2013年4月30日 第129回「今月の映画」
舟を編む
監督:石井裕也  主演:松田龍平  宮崎あおい  オダギリジョー  加藤剛

●(1)今回の「舟を編む」は、本当に面白かったです。

最近、大作といわれる映画を幾つも見ましたが、理屈が多すぎて、つまらない映画が多かった。そういう中で、この映画は大作とはほど遠い映画ですが、とにかく、面白かった。
オダギリジョーの爽やかなヒョウキンさ、松田龍平の生真面目さがとても良かったです。私(藤森)の感性にピッタリで、観客も比較的笑っていましたが、私はさらに可笑しかったので、笑いをこらえるのが大変でした。

また、辞書編纂というコツコツと地味な上に、長期間を要し、周囲から理解されにくい仕事という点で、私の仕事にとても似ているように思えました。何がどうというわけではないのですが、フィーリングが私の仕事にとても似ている感じがしました。

最近、私(藤森)が創作した格言に「真理を求めないのは心理だけ」というのがあります。これは密かに「名言」だと思っています。

全ての学問なり、技術なりは「真理」を求めています。「より良く」「より高く」「より早く」「より正しく」「より美しく」等々、全てのものはその道の「真理」を求めています。誰でも納得できて、誰もが求め、誰もが欲しがり、誰もが称賛するもの、それが「真理」です。

しかし、しかし、です。
「心理」に関しては、「真理」が拒否されるのです。

それは何故か?

「心理」に関する「真理」は、ほとんど全ての人・・・・・残念ながら、あらゆる専門家を含めて・・・・・「心理」に関しては、想像されている「真理」とはほとんど真逆であるために、「心理」の「真理」は拒否されてしまいます。

では、何故、「心理」の「真理」は受け取りを拒否されてしまうのか。全ての物事は「真理」を求めているのに、何故、「心理」の分野だけは拒否されてしまうのだろうか?

それは、「心理」の分野の「真理」は、ほとんど全ての人が想像している方向とは「真逆」であり、想像したり理解できたりするものとあまりにもかけ離れている上に、目に見えるものではないために簡単には「証明」できず、「理解」「実感」「納得」して頂くまでにはかなりの期間が必要だからです。

一番分かり易い例で申し上げますと、子供が「ウツ」になったり、「不登校」になったとします。当然、ご両親は「この子を治して欲しい」と願い、相談にお見えになります。

しかし、「ウツ」なり「不登校」の原因である「真理」は、残念ながら、ご両親の対応の仕方の中に潜んでいます。そして、往々にして、子供が「ウツ」になったり、「不登校」になったりするようなご両親は、「しっかり」した価値観を持っている方が多いものです。
その「価値観」が否定されることは、そのご両親にとっては、まさに「最悪」そのものです。実存的な「存在感」を否定されるようなもので、それはとても「受け入れ難い」ものです。

ですから「心理」の「真理」は拒否され、猛烈な抵抗に遭います。そして、当然、ご自分達の「価値観」を否定するような相手の「対応」は間違っていると感じられ、私(藤森)が説明する「真理」は否定されることになります。ここをどのようにして「突破」するか、これが最大の難関です。武道でも芸道でも、その他多くの技術は、その場ですぐに、より良いものを見せることができますが、目に見えない「心理・精神世界」は、理解できるまでに膨大な期間が必要です。

そして、「心理」の「真理」は関係者が想像する方向とは「真逆」ですから、説明すればするほど「理解困難」になります。今まで生きてきた人生の常識とはかけ離れているのですから、理解できないことこそが「真理」を示唆しています。

説明が簡単に「理解」できる場合は、「ウツ」や「不登校」を発症させた生き方・方向性のままで理解できることを意味しますから、理解できてはいけないのです。「わからないなあ?」とおっしゃったら、適切な説明がなされている可能性が高いのですが、理解できないことを、いかにして、わずかであっても理解していただきたいと願うのですから、お互いに大変辛いものがあります。

では、専門家はどうして「真理」を求めないのか?
ここが肝心要、最も重要なところです。

私が長年、「交流分析」という「心理学」を学んだ交流分析の第一人者・杉田峰康先生は、私(藤森)が主催したセミナーで次のようにおっしゃいました。

「自分の問題に取り組まないために指導する側に回る」とおっしゃいました。私が知る限り、このことをおっしゃったのは、私が尊敬している飛鳥井雅之先生と杉田先生だけで、これこそが「真理」です。

私(藤森)が見るところ、自分が抱えている「密かな問題(影)」があるために、多くの人が心理学に興味を持ち、長年、本を読んだり、セミナーに参加したりして心理学を学んでいきます。

しかし、だんだん、人間の心理がわかってくると、自分が抱えている「影」に近づいてきます。そうすると「お化け屋敷」に入るときのような「怖さ」「不気味さ」をウスウス感じるようになってきます。
未開のジャングルに踏み込むような「不安」を感じて、いつの間にか、自分自身を掘り下げる目的を転換させて、それまでに蓄えた膨大な学問を活用して、困っている人を助けるという「高邁な論理」にすり替えて、「治療する側」に回り、自分の深奥に潜む「人生の課題」から目を背けてしまいます。

そうやって「目を背けた専門家」に指導されることは、指導を受けるご両親も、本人も、「怖さ」や「不安」に直面することを避けることができる上に、ご自分達の「価値観」をそれほど否定されることも無いために、安心して、「治らない治療法」を延々と続けることになります。自分の生き方や育て方は間違っていなかったという「自己正当化」のために。

この気持ちは、一般論としては十分に「理解」できるために、「真理を求めないのは心理だけ」という格言を思いつきました。

それでは、専門家の側に求められるものはなんであろうか?それは・・・・・

<「今月の言葉」第121回「動かぬものとは何か?」>
<第123回「カウンセリングとは何か(十牛図)」>
<第124回「カウンセリングとは何か(十界)」>
<第126回「カウンセリングとは何か(平等性)」>
<第127回「カウンセリングとは何か(不貧)」>
<第128回「カウンセリングとは何か(八苦)」>
<第129回「カウンセリングとは何か(求不得苦①)」>

 これらを通じて、自分の未熟さを痛感する程度には掘り下げていることが求められます。
少なくても、<第123回「カウンセリングとは何か(十牛図)」>の中の下記の(6)の部分・・・・・

<<<(6)< 四、得牛(とくぎゅう)>

ちらっと見えたその牛に、そっと近づいて、手早く縄をかけた。縄はうまく牛の首にかかったが、気付いた牛は必死になって暴れ山の中へ逃げ込もうとする。しばらくは、捕らえようとする牧童と、逃げようとするとの、凄惨(せいさん)な闘いとなる。だが、やがて牛はおとなしくなり、どうにか捕らえることができた。それでも、ちょっとでも縄を緩めると、すぐ逃げ出そうとするから、油断はできない。

法というものが、或は本然(ほんぜん)の自性(じしょう)が、そして人生や安住の世界がどのようなものであるか、多少分かったような気がしたのも束の間、提唱や経典の示すところと、実際の自分の心とが、どうもうまく一致しない。正念工夫の努力が、なかなか実らない。あの時は、確かに分かったように思えたのだが、すぐ自分の心が元へ戻ってしまう。

結局は、長年の良からぬ習性というものが、心を支配しているものだから、どうしても、それから抜けられないのである。
「習を、断ぜざるべからず」
と、一喝されるが、それでも、己の心でありながら、何としても言うことを聞いてくれない。心の明澄度も、潜在意識にまで及ばないと、つまるところ空廻りになる。何かあると、すぐ昔の自分に戻っていくのである。それでも、「これではならじ」と、また意を新たにして努めていく。
苦悩と希望の入り混じった、人間らしい姿を描いている。この期間が、一番長く苦しい時期でもある。

藤森注・・・・・両親がこういう夫婦喧嘩をするのを聞いてきた子供は、今までどんなに心を痛めてきただろうか、どんなに辛かっただろうか、ということに気付かされます。子どもの問題はこれだったんだと気付きます。しかし・・・・・

結局は、長年の良からぬ習性というものが、心を支配しているものだから、どうしても、それから抜けられないのである・・・・・ということになります。

夫婦喧嘩が悪いとはわかっても、長年の(私を含めた)夫婦の関係性の悪さ、人間性の未熟さは如何ともしがたく、ついつい、言い争いをしてしまいます。
そして「反省」をし、「いい争い」をし、そして「後悔」をし・・・・・「大喧嘩」をしたり、「後悔」をしたり、行ったり来たり。分からなかったときは、相手を責めていればよかったのですが、理屈が分かると、相手を責めるのも辛いし、反省しても思い通りにならない辛さも大きい。腹の虫が治まらず、殺意さえ抱きかねない「苛立ち」と「後悔」の連続にのたうち回ります。

苦悩と希望の入り混じった、人間らしい姿を描いている。この期間が、一番長く苦しい時期でもある。

これが<得牛>です。>>>>

せめて専門家は、ここの問題に取り組んでいて、次の「(5)牧牛」を目指す程度には自分を掘り下げている、自分自身の未熟さと真摯に取り組んでいることが、精神科医や心身医学者、カウンセラーなどの専門家の「最低条件」ですが、ほとんどは「(4)得牛」の一部をチラッと見ただけ・・・・・実質的には「③見牛」レベルで専門家になっています(つまり、「ウツ」や「不登校」を理論的に分かっているレベル)。

立派になることは極めて困難なことですが、「得牛」でもがくことで、いかに自分自身が未熟であるか・・・・・せめて、これくらいは実感した上で専門家になるべきだと、僭越ながら、私(藤森)は痛感しています。「見牛」レベルで専門家になると、「理屈」だけが立派な専門家を養成することになります。

専門家は「言行一致」・・・・・つまり、「患者」や「クライエント」の方にアドバイスすることは、<A級>自分が「やっている」こと、<B級>「やろう」としていること、あるいは、チャレンジしているが、そのアドバイスを実行することが、いかに「難しい」ことかを分かっている・・・・・上で指導すべきです。それが「得牛」です。

<番外レベル>学問的に理屈だけで、(上から目線で偉そうに)「知的」にアドバイスする専門家。残念ながら、ほとんどの専門家です。

但し、世の中の「権威」はあるが、「言行不一致」の専門家の逞しさ(厚かましさ)にはまるっきり歯が立ちませんので、長い間自制していましたが、「古希」を迎える年齢に近づいてきましたので、年寄りの傲慢さも手伝って、「本音」を言うことが少しは許されるだろうと、近頃は思っている次第です。

こういう仕事をやっていますと、この映画の内容になんとなく親近感が持てましたので、「今月の映画」としました。

○(2)<解説>

 辞書<舟>を編集する<編む>人たちの、
言葉と人への愛を謳う、感動エンタテインメント!


2012年本屋大賞第1位に輝いたのは、辞書作りに情熱を注ぐちょっと変わった人たちの懸命な日々と壮大な夢を描く「舟を編む」。「まほろ駅前多田便利軒」で第135回直木賞を受賞、今最も新刊が待ち望まれる作家の1人である三浦しをんの傑作小説です。地道で根気のいる辞書編纂・・・・・ともすると地味に見える世界を描きながら、「情熱的で素晴しい仕事!」「目の離せないスポーツ競技のよう!」「登場人物のキャラクターが面白い!」と読者を虜にし、昨年最も読まれた文芸書となりました。

その愛すべき小説を若き俊英、監督・石井裕也が松田龍平・宮崎あおいを迎え、感動の映画化。

人と人との思いを繋ぐ“言葉”というものを整理し、意味を示し、最もふさわしい形で使えるようにするもの・・・辞書。本作はその辞書という【舟】を編集する【編む】、ある出版社の編集部の物語。24万語におよぶ言葉の海に興奮する新人編集部員・馬締(まじめ)光也とその同僚たちの姿、そして感じたある思いを、何とか“言葉”にし伝えようとする、もどかしくも微笑ましいやりとりを描きます。誰かに思いを伝えたい、繋がりたい“言葉”という絆を得て、それぞれの人生が優しく編みあげられていきます。

一生の仕事。愛する人たち。
そして言葉・・・大切にする。全力で


出版社・玄武書房につとめる馬締光也は、営業部で変わり者として持て余されていたが、言葉に対する天才的なセンスを見出され、辞書編集部に迎えられます。新しい辞書「大渡海」・・・・・見出し語は24万語。完成まで15年。編集方針は「今を生きる辞書」

定年間近のベテラン編集者、日本語研究に人生を捧げる老学者、次第に辞書作りに愛着を持ちはじめるチャラ男。個性派揃いの面々の中で、馬締は辞書の世界に没頭します。そして出会った、運命の女性。しかし言葉のプロでありながら、馬締は彼女に気持ちを伝えるにふさわしい言葉が見つかりません。

問題が山積みの辞書編集部。果たして「大渡海」は完成するのでしょうか?馬締の思いは伝わるのでしょうか?

○(3)<物語>

 1995年、玄武書房辞書編集部。監修の松本朋佑とベテラン編集者・荒木公平が、険しい表情で向かい合っている。荒木は間もなく定年を迎える。松本を支えるメンバーはお調子者の編集者・西岡正志と契約社員の佐々木馨のみとなってしまう。「きみのような編集者が他にいるとは思えません」と深いため息とともに呟く松本の顔を見て、必ず後継者を見つけ出さなければ、と荒木の焦燥はいや増すばかりだ。

しかし、辞書編集に向く人材はそう簡単には見つからない。会社で辞書を作っていることを知らない社員も多く、存在を知る者も「地味だ」「出世できない」とあからさまに嫌な反応を示す。そして何より、言葉に対する知識情熱を持ち合わせる社員に出会えない。

そんなある日、営業部内で変人扱いされ、持て余され気味の男性社員がいるという情報が入る。馬締光也、27歳、大学院では言語学を専攻。早速、荒木と西岡は営業部に出向き、馬締を呼び出すと荒木が問う。「『右』という言葉を説明できるかい」。馬締はぶつぶつ呟きながら箸を持つ仕草をしたり、心臓に手を置いたり、両手を見比べたりしていたかと思うと、いきなり「西を向いたとき、北にあたる方、が右」と言い、「他にも保守的思想を右と言うな・・・・・」と言いながら、ぺこりと頭を下げると自分の机に向かい辞書を引く・・・・・。荒木の眼光が鋭くなった。新しい辞書編集部員が見つかったのだ。

馬締を仲間に迎えた辞書編集部は、新しい辞書「大渡海」の編纂に取り組もうとしていた。大きさは中型辞典、見出し語は約24万語、編集方針は“今を生きる辞書”。社会が劇的に変わることであふれ出る新しい概念や言葉も積極的に掲載し、略語、俗語、若者言葉も取り入れ、今までにない“今を生きている人たちに向けた辞書”を目指す。「言葉の海。それは果てしなく広い。人は辞書と言う舟で海を渡り、自分の気持ちを的確に表わす言葉を探します。誰かと繋がりたくて広大な海を渡ろうとする人たちに捧げる辞書、それが大渡海です」。松本の言葉に感銘を受け、馬締は一気に辞書編集の世界にのめり込む。

用例採集、見出し語選定、語釈執筆、レイアウト、校正・・・・・優に15年はかかる辞書作りは、気の遠くなるような地道な作業の連続。しかし、一生をかけて取り組む仕事と決めた馬締には、すべてを吸収したい大切な毎日。高齢にもかかわらず、合コンに出かけて新しい言葉を集めてくる松本の情熱。ついに定年退職の日を迎えた荒木から受け継いだ袖カバーの重み。いつも馬締を気にかけ、ちょっかいを出してくる西岡の明るさ。縁の下の力持ち、佐々木の寡黙な優しさ。皆を尊敬する一方で馬締は、皆に気持ちを伝えられず、皆の気持ちもわからないことを悩む。そのことに気づいた下宿「早雲荘」の大家・タケが言う。「他の人の気持ちがわかんないから話をするんだろ。辞書作りっていうのは言葉を使う仕事だろ?だったらその言葉使わなきゃ。頑張って喋んなきゃ」。タケの言葉に、馬締は深くうなずく。

ある満月の夜。飼い猫のトラの鳴き声に導かれ、馬締が早雲荘の2階の物干し場に行くと、見知らぬ女性・林香具矢がトラを抱いて立っている。驚き、尻餅をつく馬締。運命の出会いを照らす月灯り。

香具矢は、大家のタケが高齢のため同居することになった孫娘で、板前修業中。突然の恋のはじまりに仕事が手につかない様子の馬締に、松本は「恋」の語釈を執筆するように命じる。編集部員たちはその恋を応援し、佐々木はラブレターを書くことを勧めた。しかし、言葉のプロでありながら、馬締は香具矢に思いを伝えるのふさわしい言葉を見つけることができない・・・・・。

そんなある日、西岡のPHSに入った不穏な噂・・・・・「大渡海、中止になるかもしれないです」

果たして「大渡海」は完成するのか?
そして、馬締の思いは伝わるのだろうか?

○(4)<言葉の力あり、映像の力あり>(角田光代)

三浦しおんさんの小説「舟を編む」は、2011年に出版された小説で、この作家のファンである私は出版されてすぐに読んだ。辞書編集部という地味な舞台設定に驚き、興味が持てないかもしれないと思いつつ(私は辞書にとくべつな思い入れがないので)、こわごわとページをめくり、そして一瞬で、この世界に引き込まれた。友情があり恋愛があり、仕事があり闘いがあり、人々の人生があり、それらすべての根底に、言葉にたいする揺らがぬ信頼と愛情があった。

私たちは書物で莫大な言葉を吸収し、言葉を用いて他者と対話し、自分と対話し、世界のありようを理解する。けれど本質的に、私たちの用いる言葉は一種類ではない。人は、それぞれの言葉で生きている。「夕焼け」という言葉で思い描く光景は、10人いれば10種類あるだろう。だから、同じ言語を話していても100パーセント通じるということはまず、ない。・・・・・私はときどき夢想する。もし私たちの言葉が一種類であれば、それをみながただしく使えるならば、この世には諍い誤解も、不和無理解もないのじゃないか。

この小説は、その夢想が実現すると信じさせてくれる。そのような意味合いでの、言葉への信頼であり愛であり、それはつまり、私たち、言葉を用いる人間への信頼であり、愛である。

このすばらしい小説が映画化されると聞いたとき、たいていの人がそうであるように、不安を覚えた。だって、舞台は「あの」地味な辞書編纂部。糞真面目な主人公、馬締光也がいき来するのは、その地味な部屋と、さらに地味なアパートの自室。そして彼らが従事する仕事は辞書作り。外に出る営業部でも、競争のある企画部でもない。まったく絵柄の動かない映画になるのではないか。この世界のおもしろさは、やっぱり活字でしか伝わらないのではないか。何より、小説の根底に強く在る、言葉でこそ、読み味わえるのではないか。

その不安は、けれどそのままひっくり返せば、期待でもあった。あの地味な設定をどのように見せてくれるのか。辞書を作る、その作業のなかの、スポーツ観戦をしているかのようなこのスリリングな展開を、どのように映像で描いてくれるのか。

活字もひとつの力だけれど、映画もやはり映画しか持ちようのない力を持っている。映画がはじまってすぐ、あらためて気づかされた。言葉の使用例を集める「用例採集」のカード、見出し語のリスト、すでに世にある多々の辞書、あふれかえる言葉、言葉、言葉・・・・・。それらが、光景として目の前にあらわれる。スクリーンに映る用例採集の最初の文字が、いつまでたっても「あ・い」であるのをこの目で見、そのことに心底怖じ気づいた私は、すでに小説とは異なる扉から、この埃くさい紙だらけの編集部に、入ってしまっているのである。

小説を読んでいない人は当然ながら、まっさらな状態で、風変わりで魅力的な人物たちに会える。小説をすでに読んだ人も、編集部同様、異なる扉から、まっさらな気持ちで、馬締光也や香具矢、タケばあさんや西岡や、トラさんと会うことができる。

じつをいうと、この物語に登場する人物たちがこんなにも「風変わり」であるのは、この映画を見てはじめて気づいたことだ。馬締の、この異様さはどうだ。こんなにもじっとりと無口で、まるで何もかも人任せのようである。その馬締と親しくなる香具矢も、馬締に振りまわされていく調子者の西岡も、みんなどこか、おかしい。契約社員の佐々木さんも、編纂室をまとめる松本先生も変。12年後、あらたに配属されてくる岸辺みどりなんて超弩級に変。そもそも、辞書を作るという行為が、異様なのだと思い知る。それに関わる人たちがおかしくないはずがない。

1冊の辞書を作るとはなんと果てしないことなのだろうかと、観客である私たちが視覚をも用いて知るとき、その珍妙な人たちを、愛さずにはいられなくなる。

私はこの映画を見ていて、人がいかに孤独であるかを思い知らされた。馬締と編集部員が、どれほど長い年月を過ごしても、その孤独は拭い去れないばかりか、強まるように感じる。そして私は、彼らを愛さずにはいられない。その理由に気づく。風変わりにしかなれず、人とうまくわかり合えず、わかり合えないという自覚があり、だから友も恋人もいてもどこか不安で、だれかと強く手を取り合おうと、必死で手をのばしている人たち・・・・・大海原に散らばった、言葉というちっぽけな浮き具にしがみついている人たちが、つまるところ、ごくふつうに日常を過ごしているつもりの、自分自身に重なるからではないか。彼らの姿が私の持つ孤独と、共鳴するからではないか。

編纂室に泊まり込んだ人々が笑う場面がある。脱いだ靴下やロープに吊るされた洗濯物、体臭や食べもののにおい、それらが匂い立つような場面だ。みな無精ひげが生え、髪はぼさぼさ、肌つやは悪く、部屋も人もけっしてうつくしいとは言えない場面が、私はいっとう好きだった。私の勝手な臆測だけれど、この場面の持つ、人の姿勢のある種の高潔さは、三浦しをんという作家が愛し、信じているものではないかと思うのだ。その愛と信頼は、この小説が、言葉にたいして持つのと同じくらい揺らぎないものだ。この映画は、そんな作家の信念をも、映像で見せてくれたと、見終わったあとに気づいた。

<かくた・みつよ・・・作家。1990年「幸福な遊戯」でデビュー。2003年「空中庭園」で婦人公論文芸賞、05年「対岸の彼女」で直木賞、07年「八日目の蝉」で中央公論文芸賞を受賞>

○(5)<馬締が過ごした時代・・・「舟を編む」が描いた15年間>(門間雄介)

映画『舟を編む』は原作を忠実に映像化した作品だが、監督の石井裕也と脚本の渡辺謙作は映画にする上で一点。大きな脚色を行なっている。時代設定だ。

原作において特定されていなかった物語の起点が「1995年」と明記されたことによって、映画は社会的な背景を獲得し、原作とはまた異なる焦点をスクリーンに結ぼうとする。

じゃあ1995年とはどんな年だったのか?音楽では、小室哲哉がプロデュースを手がけたTRFやH Jungle with  t がチャートを賑わし、DREAMS COME TRUE 「LOVE LOVE LOVE」の235万枚を筆頭に史上最多のシングル28曲がミリオンセラーを記録。映画では、『フォレスト・ガンプ/一期一会』や『マディソン郡の橋』といった洋画がヒットする一方、停滞する日本映画界から『Love letter』の岩井俊二や『幻の光』の是枝裕和といった新鋭が登場。テレビでは、「愛していると言ってくれ」「家なき子2」などの連続ドラマが高視聴率を稼ぎ、後に社会現象となるアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の放映がスタート。いや、何より95年と言えば、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に揺れ、戦後日本を支えてきた様々な基盤が崩れ去り、政治経済的な低迷期である「失われた20年」の中を突き進んでいく1年。

そして、この頃に新たなインフラとして普及の兆しを見せはじめたのが携帯電話インターネットだ。
「これから携帯電話やパーソナルコンピューターは飛躍的に普及するでしょう」

購入したばかりのPHSを手に、「大渡海」の監修者である松本がこう予見する序盤のシーンは、当然のことながら原作にはない。「1995年」と刻印することで背景に浮かび上がるのは、デジタル化が加速度的に進む世界の姿だ。

95年、携帯電話より端末や通話料の安価なPHS(パーソナル・ハンディフォン・システム)サービスがスタートし、96年の着メロ、99年にi-mode(携帯電話のみ)といった新機能の付加によって、携帯電話・PHSの普及率は95年の10・6%から2000年には78・5%へ一気に上昇する(95年の調査結果は携帯電話のみ)。また、95年に発売されたマイクロソフトの新OS「Windows95」と、98年に発売されたアップル・コンピュータのデスクトップ機「iMac」が起爆剤となって、PCとインターネットの普及率も向上し、01年にはそれぞれ50%の大台を越えた。

そのようなデジタル化の進展は、見方を変えれば、この物語の舞台となる出版界の危機と表裏一体だ。実は、出版界においてその余波を真っ先に受けたのが辞書事典である。

日本の電子出版は、87年に岩波書店から発売された「広辞苑」CDーROM版によって幕を開けた。「CDーROM」の響きが今となっては懐かしいが、一方で辞書は家電メーカーや電算機メーカーから発売される電子辞書のかたちでもデジタル化の道を辿り、その後インターネットの普及とともに急速にクラウド化していく。ネット上のフリー百科事典、wikipediaがスタートしたのは01年だ。

「今でもこの分野は電子出版の主流を占めており、紙の辞・事典類はまもなく本の歴史から消えるだろうといわれている」
これはノンフィクション作家の佐野眞一が01年に刊行した「だれが『本』を殺すのか」の一節だが、紙で作られる辞書や事典は確かに、時代から徐々に取り残されていった。

そんな流れに、今一度『舟を編む』の物語を重ねてみよう。主人公の馬締は内向的でコミュニケーション能力に乏しく、会社の中で・・・いや、おそらくこれまでの人生を通じて・・・居場所を見出せずにきた。でも、営業部から異動になり、彼はやっと自分が夢中になれるものを発見する。それが辞書作りだ。おりしも時代はデジタル化を加速させる最中(さなか)。01年以降、小泉純一郎政権が推進した新自由主義経済は、非効率なものを次々と切り捨て、社会的な格差を拡大させていった。長い時間をかけて1冊の辞書を作り出す辞書編集部は、会社から非効率なものとみなされ、合理化の対象になる。

本編が描かない95年から08年の間に、きっと辞書編集部は強い向かい風を受け、苦境に喘いできたに違いない。ところがスクリーンに映し出される08年の馬締の表情は、以前よりずっと屹立として見える。おそらくこの辺りに映画版ならではの美点といったものがあるだろう。

原作には、荒木や西岡から馬締、そしてみどりへと辞書作りが“継承”される、時をたゆたうような感動があった。もちろん映画でもその視点が失われているわけでは決してない。ただ、時代設定を明確にすることでさらに強いフォーカスが当てられるのは、時に抗ってでも夢中になれることを“継続”する、ある男のひたむきな生き方だ。

馬締は1枚ずつ紙をめくり、指に吸いつくようなぬめり感を追求する。そのような触感、ぬくもり、歓びは、間違いなく紙の辞書でしか得られないものだ。ひょっとしたら、紙でできた辞書は本当に歴史から消え去ってしまうのかもしれない。でも、そこでしか自分の存在意義を見出せない人物がいるとしたら、誰が彼を「殺す」ことができるだろうか。

これは人が自分らしく生きることを全面的に肯定する映画だ。

<もんま・ゆうすけ・・・・・ライター・編集者。雑誌「CUT」副編集長を経てフリーに。「BRUTUS」「CREA」「DIME」「POPEYE」などで執筆・編集を行なう>

○(6)<映画を編む>(藤井仁子)

新しい辞書の編纂という大事業を前にベテラン編集者が退職するというので後継者探しに奔走している男が社員食堂で昼食をとっていると、恋人の女子社員が人目もはばからず隣にやってきて、そんな地味で誰もやりたがらない大変な仕事なら、あの人なんか適任じゃないのと突然くるりと後ろを振り返り、一番奥の席を指す。

それが、不器用な性格ゆえに営業部のお荷物となっているこの映画の主人公・馬締光也の初登場シーンなのだが、実は馬締はもうずっと前から画面の奥にいて、本を読みながら独り食事していたのだった。たんなる光景のエキストラの1人かと思われた人物が不意に視界の中心へと浮上し、しかもそれを演じているのがあの松田龍平だということに見ているこちらは後から気づかされるわけで、この主人公の登場のさせ方がまずおもしろい。つまり、『舟を編む』はそんな映画・・・どんなに取るに足らないような細部でも、置かれる状況、組みあわせしだいでいくらでも思いがけない輝きを放つ可能性があるということを自ら示していく映画なのである。

実際、ここでは誰も彼もがそれぞれに独自の魅力を放ち、いなくてもいい人物など1人もいない。オダギリジョーを調子者だが人のいい先輩役としてあえて傍役にまわしたり、恐ろしく無愛想な契約社員に伊佐山ひろ子を配するなど、キャスティングが近年稀に見るほど的確で、かつ遊び心にあふれ、小さな役に至るまで隙がないことが大きいが、そうした各人の魅力が巧妙に組み合わさって、15年におよぶ気の遠くなるような辞書作りの仕事を、ひいてはこの映画自身を実現させることになるのだ。

率直なところ、最初にこの映画の企画を聞いたとき、辞書作りの裏側を見せるだけの、工場見学めいた「ハウツーもの」に終わりはしないかという危惧があった。要は、辞書作りの過程を説明する都合だけで、いろいろなキャラクターが呼び出されたり、使い棄てられたりするのを見せられて終わるのではないかと心配したのである。

だが、それはまったくの杞憂だった。それどころか、ここでは各人が担う仕事の具体的な描写を通じて、それに携わる人の人となりがなまなましく立ちあがっていく。辞書作りに打ち込む主人公たちの情熱のありようは、膨大なカードに書きこまれる手書きの文字や印、はたまた社内での駆け引きや執筆依頼のためにあちこち駆けずりまわるさまの丁寧な描写を通じて、だんだん愛おしく際立っていくのである。そのことは、辞書作りに直接関わる人々だけにとどまらず、たとえば馬締が一目惚れする香具矢を演じる宮崎あおいについても同じだ。ここで彼女は、黙々と庖丁を研ぎ、板前修業に励む、いつになく笑顔を封じての凛とした佇まいによって、その新鮮な人物像をくっきりと浮かびあがらせている。

それにしても。馬締役の松田龍平が素晴しい。前面にしゃしゃり出るのではなく、ただそこにいることによって全員を静かに繋ぎとめるという存在のあり方は、彼でなければ成立しないし、そもそも個性的な俳優陣のなかに埋没してしまったかもしれない。そして、彼らを取り囲む美術と光と影の、まるで撮影所時代を思わせるような素晴しさ。とりわけセットの見事さは、現在の映画界の状況を考えるとき、特筆に値する。

うずたかく本や書類が積みあげられ、蔦が這う窓越しに光が射しこむ辞書編集部といい、床や階段の使いこまれた木の光沢が年代を感じさせる早雲荘といい、目を瞠る出来ばえだ。ここではキャスティングが非凡であるのと同じように、豊かな経験と智恵を有するスタッフの選び方も実に非凡なのだが、そうした確かな技術に支えられてこそ、ひとつひとつの仕事が細やかに描写され、人物の人となりが鮮明に引き立つ。35ミリフィルムで撮影されていることすら当たり前のことではなくなってしまった現在、これほどまでに恵まれた条件で映画を撮る機会を与えられ、しかもその機会を活かせるだけの力を持っている若い監督は、稀有だというしかないだろう。

告白しよう。この映画を20代にして撮りあげた監督の石井裕也を、私はこれまで、まったくといっていいほど評価していなかった。過去の監督作を雑誌で酷評したこともある。その石井裕也が、若手から大ベテランまで取りまぜた贅沢なキャストとスタッフに支えられて、これほどの風格ある映画を撮ったという事実を、私は負け惜しみでなく、心の底から祝福したい。

やはり、置かれる状況、組みあわせしだいで誰もが思いがけない輝きを放つ可能性を秘めているということなのだ。そのことを豊かに証明してみせた『舟を編む』は、ともに働くことの尊さと先人からの継承という虚構の物語内の主題を、映画作りの現場においても現実に生きてしまった。映画がますます小さく個人的なものとなり、伝統の継承が蔑ろにされている現代において、この映画はこれからの映画作りのあり方に重要なモデルを提供していると思う。大袈裟でなく、日本映画界の未来への希望がここにあるといってもいい。

辞書作りが1人では不可能であるように、映画もまた大勢の力があわさって、途方もない手間と時間をかけて初めてかたちになるものである。若い船長のもと、多くの人々の手で細部まで丹念に編まれた一艘の舟が、今、映画の大海へと静かに漕ぎ出していく。航海の無事と成功を祈らずにはいられない。

<ふじい・じんし・・・・・映画評論家、早稲田大学文学部准教授。編著に「入門・現代ハリウッド映画講義」、「甦る相米慎二」(木村建哉、中村秀之との共編)など>

<文責:藤森弘司>

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