2012年1月31日 第114回「今月の映画」
連合艦隊司令長官・山本五十六

●(1)今回の映画「連合艦隊司令長官・山本五十六~太平洋戦争70年目の真実~」は、歴史的に大変重要な人物であり、人格的にも非常に優れた方だったようですし、さらには、当時の時代状況が現在と非常によく似ている部分がありますので、パンフレットに掲載されている内容を詳しく紹介したいと思います。

さて、私(藤森)は、昔、「山本五十六」の本を読んだことがありますが、その当時から淡い疑問を持っていたことがあります。パンフレットに、<1943.04.18 前線基地視察の途上、ブーゲンビル島上空にて搭乗機が撃墜され、山本五十六戦死。享年59歳。>

このようにありますが、今回の映画を見ても、昔の淡い疑問が湧きました。
「淡い疑問」には、根拠は一切ありません。しかし、何故かふっと「淡い疑問」が湧いてきます。その疑問とは、<前線基地視察の途上、ブーゲンビル島上空にて搭乗機が撃墜され>たのは、暗号が解読されているのを「直感的」に知っていながら、わざと(?)護衛をつけずに「死にに行った」のではないかという疑問です。

昔は単なる「直感」でしたが、今回の映画を見て、敢えて理屈をつけてみますと、乃木将軍の例が浮かびます。

「203高地」の無理な攻撃で、乃木は多くの将兵を死なせました。この攻撃の最中、自分の子供が戦死したとき、「坂の上の雲」のNHKテレビによれば、「死んでくれて良かった」と乃木に言わせています。
乃木将軍は「日露戦争」後、ずっと「死に場所」を求めていて、「明治天皇葬送」の際に、奥様と一緒に「自決」しています。

乃木将軍以上(?)に、太平洋戦争で戦死した部下に対して、大きな責任を感じていたであろう山本五十六は、おめおめと生きながらえる道を選択できなかったのではないだろうか。
そもそも無謀な戦争であることを熟知していた五十六は、命の危険をかえりみず戦争に反対しました。しかし、開戦する以上は当然ベストを尽くし、有利なうちに講和を結ぶ方向に持って行きたかった心積もりが、どんどん負け戦になり、多くの将兵を戦死させてしまいました。

山本五十六の心境を「忖度」するならば(私・藤森は傲慢ではありますが)、「死に場所」を求めていたように思えて仕方がありません。長岡藩出身であり、また彼の生い立ちや生き様、日露戦争や乃木将軍の「自決」など、それらを総合してみても、恐らく、私の推測は正しいものと密かに自信を持っています。

このように発言する人を、寡聞にして、私(藤森)は知りませんので、万一、ご存知の方がいらっしゃいましたら、是非、教えてください。

○(2)<INTRODUCTION>

日米開戦70年、今明かされる衝撃の歴史超大作!!

歴史を顧みれば、今とよく似た時代がかつてこの国にはあった。昭和初期からあの戦争が始まるまでの10数年。当時もまた、人々は不況に喘ぎ、雇用不安と所得格差に苦しみ、総理大臣は次々と短期間で交代を繰り返していた。そして軍部、マスコミ、知識人、国民、その全てが混然一体となって日本はアメリカとの戦争へと突入していった。

しかしそんな中、軍人でありながら誰よりも強硬に日米開戦に反対し続けた男がいた。聯合艦隊司令長官、山本五十六。山本五十六の名は真珠湾攻撃によってあの戦争の端緒を開いた戦略家、日本を代表する海軍軍人として今でも広く知られている。しかしその「実像」を知る者は少ない。
例えば、日本と米国の国力の差を熟知していた視野の広い国際感覚。来るべき戦争は国を挙げての総力戦になると断じ、日本本土が空襲に遭い戦禍に見舞われることを危惧する卓越した先見性。何よりも人の命を守ることを優先させた確固たる信念

その意に反し、日米開戦が不可避になろうとも、決して逃げることなく聯合艦隊司令長官の職にあり続けた強固な責任感。そして周囲の反対を押し切り、真珠湾攻撃を成功に導いた、揺るぎない決断力
まさに今の日本に求められる、困難な時代における真の意味でのリーダー。それが山本五十六の「実像」に他ならない。

そして山本五十六は、開戦以来一度もぶれることなく、ただ一つの、明解な目的のために戦い続けた。それは戦争に勝つことではなく、敵の戦意を失わせるほどのダメージを与え講和(和平)の道を探ること。一刻も早く戦争を終わらせるために――。

命を賭して戦争に反対した山本五十六が、何故自ら開戦の火蓋を切って落とさねばならなかったのか。あの真珠湾攻撃から70年、その謎を解き明かすことが、現在、未曾有の国難に瀕する我々にとっての、そして我々の子供たちの確かな未来のための、大切な羅針盤となるのではないだろうか。

真珠湾奇襲攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル奪回作戦、そしてブーゲンビル島上空での非業の死まで、山本五十六は真のリーダーとして何を見つめ、如何に戦い続けたか。それを検証する旅がこの映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』である。

主人公、山本五十六役には日本映画界を代表する名優、役所広司。彼とともに三国軍事同盟反対を主張する、いわゆる海軍の“良識派三羽ガラス”――海軍大臣米内光政に柄本明、軍務局長井上成美に柳葉敏郎。
さらに阿部寛、吉田栄作、椎名桔平、五十嵐隼士、碓井将大らが帝国海軍の軍服に身を包み、強力に“役所長官”を支える。

また、五十六を見守る女性たちとして、宮本信子、原田美枝子、瀬戸朝香、田中麗奈。五十六の意に反し「世論」を戦争へと煽り立てる新聞記者役に、玉木宏、益岡徹、香川照之。そして五十六の親友である元海軍中将堀悌吉役を、歌舞伎界の重鎮、坂東三津五郎が務める。

脚本は『ホワイトアウト』(00)『亡国のイージス』(05)『真夏のオリオン』(09)で、「命を守る」というテーマをスペクタクルに描き出した長谷川康夫、飯田健三郎。監督は『孤高のメス』(10)で日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞士、最新作『八日目の蝉』(11)でも高い評価を得た成島出。そして戦後生まれのスタッフたちの中で唯一「あの時代」を知る、録音監督の橋本文雄が本作品のリアリティーに大いなる力を与えると共に、70年の歴史の渦に溶けて行ったこの国の真実を、鮮やかに蘇らせる。

半藤一利氏監修のもと、日本映画界を代表するスタッフ、キャストが集結し、激動の時代を生きた日本人の姿をリアルかつダイナミックに描いた新たなる歴史超大作が今、誕生した。

○(3)<STORY>

1939年夏。
日独伊三国軍事同盟締結の是非を巡り、日本は大きく揺れていた。支那事変勃発から2年。大陸での戦争が泥沼化する中、支那を支援する米英と対抗するため、日本は新たな勢力と手を携える必要があった。
強硬に三国同盟締結を主張する陸軍。国民の多くもまた強大なナチスの力に熱狂し、この軍事同盟に新たな希望を託していた。しかし、その「世論」に敢然と異を唱える男たちがいた。

海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、軍務局長井上成美。
理由は明確だった。日本がドイツと結べば、必ずやアメリカとの戦争になる。10倍の国力を持つアメリカとの戦は何としても避けなければならない・・・・・・。
陸軍の脅しにも、「世論」の声にも屈することなく、まさに命を賭して反対を唱え続ける五十六たち。その甲斐あって、やがて三国同盟問題は一旦棚上げとなる。

それを見届けた山本五十六は、1939年8月30日、生涯最後の職である「聯合艦隊司令長官」に就任した。
しかし、時を同じくして世界情勢は急転し始める。

アドルフ・ヒトラー率いるナチス国防軍がポーランドに進攻。それを機に欧州で第二次世界大戦が勃発した。快進撃を続けるドイツの力に幻惑され、日本国内では再び三国同盟締結を求める声が沸騰する。そしてその流れに抗しきれず、海軍大臣及川古志郎はついに従来の方針を改め、同盟締結に賛成してしまう。
1940年9月27日、日独伊三国軍事同盟締結。五十六が予測した通り、その後日本はアメリカとの戦争の坂道を急速に転がり落ちて行く・・・・・・。

日一日と戦争へ向かう時代の流れの中。40万の将兵を率いる聯合艦隊司令長官山本五十六は、対米戦回避を願う自らの信念と、軍人としての責務の狭間で苦悩し続ける。
しかし1941年の夏、米国との戦争はどうあっても不可避と悟った時、五十六はついに一つの作戦を立案した。
この世界の戦史に類を見ない前代未聞の作戦を、彼は軍令部の反対を押し切り、あくまで敢行しようとする。

1941年12月8日。太平洋上の空母から飛び立った帝國海軍350機の大攻撃隊は、布哇(ハワイ)真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に襲いかかった。
それは戦争に勝つためではなく、一刻も早く終わらせるために、山本五十六が生み出した苦渋に満ちた作戦だった・・・・・・。

○(4)<戦争への道>

1868年、日本は戊辰戦争と共に明治という新しい時代を迎えた。
以来、欧米列強と肩を並べる真の独立国家を目指し一丸となって富国強兵に努め、維新後わずか30年足らずにして日清戦争に勝利。さらには大国ロシアとの日露戦争にも勝ちを収め、世界の五大国に数えられるまでに成長する。1914年大正に入って勃発した第一次世界大戦は、そんな日本に未曾有の好景気をもたらした。

しかし、続く昭和という時代は大きな不安の中に幕を開けた。度重なる不況により経済は悪化。さらに1929年、ニューヨーク・ウォール街の株価大暴落に端を発する一大世界恐慌が日本を直撃した。深刻な経済不況は以後も続き、国民は重苦しい閉塞状況から抜け出すことを強く願っていた。そしてその希望の地が満州だった・・・・・・。

1931年、満州事変勃発。帝國陸軍は満州全土を制圧し、翌年満州国として独立させた。満州は北の大国ソ連の脅威をけん制するための要塞であり、資源の供給地であり、そしてわが国にとって最も重要な市場でもあった。しかし支那との対立は激しさを増し、国内では五・一五事件、相沢事件二・二六事件と続く軍部によるテロがさらに大きな社会不安を招いた。

1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に日支両軍はついに全面戦争に突入。当初陸軍は一ヶ月で収束すると見込んだが、日本の大陸支配を懸念するソ連、イギリス、アメリカが蒋介石の国民政府を援助し戦闘は泥沼化。以後、解決の糸口が見つからぬまま続く戦争状態は、日本を言い知れぬ閉塞感で覆っていった。

そんな中、アドルフ・ヒトラー率いるドイツが、イタリアを含む「日独伊三国軍事同盟」の締結を求めてきた。日本とドイツが、亜細亜と欧州の盟主として世界的な新秩序を作り上げる。それは大陸政策に行き詰る日本にとって、まさに魅力的な誘いだった。そして、日本国民は強大なドイツの力に熱狂し、この国との同盟関係に新たなる希望を託した・・・・・・。
(東京日報記者・真藤利一『大日本帝国戦史』より)

○(5)<歴史年表(青色は山本五十六関連)>

1868.01.27 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争勃発)

1884.04.04 新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町に、旧長岡藩士族高野貞吉の六男として生まれる。父・貞吉が56歳の時に生まれたため五十六と命名された。

1894.07.25 日清戦争勃発

1901.12.16 17歳。新潟県立長岡中学校を卒業後、海軍兵学校入学。入校時の成績は2番(3番は後に親友となる堀悌吉)。教官との面接の際「お前の信念は何だ」と問われ、「やせ我慢」と答える。

1904.02.08 日露戦争勃発。 20歳。海軍兵学校卒業(第32期)。折からの日露戦争により卒業直後の遠洋航海は中止となり、少尉候補生のまま「韓崎丸」、巡洋艦「日進」に乗組。翌年の日本海海戦で重傷を負う。

1914.07.28 第一次世界大戦勃発

1919.06.28 ヴェルサイユ条約調印。 35歳。結婚後一年足らずにして、単身アメリカ合衆国駐在。ハーバード大学に学ぶ。以降、断続的に欧米各国を視察。

1923.09.01 関東大震災

1925.03.22 東京放送局(後の日本放送協会)がラジオ放送開始。40歳。霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭。強力な指導力で飛行学生の技量向上を図る。訓練事故により命を落とす学生が後を絶たず、その霊を祀るため、自ら霞空神社(霞ヶ浦神社)の設立を企画。

1929.19.24 世界恐慌・ニューヨーク株式市場大暴落。 45歳。後の第二航空戦隊司令官山口多聞らと共にロンドン軍縮会議に随員として参加。

1931.09.18 満州事変勃発

1932.05.15 五・一五事件

1933.03.27 日本、国際連盟脱退

1934.09.20 50歳。ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍代表を務める。その間、日本では盟友堀悌吉中将が、南雲忠一ら条約反対派(=艦隊派)の策謀により海軍を追われる。五十六、その報をロンドンで聞き無念に沈む。

1936.02.26 二・二六事件

1936.12.01 52歳。海軍次官就任。当時の海軍大臣は後の軍令部総長永野修身。

1937.07.07 日中戦争(支那事変)勃発

1939.05.31 55歳。日独伊三国軍事同盟締結を求める圧倒的な「世論」に対して、海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美とともに強硬に異を唱える。迫りくる身の危険に、密かに遺書「述志」を書き、海軍次官室の金庫の中に入れる。

1939.08.23 独ソ不可侵条約締結

1939.08.30 連合艦隊司令長官に親補される

1939.09.01 ドイツ軍、ポーランドに侵攻を開始・英仏両国がドイツに宣戦を布告志、第二次世界大戦勃発

1940.09.27 日独伊三国軍事同盟締結

1941.04.10 第一航空艦隊司令長官として南雲忠一が就任

1941.07.28 日本軍、南部仏印進駐

1941.08.01 アメリカ、対日石油輸出を全面禁止

1941.10.18 東条英機内閣発足

1941.12.01 瀬戸内に停泊する「長門」を離れひそかに上京。宮中に参内した後、家族、堀悌吉らに別れを告げる

1941.12.08 合艦隊、ハワイ真珠湾停泊中の米国太平洋艦隊を急襲。歓喜に沸く軍令部とは対照的に、この日再び遺書「述志」を記す

1941.12.16 戦艦「大和」竣工。翌年2月、聯合艦隊旗艦に就役

1942.06.05 ミッドウェー海戦に惨敗

1942.08.07 米軍、ガダルカナル島上陸。本格的な反抗を開始。以降、聯合艦隊は不毛な消耗戦を余儀なくされる

1943.02.01 聯合艦隊、ガダルカナルからの撤退作戦を敢行。10652名の将兵を救出

1943.04.18 前線基地視察の途上、ブーゲンビル島上空にて搭乗機が撃墜され、山本五十六戦死。享年59歳

1943.06.05 国葬が営まれる

○(6)【重要事項の説明】

真珠湾奇襲攻撃作戦
日本時間1941年12月8日未明、第一航空艦隊の6隻の空母から飛び立った航空機約350機が米太平洋艦隊の根拠地、ハワイオアフ島真珠湾を奇襲した。当時の呼称はハワイ作戦(布哇作戦)。圧倒的な戦果を挙げ、米太平洋艦隊は戦闘能力を喪失したが、五十六が真の狙いとした敵空母は湾内にいなかった。

ミッドウェー海戦
1942年6月5日、ハワイの北西2100キロの距離にあるミッドウェー島を巡り、聯合艦隊の総力を挙げて臨んだ一大海戦。しかし真珠湾以降連戦連勝を重ねていた聯合艦隊の驕りと油断、作戦目的の不徹底などにより大惨敗。4隻の空母、289機の艦載機、そして山口多聞第二航空戦隊司令官ら3000名を超える将兵の命を、わずか一日にして失った。

ガダルカナル島
ミッドウェー海戦の敗北後、オーストラリアから北上してくるであろう敵の反抗に備え、海軍はソロモン諸島ガダルカナル島に飛行場を建設。しかし8月7日、米海兵隊一万余名が突如上陸、艦砲射撃と航空機の支援の下でその飛行場を奪取した。ここにガダルカナル島奪回を巡る凄惨な戦いの幕が切って落とされた。

日独伊三国軍事同盟
1940年9月ベルリンで調印された日本・ドイツ・イタリア三国の軍事同盟。五十六が予測した通り、これによりアメリカは態度を硬化させ、日米の衝突は不可避となった。開戦後、1943年にイタリアが、1945年5月にはドイツが連合国に降伏、枢軸国を束ねる根幹であったこの同盟関係は崩壊した。

ブーゲンビル島
1943年4月18日午前6時。ブーゲンビル島ブイン基地、さらにバラレ島、ショートランド島の前線基地を視察する為、山本五十六は一式陸攻に乗り込みラバウル基地を離陸。しかしおよそ3時間後、ブーゲンビル島上空で米陸軍航空隊P-38戦闘機16機の急襲を受け撃墜される。聯合艦隊司令部が各基地に視察日程を知らせた暗号電報を、アメリカ側は傍受、解読していた。

(6)<人間、山本五十六>

 海軍大将米内光政は、山本五十六の人となりを尋ねられて一言こう答えた。「茶目ですな」。
真珠湾攻撃という世界の戦史に類を見ない作戦を敢行した山本五十六は、人並み外れた豪胆さを備えた軍人として知られる。今なお威厳に満ちた名将のイメージが強いが、しかし少数の、ごく気を許した者に対しては、ナイーブで子供っぽい、わんぱく者のようであったという。

将棋、ルーレットなど勝負事を好み、しかもずば抜けて強い。宴席では下戸であるにも関わらず、逆立ちや皿回しを披露して座を盛り上げる。白頭山節を披露したり、映画にも登場する「長岡甚句」を口ずさみながら故郷越後の盆踊りも踊った。
親戚や知人には細やかな気遣いを欠かさず、自ら就学や就職の世話を買って出た。あるいは訓練や戦闘で命を落とした部下の名を、一人一人黒革の手帳に書き記していたというエピソードに象徴される通り、温かな「情の人」だった。

だがその一方で、気の合わない者には全く別人のような態度を見せた。
「山本という軍人には、越後人特有の孤高を楽しむ風があった。口が重く、長々しい説明や説得を嫌った。結論しかいわない。わからぬものに、おのれの内心を語りたがらず、ついてくるもののみを好む傾きがある」(半藤一利著『山本五十六』)

あの戦争において、海軍中央と聯合艦隊司令部が互いに反目しあい、戦争指導にズレが生じたことの一因が、その性格に求められることも少なくない。
そんな五十六の人間味には、雪深い故郷、越後長岡の風土が大きく影響しているようだ。

「常在戦場」――常に戦場にいる心構えで事に臨めというこの四文字を藩風の第一とする剛健質朴な長岡藩の藩風。雪国の風土によって育まれた忍耐強さや克己心。戊辰の役の際、東軍の非合理に対して河井継之助ら長岡藩士たちが示した苛烈な正義感。そして一気に伝統や一般常識や統制や規律を飛び越え、あくまで信念の赴くままに、孤高のうちに己の業を完成させていくという長岡人特有の烈しさ。

その全てが山本五十六という人間の血となり肉となったのだろう。そして五十六は終生、故郷を愛し続けた。
戦前のある日、山本五十六はこうしみじみと語っていたという。
「海軍を終えたら長岡の五十(いそ)さでのんびり暮らすか、モナコでバクチうちになるつもりよ」と。

山本五十六・YAMAMOTO ISOROKU・・・・・1884年4月4日、旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として新潟県長岡に生まれる。1904年、海軍兵学校を卒業(32期)。折からの日露戦役のため少尉候補生のまま巡洋艦「日進」に乗組。日本海海戦で右下腿部と左手に重傷を負う(後に傷痍軍人徽章第一号を授与される)。

1915年、旧長岡藩の名家である山本家の家督を相続。以後、山本姓となる。1919年、アメリカ駐在武官としてワシントンに滞在。以降、延べ5年に渡り断続的に欧米の文物を視察。また砲術が専門でありながら、近代戦における航空機の重要性に一早く着目し、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭、航空本部長等を歴任。航空機の技術開発と航空部隊の教育に尽力する。

1936年、海軍次官に就任。米内光政、井上成美とともに、日独伊三国軍事同盟に強硬に反対する。1939年、聯合艦隊司令長官を拝命。そして1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃を敢行。日米戦の火蓋を自ら切って落とし大戦果を遂げる。しかし翌1942年6月のミッドウェー海戦で惨敗。数多くの信頼すべき部下を一日にして失った。1943年4月18日、前線基地への視察の途上、ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され戦死。享年59歳。翌月元帥府に列せられる。遺体は戦艦「武蔵」に載せられ6月に帰国。

葬儀は国葬として執り行われ、早すぎるその無念の死に日本中が喪に服した。

○(7)<実在の登場人物>

 この映画は史実に基づいて描かれた作品の為、一部、実在した人物が登場致します。

<米内光政>
YONAI MITSUMASA

1880年3月2日~1948年4月20日
岩手県盛岡市生まれ。海軍兵学校29期。57番の成績で入学し卒業時は68番。1937年林内閣の海相となり、第1次近衛内閣、平沼内閣では留任、三国同盟に反対する海軍の姿勢を頑として変えなかった。1940年1月首相に就任したが、三国同盟締結を求める陸軍の反発に合いわずか半年で総辞職。1943年6月、戦死した山本五十六の国葬委員長を務める。1944年東条英機内閣退陣後、小磯内閣で海相に復帰。海軍次官には井上成美を指名した。以後、鈴木、東久邇、幣原の各内閣の海相を歴任し、太平洋戦争終結と戦後処理にあたった。

<井上成美>
INOUE SHIGEYOSHI

1889年12月9日~1975年12月15日
宮城県仙台市生まれ。海軍兵学校37期。ハンモックナンバー(卒業席次)は2番。1937年海軍省軍務局長となり米内、山本と共に三国同盟締結を阻止する。その後支那方面艦隊参謀長を経て、1940年航空本部長。大艦巨砲主義を舌鋒鋭く批判し航空兵力重視を主張。精神主義を嫌う海軍きっての合理主義者であり、日米開戦に反対し続けた。1942年海軍兵学校校長に就任。優れた教育者として戦後日本を担う多くの人材を育てる。1944年海軍次官。米内海相と共に終戦工作を画策。戦後は一切表舞台に出ることなく、横須賀市長井の自宅で英語塾を開き、近所の子供達に英語を教える日々を送った。

<山口多聞>
YAMAGUCHI TAMON

1892年8月17日~1942年6月6日
東京都生まれ。海軍兵学校40期。ハンモックナンバーは2番。海軍大学卒業後、駐米大使館付武官を務めプリンストン大学に学ぶ。共に広い国際性を備えた軍人として、公私ともに山本五十六との交流は深かった。1940年11月第二航空戦隊司令官に就任。海軍の次代を担うエースとして将来を嘱望されたが、1942年6月、ミッドウェー海戦において撃沈された空母「飛龍」と運命を共にする。勇戦力闘の名将として敵国アメリカからも高い評価を受けていたという。享年49歳。無類の健啖家、愛妻家、そして子煩悩の人だった。

<黒島亀人>
KUROSHIMA KAMETO

1893年10月10日~1965年10月20日
広島県生まれ。幼くして両親と別れ、苦学の末海軍兵学校入学。44期。卒業時の席次は95名中34席。砲術家として活躍した後、1939年10月、山本五十六の指名により聯合艦隊先任参謀に大抜擢。「黒島だけが俺の思いもつかぬ発想を出してくれる」と黒島を重用した五十六は、真珠湾攻撃、ミッドウェー作戦の立案を委ねた。その異能ぶりのみならず、異相、日常生活における異様な習癖から「変人参謀」「仙人参謀」と揶揄される。五十六の死後、軍令部第二部部長に転任。戦争末期の特別攻撃、いわゆる特攻の発案、主導者の一人とされている。

<永野修身>
NAGANO OSAMI

1880年6月15日~1947年1月5日
高知県生まれ。海軍兵学校28期。卒業成績は105人中次席。日露戦争の旅順攻略戦、日本海海戦で活躍。1935年ロンドン海軍軍縮会議全権となり、同会議からの脱退を通告した。1936年広田内閣の海相に就任。次官に山本五十六を据える。開戦前の1941年4月から1944年2月まで軍令部総長。帝国海軍の歴史上ただ一人、海軍三長官(海軍大臣、聯合艦隊司令長官、軍令部総長)を全て経験した。戦後、真珠湾作戦を許可した責任を問われA級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷。しかし裁判途中の1947年、病死。最終階級は元帥海軍大将。

<宇垣 纏>
UGAKI MATOME

1890年2月15日~1945年8月15日
岡山県生まれ。海軍兵学校40期。卒業成績は144名中9席。同期に山口多聞がいる。ドイツ駐在武官補、軍令部第一部長等を経て、1941年8月聯合艦隊参謀長。1943年4月ブーゲンビル島上空で山本五十六搭乗機が撃墜された際、宇垣の乗る僚機も米軍機の機銃を受け墜落。しかし奇跡的に一命を取り留める。その後第一戦隊司令官としてマリアナ沖海戦、レイテ海戦に従軍。大戦末期には第五航空艦隊司令長官として沖縄特攻を指揮。1945年8月15日終戦の詔勅が出された直後、若い隊員らと共に自ら特攻に出撃し、消息を絶つ。

<南雲忠一>
NAGUMO CHUICHI

1887年3月25日~1944年7月6日
山形県生まれ。海軍兵学校36期。卒業成績は191人中7席。水雷戦術の第一人者として知られ、佐官時代は「艦隊派」の旗手として対米強硬論を主張、山本五十六や井上成美らと対立する。1941年4月第一航空艦隊司令長官に就任。真珠湾作戦以降無敵を誇り、帝国海軍史上最も戦果を挙げた提督とされるが、ミッドウェー海戦で第一航空艦隊は壊滅。その後も第三艦隊司令長官、中部太平洋方面艦隊司令長官として戦い続けるが、1944年サイパン島で戦死。

<堀 悌吉>
HORI TEIKICHI

1883年8月16日~1959年5月12日
大分県生まれ。山本五十六と同じ海軍兵学校32期。ハンモックナンバーは1番。「兵学校創立以来、未だ見ざる秀才」と謳われ、その頭脳は「神様の傑作のひとつ」とまで称された海軍きっての逸材。日露戦争での体験から「戦争そのものは明らかに悪であり、凶である」とし、「軍備は平和の保障である」という「フリート・イン・ビーイング(=平和軍備論)」を主張した。1929年海軍省軍務局長に就任、ロンドン海軍軍縮条約締結を強力に推進する。しかし条約に反対する敵対勢力(=艦隊派)の策謀により、1934年予備役編入。このとき山本五十六は「巡洋艦戦隊と堀の頭脳のどちらが重要か分かっているのか」と嘆いた。海軍を追われた後は、日本飛行機や浦賀ドックの社長として海軍をバックアップした。

○(8)<THE MESSAGES>(半藤一利)

山本五十六さんは新潟県立長岡中学校(現・長岡高校)卒業の、私の同窓の先輩である。いまでもときどき思い出してはひとりで腹を立てている話がある。降伏を告げる天皇放送があったすぐ翌日のこと、中学校の講堂に長く掲げてあった山本さんの筆になる「常在戦場」の額が、あれよという間もなく下ろされてしまったのである。いくら占領軍の眼が恐ろしいからといって何たる早手廻しのことか、と当時十五歳の私は地団駄を踏んだものであった。
いらい私は山本五十六贔屓を自認し標榜している。権威ある識者に「それでは公正な歴史観がもてないではないか」とどんなにくさされても決してめげることはない。

二〇一一年は、対米英開戦つまり真珠湾攻撃があってから満七〇年の節目の年になる。そこで本格的な山本五十六の映画を製作したいという話がもちかけられたとき、もう半世紀に及ぶ山本贔屓としては、それに東京は向島の生まれとしては、久しぶりに頼まれればあとには引けない高揚した気分を味わった。

かくてシナリオの段階から喜んで参画することになった。のはいいのであるが、いやあ、ほんとうにびっくり仰天させられた。準備稿、準備稿一、準備稿一・改、検討稿一、検討稿一・改、撮影準備稿一……ときて、やっと決定稿にたどりつく。それまで何と長い時間のかかったことか。物書きのはしくれに連らなる私なんかは常に決定稿あるのみなのに。今日の映画づくりの若い人たちのそれに打ちこむ真剣さには心から感嘆し、その熱意に圧倒されて山本五十六を勉強し直した。

これを書いている段階では、完成された作品を観賞したわけではなく、業界でいうラッシュを観ただけであるが、まことによく出来ていると推奨する。対米英非戦論で厳然として立ちはだかり、生命を狙われても微笑みをたやさない海軍次官時代。聯合艦隊司令長官として海上へと山本が去ったあと、日本の政略戦略は「急坂を転がる石」のように戦争への道を突き進む。山本長官は「之が天なり命なりとはなさけなき次第」と天を仰ぎつつも、避戦のために懸命の努力を傾注する。しかし、山本の願いも空しく開戦へ。太平洋戦争におけるこの人の指揮ぶりは、求めて戦いにいくような“性急さ”と“激しさ”に終始する。それもすべて戦争を早期のうちに終わらせたいたいめに――。そうした山本の壮烈な生き方がじつによく描かれている。

山本が戦死したあと、長岡に山本神社を建てようという動きがあった。しかし知友堀悌吉予備少将や米内光政大将が猛反対した。「神様なんかにされたら、いちばん怒るのは山本だ」と。当然のことで、いまその生家の跡は小さな公園になっている。そんな「オラいつだって高野のオジだがに」と偉ぶらない山本さんであるが、この映画には「アッキャァ、ホンニ立派に描いてもらったのォ」と大喜びされるにちがいない。

○(9)<山本源太郎(山本五十六長官のお孫さん)>

 日米開戦から70年、祖父の戦死からは68年が経過した。戦後生まれの私に祖父の記憶は勿論ない。加えて我が家では日常生活の中で祖父の話題が家族の会話に上ることも殆ど無く、私にとっての山本五十六は仏壇に置かれた写真の中の人であり、多くの人々によって語られる人物でも有名人でもなかった。それにしても今なお祖父が多くの書き手や映像製作者たちの対象となるのは何故だろうか。先の大戦を振り返り我が国のある時代の出来事に反省を試みる時、本人の思いや遺族の意に反し、その名前は常に人々の口の端に登場してきた。何とも複雑な心境である。

2009年10月、父・義正宛に文藝春秋から一通の手紙が届いた。そこには、ある映画プロデューサーが祖父を主人公とした映画製作を念頭に数年前から企画を練り、脚本家と共に勉強を重ねてきたこと、半藤一利氏監修のもと台本製作の準備が進められていること、そして祖父の長男である父への協力依頼が書かれてあった。

繰り返される推敲のうちに台本は第一稿、第二稿と版が重ねられ、やがて出来上がった決定稿をもって、今年の5月15日にクランクインとなった。短かった梅雨の時期から猛暑が続く夏の間、父の代理として東映の撮影所に何度か足を運んだ私は、スタッフの一人一人に、また祖父を演じてくれた役所広司さんはじめ全ての出演者に、小滝プロデューサーのこの映画に対する強い思いが正しく理解されていることを感じ、いつしか私自身もそれに共鳴していった。

小滝氏が作成した企画書には、この国に対する憂いが熱い言葉で綴られている。「あの戦争以後、あれ程美しかった日本の風景や、日本人の心は一体何処に行ってしまったのか」「敗戦を機に自己批判と反省を繰り返すと同時に、一番大切なものまでも否定してきたのではないか」と。

東日本大震災発生から2ヶ月、日本中で自粛が叫ばれる中でのクランクインという決定はどれ程勇気がいることだったか知れない。しかしその決断は決して間違っていなかったと私は信じている。掛け替えのない多くのものを失い、「本当に大切なものは何か?」と日本人の誰もが問うている今、この映画はその「何か」を考えるきっかけになるに違いない。

この映画の製作に対し真摯に取り組んで下さった全ての関係者に心から感謝を申し上げたい。そして願わくば、ご覧になったお一人お一人が、この作品を通してもう一度あの戦争を振り返り、この国の行く末を考えるきっかけとして頂けたらこれ程の喜びはない。

○(10)<INTERVIEW  長谷川康夫[脚本]HSEGAWA YASUO>

誰よりも戦争に反対した男が、
自らその開戦の火蓋を切って落とす。
五十六さんの「無念」と「覚悟」に
思いを馳せたとき、脚本の方向が見えた。

すべての始まりは、
積まれたままだった『昭和史』

――企画の成り立ちから伺いたいのですが。

長谷川・・・・・ちょうど三年前ですね。プロデューサーの小滝(祥平)からの電話で、「半藤一利さんの『昭和史』って読んだ?」と。僕らの仕事はいつもこんなふうに始まります。この時点では、映画のえの字も出ません。実は『昭和史』は持ってたんですが、恥ずかしいことにずっと書棚に積まれたままで……。あとで聞いたら小滝も同じだったらしい(笑)。で、読み終えて愕然とするわけです。自分があまりに無知だったことに。だいたい僕らの世代は、日本史の授業が「昭和」に入る前に三学期は終わってますからね(笑)。いや、過去に小滝とやった『君を忘れない』や『真夏のオリオン』で、太平洋戦争が泥沼化し敗戦に至るまではかなり勉強してるんです。

でも肝心の「なぜ日本は戦争に突き進んだのか」に関しては、軍部の暴走といった程度の認識しかなかった。それが半藤さんの『昭和史』によって、目から鱗というか……。そんな話を小滝にしたら、案の定、「これ映画にならないかな」と無謀なことを言い出して、呆れましたね(笑)。まぁ『ホワイトアウト』や『亡国のイージス』のときもそんな感じでしたけど、『昭和史』となると、そのレベルを遥かに越えてますから、相手にしませんでした(笑)。ところがしばらくして「ずっと考えているのは『山本五十六』という人物を通しての『昭和史』なんだ」と来たわけです。そこからですね、「山本五十六」へと一気にフォーカスが絞られて、半藤さんのものを中心に五十六さんやその時代に関する資料を、二人で片っ端から読み始めたのは。過去の映画作品なんかもあれこれ観て。そのうちに小滝が「長岡、行くよ」と。

――いわゆるシナリオハンティングですか。

長谷川・・・・・いえ、まだそんな段階じゃありません。とりあえず五十六さんのお墓参りでもしてみようと。まぁこれは僕ら二人のいつもの儀式みたいなもんですね。『君を忘れない』のときは鹿児島県の鹿屋。『ホワイトアウト』のときは奥只見ダム。『深呼吸の必要』では宮古島。藤沢周平作品は山形県の庄内。他の作品も全部そうです。まず二人で行ってみる。それが今回は長岡。山本五十六なる人物を作り上げたのは、長岡という土地の歴史、風土だということは、半藤さんの本によって身に沁みてましたから、それを肌で感じたことは大きかったですね。

――それでいよいよ脚本執筆ですか?

長谷川・・・・・いやいや、まだまだ(笑)。ひたすら小滝と、ああでもないこうでもないと。日本の近現代史とか軍事論や外交論なんて硬い本まで、無いアタマに無理やり詰め込んで(笑)。煮詰まると、二人で銭湯へ(笑)。で、結局行きついたのが、この作品は半藤史観による「山本五十六」で行くということですね。誰よりも戦争に反対した男が、何故自ら開戦の火蓋を切って落とさねばならなかったのか、その“無念”“覚悟”を描くと。そんな脚本の方向性が決まり、飯田(健三郎)が滋賀から登場です。「知識はおまえに任せる」と。本や資料が山ほど詰まった段ボールひとつ背負って、大津にまた帰っていきました(笑)。それで今回は、僕にちょっと野暮用があって、小滝と飯田で第一稿をまとめたんです。結局『昭和史』の話が出てから、ほぼ一年後ですね。

史実とフィクションの兼ね合いに、
かなり悩んだ

――脚本はかなり稿を重ねたとのことですが? どんな改訂が?

長谷川・・・・・細かい直しを含めれば50稿は越えるでしょうね。脚本作りというのは数学の証明問題を回答するのと一緒ですから、どこか一個数式が変われば全部見直さなければならないんです。決定稿まで変更は山ほどありました。まず新聞社のあり方とかね。五十六と明確に対立する人物は最初いなかった。一般庶民の思いを描くシーンもなかったし、五十六さんの家族も登場しませんでした。あとは肝心な「長岡」ですね。そのためにオープニングを変えたり、若き五十六とオーバーラップさせる人物を登場させたり。第一稿から大きく変わっていないのは、戦史的な部分だけかもしれないですね。

――当時の方々に取材のようなことはされたんですか。

長谷川・・・・・残念なことに、現実に五十六さんと同じ時代を生きた方というのは、もうほとんどいらっしゃらないですからね。ただ、ご子息の義正さんがご健在で、何度かお話を伺い、そのご著書も随分参考にさせて頂きました。それとやはり半藤さんですね。多くの著作からだけでなく、直接アドバイスも受け、新しい稿になるたびに、毎回貴重な意見を頂きました。

――実在の人物を描くということで気を使った点は?

長谷川・・・・・悩んだのはフィクションの部分です。史実を曲げずに作っていくと、物語としてどうしても行き詰ってしまって……。例えばこの時点で誰々はまだ赴任していないとか、五十六さんは東京に戻っていないとか。そんな時制的なものも含めて、ある種の嘘をつかなければならない部分が出て来て、かなり悩みました。でも半藤さんから「確かに映画としてはこっちの方が面白いし……作り手が分かってやってるんならいいんですよ。無知でやってしまったんじゃ論外だけどね」という言葉をもらって、吹っ切れました。

――山本五十六を役所さんに演じてもらうというのはいつ頃?

長谷川・・・・・小滝の口から「役所広司」の名前が出たのは、「山本五十六」とほぼ同時でしたね。最初から「彼しかいない」と。いや、勝手に思い込んでるだけで、正式に決定するのは遥か先の話ですよ(笑)。でも僕も全く同感で、脚本作りは最初から、役所=五十六をイメージしての作業でした。もし断られていたら、この映画どうなってたんだろう(笑)。他の配役に関しても、小滝から次々と俳優さんたちの名が飛びだすんです。監督もまだ決まってないのに(笑)。こっちはただ「はい、はい」と聞いているわけですが、最後にはほぼ全員その通りになってしまったから、驚くというか、呆れるというか(笑)。

現場で改めて思い知ったこと
設計図を任された人間としての責任

――ところで今回は撮影現場にずっと付かれていたそうですね。

長谷川・・・・・ええ。プロデューサー命令で(笑)。セットからロケまで二ヶ月すべて。さすがに初めての経験でした。現場で、台詞を足したり削ったり変更したり、その場面の時代状況などを俳優さんたちに説明したりも。芝居は生き物ですから、台詞などの変更は当然なんですが、この手の作品はある程度の知識がないと、間違いが生じますからね。だから最後まで脚本家としての責任を負うんだと。でも本当言うと、そこに絶対いるはずの人の代わりというのが、正直な気持ちでした。

小滝と僕がやったすべての映画を共にして、ずっと現場を仕切って来たプロデューサーの森谷晃育が、この作品の準備中に亡くなって……。その森谷さんの百分の一でも代役ができればと。きっと小滝も同じ思いで、僕を現場に居させたはずなんです。だからロケ先での大掛かりなエキストラ撮影なんかでは、「今日は“森谷”をやる」と、必死で走り回って声を張り上げました。

――現場でのスタッフの皆さんはいかがでしたか?

長谷川・・・・・とにかく小滝が最初から「最高のスタッフを集める!」と宣言して、その通りになった面々ですからね。温かで信頼できる現場でしたね。何よりも録音監督の橋本(文雄)さんの存在が大きかったですね。何せこの作品が285本目ですから、聞いただけで気が遠くなります。撮影の二ヶ月間、僕はずっと橋本さんの横に居たんですが、今までの仕事の話を山ほど聞かせてもらって、至福の時間でしたね。映画史に残る名作が次々と登場して、伝説の俳優や監督さんたちの名前が、呼び捨てでバンバン飛び出しますからね。ただそんな人が、現場ではあくまでも一スタッフとして振舞ってるんです。モニター見ながら、ブツクサ言ったり、檄飛ばしたり、皆と冗談交わしたり、83歳までまさしく映画屋そのもの。

あれだけ傍若無人に作品のすべてを決めて行く小滝が、橋本さんの前では、まるで小学生のようになりますからね(笑)。編集なんかでも、監督を頭ごなしにどやしつけている男が、橋本さんに何か言われると直立不動になる(笑)。この撮影終了後に、橋本さんがあるインタビューに答えて、これから映画界を支えて行くスタッフたちに向けた言葉があるんですが、「まず脚本を読み込むこと。映画の基本は脚本であって、その中にある作品の理解をして初めて、それぞれの仕事が出来る」と。橋本さんの口からそれを聞いて、とても光栄に思うと同時に、作品の設計図を任された人間としての責任を今さらながら思い知らされましたね。これからどれだけこの仕事が出来るかわからないけど、橋本さんのその言葉は、肝に銘じていくつもりでいます。

――最後に映画をご覧になる方々に一言お願いします。

長谷川・・・・・いや、作品が出来上がる過程や、作り手の思いなんてのは、実はどうでもいいことで、映画はスクリーンに映ったものがすべてなんです。結局、俳優さんたちの素晴らしい芝居を観てもらいたいってことに尽きるんですよね。今回は皆が、日本が色々なことに直面したこの時期に、この作品に参加する意味をどこか感じてくれていたような……。あ、こんな話も余計ですね。ただただ「役所五十六」の魅力に惹き込まれ、その人間に惚れてもらいたい、それだけです。間違いなくそんな映画になっているとおもいますから……。

<文責:藤森弘司>

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