2013年1月31日 第126回「今月の映画」
監督:トム・フーパー 主演:ヒュー・ジャックマン アン・ハサウェイ ラッセル・クロウ アマンダ・セイフライド
原作:ヴィクトル・ユゴー(1802~1885)
●(1)この映画を「今月の映画」に決めた理由は2つ。一つは、文豪ヴィクトル・ユゴー原作の世界第一級の文学作品だからです。
もう一つは、わずかパンを一つ盗んだだけで19年服役。しかも、死と背中合わせの過酷な労役を科されるジャン・バルジャンや囚人達に過酷な仕打ちをし、また、ジャン・バルジャンを執拗に追い続ける冷酷な警部ジャベールに興味を持ちました。 かく言う私(藤森)自身が、ジャベールの立場になれば同じ事をやるのだろうか、そういう疑問がいつもあります。たとえば、拷問死した小林多喜二を取り調べた特高警察官とか。 ●(2)映画を見終わった瞬間、私は「暗澹たる気持ち」になりました。少年・少女文学だか、映画だったか、何回か「レ・ミゼラブル」に触れているように思いましたが、今回ほど「ああ、無情!」と実感されたことはありませんでした。 率直に言って、ウンザリです。 こういう時代に生まれなくて本当に良かったというのが実感です。こういう時代でなく、今の日本に生まれた喜びを実感せずにはいられません。いつの時代のどこの国でも、ほとんどこういう悲惨な出来事が溢れていましたし、現在も溢れています。 <<<アルジェリアの人質事件・・・・・アルジェリアは1960年代に独立したと記憶しています。1966年に「アルジェの戦い」という感動的な映画が制作され、私も最後の場面に興奮しました。しかし、独立というのは、その後のほうが大変だと言われますが、独立後、ほぼ半世紀が過ぎているのに、まだ、このような悲惨な状況が続いているのですね。それとも日本が穏やかなのかもしれません>>> 「レ・ミゼラブル」は、私(藤森)の「暗澹たる気持ち」とは違って、どうやら大変な人気で、各賞を総なめにしそうです。観客動員数もかなりの数に上りそうです。新聞や週刊誌などでも広く取り上げられていますが、正直に言ってこの映画のどこがいいのか、私にはサッパリわかりません。汚れ役のアン・ハサウェイも少しもいいとは思えません。 ラッセル・クロウの迫力ある立ち回りを見たいのに、歌をうたうのはサッパリしませんし、ジャン・バルジャンがいくら徳を積み、人生がうまくいったからとはいえ、公職で目立つ市長にはなるなよと叫びたくなります。 まずは、唯一、私と同じような感想を持っている評論家・田沼雄一氏のコメントを紹介したいと思います。その後は、絶賛のオンパレードを紹介します。 |
●(3)平成25年1月18日、週刊ポスト「田沼雄一の映画からむコルム」
<レ・ミゼラブル> 世界大ヒットの同名ミュージカル劇の映画化。というよりも、ジャン・バルジャン=「巌窟王」のミュージカル版、と言ったほうが分かり易い。 ジャン・バルジャン役に長身の二枚目ヒュー・ジャックマン、彼を追い続ける冷酷な警部ジャベール役にヘビー級の迫力を感じさせるラッセル・クロウ。2人ともアクション映画には定評がある。映画ファンは当然、2人の闘い、それも一騎打ちに近い壮絶なシーンのクライマックスを期待する・・・・・がしかし、それが全然ない!もとの舞台劇にないのだからしょうがないだろ、とは思わない。これは映画版だ。少しくらい手を加えてもいいはず。ヒュー・ジャックマンとラッセル・クロウを競演させたのはアクションをさせる目的じゃなかったのか。 ヒュー・ジャックマンの歌唱力は有名。でもラッセル・クロウの歌を期待して映画館へ行くファンはまず絶対にいないはずだ。彼に期待するのは、そうヘビー級ボクサーの重いパンチのようなド迫力のアクション演技だけ。もともと演技力で勝負というよりも、体を張ったアクションが生命線の人である。歌う前に体を動かせ!とドツきたかった。 昔、オードリー・ヘプバーン主演の『マイ・フェア・レディ』(64年)がクリスマスから正月にかけて封切られた。観ながら心がウキウキした。あの頃ミュージカル映画と言えば、愉しい映画のシンボルだった。それがいまは・・・・・重くて暗くて長~い。あぁ疲れる。 今週のピリ辛度<5のうちの4辛> <たぬま・ゆういち・・・・・映画評論家。主な著書に『映画を旅する』『野球映画超シュミ的コーサツ』(以上、小学館)などがある> |
●(4)平成25年1月19日、夕刊フジ「ジンクスを破った「レ・ミゼ」快進撃」
<ミュージカル映画でも興収50億円> 「ミュージカル映画は当たらない」という日本の映画界に伝わるジンクスを打ち破る快進撃だ。ビクトル・ユゴー原作の人気ミュージカルを映画化した「レ・ミゼラブル」が昨年12月21日の公開から、今月16日までに興行収入30億円を突破する大ヒットを記録。中高年の映画ファンもハンカチ片手に涙する光景が映画館に戻ってきた。 アメリカでの評判も高い。アカデミー賞の前哨戦であるゴールデン・グローブ賞では、ミュージカル・コメディー部門で作品賞と、ヒュー・ジャックマンが主演男優賞を受賞。ドラマ部門と一体で選定される助演女優賞では、ファンテーヌ役のアン・ハサウェイが受賞。そのアナウンス効果が、動員をさらに後押しする。 正月映画の興行収入見込みでも、50億円超えが見えてきた。 フタを開けてみれば、「歌えるスターを集めた仕掛けの大きな作品で、ゴージャスな映画を見た!という、満足感が味わえる」(映画評論家のおかむら良氏)と、英国ミュージカルを忠実に再現した映像の力が口コミで広がった。 <泣けるシーンで女性客動員> 「ジャックマン演じるジャン・バルジャンの波瀾万丈の人生と、執念で彼を追い続ける宿敵ジャベールの対立。基本的には男くさいドラマだが、ヒロインのウエイトを大きくして、泣けるシーンを作り、女性客を動員することに成功したのがヒットの要因だろう」と、おかむら氏は分析。 その泣けるシーンを盛り上げるのが2人のヒロインだ。前半はハサウェイが貧しさのドン底にいる母親ファンテーヌ役を熱演。長い髪を売り、夜の女に転落するシーンは涙をさそう。実際に体重を落として髪を切り、役作りに成功した。 後半のヒロインは、ファンテーヌの娘で、ジャン・バルジャンに育てられたコゼット。切ない恋物語が見どころとなる。演じるアマンダ・セイフライドは歌唱力に定評のある若手女優。「スッキリした気分で劇場を出ることができるのがいい」(おかむら氏) 演劇ファンにとっては、東宝ミュージカルで何度もロングラン公演されたおなじみの演目。今年も4~7月の東京・帝国劇場から福岡、大阪、名古屋で10月まで上演される。「映画を観てから、舞台へ」という流れに持ち込みたいところだ。 アカデミー賞の手応えはどうか。映画評論家の垣井道弘氏は「ゴールデン・グローブ賞の受賞で、ハサウェイの助演女優賞でのオスカーは確率が高くなった。『レ・ミゼラブル』がアカデミー賞の主要部門で受賞すれば、ミュージカル映画としては2002年度に作品賞と助演女優賞を獲った『シカゴ』以来、10年ぶりの快挙となるが、その可能性は大いにある」とみる。 授賞式は2月24日。結果次第では、映画のリピーターがさらに増えて、配給元はウハウハか。 |
●(5)平成25年1月24日、東京新聞「ああ無情」
<仏革命と学生運動・庶民の悲哀と格差社会> 映画の背景として重要なのは、フランス革命の時代が描かれていることだ。革命を志す学生たちが蜂起し、市街地にバリケードを築き、軍隊と向かい合う。 映画評論家の品田さんは「若者にとっては青春物語だし、一定年齢以上には学生運動や労働組合運動の興奮を思い出させるのかも」と話す。マーケティングコンサルタントの西川りゅうじんさんも「学生運動の華やかなりし時代と重なり、中高年は懐かしいのではないか」とみる。結果的には、挫折に終わった学生運動。映画はその郷愁をくすぐるような面があるのかもしれない。実際、65歳の男性は、「映画を見ていて、あの時代を思い出し、涙が止まらなくなった」と話していた。 現代の「格差社会」「社会不安」と重ね合わせて見る人も多い。19世紀のフランスも貧困にあえぐ市民と、富裕層の間に格差が広がっていた。 大妻女子大の小泉泰子准教授(音楽社会学)は「学生らは就職難など、格差社会の矛盾をもろに受けている。中高年は、歌を通じて社会を変革し、連帯しようとした世代で共感がある」と指摘する。西川さんは、「現代も震災や原発事故、東アジア情勢などがあり、世の中が混沌としている。平和な時代だったら共感を得るのは難しかったかもしれない」と話した。 「レ・ミゼラブル」についての著作もある明治大の鹿島茂教授(フランス文学)は「格差社会」に加え、「愛のリレー」をキーワードに読み解く。 愛のリレーが途絶えがちなのは現代の日本も当時のフランスも変わらない。「『私は愛をもらっていない。愛をよこせ』という態度の人も多い」と鹿島さん。「バルジャンの生き方が、観客に愛をつなぐことの大切さを気づかせたのでは」と話した。 |
○(6)<パンフレットより><INTRODUCTION>
<愛、勇気、希望・・・世界が泣いた、永遠に語り継がれる物語> 1985年の初演以来、ロンドンでは27年間にわたり上演が続き、今なおロングラン記録を更新し続ける「レ・ミゼラブル」。世界43カ国、21ヶ国語に翻訳され、6000万人を超える観客を動員しているこの作品は、まぎれもなく世界で最も愛されているミュージカルの最高峰だ。本作品は、その舞台の興奮と感動を、超一級のキャストとスタッフの手によって丸ごとスクリーンに封じ込めて完全映画化。舞台版をこよなく愛するファンには喜びを、舞台を観たことのない観客には驚きを、そしてすべての人々に生涯忘れられない映画体験をもたらす至高の感動作だ。 原作は、文豪ヴィクトル・ユゴーが1862年に発表した大河小説。150年の時を経ても、現代の私たちにも通じる物語は、格差と貧困にあえぐ民衆が自由を求めて立ちあがろうとしていた19世紀フランスを舞台に展開する。主人公のジャン・バルジャンは、パンを盗んだ罪で19年間投獄された男。仮釈放されたものの生活に行き詰まった彼は、再び盗みを働くが、その罪を見逃し赦してくれた司教の真心に触れ、身も心も生まれ変わろうと決意。マドレーヌと名前を変え、市長の地位に上り詰める。そんなバルジャンを執拗に追いかける警官のジャベール。そして、不思議な運命の糸で結ばれた薄幸な女性ファンテーヌ。彼女から愛娘コゼットの未来を託されたバルジャンは、ジャベールの追跡をかわしてパリへ逃亡。コゼットに限りない愛を注ぎ、父親として美しい娘に育てあげる。そんな中、パリの下町で革命を志す学生たちが蜂起する事件が勃発し、誰もが激動の波に呑まれていく・・・・・。 自分を偽る生き方を強いられながらも、人としての正しい道を模索し、波乱万丈の人生を歩むバルジャン。彼の心の旅を軸に多彩な登場人物の運命が交錯するドラマは、絶望的な環境にあってもよりよい明日を信じ、今日を懸命に生き抜く人々の姿をリアルなまなざしで描き出す。その中心にあるのは、様々な形で表現される「真実の愛」だ。離れて暮らす娘コゼットを想うファンテーヌの母の愛。バルジャンがコゼットに注ぐ無償の愛。コゼットのバルジャンに寄せる無垢な愛。コゼットと恋人マリウスの間に通い合う純愛。いくつもの愛のエピソードが、観る者の感情を揺り動かし、忘れがたい名場面の数々を作り出していく。とりわけ胸に迫るのは、バルジャンとコゼットの血のつながりを超えた父娘の絆のエピソードだ。苦悩と葛藤に満ちたバルジャンの人生が、コゼットの存在によって報われ、未来へとつながっていくことを物語るラストには、誰もが涙を誘われずにいられないだろう。 生きるのが難しい時代だからこそ輝きを増す人と人の絆。誰かのために生きることの尊さ。困難に立ち向かっていく勇気と、希望を持つことの大切さ。それらを高らかに謳いあげた『レ・ミゼラブル』・・・・・今の私たちが心から欲し、共感できる映画がここにある。 |
○(7)<STORY>
<1815年、ツーロン> 妹の子供のためにパンを盗んだ罪で19年間服役したジャン・バルジャンは、ある日、監督官のジャベールから仮釈放を告げられた。死と背中合わせの労役から解放され、自由の身になれたと喜ぶバルジャン。だが、身分証の代わりに釈放状を持ってさまよう彼に世間の風当たりは冷たかった。疎外感に打ちひしがれたバルジャンは、一夜の宿を提供してくれた司教の好意に背き、銀の食器を盗み出した。驚いたことに、そんなバルジャンを司教は許し。食器に加えて燭台までも「持って行け」と差し出す。その真心に触れたバルジャンは、身も心も新しい人間に生まれ変わると誓い、釈放状を引きちぎった。 <1823年、モントルイユ・シュール・メール> ある晩、慈善で港湾地区を訪れたバルジャンは、客ともめて警察に突き出されそうになった娼婦の窮地を救う。彼女の名はファンテーヌ。バルジャンの工場を解雇されたせいで娼婦に身を落とした女性だった。それを知ったバルジャンは、胸の病に苦しむファンテーヌを入院させたうえ、彼女の娘のコゼットを里親の元から連れ戻すと約束する。 そんな時、バルジャンを動揺させる事件が起きる。別人がジャン・バルジャンに間違えられて逮捕されたのだ。自分が本物だと名乗り出ればすべてを失う。が、沈黙を貫けば人の道に背くことになる。激しい葛藤のすえ裁判所に出かけたバルジャンは、人々の前で自分の正体を独白する。この時には、刑に服する覚悟を決めていたバルジャンだったが、ファンテーヌの最期を看取った彼にはコゼットの保護者となる約束が残されていた。逮捕に執念を燃やすジャベールを振り切ったバルジャンは、コゼットが里親と住むモンフェルメイユに向かう。 コゼットの里親のテナルディエと夫人は、悪どいやり方で旅人から金品をまきあげる安宿の経営者だった。強欲な彼らは、幼いコゼットに下働きをさせ、実の娘のエポニーヌには贅沢をさせていた。その様子を垣間見たバルジャンは、テナルディエ夫妻に大金を払ってコゼットを引き取る。「私のパパになってくれるの?」。無垢な瞳でみつめるコゼットの問いかけにうなずいたバルジャンは、命がけでこの子を守ると誓い、馬車をパリへ走らせた。ジャベールに追われるふたりがたどり着いたのは、バルジャンに恩のある男が庭師をする修道院。そこに温かく迎え入れられたバルジャンは、コゼットの守護者としての第3の人生を歩み出す。 <1932年、パリ> 七月革命によってブルボン朝が倒れたあと、フランスは立憲君主制に移行。国民王ルイ・フィリップの統治下で中流階級の暮らしが豊かになるかたわら、労働者や学生たちは貧富の格差に不満をつのらせ、革命の機会をうかがっていた。マリウスも、自由で平等な社会の実現を求めて闘う学生のひとりだ。裕福な家庭を飛び出しスラム街のアパートで暮らす彼は、親友のアンジョルラスがリーダーを務める「ABCの友」の一員として運動を続けていた。そんな彼に、革命の理想を忘れさせるほどの出会いが訪れる。相手は、バルジャンの手で大切に育てられたコゼットだった。彼女にひと目惚れしたマリウスは、近所に住むエポニーヌに頼み、コゼットがバルジャンと暮らすプリュメ街の屋敷をつきとめてもらう。一方のコゼットも、マリウスに心惹かれていた。屋敷を訪ねてきたマリウスの手をとり、お互いの気持ちを確かめあうコゼット。そんなふたりの様子を、マリウスに想いを寄せるエポニーヌはやるせない気持ちでみつめていた。 マリウスが立ち去ったあと、プリュメ街の屋敷にもう一組の訪問者が現れる。バルジャンから再び金を絞り取ろうと画策するテナルディエの一味だ。彼らの襲撃はエポニーヌの妨害によって失敗するが、ジャベールに隠れ家をつきとめられたと思い込んだバルジャンは、コゼットを連れて国外へ逃げようと決意する。荷造りをせかされたコゼットは、マリウスに行き先を知らせる手紙を書いてエポニーヌに託すが、嫉妬心に負けたエポニーヌは「彼女は行ってしまった」とだけ伝えた。急いでプリュメ街へ駆けつけたマリウスは、もぬけの殻になった屋敷を見て失意のどん底に突き落とされる。 一夜明け、パリの街角には蜂起を呼びかける学生たちの声が響き渡った。いよいよ革命に向けた闘いが始まったのだ。学生たちはアンジョルラスの指揮でバリケードを建設。そこに、労働者に扮したジャベールがスパイとしてやって来る。が、ストリート・チルドレンのガブローシュに正体を見破られ、囚われの身となった。やがて始まる兵士の攻撃。学生たちは果敢に応戦するが、マリウスをかばおうとしたエポニーヌは敵の銃弾に倒れてしまう。意識が薄れていく中、コゼットの手紙をマリウスに渡したエポニーヌは、愛する人の腕に抱かれた喜びをかみしめながら静かに息を引き取った。 その夜、ひとりの男がバリケードの中へやって来る。コゼット宛てのマリウスの手紙を読んだバルジャンだった。彼の目的は、コゼットのためにマリウスの命を守ること。到着早々、敵の小隊の攻撃を食い止めてアンジョルラスの信頼を得たバルジャンは、捕虜となっていたジャベールの身柄を預かりたいと申し出た。報復を覚悟するジャベール。しかし、バルジャンはジャベールの拘束を解くと、「君は自分の任務を果たしただけだ」と言い、バリケードの外へ解放してやる。 翌日、バリケードはすさまじい砲撃を受け、学生たちは壊滅状態に追い込まれた。アンジョルラスは命を落とし、マリウスも銃弾を浴びて意識を失う。その身体を抱き抱えたバルジャンは、下水道をつたって安全な場所をめざす。しかし、その行く手をジャベールが阻んだ。銃を手に立ちはだかるジャベールに、「マリウスを救うために1時間の猶予をくれ」と懇願するバルジャン。その頼みを、信念に背いて聞き入れてしまったジャベールは、価値観の崩壊に耐えきれず、セーヌ川に身を投げた。 バルジャンの手で祖父の家に運ばれたマリウスは、コゼットの献身的な看病と励ましを受けて回復した。そんな彼にコゼットとの結婚の許可を求められたバルジャンは、自身の過去を打ち明けると、コゼットの守護者の役割をマリウスに託し、ひっそりと姿を消す。ただひたすらコゼットの幸せを願って生きてきたバルジャン。報われることの少なかった彼の人生は、このまま静かに幕を閉じようとしていたが・・・・・。 |
○(8)<原作について・・・世紀を超える「変革の神話(ミュトス)」>(稲垣直樹・京都大学大学院教授)
「こんな話を聞きました。いくつもの工場では労働者たちが1フラン(日給の半分の金額、現在の日本円で1000円見当)ずつお金を出し合い12フラン(12,000円見当)をサックに入れて、『レ・ミゼラブル』を買いに行きます。みんなで籤引きをして籤に当たった者が、みんなが回し読みをしたあとに『レ・ミゼラブル』を自分のものにするのだそうです。(中略)遠くにおられたのではよくお分かりにならないでしょうが、『レ・ミゼラブル』は社会のありとあらゆる階層で比類ない感動を呼びおこしています。」 原作の『レ・ミゼラブル』は5部仕立ての長大な小説で、1862年3月から6月にかけて順次パリとブリュッセルの両方で刊行された(2012年で、刊行からちょうど150年)。刊行当時、フランスはナポレオン3世独裁の第二帝政。その独裁政権に反対して作者のヴィクトル・ユゴー(1802年~1885年)は、英仏海峡に浮かぶイギリス領の島に亡命中であった。お読みいただいたのは、第1部刊行から約40日後の5月11日、パリ滞在中のユゴー夫人が亡命先のユゴーに書き送った手紙の一節。パリの読者、とりわけ労働者たちの熱狂ぶりがひしひしと伝わってくる。 小説『レ・ミゼラブル』が刊行当時、そして刊行後も、いかに爆発的な人気を博したか。それを物語る、驚くべき数字を挙げよう。 出版の前年、ブリュッセルの出版社とユゴーは出版契約を交わした。翻訳権を含めて12年間の出版権のいっさいを24万フラン(2億4千万円)で売り渡すという契約内容。実際にはこれに6万フランが追加された可能性を指摘するユゴー研究者もいる。そうなれば合計で30万フラン(3億円見当)となる。その著作権料を差し引き、さらに印刷代、紙代など必要経費すべてを差し引いた出版社の純利益が、1862年の出版から1868年までの7年間だけで、51万7千フラン(5億1700万円)に達したという。この時代、出版部数はつかみにくいが、『レ・ミゼラブル』刊行の1862年からユゴー没年の1885年までの間に、エディションの数でいえば『レ・ミゼラブル』は16の異なるエディションを数えている。その後1886年から1914年は9種類のエディション、1915年から1939年は3種類のエディションと減る。だがこれが必ずしも出版部数の減少にそのままつながらないのは、このあと1960年から1984年まで25年間の『レ・ミゼラブル』の総出版部数を見ると、それがなんと4,927,185部と、500万部近いのだ。もっとも、このうち2、973、208部は子供向けの翻案などダイジェスト版だが(『ヴィクトル・ユゴーの栄光』1985)。 それにしても『レ・ミゼラブル』が19世紀、20世紀を通しての一大ベストセラーかつロングセラーであることに間違いない。日本でも、明治35(1902)年から翌36年にかけて黒岩涙香が新聞『万朝報』に『噫(ああ)無情』と題して波瀾万丈の翻案を連載して以来、全訳もダイジェスト版も長い間、青少年の必読書となっていた。子供の頃、ジャン・バルジャンの物語に一喜一憂された経験をお持ちの方も少なくないだろう。 今回の映画のもとになったミュージカル『レ・ミゼラブル』はフランス初演1980年、イギリス初演1985年、日本初演1987年以来、全世界で6000万人以上と驚異的な観客動員数を誇っている。 19世紀から20世紀、そして20世紀から21世紀へと世紀を超えて感動の渦を巻き起こし続けているのだが、それは、そもそもこの『レ・ミゼラブル』がどのような作品だからなのだろうか。 1845年に執筆を開始し、1848年に「二月革命」が起こって執筆を中断。その12年後、1860年に執筆を再開し、1862年に完成した。通算17年もの歳月が掛かったというわけだ。国会議員を務めるなど政治家でもあったユゴーは、この間、特にナポレオン3世の暴政に反対した。第二帝政が倒れるまでは決してフランスの地は踏まない。そう公言しつつ、『小ナポレオン』(1852)、『懲罰詩集』(1853)などを出版し、独裁政権を攻撃し続けた。亡命中、アメリカの奴隷解放運動にも影響力を行使し、民主主義のカリスマ的シンボル、西欧社会のオピニオン・リーダーと目されるようになった。 イギリスに遅れること60年、フランスでも1820年代から急速に産業革命が進行していた。大都市に人口が集中し、劣悪な環境で労働者たちは体を酷使され、口にできるものと言えば、せいぜい雑穀入りのパンだった(ジャン・バルジャンが姉の飢えた子供たちのためにパンを盗んだのは他に食べる物がなかったからだ)。19世紀半ばまでは、フランス人の平均寿命は40歳そこそこで、労働者階級はもっと低かった。 若い頃から刑法の改善、特に死刑廃止運動に取り組んでいたユゴーは大都市の民衆の貧困問題にも心を砕いていた。工業都市のスラム街を仲間の議員たちとともに視察したり、貧困撲滅と社会改革の議会演説を繰り返したりした。現在のEU(ヨーロッパ連合)のルーツとも言える「ヨーロッパ合衆国」の構想を打ち出したりもしていた。 そんなユゴーが『レ・ミゼラブル』で企てたのは、実は、フランス社会を根底から変革する、壮大な神話(ミュトス)の形成であった。1789年のフランス革命において、議会でいち早く採択されたのが、あの有名な「人権宣言」。自由、平等、私有財産の不可侵、国民主権が謳われ、後に生存権が加わって、現在の(むろん、わが日本国憲法を含む)多くの国の憲法の基本理念となっている。これを基礎に成立した社会システムが「近代社会」と呼ばれるものである。古代社会で、共同体の起源と存立の意味を明らかにし、共同体の構成員の誰もが共有すべき物語。それがいわゆる神話(ミュトス)だが、「近代社会」はそれに相当するものとして、その国固有の歴史を創造した。フランス19世紀において、どれほど多くの「フランス史」が書かれたことか。それとともに現代史、あるいは、歴史の代わりに現代社会を大がかりに描いた長編小説が多数生産された。『レ・ミゼラブル』はその代表格といえるのである。 労働者、学生、聖職者、資本家、職人、官憲、軍人、アウトロー、そして、虐げられた女性と子供。登場人物たちはそれぞれの社会階層を代表し、物語はフランス近代社会の縮図となっている。 とりわけ主人公ジャン・バルジャンは、神話の英雄が共同体の価値を一身に担っていたように、19世紀社会の主役「民衆」の価値を一身に体現している。神話の英雄に伍して、超人的な身体能力と超人的な頭脳に恵まれていた。 原作をお読みなると何にも増して不可思議で重要と思えることだが、彼はあの英雄ナポレオン(ユゴーが軽蔑していた3世はその甥)と事ある事に引き比べられている。彼はナポレオンと同じ1769年生まれ。ナポレオンが栄達と上昇の運命をつかんだイタリア遠征と同じ1796年に徒刑場送りとなり、下降の運命を辿り始める。19年の刑期を終えて、1815年、南仏ディーニュの町に入ったのも「皇帝ナポレオンが通ったのと同じ道を通って」(第1部第2編第1章)とされる等々である。 小説全体の冒頭の文章にも1815年という年号が入り、1848年執筆中断段階の草稿で冒頭にあった決定稿の第1部第2編も1815年という年号の入った紋章で始まっている。1815年はナポレオン没落の契機となったワーテルローの敗戦の年。その戦いの一部始終は第2部第1編をまるごと費やして、詳細に記述されている。そのうえで、この敗戦についてユゴーは「この日、人類の未来の見通しが一変した。ワーテルロー、それは19世紀の扉を開ける支えの金具。あの偉大な人間の退場が偉大な世紀の到来に必要だったのだ」(第2部第1編第13章)と書いている。 1815年ナポレオンと上昇・下降の運命を入れ換えたジャン・バルジャンは、ディーニュの町で出会ったミリエル司教の慈愛に触れて改心する。同年、ある地方都市にやってきて、装身具製造の技術革新により理想的な工場経営を実現し、その蓄えによりコゼットを育てつつ、19世紀という「人類の未来」をナポレオンに替わって切り拓くことになる。新しい「民衆の世紀」を「民衆」の代表である英雄ジャン・バルジャンが建設する。それが『レ・ミゼラブル』全編で展開する真の変革の神話なのだ(拙著『「レ・ミゼラブル」を読みなおす』白水社刊参照)。 change(変革)を訴えて当選を果たしたアメリカ合衆国大統領が再選された。社会は常に変革されなければならない。そう感じ、考える人がいる限り、『レ・ミゼラブル』の神話は繰り返され、複製され、そして、歌われ続けることになるのである。 <稲垣直樹・・・・・東京大学大学院仏語仏文学博士課程終了。パリ大学にて文学博士号取得。京都大学大学院教授。ユゴー、サン=テグジュペリを専門とし、著書に『「レ・ミゼラブル」を読みなおす』(白水社)、『「星の王子さま」物語』(平凡社新書)、訳書にユゴー『エルナニ』(岩波文庫)などがある> |
<文責:藤森弘司>
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