2012年9月30日 第122回「今月の映画」
脚本/監督:エリック・トレダノ/オリヴィエ・ナカシュ 主演:フランソワ・クリュゼ オマール・シー
●(1)映画「あなたへ」は良かったです。
しかし、今回は実話に基づいた面白く、感動的な映画「最強のふたり」を選びました。その理由は2つです。 ①空海の言葉「 物に定まれる性(しょう)無し、人何(いづくん)ぞ常に悪ならん」『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』が連想されたからです。 「空海!感動の言葉」(大栗道榮著、中経の文庫)によりますと・・・・・ ものに決まった性質などない。 悪に強いものは善にも強い、といいます。 さっそく勢い込んで王宮へ乗り込みました。三人の若者が裸で王宮の正面入口から堂々入っていくのに、誰も気がつきません。 ただちに王宮に厳戒態勢が敷かれました。姿の見えない敵なので、王宮中に白い粉をまいておき、足跡をたどったところ、二人の悪友は発見され、たちまち殺されてしまいました。 翌朝になるのを待ちかねて、命からがら宮中から脱出した龍樹は深く懺悔し、<邪教はたしかに面白い。だが、それは結局は身の破滅になる。こんなばかなまねは二度とすまい!> と心に誓い、その後仏道に身を投じ、必死になって学問と修行に励んで大成したのです。 ②もう一つは・・・・・ カウンセリングの理想的な部分を垣間見せてくれています。 気を使われることにウンザリしていた大富豪の主人公にとって、「粗野」ではあるが「人情味」溢れる黒人青年に強く心が魅かれています。 |
○(2)<パンフレットより><INTRODUCTION>
2011年フランス興収№.1・フランス映画史歴代№2 フランス国民の3人にひとりが観た 2011年11月、フランスで公開されたある映画が、いきなり年間興収第1位に躍り出る。その勢いは止まることなく、並みいるハリウッド超大作をおさえてフランスの歴代№2という大記録を打ち立てた。 正反対のふたりがぶつかり合いながら 本作は、スラム街出身で無職の黒人青年ドリスと、パリの邸宅に住む大富豪フィリップという、なにもかもが正反対の男たちの実話の基づいた物語。ふたりは、事故で首から下が麻痺したフィリップの介護者選びの面接で出会う。他人の同情にウンザリしていたフィリップは、不採用の証明書でもらえる失業手当が目当てというフザケた態度のドリスを採用する。 その日から相入れないふたつの世界の衝突が始まった。クラシックとソウル、高級スーツとスエット、文学的な会話と下ネタ・・・・・。だが、ふたりとも本音で生きる姿勢は同じだった。互いを受け入れはじめたふたりの毎日は、ワクワクする冒険に変わり、ユーモアに富んだ最強の友情が生まれていく。しかし、ふたりが踏み出した新たな人生には、数々の予想もしないハプニングが待っていた。 フィリップには、『唇を閉ざせ』でセザール賞を受賞した、フランスが誇る演技派フランソワ・クリュゼ。辛辣な顔の下に繊細な魂を秘めた孤独な男が、心を自由に解き放ってゆく過程を感動的に演じる。ドリスには、人気コメディアンとして知られるオマール・シー。自信過剰で乱暴な顔の下に慈愛を秘めた男が、初めて人生と真剣に向き合おうとする姿を、底抜けに明るくチャーミングに演じている。 |
○(3)<STORY>
事故で首から下が麻痺した大富豪と <正反対の世界に住むふたりの出会い> 「クール&ザ・ギャングがお薦めだ」「知らんな。ショパンは?」。スラム出身の黒人青年ドリスと、パリに暮らす大富豪のフィリップ。このふたり、初対面から全く話がかみ合わない。無職で介護経験ゼロのドリスが、パラグライダーの事故で首から下が麻痺し車椅子生活を送るフィリップの介護者に応募。面接に訪れたドリスは、さっさと不採用の証明書をよこせと言い出す。彼は証明書3枚で支給される失業手当を得るためにやってきたのだ。およそ介護者にふさわしいとは思えないドリスに、フィリップは明日の朝、書類を受け取りにくるよう告げる。 その夜、ドリスは半年ぶりに幼い弟や妹のいる家に帰るが、怒った母親に追い出されてしまう。 <生きる力を取り戻していくフィリップ> 翌朝、書類を受け取りに再びフィリップを訪ねたドリスは、なぜか採用されてしまう。屋敷を仕切るイヴォンヌに案内された、豪華な個室と専用の浴室を見て、働く気になるドリス。 さっそく介護の訓練が始まるが、ドリスはお気楽なマイペースを崩さない。秘書のマガリーを口説き、フィリップの脚に熱湯をかけて“実験”し、彼の状態を忘れて携帯電話を差し出す。反抗的なフィリップの養子も、容赦なく叱り飛ばす。口から出るのは、下品な下ネタや危ないブラックジョークばかり。前任の介護者はみんな1週間で逃げ出したほど傲慢で気難しいフィリップも、負けじとシニカルなユーモアや深い教養で切り返す。そうしてやり合ううちに、フィリップの表情は日ごとに生き生きとしていった。 <ドリスは私に同情しない。そこがいい> 心配してドリスの経歴を調べた親戚が、宝石強盗で半年間服役した前科者だから気をつけるようにとフィリップに忠告する。しかしフィリップは、「彼は私に同情していない。そこがいい。彼の素性や過去など、今の私にはどうでもいいことだ」と、毅然と答えるのだった。 フィリップを車の荷台に乗せるのを「馬みたいだ」と嫌がって助手席に座らせたり、早朝に発作を起こした彼を街へ連れ出し落ち着くまで何時間も付き合ったり、意外にもドリスには自然な思いやりや優しさがあった。さらに「女に関してだけど、アッチ方面はどうしているの?」とズケズケと尋ね、深刻な話も笑いに変えてしまう。そんなドリスの魅力に、邸で働く人たちもだんだん惹かれていった。 ドリスに心を許したフィリップは、不治の病で亡くなった最愛の妻との思い出を語り、「一番つらい障がいは彼女の不在だ」と打ち明ける。悲しみをたたえたフィリップを温かい眼差しで見守るドリス。 <うまくいかない人生もふたりなら乗り切れる> ある日ドリスは、フィリップの文通相手の女性に勝手に電話をかける。半年も顔も知らずに手紙だけで付き合うなんて、ドリスには時間の無駄としか思えない。フィリップは慌てるが、彼女との会話は楽しかった。やがて写真を交換することになり、ドリスは「障がいなんて気にしないさ」と自信満々に写真を選ぶが、フィリップはこっそりイヴォンヌに事故前の写真と換えさせる。 事態は急展開、フィリップは彼女と会うことになる。だが、イヴォンヌの付き添いで待ち合わせのカフェに行ったものの、すぐに逃げ出してしまう。「遠くに行きたくないか」というフィリップからの電話で、全てを察するドリス。ドリスもまた少しばかり落ち込んでいた。弟が悪い仲間と付き合っていると知り、母親が心配で会いに行ったのだが、職場から出てくる彼女に声をかけられなかったのだ。 そんな傷心のふたりが専用飛行機に乗り込み、着いたその先は、パラグライダーが舞う大高原。やがてふたりは嫌なことなど吹き飛ばすように、大笑いで大空を飛んでいた。 <最強のふたりに訪れる突然の別れだが・・・・・> 笑いと冒険に満ちた日々を送るふたりに、別れは突然やって来た。ヘマをして仲間にシメられた弟が、ドリスのもとに逃げ込んで来たのだ。家族のことを真剣に思うドリスを見たフィリップは、「やめにしよう。これは君の一生の仕事じゃない」と提案する。翌朝、名残を惜しむ邸の人々に、陽気に別れを告げるドリス。 フィリップは真っ当な介護者を雇い、ドリスは運転手の仕事を見つける。ドリスは自分の人生を再スタートさせるが、フィリップは再び孤独に陥っていた。そしてドリスは突然真夜中に呼び出される。いったいフィリップに何があったのか・・・・・。 |
○(4)<COLUMN>
<フランスが愛した国民的映画>(林瑞絵・映画ジャーナリスト) 時代の歯車とカチッとはまる映画がある。本国フランスで“社会現象”と称された『最強のふたり』は、そんな幸福な1本だろう。主人公は事故で半身不随となった大富豪と、低所得者層が多い郊外育ちで前科持ちの黒人青年。親子ほどに年も離れ、趣味も環境も正反対なのに、その実、誰よりも心が通じ合うようなふたり。この不可思議な友情に、国民は瞬く間に心奪われた。観客数1938万人は国民の3・3人にひとりが観た計算に。観客数史上第3位(1位は『タイタニック』、2位は日本未公開の『シュティの地へようこそ』)の輝かしい記録だ。 ふたりの主人公にはモデルがある。大手シャンパン会社重役で貴族階級末裔のフィリップと、彼の世話係を10年間務めたアルジェリア人青年アブデルだ。フィリップは波瀾万丈な半生を振り返り、98年に口述筆記で自伝『新たな活力』を出版した。『彼は手に負えず、見栄っ張りで、傲慢で、粗野で、無自覚で、人間味がある。彼がいなければ、私は壊死し死んでいただろう。私がダメになったときに笑わせてくれた』。フィリップは本書でアブデルを愛情を込めて回想している。 2002年には本がきっかけとなり、ふたりは公営テレビ局フランス3人の人気トーク番組にゲストとして招待された。さらにこのときに司会を務めたプロデューサーが、翌年にあらためて自身のテレビ制作会社で彼らのドキュメンタリーを製作し、話題を呼ぶ。映画監督のエリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュは、このルポルタージュ番組を見て感銘を受けたという。「ふたりの物語に恋をした」という両監督は、早速フィリップにコンタクトを取り、映画化へと動き出した。 トレダノとナカシュは本作で長編4作目となるコンビ監督。彼らは20年来の親友で、仕事を介し現在進行形で友情を温める“最強にふたり”でもある。2006年には小学生のサマーキャンプを描いたコメディ「私たちの幸せな日々」が146万人の観客を集めるなど、国内では実力派のヒットメーカーとして一目置かれている。主役に真っ先に抜擢されたのは、TVで絶大な人気を誇るコミックスターのオマール・シー。すでにトレダノ&ナカシュ作品では常連の脇役だったが、今回は彼の才能を開花させる好機となった。彼の起用に合わせ、アブデル役はアラブ系から黒人青年に変更され、名前もドリスとした。 <略> 『最強のふたり』は2011年11月2日に公開した。群を抜く面白さで、口コミは一気に波及。観客層は幅広く、学校や会社の到るところで「もう観た?」と、確認の会話が飛び交った。おりしも時代は世界的な大不況。閉塞感すら漂う中で、本作はフランス社会が潜在的に求めていた胸のすく爽快な笑いを、風穴を開けるようにもたらしたのだった。奔放で軽やかなドリスの存在感は、タブーも一瞬で笑いに変え、欺瞞や偽りの感情を吹き飛ばした。同情を毛嫌いし殻に閉じこもるフィリップが、ドリスの率直さに心をノックされたように、いつしか観客も彼に心の扉を開放していくのだろう。 それだけではない。出会うはずのないふたつの運命は交錯し、化学反応を起こし、やがてお互いに人生の味わいを発見させる大事な存在となっていく。双方向に高め合うポジティブなふたりの友情の形は、観る者の好奇心と意欲を刺激し、活力を与えてくれる。また多くの観客は、キレイごとではない真実の友情潭を前に、思わずホロットとさせられるだろう。笑って、泣いて、感動してと、まさに映画というスペクタクルが持つ心の浄化作用が堪能できるのも、本作の大きな魅力となっている。リピーターの観客がとりわけ多いのも頷ける。 もしもあなたの周りに気持ちが少し停滞気味の人がいるのなら、本作を薦めてみるのもいいかもしれない。物語に説教臭さは微塵もないが、気がつけば観る人の背中をそっと押し、前に進む勇気を分け与えてもくれる。『最強のふたり』は、心優しい映画でもあるのだから。現在本物のフィリップさんは、新しい女性と愛を育み、再びパラグライダーで大空を飛んでいるという。 <はやし・みずえ・・・・・フランス在住の映画ジャーナリスト。著作に「フランス映画どこへ行くヌーヴェル・ヴァーグから遠く離れて」(花伝社)がある> |
○(5)<REVIEW>
<親切は素早く>(芝山幹郎・評論家) バンリュー(郊外の団地)という言葉を知ったのは、『憎しみ』(95)を見たときだった。 社会問題が苦手な私にも、マチュー・カソヴィッツ監督の提起した問いは響いた。生活や肉体の荒廃は、かならず切実な問題を惹き起こす。そもそも、人間は健康でいても不幸になりがちなのだ。「荒廃」のもたらす災厄は、われわれの予測を超えることさえある。 『最強のふたり』の主人公ドリスもバンリューに暮らしている。たぶんセネガルあたりからの移民の子だろう。生活は貧しい。仕事はない。家庭は複雑だ。犯罪までの距離も近い。ただ、ドリスの表情は暗くない。陰惨な匂いも立ちのぼらない。 そんなドリスが、仕事の面接を受ける。仕事とは、裕福な身体障害者フィリップの介護だ。富裕層にふさわしく、フィリップはサンジェルマン・デプレに豪邸を構えている。いまやパリの都心は金持ちしか住めない。ボーボー(ブルジョワ・ボヘミアンの略称)と呼ばれるおしゃれな人たちにしても、先立つものがなければ服も買えない。アトリエや住居は、さらに遠い。 映画の原題はintouchablesという。つまり、「のけ者」ふたり。良識派の小市民から見れば、ふたりはともに異物だ。ドリスはアフリカ系移民という異物。フィリップは障碍者という異物。しかも、ふたりの境遇は対照的だ。下層階級と富裕階級。生活も趣味の文化も、すべてが食い違う。服や話し言葉が違うのはもちろん、音楽の趣味もまるで正反対だ。フィリップはショパンやベルリオーズを好み、ドリスはアース・ウインド&ファイアーやクール&ザ・ギャングがお気に入りだ。おや、なんともわかりやすい構図ではないか。 共同で脚本と演出に当たったのは、エリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュだ。40歳前後の彼らは、ほとんど一致点のないふたりを向き合わせるところから映画を出発させた。いや、ふたりの顔をじっと見れば、共通点がないわけではない。 最初に気づくのは、皮肉屋で我が強いことだ。さらには、辛辣で不羈な体質。グレーのパーカの上に黒い革ジャンを着たドリスの眼は、スキンヘッドと対になって油断なく輝く。首から下が完全に麻痺した状態で車椅子に坐っているフィリップの顔には、一筋縄ではいかない強情と独立心がうかがわれる。 だとすれば、「不採用にしてくれ。そうすれば失業手当が受けられる」と、いきなり相手の胸元をえぐるドリスの出方は大変わかりやすい。それを聞いて、「面白い。使ってみようか」と決断するフィリップの気分も、たなごころを指すように伝わってくる。 要は、お馴染みの話だ。小説でも劇画でもおとぎ話でも、「ひねくれ者がひねくれ者を理解する」構図は、手垢がつくほど使われている。図式的、と反発する観客はいるにちがいない。紋切型、と怒り出す観客も、たぶん。 私の場合は、映画を見はじめてすぐ、『ドライビング・ミス・デイジー』のフランス版かと首をかしげた。人種問題にからんだお説教なら聞き飽きている、感情を偽造していたらきっと癇癪を起こすぞ、とも思った。 だが、少し経って考え直した。待てよ、これは現実と競り合う映画ではなさそうだ。「実話に基づく物語」と謳いながら、どこか人を食った笑いやバディ・ムービーの要素もたっぷりと織り込まれているではないか。それどころか、映画の底にはロマンティック・コメディを想起させる可憐な音さえ流れている。もちろん主人公は筋金入りのヘテロだから、性的緊張などは関係ない。むしろ主題は友情だ。それも、下手ないたわりや同情など糞喰らえと撥ねつけるドライな友情。 だとしたら、鹿爪らしい顔で因縁をつけりのは的外れだ。世間の風はもっときびしいとか、これでは現実味が薄いとか。そういう批判こそ、紋切型にほかならないはずだ。 たとえばドリスは、フィリップのよだれを拭きながら「汚い」という。フィリップの下肢が麻痺しているのをたしかめようとして、脚に熱湯をかける。あるいは、フィリップを車椅子ごとヴァンに乗せる習慣を嫌がり、「馬じゃあるまいし」とつぶやいてスポーツカーの助手席に乗せる。 どれもこれも「やりすぎ」に近い。なのに、彼の言動は嫌味ではない。口が悪くて心根が優しい例は世間に珍しくないが、ドリスの場合は、動きが速くてもたもたしていない。 ドリスにはそれができた。できたのは、シーの頭の回転が速く、身体能力が高かったからだ。監督のトレダノとナカシュは、それを見越していたのだろうか。それともシーの肉体と感情は、彼らの予想を超えて速く、こまやかに動いたのだろうか。 まあ両方だろう、といいたくなるところだが、私の天秤はどうしてもシーの側に傾く。あるいは、「幸福な偶然」とか「幸福な発見」とかいった言葉も脳裏に浮かぶ。いいかえてみよう。シーの肉体は映画を加速させた。この速度があればこそ、この映画は追越車線に飛び出すことができた。 <しばやま・みきお・・・・・1948年生まれ。東京大学仏文科卒。評論家・翻訳家。アメリカ文化や映画への深い知識に裏打ちされた独自のスポーツ評論、映画評論を展開。「週刊文春」のシネマチャートの論評でも絶大な信頼を得ている。著書に「映画は待ってくれる」(中央公論社)、「映画は遊んでくれる」(清流出版)、「映画一日一本」(朝日文庫)、訳書にスティーブン・キング「ニードフル・シングス」「不眠症」(ともに文春文庫)などがある> |
<文責:藤森弘司>
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