2012年11月30日 第124回「今月の映画」
人生の特等席
監督:ロバート・ロレンツ  主演:クリント・イーストウッド  エイミー・アダムス  ジャスティン・ティンバーレイク

●(1)この映画は、予定調和的で十分に楽しめる映画という評判で、かなり好評のようです。確かに、この場面ではこうなるだろうという予測が立つ、分かり易い映画で、内容も素晴しかったです。

私(藤森)が今回、この映画を取り上げた理由は、カウンセリングで非常に重要な要素が幾つもあったことと、私自身が父親だけでなく、母親ももちろんそうですが、反省することが多かったからで、涙腺が緩みっぱなしでした。

①まず、ガンコな父親・・・誰でも皆、素直そうな顔をしていても、私もそうですが、頑固です。社会的、あるいは周囲に軋轢を起こす場合のみ、とてもガンコだと思われていますが、実は皆、恐ろしくガンコです。それが分かると、かなり生きるのが楽になります。

②次に、ガンコな男の天才的な感性・・・コンピューターやデータ全盛の時代に、長年の感でスカウト業を行なう主人公。高齢のため視力も衰え、ピッチャーの投げる球も、バッターのスイングもハッキリ見えなくなってきていた。しかし、長年の感性は素晴しく、バッターの打つ音を頼りにスラッガーの弱点を読み、獲得するに値しないと進言する。

私(藤森)自身が同様の悩み(?)を抱えています。
深層心理は証明できないだけに、ご本人にも、身内の方にも、ハタマタ、議論する相手にも明確に証明できない辛いものがあります。ご本人や身内の方々には、長期にわたってお世話をさせていただくことで、やがてはご理解いただけますが、いわゆる専門家たちには不可能です。
今回の主人公も、スカウトの責任者にカーブが打てないので獲得すべきではないと力説しますが、結局は、パソコンを巧みに操り、データ中心の若いスカウトマンに負けてしまいます。その切なさがとても響きました。
「理論」はいくらでも証明できても、重要なことは、「感性(直感)」は証明できないということで、これこそが「命」なのですが・・・・・。

③一人娘が猛烈な仕事人間。弁護士会社の幹部になりそうな場面、携帯電話に縛られながら仕事を処理する企業戦士。しかし、仕事を捨てて、やがて憎んでいた父親の補佐を始める。仕事人間、仕事猛烈人間の凄さ!!
次の④にあるように、親に十分に愛されていないと感じている人に多いパーソナリティー、非人間性です。一般に、こういう人が有能だと思われています。ノーベル賞受賞者にも多いような偏見が私(藤森)にはあります。

④この娘は、父親に嫌われて、あるいは仕事を優先させられて、捨てられるように寄宿舎に入れられたと思っていたが、そうではなかった・・・・・。
人生は、特に親子関係はこういう誤解に満ち溢れています。それぞれの親子関係にあることは、それは個々人、皆、違うでしょうが、それぞれが、皆、それなりに誤解しているはずです。もちろん、私(藤森)自身もそうでした。
私は、若いうちに人生が破綻したため、結果的に、早めに人生を見直す機会に恵まれ、こういう誤解に気付くことが少しは早く、少しは多く、できたかもしれません。

人生は、本当に驚くほど「誤解」に満ち溢れています。それに少しでも早く、少しでも多く気付かれることを祈ります。

<「今月の言葉」第53回、55、56回、58~61回、64回「認知療法の認知の歪み」ご参照>

○(2)<プログラムより>story

メジャーリーグ最高のスカウトマンといわれたガス・ロベル(クリント・イーストウッド)は、今や、老いぼれの烙印を押されようとしていた。データ野球全盛期の時代に、ハイテクに背を向け、自分のやり方を貫く彼を、もはや用済みと考える球団幹部もいた。球団との契約はあと3カ月。おそらく次のドラフトが、彼のスカウトマン人生のすべてを決める。

ガスは、今年の目玉と目される天才スラッガーの実力を見極めるべく、キャリア最後のスカウトの旅に出た。揺らぎ始めた球団の信頼、そして、衰え始めた視力。そんなガスの窮地を知り、旅に同行することになったのは、ガスにとって一番意外な人物、ひとり娘のミッキー(エイミー・アダムス)だった。

妻を早くに亡くしたガスは、幼い娘を1年で手放した。6歳で見知らぬ親戚に預けられ、13歳で寄宿舎に入れられたミッキーは、自分は嫌われているのだと思って育ち、大人になった今も、父と娘の関係は微妙な距離を置いたままだ。弁護士としてキャリアを積み、法律事務所での昇格を目前にしていたミッキーにとって、父の旅に同行することは、自分のチャンスを潰しかねない暴挙だった。ガスも反対し、ミッキー自身も不本意ながら、それでも同行することを決め、父と娘の旅が始まった。

話題の天才打者を目当てに、ノース・カロライナには各球団のスカウトマンが集まっていた。かつてガスがピッチャーとしてスカウトし、今はライバル球団のスカウトマンに転向したジョニー(ジャスティン・ティンバーレイク)の姿もあった。
豪快なバッティングを目の当たりにして、スカウトマンたちは色めき立ったが、ガスだけは違った。衰えた視力をミッキーに補ってもらいながら、ふたりで導き出したひとつの答え。“カーブに難あり”。この打者は、変化球が打てないのだ。しかし、それに対して球団が下した結論は……。

父と娘の双方に訪れる困難な事態。そんな中、父が娘を手放した本当の理由が明らかになっていく……。

○(3)<耳に親しいジャズのように>(REVIEW・芝山幹郎・評論家)

デトロイト・タイガースの監督ジム・リーランドは、ときおりクリント・イーストウッドに似ていることがある。
帽子を取ると、もっと似ている。7回表が終わって「ゴッド・ブレス・アメリカ」が流れてくるときなどは、ぜひ注目していただきたい。リーランドは細面の白髪だ。鼻が高く、顔には深い皺が刻まれ、1944年生まれとは思えないほど老けている。そうか、イーストウッドより14歳も若いのか。

今年のALCS(ア・リーグ優勝決定戦)第3戦でも、ふたりはびっくりするほどよく似ていた。しかも、「ゴッド・ブレス・アメリカ」を歌ったのが名脇役のジェフ・ダニエルズだ。昔ながらの映画と野球が好きな人なら、思わず頬をゆるめてしまう光景だった。おお、「アメリカの善」は不滅か、などとつぶやくのは大げさにすぎるが、オールド・スクール(旧派)のしたたかさはやはり否みがたい思う。

こういう光景を目の当たりにすると、『人生の特等席』の世界もすんなりと腑に落ちる。私自身、サイバーメトリックスの効能を否定するわけではないが、スタッツ万能主義を錦の御旗のように振りかざす傾向は、あまり好きになれない。選手の価値を測る上でOPS*1WHIP*2といった指標が欠かせなくなったことは事実だが、「品のよい打球」とか「馬も食わない人工芝」とかいった昔風の表現も、一方でなかなかしりぞけがたいものなのだ。
*1 On-base Plus Sluggingの略 打者を評価する指標のひとつで、出塁率と長打率とを足し合わせた値。
*2 Walks plus Hits per inning Pitchedの略 投手を評価する指標のひとつで、1イニングあたり何人の走者を出したかを表す数値。

クリント・イーストウッドが扮するガスは、アトランタ・ブレーヴスに所属する典型的な旧派のスカウトだ。高齢の彼は、いまだにコンピューターを使わない。バットが球をとらえる音で打者の能力を判断できると断言し、辺鄙な土地の安モーテルを泊まり歩いている。ただし、最近は視力の衰えが進んだ。視界がぼやけることはしばしばだし、自宅にいてもテーブルを足に引っかけてしまう。

その様子は、好意的な上司のピート(ジョン・グッドマン)にも見抜かれている。憂慮したピートは、ガスの娘のミッキー(エイミー・アダムス)に連絡を取る。幼いころ、父に連れられて野球を見歩いてきたミッキー(名前は大打者ミッキー・マントルにあやかったそうだ)は、成人したいま、アトランタで優秀な弁護士になっている。ピートは、そんなミッキーに頼み込む。有望な高校生を見に、ガスがノースキャロライナへ行く。できれば、ついていってくれないかな。

よくある話じゃないか、と思われる方は多いだろう。私もそう思った。妻を早くに失った老スカウトと、今は疎遠になってしまった娘が、野球を通して関係を修復する……。

ただ、そこには複数の脇役がからむ。たとえば、ガスが見にいく高校生のボー(ジョー・マッシンギル)は有望だが糞生意気な若者だ。新世代スカウトのフィリップ(マシュー・リラード)は数字と同じほど権力を信奉する軽薄な野心家だ。さらには、かつてガスにスカウトされた投手で、いまはレッドソックスのスカウトになったジョニー(ジャスティン・ティンバーレイク)というやや屈折した若者も現れる。ミッキーとジョニーは年が近い。あるいはもうひとり、ピーナツ売りをしているリゴ(ジェイ・ギャロウェイ)という不思議な高校生も見逃しがたい。

彼らは、主役のガスとほぼ予想どおりのからみ方をする。慕われたり反抗されたり、かばわれたり足を引っ張られたりしながら、ガスは自分のペースを崩さない。イーストウッド自身も、『スペース カウボーイ』(00)や『グラン・トリノ』(08)で見せたふくみ笑いをたたえつつ、小さな球場の片隅にそっと腰を下ろす。

すると、予定調和とは似て非なる安心感が生まれる。心地良いお湯にゆったりと身体を浸している快適さを覚えることもできる。

原動力のひとつ、イーストウッド映画の常連スタッフがずらりと顔をそろえたことだろう。撮影のトム・スターン、美術のジェイムズ・J・ムラカミ、衣装のデボラ・ホッパー、編集のジョエル・コックス。これらお馴染みの職人たちが、新人監督のロバート・ロレンツをしっかり守り立てる。ロレンツは、イーストウッド映画の助監督や製作を長年にわたってつとめてきた人物だ。年齢はたぶん40代中盤。イーストウッドの深みや凄みや特異体質まではさすがに継承できていないが、彼の映画に特有の沈着や寛容を引き継ぐ構えはできているといってよいだろう。

だとすれば、野球はやはり格好の題材だったにちがいない。野球の世界では、野性と知性がともに求められる。都会と田舎は共存できるし、祭りと日常も同居できるが、あわただしさやこすっからさなどは必要としない。老優イーストウッドと新人監督ロレンツは、暗黙裡にこの特性を了解し合ったのではないか。無茶は避けよう。そして、俺たちの耳に優しいジャズを聴かせよう。そう、たとえばジミー・ヴァン・ヒューゼンのような。

というわけで、この映画には派手なホームランのようなドラマは飛び出さない。息を呑む奪三振ショーも演じられない。ただし、暴投や落球といったミスは犯されない。渋いヒットを着実に連ね、気がつくと3点ほどのリードを奪っている。そのリードを、継投で守る。特別に球の速い投手や、際立って変化球が切れる投手はいないが、それぞれが役目を心得て、短いイニングを地道に切り抜けていく。そんな野球とは、そしてそんな映画とは、やはり捨てがたいものではないか。

○(4)<イーストウッドも
若松孝二も大島渚も、
彼らの人生そのものが
映画なのではないか>
(崔洋一(映画監督)
この作品の観客の多くは、きっと安心しながらご覧になっていることと思います。予定調和というか、先に何が来るかが読めてしまうことの心地良さ。これぞ古き良き時代のわかりやすいハリウッド映画であり、そんな久しぶりの正統派を今回クリント・イーストウッドは監督せずに役者として演じているわけですが、演出上の責任がない分、実に活き活きしていますね。もしこれを自分で監督していたら、もっとひねった底意地の悪いものになったことでしょう(笑)。そもそもイーストウッドは、必ずしも物語を完結させるタイプの監督ではない。その意見で僕は『ミリオンダラー・ベイビー』(04)が大好きなんですけど、いずれにせよ映画監督としての彼は常に終わりなき終わりのため、拳を大きく振りかざすのではなく、小さく握りしめるタイプだと思いますし、同時にアメリカ人としての保守的な部分も極めて強い。つまり彼の持つ博愛主義みたいなものとは、強者が弱者に対して向ける優しい眼差しである。もっとも、それ自体は決して悪いことではない。

日本では保守って悪いイメージを抱きがちだけど、“コンサヴァティブ”って言い換えれば“古き良きものを守る”ということであり、そこにこの物語の良さもある。つまり守るべきものを守ろうとするわけで、その意味でこれは父と娘のウェスタンですよ。たまたま相手が牛や悪漢ではなく野球というだけのことであって、要するにこれは50年代から60年代のハリウッド映画黄金時代のひとつの復権を目指しているのではないかな。

個人的には、イーストウッドにはもう1本、底意地の悪いものを監督してほしいとも思いますけどね(笑)。しかも自分が出ないもの。役者としてのクリント・イーストウッドは今回82歳にして大健闘だし、彼でなければ成立しない作品になり得ているけど、今後は自分の監督作品に出るのではなく、こうして他人の作品に出たほうが良いようにも思いました。

今回の監督はイーストウッドの弟子だそうですが、やはり師匠ほど底意地悪くはない(笑)。実にプロフェッショナルな仕事だと思いますが、そもそもアメリカ人の場合、先達に対するリスペクトはあっても。お互い最初から同等というところもあるでしょう。上下関係とか年齢の差といったところでの日本の師弟関係とはリスペクトの中身が違うんですよ。

僕には師匠はいないけど、師匠筋と呼べる人はふたりいます。ひとりは先頃亡くなった若松孝二、もうひとりは病気と闘い続けている大島渚。こちらのつくるものに対して「脱帽した!」なんて絶対に言わないオヤジたちだから、僕も師匠とは呼ばない(笑)。それにふたりとも擦り寄ってくる連中より、反発して出ていく者こそを愛している。かといって自分より有名になると頭に来るという(笑)。

実はこの映画を観ているとき、一瞬、若松孝二を思い出しちゃったんです。ガスという主人公に対して、きっと若ちゃんも気持ちを共有できるだろうと。また双方とも同じ質とでもいうのかな。永遠に止まらない人生というか、死をもって創造力は該当者を失うわけだけど、本人はそんなことなど信じちゃいないという強さを持っていますよね。

一方で僕は、大島さんの『御法度』(99)に出演したことがあった。これは僕と共演者のビートたけしさんの持論でもあるんだけど「役者が演出に口出しするのはアホである」。でも不思議なもので『御法度』の撮影がものすごく楽し過ぎたせいか、ある大がかりな長回しシーンのとき、僕は2回NGを出して3回目にOKが出たんだけど、どうも納得できなくて「監督すみません。もう1回やらせてください」と言ってしまった。そうしたら大島さんが「崔君、それを決めるのは僕ですから」。ああ、俺もバカな役者になりかけてたんだな、と反省しましたね。

僕はイーストウッドも若松孝二も、彼らの人生そのものが映画なのではないかと思っています。また若松孝二は老いて多作になるという点でもイーストウッドと似ていますが、お互い人生を追い立てられるような気分の中で何か掻き立てられるものもあるでしょうし、自分が崩れるときの醜悪な部分と向き合うことで、深い感銘を呼び起こすこともできる。大団円をみんな夢抱くけど、決してそうはならないのが人生ですからね。その意味でも、イーストウッドは人生行路の達人ですよ。最終的に筋道は教えるけど、そこから先は自分で行きなさい。そして、信じる者は救われるなんて馬鹿馬鹿しいからやめなさいと(笑)。

イーストウッドはTVの「ローハイド」(59~65)の後、イタリアへ赴いてマカロニ・ウェスタンで人気者となり、アメリカに凱旋して“ダーティハリー”となるわけですが、やはりマカロニ・ウェスタンってアメリカ人にとってはまがいものですから、それに対する永遠のコンプレックスみたいなものもあるんじゃないかな。でも当時のハリウッドにおいて出稼ぎ組の役者は論外だったのに、そこを彼は自ら戦い続けることで切り開いていったし、だからこそ一つのアメリカ像を崩さないという、鉄人としての強固な意志を心の中に刻みこむことにもなった。

現実主義者であるがゆえに現実と向き合ったときに戦わざるを得ないということをやらせても、彼は天下一品ですね。『許されざる者』(92)も動機と結果の矛盾が映画ファンを熱狂させたわけで、そこに彼の二重三重の複雑な精神構造があり、その上で単純さを求めてくる。自分の人生の意識を変えないために、よりシンプルになっていく。

日本のじいさんばあさんは時代に合わせようとして、そのギャップの中で概ね躓いてしまいがちだけど、時代に合わせる必要なんかない。身勝手にやればいいし、若い連中をどんどん苦しめてやればいい(笑)。その意味でもこの作品はまだ燃えつきていない男の物語であり、シニアには勇気を思い起こさせてくれるかもしれないね。ただし、観客のひとりひとりにあんな出来の良い娘がいるかどうかは知らないけど(笑)。

<崔洋一・PROFILE・・・・・1949年長野県生まれ。大島渚監督や村川透監督などの助監督を経て、『十階のモスキート』(83)で劇場映画監督デビュー。『月はどっちに出ている』(93)で53にわたる映画賞を受賞し一躍脚光を浴びる。『刑務所の中』(02)でブルーリボン賞監督賞などを受賞、『血と骨』(04)では日本アカデミー賞最優秀監督賞ほか多数受賞。そのほか『クイール』(04)、『カムイ外伝』(09)と立て続けに話題作、意欲作を世に問い、高い評価を得ている。>

<文責:藤森弘司>

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