2012年1月31日 第114回「今月の映画」
●(1)今回の映画「連合艦隊司令長官・山本五十六~太平洋戦争70年目の真実~」は、歴史的に大変重要な人物であり、人格的にも非常に優れた方だったようですし、さらには、当時の時代状況が現在と非常によく似ている部分がありますので、パンフレットに掲載されている内容を詳しく紹介したいと思います。
さて、私(藤森)は、昔、「山本五十六」の本を読んだことがありますが、その当時から淡い疑問を持っていたことがあります。パンフレットに、<1943.04.18 前線基地視察の途上、ブーゲンビル島上空にて搭乗機が撃墜され、山本五十六戦死。享年59歳。> このようにありますが、今回の映画を見ても、昔の淡い疑問が湧きました。 昔は単なる「直感」でしたが、今回の映画を見て、敢えて理屈をつけてみますと、乃木将軍の例が浮かびます。 「203高地」の無理な攻撃で、乃木は多くの将兵を死なせました。この攻撃の最中、自分の子供が戦死したとき、「坂の上の雲」のNHKテレビによれば、「死んでくれて良かった」と乃木に言わせています。 乃木将軍以上(?)に、太平洋戦争で戦死した部下に対して、大きな責任を感じていたであろう山本五十六は、おめおめと生きながらえる道を選択できなかったのではないだろうか。 山本五十六の心境を「忖度」するならば(私・藤森は傲慢ではありますが)、「死に場所」を求めていたように思えて仕方がありません。長岡藩出身であり、また彼の生い立ちや生き様、日露戦争や乃木将軍の「自決」など、それらを総合してみても、恐らく、私の推測は正しいものと密かに自信を持っています。 このように発言する人を、寡聞にして、私(藤森)は知りませんので、万一、ご存知の方がいらっしゃいましたら、是非、教えてください。 |
○(2)<INTRODUCTION>
日米開戦70年、今明かされる衝撃の歴史超大作!! しかしそんな中、軍人でありながら誰よりも強硬に日米開戦に反対し続けた男がいた。聯合艦隊司令長官、山本五十六。山本五十六の名は真珠湾攻撃によってあの戦争の端緒を開いた戦略家、日本を代表する海軍軍人として今でも広く知られている。しかしその「実像」を知る者は少ない。 その意に反し、日米開戦が不可避になろうとも、決して逃げることなく聯合艦隊司令長官の職にあり続けた強固な責任感。そして周囲の反対を押し切り、真珠湾攻撃を成功に導いた、揺るぎない決断力。 そして山本五十六は、開戦以来一度もぶれることなく、ただ一つの、明解な目的のために戦い続けた。それは戦争に勝つことではなく、敵の戦意を失わせるほどのダメージを与え講和(和平)の道を探ること。一刻も早く戦争を終わらせるために――。 命を賭して戦争に反対した山本五十六が、何故自ら開戦の火蓋を切って落とさねばならなかったのか。あの真珠湾攻撃から70年、その謎を解き明かすことが、現在、未曾有の国難に瀕する我々にとっての、そして我々の子供たちの確かな未来のための、大切な羅針盤となるのではないだろうか。 真珠湾奇襲攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル奪回作戦、そしてブーゲンビル島上空での非業の死まで、山本五十六は真のリーダーとして何を見つめ、如何に戦い続けたか。それを検証する旅がこの映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』である。 主人公、山本五十六役には日本映画界を代表する名優、役所広司。彼とともに三国軍事同盟反対を主張する、いわゆる海軍の“良識派三羽ガラス”――海軍大臣米内光政に柄本明、軍務局長井上成美に柳葉敏郎。 また、五十六を見守る女性たちとして、宮本信子、原田美枝子、瀬戸朝香、田中麗奈。五十六の意に反し「世論」を戦争へと煽り立てる新聞記者役に、玉木宏、益岡徹、香川照之。そして五十六の親友である元海軍中将堀悌吉役を、歌舞伎界の重鎮、坂東三津五郎が務める。 脚本は『ホワイトアウト』(00)『亡国のイージス』(05)『真夏のオリオン』(09)で、「命を守る」というテーマをスペクタクルに描き出した長谷川康夫、飯田健三郎。監督は『孤高のメス』(10)で日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞士、最新作『八日目の蝉』(11)でも高い評価を得た成島出。そして戦後生まれのスタッフたちの中で唯一「あの時代」を知る、録音監督の橋本文雄が本作品のリアリティーに大いなる力を与えると共に、70年の歴史の渦に溶けて行ったこの国の真実を、鮮やかに蘇らせる。 半藤一利氏監修のもと、日本映画界を代表するスタッフ、キャストが集結し、激動の時代を生きた日本人の姿をリアルかつダイナミックに描いた新たなる歴史超大作が今、誕生した。 |
○(3)<STORY>
1939年夏。 海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美。 それを見届けた山本五十六は、1939年8月30日、生涯最後の職である「聯合艦隊司令長官」に就任した。 アドルフ・ヒトラー率いるナチス国防軍がポーランドに進攻。それを機に欧州で第二次世界大戦が勃発した。快進撃を続けるドイツの力に幻惑され、日本国内では再び三国同盟締結を求める声が沸騰する。そしてその流れに抗しきれず、海軍大臣及川古志郎はついに従来の方針を改め、同盟締結に賛成してしまう。 日一日と戦争へ向かう時代の流れの中。40万の将兵を率いる聯合艦隊司令長官山本五十六は、対米戦回避を願う自らの信念と、軍人としての責務の狭間で苦悩し続ける。 1941年12月8日。太平洋上の空母から飛び立った帝國海軍350機の大攻撃隊は、布哇(ハワイ)真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に襲いかかった。 |
○(4)<戦争への道>
1868年、日本は戊辰戦争と共に明治という新しい時代を迎えた。 しかし、続く昭和という時代は大きな不安の中に幕を開けた。度重なる不況により経済は悪化。さらに1929年、ニューヨーク・ウォール街の株価大暴落に端を発する一大世界恐慌が日本を直撃した。深刻な経済不況は以後も続き、国民は重苦しい閉塞状況から抜け出すことを強く願っていた。そしてその希望の地が満州だった・・・・・・。 1931年、満州事変勃発。帝國陸軍は満州全土を制圧し、翌年満州国として独立させた。満州は北の大国ソ連の脅威をけん制するための要塞であり、資源の供給地であり、そしてわが国にとって最も重要な市場でもあった。しかし支那との対立は激しさを増し、国内では五・一五事件、相沢事件、二・二六事件と続く軍部によるテロがさらに大きな社会不安を招いた。 1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に日支両軍はついに全面戦争に突入。当初陸軍は一ヶ月で収束すると見込んだが、日本の大陸支配を懸念するソ連、イギリス、アメリカが蒋介石の国民政府を援助し戦闘は泥沼化。以後、解決の糸口が見つからぬまま続く戦争状態は、日本を言い知れぬ閉塞感で覆っていった。 そんな中、アドルフ・ヒトラー率いるドイツが、イタリアを含む「日独伊三国軍事同盟」の締結を求めてきた。日本とドイツが、亜細亜と欧州の盟主として世界的な新秩序を作り上げる。それは大陸政策に行き詰る日本にとって、まさに魅力的な誘いだった。そして、日本国民は強大なドイツの力に熱狂し、この国との同盟関係に新たなる希望を託した・・・・・・。 |
○(5)<歴史年表(青色は山本五十六関連)>
1868.01.27 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争勃発) 1884.04.04 新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町に、旧長岡藩士族高野貞吉の六男として生まれる。父・貞吉が56歳の時に生まれたため五十六と命名された。 1894.07.25 日清戦争勃発 1901.12.16 17歳。新潟県立長岡中学校を卒業後、海軍兵学校入学。入校時の成績は2番(3番は後に親友となる堀悌吉)。教官との面接の際「お前の信念は何だ」と問われ、「やせ我慢」と答える。 1904.02.08 日露戦争勃発。 20歳。海軍兵学校卒業(第32期)。折からの日露戦争により卒業直後の遠洋航海は中止となり、少尉候補生のまま「韓崎丸」、巡洋艦「日進」に乗組。翌年の日本海海戦で重傷を負う。 1914.07.28 第一次世界大戦勃発 1919.06.28 ヴェルサイユ条約調印。 35歳。結婚後一年足らずにして、単身アメリカ合衆国駐在。ハーバード大学に学ぶ。以降、断続的に欧米各国を視察。 1923.09.01 関東大震災 1925.03.22 東京放送局(後の日本放送協会)がラジオ放送開始。40歳。霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭。強力な指導力で飛行学生の技量向上を図る。訓練事故により命を落とす学生が後を絶たず、その霊を祀るため、自ら霞空神社(霞ヶ浦神社)の設立を企画。 1929.19.24 世界恐慌・ニューヨーク株式市場大暴落。 45歳。後の第二航空戦隊司令官山口多聞らと共にロンドン軍縮会議に随員として参加。 1931.09.18 満州事変勃発 1932.05.15 五・一五事件 1933.03.27 日本、国際連盟脱退 1934.09.20 50歳。ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍代表を務める。その間、日本では盟友堀悌吉中将が、南雲忠一ら条約反対派(=艦隊派)の策謀により海軍を追われる。五十六、その報をロンドンで聞き無念に沈む。 1936.02.26 二・二六事件 1936.12.01 52歳。海軍次官就任。当時の海軍大臣は後の軍令部総長永野修身。 1939.05.31 55歳。日独伊三国軍事同盟締結を求める圧倒的な「世論」に対して、海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美とともに強硬に異を唱える。迫りくる身の危険に、密かに遺書「述志」を書き、海軍次官室の金庫の中に入れる。 1939.08.23 独ソ不可侵条約締結 1939.08.30 連合艦隊司令長官に親補される 1939.09.01 ドイツ軍、ポーランドに侵攻を開始・英仏両国がドイツに宣戦を布告志、第二次世界大戦勃発 1940.09.27 日独伊三国軍事同盟締結 1941.04.10 第一航空艦隊司令長官として南雲忠一が就任 1941.07.28 日本軍、南部仏印進駐 1941.08.01 アメリカ、対日石油輸出を全面禁止 1941.10.18 東条英機内閣発足 1941.12.01 瀬戸内に停泊する「長門」を離れひそかに上京。宮中に参内した後、家族、堀悌吉らに別れを告げる 1941.12.08 合艦隊、ハワイ真珠湾停泊中の米国太平洋艦隊を急襲。歓喜に沸く軍令部とは対照的に、この日再び遺書「述志」を記す 1942.06.05 ミッドウェー海戦に惨敗 1942.08.07 米軍、ガダルカナル島上陸。本格的な反抗を開始。以降、聯合艦隊は不毛な消耗戦を余儀なくされる 1943.04.18 前線基地視察の途上、ブーゲンビル島上空にて搭乗機が撃墜され、山本五十六戦死。享年59歳 |
○(6)【重要事項の説明】
真珠湾奇襲攻撃作戦 ミッドウェー海戦 ガダルカナル島 日独伊三国軍事同盟 ブーゲンビル島 |
(6)<人間、山本五十六>
海軍大将米内光政は、山本五十六の人となりを尋ねられて一言こう答えた。「茶目ですな」。 将棋、ルーレットなど勝負事を好み、しかもずば抜けて強い。宴席では下戸であるにも関わらず、逆立ちや皿回しを披露して座を盛り上げる。白頭山節を披露したり、映画にも登場する「長岡甚句」を口ずさみながら故郷越後の盆踊りも踊った。 だがその一方で、気の合わない者には全く別人のような態度を見せた。 あの戦争において、海軍中央と聯合艦隊司令部が互いに反目しあい、戦争指導にズレが生じたことの一因が、その性格に求められることも少なくない。 「常在戦場」――常に戦場にいる心構えで事に臨めというこの四文字を藩風の第一とする剛健質朴な長岡藩の藩風。雪国の風土によって育まれた忍耐強さや克己心。戊辰の役の際、東軍の非合理に対して河井継之助ら長岡藩士たちが示した苛烈な正義感。そして一気に伝統や一般常識や統制や規律を飛び越え、あくまで信念の赴くままに、孤高のうちに己の業を完成させていくという長岡人特有の烈しさ。 その全てが山本五十六という人間の血となり肉となったのだろう。そして五十六は終生、故郷を愛し続けた。 山本五十六・YAMAMOTO ISOROKU・・・・・1884年4月4日、旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として新潟県長岡に生まれる。1904年、海軍兵学校を卒業(32期)。折からの日露戦役のため少尉候補生のまま巡洋艦「日進」に乗組。日本海海戦で右下腿部と左手に重傷を負う(後に傷痍軍人徽章第一号を授与される)。 1915年、旧長岡藩の名家である山本家の家督を相続。以後、山本姓となる。1919年、アメリカ駐在武官としてワシントンに滞在。以降、延べ5年に渡り断続的に欧米の文物を視察。また砲術が専門でありながら、近代戦における航空機の重要性に一早く着目し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭、航空本部長等を歴任。航空機の技術開発と航空部隊の教育に尽力する。 1936年、海軍次官に就任。米内光政、井上成美とともに、日独伊三国軍事同盟に強硬に反対する。1939年、聯合艦隊司令長官を拝命。そして1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃を敢行。日米戦の火蓋を自ら切って落とし大戦果を遂げる。しかし翌1942年6月のミッドウェー海戦で惨敗。数多くの信頼すべき部下を一日にして失った。1943年4月18日、前線基地への視察の途上、ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死。享年59歳。翌月元帥府に列せられる。遺体は戦艦「武蔵」に載せられ6月に帰国。 葬儀は国葬として執り行われ、早すぎるその無念の死に日本中が喪に服した。 |
○(7)<実在の登場人物>
この映画は史実に基づいて描かれた作品の為、一部、実在した人物が登場致します。 <米内光政> <井上成美> <山口多聞> <黒島亀人> <永野修身> <宇垣 纏> <南雲忠一> <堀 悌吉> |
○(8)<THE MESSAGES>(半藤一利)
山本五十六さんは新潟県立長岡中学校(現・長岡高校)卒業の、私の同窓の先輩である。いまでもときどき思い出してはひとりで腹を立てている話がある。降伏を告げる天皇放送があったすぐ翌日のこと、中学校の講堂に長く掲げてあった山本さんの筆になる「常在戦場」の額が、あれよという間もなく下ろされてしまったのである。いくら占領軍の眼が恐ろしいからといって何たる早手廻しのことか、と当時十五歳の私は地団駄を踏んだものであった。 二〇一一年は、対米英開戦つまり真珠湾攻撃があってから満七〇年の節目の年になる。そこで本格的な山本五十六の映画を製作したいという話がもちかけられたとき、もう半世紀に及ぶ山本贔屓としては、それに東京は向島の生まれとしては、久しぶりに頼まれればあとには引けない高揚した気分を味わった。 かくてシナリオの段階から喜んで参画することになった。のはいいのであるが、いやあ、ほんとうにびっくり仰天させられた。準備稿、準備稿一、準備稿一・改、検討稿一、検討稿一・改、撮影準備稿一……ときて、やっと決定稿にたどりつく。それまで何と長い時間のかかったことか。物書きのはしくれに連らなる私なんかは常に決定稿あるのみなのに。今日の映画づくりの若い人たちのそれに打ちこむ真剣さには心から感嘆し、その熱意に圧倒されて山本五十六を勉強し直した。 これを書いている段階では、完成された作品を観賞したわけではなく、業界でいうラッシュを観ただけであるが、まことによく出来ていると推奨する。対米英非戦論で厳然として立ちはだかり、生命を狙われても微笑みをたやさない海軍次官時代。聯合艦隊司令長官として海上へと山本が去ったあと、日本の政略戦略は「急坂を転がる石」のように戦争への道を突き進む。山本長官は「之が天なり命なりとはなさけなき次第」と天を仰ぎつつも、避戦のために懸命の努力を傾注する。しかし、山本の願いも空しく開戦へ。太平洋戦争におけるこの人の指揮ぶりは、求めて戦いにいくような“性急さ”と“激しさ”に終始する。それもすべて戦争を早期のうちに終わらせたいたいめに――。そうした山本の壮烈な生き方がじつによく描かれている。 山本が戦死したあと、長岡に山本神社を建てようという動きがあった。しかし知友堀悌吉予備少将や米内光政大将が猛反対した。「神様なんかにされたら、いちばん怒るのは山本だ」と。当然のことで、いまその生家の跡は小さな公園になっている。そんな「オラいつだって高野のオジだがに」と偉ぶらない山本さんであるが、この映画には「アッキャァ、ホンニ立派に描いてもらったのォ」と大喜びされるにちがいない。 |
○(9)<山本源太郎(山本五十六長官のお孫さん)>
日米開戦から70年、祖父の戦死からは68年が経過した。戦後生まれの私に祖父の記憶は勿論ない。加えて我が家では日常生活の中で祖父の話題が家族の会話に上ることも殆ど無く、私にとっての山本五十六は仏壇に置かれた写真の中の人であり、多くの人々によって語られる人物でも有名人でもなかった。それにしても今なお祖父が多くの書き手や映像製作者たちの対象となるのは何故だろうか。先の大戦を振り返り我が国のある時代の出来事に反省を試みる時、本人の思いや遺族の意に反し、その名前は常に人々の口の端に登場してきた。何とも複雑な心境である。 2009年10月、父・義正宛に文藝春秋から一通の手紙が届いた。そこには、ある映画プロデューサーが祖父を主人公とした映画製作を念頭に数年前から企画を練り、脚本家と共に勉強を重ねてきたこと、半藤一利氏監修のもと台本製作の準備が進められていること、そして祖父の長男である父への協力依頼が書かれてあった。 繰り返される推敲のうちに台本は第一稿、第二稿と版が重ねられ、やがて出来上がった決定稿をもって、今年の5月15日にクランクインとなった。短かった梅雨の時期から猛暑が続く夏の間、父の代理として東映の撮影所に何度か足を運んだ私は、スタッフの一人一人に、また祖父を演じてくれた役所広司さんはじめ全ての出演者に、小滝プロデューサーのこの映画に対する強い思いが正しく理解されていることを感じ、いつしか私自身もそれに共鳴していった。 小滝氏が作成した企画書には、この国に対する憂いが熱い言葉で綴られている。「あの戦争以後、あれ程美しかった日本の風景や、日本人の心は一体何処に行ってしまったのか」「敗戦を機に自己批判と反省を繰り返すと同時に、一番大切なものまでも否定してきたのではないか」と。 東日本大震災発生から2ヶ月、日本中で自粛が叫ばれる中でのクランクインという決定はどれ程勇気がいることだったか知れない。しかしその決断は決して間違っていなかったと私は信じている。掛け替えのない多くのものを失い、「本当に大切なものは何か?」と日本人の誰もが問うている今、この映画はその「何か」を考えるきっかけになるに違いない。 この映画の製作に対し真摯に取り組んで下さった全ての関係者に心から感謝を申し上げたい。そして願わくば、ご覧になったお一人お一人が、この作品を通してもう一度あの戦争を振り返り、この国の行く末を考えるきっかけとして頂けたらこれ程の喜びはない。 |
○(10)<INTERVIEW 長谷川康夫[脚本]HSEGAWA YASUO>
誰よりも戦争に反対した男が、 すべての始まりは、 ――企画の成り立ちから伺いたいのですが。 長谷川・・・・・ちょうど三年前ですね。プロデューサーの小滝(祥平)からの電話で、「半藤一利さんの『昭和史』って読んだ?」と。僕らの仕事はいつもこんなふうに始まります。この時点では、映画のえの字も出ません。実は『昭和史』は持ってたんですが、恥ずかしいことにずっと書棚に積まれたままで……。あとで聞いたら小滝も同じだったらしい(笑)。で、読み終えて愕然とするわけです。自分があまりに無知だったことに。だいたい僕らの世代は、日本史の授業が「昭和」に入る前に三学期は終わってますからね(笑)。いや、過去に小滝とやった『君を忘れない』や『真夏のオリオン』で、太平洋戦争が泥沼化し敗戦に至るまではかなり勉強してるんです。 でも肝心の「なぜ日本は戦争に突き進んだのか」に関しては、軍部の暴走といった程度の認識しかなかった。それが半藤さんの『昭和史』によって、目から鱗というか……。そんな話を小滝にしたら、案の定、「これ映画にならないかな」と無謀なことを言い出して、呆れましたね(笑)。まぁ『ホワイトアウト』や『亡国のイージス』のときもそんな感じでしたけど、『昭和史』となると、そのレベルを遥かに越えてますから、相手にしませんでした(笑)。ところがしばらくして「ずっと考えているのは『山本五十六』という人物を通しての『昭和史』なんだ」と来たわけです。そこからですね、「山本五十六」へと一気にフォーカスが絞られて、半藤さんのものを中心に五十六さんやその時代に関する資料を、二人で片っ端から読み始めたのは。過去の映画作品なんかもあれこれ観て。そのうちに小滝が「長岡、行くよ」と。 ――いわゆるシナリオハンティングですか。 長谷川・・・・・いえ、まだそんな段階じゃありません。とりあえず五十六さんのお墓参りでもしてみようと。まぁこれは僕ら二人のいつもの儀式みたいなもんですね。『君を忘れない』のときは鹿児島県の鹿屋。『ホワイトアウト』のときは奥只見ダム。『深呼吸の必要』では宮古島。藤沢周平作品は山形県の庄内。他の作品も全部そうです。まず二人で行ってみる。それが今回は長岡。山本五十六なる人物を作り上げたのは、長岡という土地の歴史、風土だということは、半藤さんの本によって身に沁みてましたから、それを肌で感じたことは大きかったですね。 ――それでいよいよ脚本執筆ですか? 長谷川・・・・・いやいや、まだまだ(笑)。ひたすら小滝と、ああでもないこうでもないと。日本の近現代史とか軍事論や外交論なんて硬い本まで、無いアタマに無理やり詰め込んで(笑)。煮詰まると、二人で銭湯へ(笑)。で、結局行きついたのが、この作品は半藤史観による「山本五十六」で行くということですね。誰よりも戦争に反対した男が、何故自ら開戦の火蓋を切って落とさねばならなかったのか、その“無念”と“覚悟”を描くと。そんな脚本の方向性が決まり、飯田(健三郎)が滋賀から登場です。「知識はおまえに任せる」と。本や資料が山ほど詰まった段ボールひとつ背負って、大津にまた帰っていきました(笑)。それで今回は、僕にちょっと野暮用があって、小滝と飯田で第一稿をまとめたんです。結局『昭和史』の話が出てから、ほぼ一年後ですね。 史実とフィクションの兼ね合いに、 ――脚本はかなり稿を重ねたとのことですが? どんな改訂が? 長谷川・・・・・細かい直しを含めれば50稿は越えるでしょうね。脚本作りというのは数学の証明問題を回答するのと一緒ですから、どこか一個数式が変われば全部見直さなければならないんです。決定稿まで変更は山ほどありました。まず新聞社のあり方とかね。五十六と明確に対立する人物は最初いなかった。一般庶民の思いを描くシーンもなかったし、五十六さんの家族も登場しませんでした。あとは肝心な「長岡」ですね。そのためにオープニングを変えたり、若き五十六とオーバーラップさせる人物を登場させたり。第一稿から大きく変わっていないのは、戦史的な部分だけかもしれないですね。 ――当時の方々に取材のようなことはされたんですか。 長谷川・・・・・残念なことに、現実に五十六さんと同じ時代を生きた方というのは、もうほとんどいらっしゃらないですからね。ただ、ご子息の義正さんがご健在で、何度かお話を伺い、そのご著書も随分参考にさせて頂きました。それとやはり半藤さんですね。多くの著作からだけでなく、直接アドバイスも受け、新しい稿になるたびに、毎回貴重な意見を頂きました。 ――実在の人物を描くということで気を使った点は? 長谷川・・・・・悩んだのはフィクションの部分です。史実を曲げずに作っていくと、物語としてどうしても行き詰ってしまって……。例えばこの時点で誰々はまだ赴任していないとか、五十六さんは東京に戻っていないとか。そんな時制的なものも含めて、ある種の嘘をつかなければならない部分が出て来て、かなり悩みました。でも半藤さんから「確かに映画としてはこっちの方が面白いし……作り手が分かってやってるんならいいんですよ。無知でやってしまったんじゃ論外だけどね」という言葉をもらって、吹っ切れました。 ――山本五十六を役所さんに演じてもらうというのはいつ頃? 長谷川・・・・・小滝の口から「役所広司」の名前が出たのは、「山本五十六」とほぼ同時でしたね。最初から「彼しかいない」と。いや、勝手に思い込んでるだけで、正式に決定するのは遥か先の話ですよ(笑)。でも僕も全く同感で、脚本作りは最初から、役所=五十六をイメージしての作業でした。もし断られていたら、この映画どうなってたんだろう(笑)。他の配役に関しても、小滝から次々と俳優さんたちの名が飛びだすんです。監督もまだ決まってないのに(笑)。こっちはただ「はい、はい」と聞いているわけですが、最後にはほぼ全員その通りになってしまったから、驚くというか、呆れるというか(笑)。 現場で改めて思い知ったこと ――ところで今回は撮影現場にずっと付かれていたそうですね。 長谷川・・・・・ええ。プロデューサー命令で(笑)。セットからロケまで二ヶ月すべて。さすがに初めての経験でした。現場で、台詞を足したり削ったり変更したり、その場面の時代状況などを俳優さんたちに説明したりも。芝居は生き物ですから、台詞などの変更は当然なんですが、この手の作品はある程度の知識がないと、間違いが生じますからね。だから最後まで脚本家としての責任を負うんだと。でも本当言うと、そこに絶対いるはずの人の代わりというのが、正直な気持ちでした。 小滝と僕がやったすべての映画を共にして、ずっと現場を仕切って来たプロデューサーの森谷晃育が、この作品の準備中に亡くなって……。その森谷さんの百分の一でも代役ができればと。きっと小滝も同じ思いで、僕を現場に居させたはずなんです。だからロケ先での大掛かりなエキストラ撮影なんかでは、「今日は“森谷”をやる」と、必死で走り回って声を張り上げました。 ――現場でのスタッフの皆さんはいかがでしたか? 長谷川・・・・・とにかく小滝が最初から「最高のスタッフを集める!」と宣言して、その通りになった面々ですからね。温かで信頼できる現場でしたね。何よりも録音監督の橋本(文雄)さんの存在が大きかったですね。何せこの作品が285本目ですから、聞いただけで気が遠くなります。撮影の二ヶ月間、僕はずっと橋本さんの横に居たんですが、今までの仕事の話を山ほど聞かせてもらって、至福の時間でしたね。映画史に残る名作が次々と登場して、伝説の俳優や監督さんたちの名前が、呼び捨てでバンバン飛び出しますからね。ただそんな人が、現場ではあくまでも一スタッフとして振舞ってるんです。モニター見ながら、ブツクサ言ったり、檄飛ばしたり、皆と冗談交わしたり、83歳までまさしく映画屋そのもの。 あれだけ傍若無人に作品のすべてを決めて行く小滝が、橋本さんの前では、まるで小学生のようになりますからね(笑)。編集なんかでも、監督を頭ごなしにどやしつけている男が、橋本さんに何か言われると直立不動になる(笑)。この撮影終了後に、橋本さんがあるインタビューに答えて、これから映画界を支えて行くスタッフたちに向けた言葉があるんですが、「まず脚本を読み込むこと。映画の基本は脚本であって、その中にある作品の理解をして初めて、それぞれの仕事が出来る」と。橋本さんの口からそれを聞いて、とても光栄に思うと同時に、作品の設計図を任された人間としての責任を今さらながら思い知らされましたね。これからどれだけこの仕事が出来るかわからないけど、橋本さんのその言葉は、肝に銘じていくつもりでいます。 ――最後に映画をご覧になる方々に一言お願いします。 長谷川・・・・・いや、作品が出来上がる過程や、作り手の思いなんてのは、実はどうでもいいことで、映画はスクリーンに映ったものがすべてなんです。結局、俳優さんたちの素晴らしい芝居を観てもらいたいってことに尽きるんですよね。今回は皆が、日本が色々なことに直面したこの時期に、この作品に参加する意味をどこか感じてくれていたような……。あ、こんな話も余計ですね。ただただ「役所五十六」の魅力に惹き込まれ、その人間に惚れてもらいたい、それだけです。間違いなくそんな映画になっているとおもいますから……。 |
<文責:藤森弘司>
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