人たちの自由を確保したまま、同時に解放宣言の適用範囲外の北部諸州の奴隷を解放しなければならなかった。こうした問題を解決するには奴隷制度を暗黙のうちに認めていた合衆国憲法を変えるしかない。

リンカーンは1863年秋、ちょうどゲティスバーグの演説をする頃、戦争の勝利を確信するとこの作業に取りかかった。戦争が終わる前に、憲法改正の手続きを終えるためだった。上院は1864年4月に憲法修正13条案を可決した。合衆国内のすべての奴隷を解放するという条項だ。しかし、下院では必要な3分の2以上の賛成を得ることができなかった。

1864年の大統領選挙で再選されたリンカーンは、いよいよ終戦が近づく状況のなかで、下院での可決を目指して必死の努力を続けた。この時の様子を忠実に描いたのが、このスピルバーグ監督の映画だ。反対する議員の懐柔、1864年の下院議員選挙で落選した議員の離職後の斡旋など、そして諦め始めた閣僚たちを叱咤激励する彼の姿が感動的に描かれている。
1865年1月31日、ついに下院は修正案を可決した。リンカーンの願いは達成された。黒人奴隷制度撤廃が現実的なものになった。だが2カ月半後の4月14日夜半、観劇中のフォード劇場で一発の銃弾がリンカーンの命を奪った。憲法の手続きに従って、修正案が効力を持つのを彼は見守ることができなかった。

○(6)<“裸のスピルバーグ”が撮り上げた、祈りにも似た映画>

<“概念の誕生”を描いた映画>

 『リンカーン』には驚かされました。まず僕らが慣れ親しんできたスティーブン・スピルバーグらしい商業的なサービスがまったくない。ひとつひとつの画作りに作為が感じられないし、登場人物の芝居も極めて抑制されている。一見するとよく練り込まれたドキュメンタリーのようです。事前に何も知らずに観たらスピルバーグの映画だとはわからなかったのではないかと思います。

むろんユダヤ人でもあるスピルバーグは、歴史の中で虐げられてきた人への共鳴をベースに映画を作ってきました。『カラーパープル』や『アミスタッド』がその代表例です。しかし『リンカーン』では、これら過去の映画にこめられていた強いメッセージ性すら感じられない。リンカーンという人の英雄的な偉大さや彼の苦悩を強調しようとせず、彼に寄り添いつつも、決して近づきすぎないという距離感を慎重に保っている。人間の自由や平等といったテーマを扱いながらも、それを観客に向けて声高に伝えようという力みがない。むしろ科学者のように客観的なスタンスを貫き、ある種の達観さえ感じさせる映画になっています。

元来、映画というのは平等、自由、博愛、正義などの抽象的なテーマを、家族や戦争といった何らかの具体的な題材・物語を通して間接的に描く媒体ですよね。スピルバーグも『カラーパープル』や『アミスタッド』では、それらのテーマをサスペンス、ラブ・ロマンス、ヒューマニズムといった通常の映画で描かれるべき範疇で表現してきたはずです。ところが『リンカーン』はまったく違っていて、別の次元の境地に達している。終盤のリンカーンが大統領執務室で光に包まれるカットでも、死屍累々の戦場を馬で歩くカットでも、ことさら彼の感情を説明しようとしていない。

さらに言うと、映画的には最もおいしい場面であるはずの暗殺シーンすら省略され、リンカーンがただ呆気なく死んでいる様が映される。つまり僕が思うにスピルバーグは、サスペンスやヒューマニズム、戦時下の壮絶な闘いといったいかにも映画らしい外連をすべて排除したうえで、リンカーンという男の頭の中にあったひとつの「概念」が誕生し、社会に定着する瞬間そのものを描きたかったのではないでしょうか。

それまで黒人たちを牛馬のように働かせることで自分たちの豊かな暮らしを担保してきた白人にとって、奴隷解放は何のメリットもなかった。ところがリンカーンという清廉潔白な男の理想と決断によって、「すべての人間は平等である」という概念が生み出された。その概念に他の多くの国々が追従する形で、僕らの20世紀、21世紀の社会は成り立ってきたわけです。スピルバーグは20世紀の映画の新しい技術を開発し、映画の新しい概念を創り出してきたフィルムメーカーです。そんな生粋のハリウッドの映画人であるスピルバーグが個人的な主観を排し、これまで培ってきたあらゆる映画的な手法を駆使しつつ、歴史というものを可能な限り正確に描こうと試みた。奴隷制廃止というひとつの概念が生まれる瞬間に、その裏ではいったい何が起こっていたのか、どんなリンカーンの決断があったのかという主題を、物凄く慎み深く、なおかつきめ細やかに描いている。普通の人間の目では見られないようなディテールまでも、昆虫学者や細菌学者が顕微鏡を覗くようにして映像化しているんです。

<スピルバーグが到達した“今”の境地>

 そもそも歴史や文化といったものは、ひとつの概念によって生み出され、滅びるものですよね。例えば思い出してほしいのは、昨年起こったiPS細胞の誤報問題です。大手メディアの記者が裏付けも取らず、一面に誤った記事を載せてしまった。その瞬間、言わばジャーナリズムという概念が死に瀕したといってもいい。本来は記者たちが足を使って、取材に取材を重ねて一義的な情報を取りに行く。それがジャーナリズムというものの基本なはずです。また、最近の若い学生は論文を書く際に、インターネットの情報に頼って自分の足を使おうとしない。日本の社会の中でジャーナリズムという概念が緩やかに滅びつつあるのではないでしょうか。このようにひとつの概念が滅びに向かう瞬間に、社会の中から大切な価値が失われてしまう。逆に言うと、ひとつの概念が生まれる瞬間にこそ、社会に新しい何かがもたらされるわけです。まさにこの映画でスピルバーグは、真の平等や真の自由といった新しい歴史上の概念の誕生を描こうとした。

スピルバーグがどのようなモチベーションでこの映画に取り組んだのかは、正直わかりません。これは僕個人の想像ですが、アメリカという多民族国家がひとつにまとまるには何らかの旗を立てねばならない。しかし9.11という出来事が起きてしまった。アメリカ人が長い歴史の中で血を流してつかみ取ってきた自由、平等といった絶対的な価値観が、イスラム勢力によって揺るがされてしまったわけです。おそらくその点についてスピルバーグの内にも何らかの思うところがあっただろうし、歴史を振り返ってみると、ハリウッドの映画人はこのような危機的事態に直面したときに動き出すものなんですね。映画を通してアメリカの価値観を問い直し、“新しい旗を立てる”という役目がエンターテイメントに期待されることになる。もちろん“旗を立てる”といっても、スピルバーグの場合、シルヴェスター・スタローンがやったようなマッチョな形ではありません。『リンカーン』の静けさは、さまざまな人種で構成されるアメリカ人が皆、慌ただしい日常から離れて教会に集い、神に捧げる祈りのようです。まさしく祈りにも似た映画ですよね。

そして重要なのは、スピルバーグが少年の目線を持つ映画監督であり、少年のような想像力を駆使した映画作りを通して現実と向き合い、現実と折り合ってきたことです。そうして映画と一緒に少年から大人へと成長してきたスピルバーグは、娯楽を究めた映画を世に送り出してきたわけですが、ついに『リンカーン』では長年身に染みついた商業性という概念までも捨て去って、素朴な境地へと到達した。よく人が年を取って老境に行き着くと子供に返ると言われますが、ハリウッドのトップランナーとして走ってきたスピルバーグもいつの間にかお爺ちゃんになり、無垢な赤子に返ったのかもしれない。言わば『リンカーン』は、あらゆる概念も虚飾も脱ぎ捨てた“裸のスピルバーグ”が撮った映画ともいえるのではないでしょうか。(取材・文/高橋諭治)

○(7)<登場人物の呼吸と鼓動を映画に息づかせた俳優たち>

 国を二分する長く悲惨な戦争、その現場、その血なまぐさい現実に目をすえて始まる映画『リンカーン』。『プライベート・ライアン』の壮絶なオープニングをも思わせる戦闘場面をつきつける監督スピルバーグの新作はしかし、前線から踵を返すと南北戦争の終結と奴隷解放の実現を睨む第16代米合衆国大統領リンカーンの静かなる闘いへと歩を進める。活劇を封じて演技と台詞がスリルを紡ぐスピルバーグ映画としては異色の道筋を歩む。

解放令を通すための憲法修正案をめぐって丁々発止の激論が交わされる議会の熱気をアクション場面に勝るアクションとして実況中継のように掬いつつ、映画はホワイトハウスの暗がりにひっそりと身を置いて自由、平等を享受する人民の人民による人民のための政治をめざす大統領の奮戦を対照的な静けさの中、台風の目にも似た時空に置いてみせる。そんな静けさゆえにその底にきりきりと張りつめていく人間リンカーンの思いが際立つ。そうやって映画が紋切型の偉人伝をすりぬけて、静謐でこそスリルを紡ぎ得た裏にはやはり主演俳優ダニエル・デイ=ルイスの演技の力を思ってみずにはいられない。

本作で三回目のアカデミー主演男優賞に輝いた俳優の役への溶けこみ方、完璧ななりきり演技はキャリアのごくごく初めの頃から圧倒的だった。『マイ・ビューティフル・ランドレット』でサウス・ロンドンのパンク青年を前髪ブリーチできめた彼は、続く『眺めのいい部屋』では盛装で20世紀初めの英国ディレッタント青年へと豹変、孔雀の優雅を思わせる歩調をものして観客を唖然呆然陶然とさせたのだった。以来、素の“私”を徹底的に封じ込めたデイ=ルイスの映画歴は即ち驚異の役作りの歴史となってきた。

それにしても米1セント硬貨でもおなじみの顎髭と長身痩躯の大統領、あまりに強固に広範にイメージの浸透した米国民の英雄のルックスを違和感の欠片もなく身に染ませた本作での外側からのアプローチ、その鮮やかさはどうだろう! が、もっと凄いのはその外見に奴隷解放の父として、さらには一家庭のよき父として、絵に描いたような英雄のカリスマ性とは断固、異なる静かな怒りや疲労や不安、ふるふるとした人としての心の揺れが映し出されていく様だ。そうしてそんな陰翳に富む内面描写がもう一度、少し猫背の歩行や末の息子を膝に乗せ窓辺で束の間の平穏の慈しむ横顔やゆっくりとおぼろげな声(リンカーンの残した著作を音読することでその声をつかんだことが役作りの大きな味方になったと俳優はいくつかのインタビューで語っている)、あるいはユーモラスなたとえ話や毅然とした主張をくりだす口調を裏打ちし、独自のリンカーン像(今回の共演者のひとりハル・ホルブルックに至るまで過去に何人もの名優たちが差し出した肖像のどれとも似ていない)が差し出されていく。固有の内声と内省とを響かせる、より真正な人の姿。それを“熱演”のうっとうしさとは無縁のままに手繰り寄せるデイ=ルイスの演技の清澄さ、抑制の輝きに惹き込まれる。

とりわけ胸打たれるのは悲願の憲法修正案成立後、会見したグラント将軍(演じる英国俳優ジャレッド・ハリスとはキャメラの前を離れても役を忘れず英国英語で話すのを禁じあったという)に一年で十年分老け込んだようと指摘されて「憂いが骨身に染みついた」と吐露してふと浮かべる陽炎のような笑み。そこにやわらかに湛えられたリンカーンのメランコリーだ。その背後に大統領としての激務に加えて彼を苛む家庭の問題が繊細に照らし出されている点も本作の興味深さだろう。

その意味では消え入りそうな佇まいで目を撃つ一個人リンカーンを囲む家族を演じてデイ=ルイスとわたり合うふたりの俳優の健闘も見逃せない。両親の反対を押し切って志願兵となる長男ロバート役ジョセフ・ゴードン=レヴィットは技に溺れない演技で場面に寄り添ってみせる。その無表情が感情をつい爆発させる父を前に揺れつつ自分を曲げたくもない青年のまっすぐな心を射抜いて光る。かたや後の世の人々にリンカーンを悩ませた悪妻と記憶されるのだろうとふと洩らす寂しい達観に演技の成熟がにじむサリー・フィールド。ベテランは、亡き子を悼む妻モリーことメアリー・トッド・リンカーンの嘆きと怒りと悲しみがないまぜになった鬱状態のエネルギーを小さな体に漲らせる。『ノーマ・レイ』『プレイス・インザ・ハート』と、体当たりの演技が時に些か過剰と映りもした熱血女優も歳を重ね、気丈の涙ぐましさに程よく諦めの色がまじる演技で思いがけない(?)好感を差し出している。

人間リンカーンの面白みは大義のために手段を選ばずといった実利派の側面を省かず描くことで伝わりもする。ここで修正案を通すための票獲得にあの手この手と画策する国務長官ウィリアム・スワード役デヴィッド・ストラザーンの正々堂々の存在感が微笑ましく貢献する。デビュー作『セコーカス・セヴン』以来、敗者を裁くアメリカの正義を問い続けるインディ監督ジョン・セイルズの下で鍛えた“政治的”キャラクターのさりげない料理の仕方にも注目だ。長官が放つロビイスト3人組の活躍も映画に貴重なユーモアをもたらしていく。『オー・ブラザー』のティム・ブレイク・ネルソン、『ウィンターズ・ボーン』『マーサ、あるいはマーシー・メイ』と好調がつづくジョン・ホークスを従え、巨体と悪趣味な服装を揺すって奔走するリーダー格のジェームズ・スペイダーには『プリティ・イン・ピンク』のいやみなお坊ちゃまの頃の面影は皆無。少年老い易く――だが、学ならぬ演技の方はそれなりに“成った”ようでぐいぐい場面をさらってみせる。

冒頭でもふれたように本作の活劇的スリルを請け負うのが保守派と急進派とが侃々諤々やりあう会議の場だ。そこでなんとしてでも平等と自由を勝ち取るために君子豹変も辞さずの闘いぶりをみせる奴隷解放派の急先鋒(何が彼を走らせるのかにも乞うご期待だ)タデウス・スティーブンス、そのしたたかな狸親父ぶりを演じて冴えをみせるのがトミー・リー・ジョーンズだ。舞台なら大向うから声がかかりそうな見せ場をしらりとものにしてみせる。

奴隷解放宣言への道をみつめる映画で忘れるわけにはいかないのが小さくても印象深い黒人俳優たちの出番だ。メアリー夫人の服の仕立て係で側近になった元奴隷エリザベス・ケックリー役のグロリア・ルーベン、暗殺の劇場へと向かう大統領を見送る召使で活動家ウィリアム・スレード役のスティーブン・マッキンリー・ヘンダーソン、そうしてタデウス・スティーブンスのメイド、リディア・スミス役エパサ・マッカーソン――。ほこりを被った歴史の中の偉人伝でなく迷い、戸惑い、だから確かに生を生き得たはずの大統領と周囲の人々、映画『リンカーン』に息づき響く彼らの呼吸を、鼓動を、確かに支えるキャストの力を改めて噛みしめたい。

○(8)<リンカーンの光と影~メアリー・トッドは悪妻だったのか?>

 リンカーンをより良く理解する手段として、彼の夫人、メアリー・トッドを知る必要があるだろう。歴史的「悪妻」のひとりであり、嫉妬心の塊だったとして常に非難の対象になっている女性だ。晩年に一時精神病院に入院したことなどが、余計にそのイメージを固定化した。

彼女はケンタッキー州レキシントン(現在の人口約25万)の裕福な家庭に生まれた。父ロバートは銀行家、実業家で、州議会議員も務めた地方実力者だった。ロバート夫妻は2男4女の6人の子どもに恵まれた。メアリーは3女で4番目の子供だった。何不自由なく成長し、当時の女子としては最高に近い教育を受け、フランス語に堪能だったという。家柄も学歴も申し分なかった。

リンカーンとの出会いは1839年秋に、嫁いでスプリングフィールドに住む姉をメアリーが訪ねたときだったと推測されている。このとき、リンカーンが将来上院議員選挙、大統領選挙を競争相手として戦うことになるスティーブ・ダグラスもメアリーと会った。ダグラスはバーモント州の上流家庭の出身で、大学を卒業していた。家柄、学歴ともメアリーには似つかわしい相手であったはずだったが、なぜかメアリーは貧乏弁護士で、背ばかり高く、痩せて風采の上がらないリンカーンに恋をした。彼女がリンカーンを選んだ理由は分かっていない。

明らかなのは、二人は婚約をした。だが、この婚約は破棄された。詳細は不明だ。この時期と思われるが、リンカーンがひどい鬱状態になったことは記録にある。鬱状態から快復した1842年11月4日、二人は夫婦となる契りを結んだ。

メアリーは一度婚約を破棄されたにもかかわらず、2年近くも待ったのだ。それもいつ治るのかさえ分からない鬱状態からリンカーンが立ち直るのをただひたすら待った。彼女のリンカーンへの思いの深さを推し量ることは可能だろう。家族の誰からも祝福されず、ただ我身ひとつで、またいつ鬱状態に陥るかもしれない、田舎弁護士というだけの男に嫁いだのだった。

メアリーが結婚生活で果たした役割はよく分からないが、服装に無頓着な夫の身なりを整え、少ない収入をやりくりして結婚後手に入れていた平屋の家を5年後には総二階の家に増改築するだけの費用を捻出している点は評価すべきだろう。現在残るこの家は子供が生まれて大きくなった家族を考えると、そのキッチンとダイニング・ルームはいかにも狭い感じがする。だが、二つの大きな居間とベッドルームは広く、快適な生活を思わせるものだ。

メアリーの実家は数十人の黒人奴隷を持っていた。奴隷制廃止を声高に叫ぶ共和党の創設に夫が関わったことをどう思ったのか、逆に妻の実家が奴隷所有者であるにもかかわらず、共和党に入ったことをリンカーン自身どう思っていたのかを明らかにするものは残っていない。

だが、南北戦争が始まると、メアリーは奴隷所有者の娘=南部のスパイとして疑惑の対象となり、北部の人々から冷たい視線を向けられることになる。ホワイトハウスに敵に心を許した女がいる。大統領夫人であった間、そして戦争当初北部が不利な状況に置かれていた間、こうした非難に彼女は耐えなければならなかったのだ。

その上、彼女の腹違いの弟たちはみなこぞって南部軍に志願していた。南部同情者と言われても言い訳できない状況だった。

そんな妻を世間の非難から必死に守ったのがリンカーンだった。疑惑を表明する議員たち、記者たちに対して彼女の潔白を主張し、合衆国大統領の妻として、アメリカのファーストレディとして申し分ない存在だと言って彼女を庇った。

また、メアリーはホワイトハウスに入ると大統領夫人にふさわしい服装をしなければならないことを理由にニューヨークなどから高価なドレスを次々と買い求めた。これにはリンカーンも辟易として、不満を言ったらしい。もともと服装には無頓着な夫には社交界を意識して着飾る妻が理解できなかったのだろう。二人の間の小さな諍いの原因のひとつだった。

リンカーンには大統領当選の後から脅迫状が届くようになった。中には殺人をほのめかすものもあった。当然、メアリーは恐怖を覚え、彼の身を案じた。リンカーンは「狙う奴がいたら、どうしようもない」と楽観していたという。ホワイトハウスからひとりで散歩に出たり、馬車ででかけるのにも護衛を拒否したという。これも小さな諍いの原因だっただろう。

この映画の中で、二人の関係が冷えきっているように描かれている場面がある。メアリーが馬車で怪我をした出来事があり、彼女はこれを暗殺を企てたものの仕業だと怪我以上にその原因を気にした。だが、リンカーンは単なる事故として受け止めただけで、怪我以外は気にもとめていなかった。メアリーには夫の態度は理解できない。非難がましいことばが口をついて出るのも仕方なかっただろう。リンカーンにとっては「修正13条案」を議会で採択させるという大問題に直面していたのだから、この小さな諍いを愛情不足とか夫婦仲の希薄な証として受け止めてはならないだろう。

フォード劇場での観劇中、貴賓席にいた二人は互いの椅子を近くに寄せ、互いに手を握っていた。夫の右手と妻の左手だ。この手の温もりを通して戦争中のホワイトハウスでの困難な日々を乗り越えた喜びを感じ合っていた二人だった。そんな二人をブースの銃弾が襲った。

メアリーは夫を奪われた悲しみから立ち直るのに時間が必要だった。彼女は周囲に誤解され、一時的に病院に送られてしまうが、「悪妻」という評判とは異なる愛情豊かな、ひたむきな妻の姿、そしてその妻を労り、常に出来る限り優しく接していた夫、という夫婦像をこの二人に見ることができるのではないだろうか。

<文責:藤森弘司>

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