2012年6月30日 第119回「今月の映画」
一遍上人
原作:「一遍上人絵伝」
監督:.秋原北胤    主演:ウド鈴木   宮下今日子   玉置成美   橘美緒

●(1)今回はいい映画が幾つもありました。

「幸せへのキセキ」「一枚のめぐり逢い」も良かった。トム・ハンクス、ジュリア・ロバーツ主演の「幸せの教室」も、ジョージ・クルーニー主演の「ファミリーツリー」も良かった。「ネイビーシールズ」も良かったが、「三島由紀夫」はいやはやでした。

1970年の映画、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演の「ひまわり」も良かったです。

さて、ここのホームページにもっとも相応しい今回の映画「一遍上人」は大いに期待しました。
パンフレットの内容を沢山紹介しようと思って購入しましたが、原作が「一遍上人絵伝」ですので、文字は下記の(3)だけで、後は「絵伝」の貴重な絵ばかりでした。そこで一遍上人については「世界人物事典」から紹介したいと思います。

●(2)さて、唯一、パンフレットに紹介されていた下記の言葉ですが、じっくり読んでみると、凄いことが書いてありました。多分、これは「悟りの境地」であろうと思います。
私たちは自分のこともわからないのに、自分以外のものごとをあまりにも知ったかぶりをし過ぎるように思います。「妻」のことは「妻」に問えば良いし、「夫」のことは「夫」に問えば良いわけです。同様に、「子供」のことは「子供」に問えばいいわけです。

私たちは、相手のことを相手に問わず、分かった気に、なり過ぎて、いはしないでしょうか?

花のことは花にとへば良いし、紫雲のことは紫雲にとへば良いわけです。

つまり、当たり前の人間になることが、多分、「悟りの境地」なのでしょう。~なのでしょうと言うのは、私(藤森)には未経験だからです。未経験を許していただければ、「悟りの境地」なはずです。当たり前のことって、結構、大変なことなんですね。当たり前のことが大変で、大変なことが当たり前になっているように思えます。

大変なことの典型的なことは「過干渉」です。過干渉をするってことは、かなりのガンバリズムが必要ですが、一般には、当たり前になっているようです。

○(3)<パンフレットより>

花のことは花にとへ

紫雲のことは紫雲にとへ

一遍は遊行を続け、「南無阿弥陀仏」の教え、踊り念仏を広げていた。ある時、踊る民衆は天から花びらが降り、紫の雲の光に、「奇瑞だ奇瑞だ」といって大騒ぎになった。一遍のこの時の感慨は深いものがあった。だが、阿弥陀仏の計らいとして、この瑞兆を自分の手柄のようにはしなかった。

この「紫」の雲というのは、すべての踊る民衆の目に、紫の聖なる光が映じて、白い雲が紫色に染まったように見えた。白い雲はあくまで、白い雲であったし、門外漢には、やはり白い雲にしか見えなかったに違いない。

奇瑞(きずい)・・・めでたいことの前兆として起こる不思議な現象>

●(4)<Yahoo!映画・インターネットより>

解説: お笑いコンビ「キャイ~ン」のウド鈴木が映画初主演を果たし、鎌倉時代に「踊り念仏」をあみ出した一遍上人の素顔に迫る人間ドラマ。一心に南無阿弥陀仏を唱えて各地を渡り歩く高僧とその一行が、偶然出会う「踊り念仏」誕生の瞬間などが描かれる。
共演者もドラマーの吉田達也やベーシストのKenKen、歌手の玉置成実、数々のアーティストのサポートメンバーを務めたスティーヴ エトウら音楽関係者が多数出演。仏の教えを少しでも多くの人に伝えようと精進した男のドラマチックな半生に驚嘆する。

あらすじ: 一遍上人(ウド鈴木)は妻(宮下今日子)や娘(橘美緒)や念仏坊(スティーヴエトウ)と共に遊行といわれる熊野や長野を巡る布教の旅に出る。彼はただ「仏との結縁」をすべての人に伝えることだけを考え、念仏を唱え続けていた。あるとき、佐久にある武家屋敷に立ち寄った際、突如一遍の念仏に合わせるかのように突然妻の超一が踊り出し、これがきっかけで「踊り念仏」が誕生する。その後、さまざまな人と出会いながら鎌倉に到着した一遍上人だったが……。

●(5)<世界人物事典><旺文社>

<一遍>

 (1239~1289年・延応元年~正応2年)鎌倉時代の僧。時宗(じしゅう)の開祖。幼名は松寿丸・通尚、長じて通秀という。出家してはじめ随縁。のち智真・一遍と称した。世に遊行上人(ゆぎょうしょうにん)という。伊予(愛媛県)の豪族河野七郎通広の二男として生まれる。

<称名念仏>・・・・・一遍の生まれた時は、法然の没後27年目であり、道元は盛んに曹洞禅を唱え、親鸞は年68歳、日蓮は21歳であった。一遍は7歳の時、河野氏の学問所・菩提寺である継教寺の縁教律師に学んだ。10歳の時、母を失い、15歳で出家し、僧名を随縁と称した。師の命によって比叡山にのぼり、慈眼僧正に師事すること12年、天台の教義を学んだ。

しかし、末法の世の人の心を救う仏教は、ただ念仏だけにあることを悟り、叡山を降りて筑紫大宰府の西山流の祖、証空の弟子聖達の門にはいり、聖達のすすめによって、肥前の華台上人に師事し、名を智真と改めた。
その後、1252年(建長4年)から再び聖達に浄土教を学ぶ。1263年(弘長3年)、父の死にあって故郷に帰り、聖道の教えを全く捨てて自ら悟り、浄土の教えに帰した。その後、再び大宰府におもむき、1271年(文永8年)信濃の善光寺に詣でてのち、また伊予に帰り、もっぱら称名念仏につとめた。

<時宗の布教>・・・・・さらに、天王寺・高野山・熊野などに詣で、神の開示を受けて感得したのが、いわゆる「神勅の偈(けつ)」といわれるものである。

六字名号一遍法(ろくじのみょうごう・いっぺんのほう)
十界依正一遍休(じゅっかいいしょう・いっぺんのきゅう)

万行雑念一遍証(ばんぎょうざつねん・いっぺんのしょう)
人中上々妙好花(にんちゅうじょうじょう・みょうこうのはな)

というのがそれである。この四句の頭文字をとって、「六十万人の頌(しょう)」という。ここにおいて名を一遍と改め、時宗を開き、1289年(正応2年)の死にいたるまでの約16年間にわたって諸国を巡り歩き布教の旅を続けた。時宗というのは、「臨命終時宗」という意味で、日常がつねに臨終の時であると考えて、常に称名(南無阿弥陀仏の念仏を唱える)を怠らないということを宗旨とした。

一遍の遊行行脚は、全国におよび、北陸・奥羽・東海・中国・四国・九州の諸地方にその足跡を残している。一遍の教説は、教養のない庶民にもわかりやすく、その教えを信仰した人々は武士・浮浪人・農民たちであった。
一遍は布教にあたって、「一所不在」といって、一所・一寺にとどまることなく、足にまかせ、気の向くままに歩きまわり、感興が起これば念仏にあわせて念仏踊りを踊ったのも特色の一つであった。

時宗は遊行宗ともいわれ、一遍が遊行上人といわれるゆえんである。なお一遍の教義で見のがせない点は、神道と仏教の調和をはかったことである。ことに当時民衆の厚い信仰の対象とされていた熊野信仰と結んでその教えを全国に広めていった。相模(神奈川県)藤沢の清浄光寺は遊行寺・藤沢寺ともいい、時宗の本山で、第二世他阿上人の創建した寺である。

<一遍上人絵伝(えでん)>

 一遍は、摂津兵庫の観音堂に至り、これまで自書した書物を火中に投じていうには、「一代の聖教今日滅尽して、唯(ただ)波阿弥陀仏を留む」と。こうして遺戒を門弟に与え、眠るように大往生をとげた。鎌倉仏教の開祖たちの中で、著書が残っていないのは、一遍だけである。
しかし、鎌倉後期、1299年(正安元年)法眼円伊の絵になる『一遍上人絵伝』は、一遍の遊行の生涯を描いた絵巻物で、克明に各地の庶民の生活が詩情豊かに描かれ、貴重な資料となっている。

<文責:藤森弘司>

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