2012年10月31日 第123回「今月の映画」
アシュラ
監督:さとうけいいち  声・アシュラ:野沢雅子  法師:北大路欣也  若狭:林原めぐみ

●(1)「アシュラ」とは・・・・・六道の一として人間以下の存在とされる。絶えず闘争を好み、地下や海底にすむという(電子辞書・広辞苑)。

今回の映画「アシュラ」は、応仁の乱によるすさまじい社会の中で誕生した子供が、文字通りの艱難辛苦を経て、まさに「今月の言葉」「カウンセリングとは何か(十牛図)」にあるようなプロセスを経て「自己成長」を遂げる映画です。

11月15日の「カウンセリングとは何か(十界)」で「六道」や、自己成長のプロセスを改めて説明します。次回の「今月の言葉」の「十界」と「十牛図」を重ね合わせるとさらに理解しやすいと思われますので、今回の映画は、パンフレットの内容を紹介するに留めます。

さて、下記の<物語>の中に出てくる幾つかの凄まじいまでの「感情」・・・・・実は、これらの凄まじい感情が私たちの「深層」にもあるということを認識することがとても重要です。
驚くでしょうし、恐ろしいことですが、しかし、事実であることを認めることが「自己成長」には「不可欠」です。これらの感情を「隠蔽」して、奇麗事で対処するので、やることなすことがうまくいかないのです。特に「親子関係」が!!!

キレイな親が、汚れた子のトラブルに対処しようとする姿勢!!!つまり、上から目線!!!

○(2)<パンフレットより>

<物語>

 15世紀中期・・・・・大規模な内乱と相次ぐ飢饉に見舞われ、京の都は焦土と化していた。飢えた人々がさまよい歩く荒野の荒れ寺で、藤乃という女が赤ん坊を産む。はじめは赤ん坊を可愛がっていた藤乃だが、飢えの苦しみから肉を求め、ついに我が子を炎に落としてしまう。だが、炎は嵐にかき消され、赤ん坊は一命をとりとめた。

・・・・・それから8年後。大きな鉞(まさかり)を手に、荒野をさまよう幼い子どもがいた。生きるために人を襲い、その肉を喰らう子どもを人々は「人喰い」と呼んだ。ある雨の日、子どもはひとりの法師と出会う。言葉を発しない獣のような姿に阿修羅像を重ねた法師は、その子どもに「アシュラ」という名前を与えた。それは苦しみの中で生きていくことを宿命づけられた者に与えられる名前。そして、法師はアシュラに人として生きていくよう教えを説く。

アシュラはやがて、ある村にたどり着く。そこで村を治める地頭の息子・小太郎を殺したアシュラは、地頭に追われることになる。追いつめられた崖から落ち、怪我を負った阿修羅を救ったのは、若狭という美しい娘だった・・・・・。

アシュラを水車小屋に匿う若狭。食事をもらい、言葉を教えられ、アシュラは優しい若狭に思慕の念を抱くようになる。

だが、若狭はアシュラを頻繁には訪ねてくれなかった。若狭に会いたい一心のアシュラは、ある日、若狭と七郎の逢瀬を目撃する。寂しさ怒りで、七郎を傷つけてしまうアシュラ。その凶暴さを目の当たりにした若狭は、アシュラを「人でなし!」と叱る。母の面影を重ねていた若狭に拒絶され、アシュラは絶望を抑えられなかった。

日照りで村が荒れだした頃、アシュラは法師と再会する。生きることに苦しむアシュラの姿を見て、人の心が芽生えていることを知る法師。そして、苦しみのあまり獣として生きようとするアシュラに自らの腕を差し出す。しかし、人となった今はそれを喰らうことなどできず、思わず逃げだしたアシュラを法師は静かに見送るのだった。

村の日照りは続き、誰もが飢えと戦っていた。アシュラは若狭を救おうと、地頭の馬を殺して肉を差し出す。だが、必死の思いも若狭には届かない。そこへ、アシュラを追う地頭と村人たちの刃が迫っていた・・・・・。

○(3)<浮浪雲とアシュラの間に・・・・・>

 <ジョージ秋山「アシュラ」とその時代>(文・岩佐陽一)

漫画家、ジョージ秋山氏の代表作といえば『浮浪雲』だが、その主人公、雲こと浮浪の旦那と『アシュラ』の主人公、アシュラのイメージが何故か重なってならない。

片や飄々と幕末の世を渡り歩く放蕩三昧の遊び人なれど、ひと声で東海道の宿場町の人足1万人を動かすことができ、たまに家に帰れば恋女房と秀才の長男、幼い長女が待つ、“生きる達人”である雲と、平安の乱世・末世に生を受け、実の母親に生きながら火の中に放り込まれ、食されようとし、命からがら逃げ、人間、動物問わずあらゆる殺生を繰り返し、むさぼり喰らい、己の生を呪い、嘆き哀しむアシュラでは、およそキャラクターのベクトルが異なる。

だが、ある意味、浮世離れしたこの二人のキャラクターはその根底でつながっている、同じ存在としか思えない。それは『アシュラ』の初~中期から決して目をそむけず、ラストまでしっかりと読破した者であればお解かりいただけるはずだ。

その前に原作『アシュラ』について簡単に解説を加えよう。ジョージ秋山・作の『アシュラ』が連載されたのは1970年8月のこと。

当時は、60年代安保(日米安全保障条約に関する政府と市民との闘争)が終わりを告げ、東京大学医学部の学費値上げ問題を発端とする学生紛争、学生運動が、安保闘士の残党と結び付き、連合赤軍といった“過激派”と呼ばれる革命グループに発展していった時代。

そのひとつの結果として、この年の3月31日、赤軍派学生ら9人により羽田発福岡行き日航旅客機・よど号がハイジャックされる通称・よど号ハイジャック事件が発生。彼らは北朝鮮に亡命し(同年4月3日)、「少年マガジン」に連載中の『あしたのジョー』(原作:高森朝雄・まんが:ちばてつや)をもじり、“われわれは明日のジョーである”という声明文を残している。「少年マガジン」という少年漫画誌が世間に与えていた影響力のすごさが窺えるエピソードでもある。『アシュラ』はそんな雑誌に連載されていたのだ。

一方で、欧米の科学万能主義が、前(69)年のアメリカのNASA(航空宇宙局)による月面探査船・アポロ11号による月面着陸(1969年7月16日)及び衛星中継にてひとつのピークと終焉を迎え、それに替わる形で、数年前より徐々に表面化していた“公害問題”が一気にクローズアップされた年でもある。水俣病や四日市ぜんそく問題に代表されるそれはまさに、戦後、我が国の高度経済成長、科学万能主義の“手痛いしっぺ返し”に他ならなかった。

それを象徴するかのように“人類の進歩と調和”をスローガンに、同年3月14日~9月13日まで大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO’70)の終了と同時に、日本は急速に経済的・文化的に収縮していく印象を受ける。

そんな中、憂国の作家・三島由紀夫が東京・市ヶ谷にある自衛隊市ヶ谷駐屯地に楯の会のメンバー4名とろう城。自衛隊員に決起を呼びかけるも、そのシュプレヒコールは虚しく空に木霊し、三島は割腹自殺をして果て、同志もその後を追った(同年11月25日)。

『アシュラ』はそんな、明らかに第二次世界大戦後の日本がたどってきた道、ある時代が終わりを告げる刻(とき)に文字通りうぶ声をあげた。

当時、連日、新聞やテレビで報道されるこれらの事件・事象を目の当たりにし、まだ怒りと闘志を忘れていなかった日本人の雄叫びを生で耳にしたジョージ秋山氏は、この混迷の時代に“平安末期”の乱世を見出したのではないだろうか?国家発展のスローガンの下、富める者はますます富め、そのしわ寄せは貧しき者が背負い、発展の犠牲となった彼・彼女らはますます貧窮に喘ぎ、怒り、呪い、叫ぶ・・・・・その光景は、「今昔物語集」や後年の「宇治拾遺物語集」、芥川竜之介の小説『羅生門』(1915年)などに描かれる地獄絵図に等しく映ったのではなかろうか?

新進気鋭の作家、ジョージ秋山氏の慧眼がその真実を鋭く見抜き、見事に時代を切り取ったのが『アシュラ』という漫画だった。

『アシュラ』は当時、少年向け漫画週刊誌としては最高の人気と売り上げ部数を誇っていた「週刊少年マガジン」1970年8月2日号に掲載、連載がスタートした。余談だが当時の「少年マガジン」の金額は1冊100円。なんとも時代を感じさせる。第1話はアシュラの母親がアシュラを産み、その絶望的なまでの飢餓状況故に我が子を喰らおうとするまでを描いていた。確かに、当時も今もショッキングではある。たちどころに社会問題に発展し、神奈川県では有害図書指定され未成年への販売を禁止した。秋山氏にも取材が殺到し、それまでどちらかといえば人気ギャグ漫画家のひとりという印象だった秋山氏は一躍刻(とき)の人となった。

この事態に直面し、「週刊マガジン」編集部は同年8月16日号に釈明文を掲載して本作が、過激な内容やショッキング描写でイタズラに人目を惹いたり、話題作りをしようとしたわけではなく、明確な意図とメッセージの下に描かれ、主人公のアシュラが逆境苦境に立ち向かい、それを克服して成長。やがて宗教的世界観に目覚める・・・・・といった今後の展開の概略を説明した。

今回、講談社「週刊少年マガジン」編集部のご厚情をもってその釈明文全文の再録がかなったので、以下に再録する。よほどの誤字・脱字以外は原文のまま掲載した。

<新連載まんが「アシュラ」の企画意図について>

 「週刊少年マガジン」8月2日号誌上に掲載いたしました「アシュラ」(ジョージ秋山・作)につきまして、各方面よりいろいろなご意見が寄せられましたが、連載第1回であったためもあり、同作品の企画意図について十分ご納得を得る配慮に欠けていた点もあると考え、ここにそれを明らかにし、大方のご理解を賜りたいと存じます。

現代社会は、科学技術の加速度的な発展にともない、人類史上空前の繁栄をとげておりますが、一方において人間の精神生活面での不毛化が強く言われております。同作品の主人公は、応仁の乱という、人間が人間として生きられるギリギリの環境下に誕生し、成長していく過程をとおして、宗教的世界にめざめ、人生のよりどころを確立させていくことをテーマにしたもので、第1回に描かれた地獄絵図的世界は当然主人公のこれからの精神的成長の中で否定され、神なるもの、仏なるものへのひたむきな希求をとおして、豊かな人間社会を建設していくドラマを描こうという構想であります。

残虐的描写によって刺激的な効果を狙うといった意図の全くないことはもとより、今後とも広く読者のみなさんの生きる糧として、作品内容の充実向上を期してまいりたい所存でありますので、よろしくご支援、ご愛読いただけますよう、心より御願い申し上げる次第であります。

週刊少年マガジン編集部

<文責:藤森弘司>

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