2011年9月30日 第110回「今月の言葉」
日輪の遺産
監督:佐々部清  主演:堺雅人  ユースケ・サンタマリア  中村獅童  八千草薫

●(1)戦争に関わる映画を見るたびに、こういう時代のことを忘れてはいけないなといつも思います。

ついつい、今の安直な生活に慣れてしまって、先人のお陰で今の生活ができている有り難さを忘れてしまいます。
しかし、悲惨なあのような時代が親の時代に本当にあったことを肝に銘じて生きることが「堕落」を防ぎ、人生を大切にできる生き方だと思っています。

今までの多くの戦争時代の映画とは少々趣の違うこの映画も大切にしたいと思っています。

○(2)<パンフレットより>「日輪の遺産」映画化に寄せて(浅田次郎)

<仲の良い兄弟>

 『日輪の遺産』は一九九三年八月、四十一歳のときに書き下ろした長編小説である。
それまでに上梓していた小説といえば、『きんぴか』全三巻中の二巻と、『プリズンホテル』全四巻中の一巻のみであり、エッセイ集や競馬の指南書を併せて、「新人極道作家」のレッテルが貼られていた。

むろん不本意ではあったが、そうした注文しかないのだから仕方なかった。華々しい新人賞デビューを果たせなかった遅咲きの悲しさである。そうした折に、「好きなものを好きなように書いてよい」と言って下さった出版社があった。欣喜雀躍して、熱に浮かされたように三ヶ月ばかりで書き上げた作品が『日輪の遺産』である。

実質的なデビュー作となったのは、翌年三月の『地下鉄(メトロ)に乗って』だが、個人的にはその半年前に刊行された『日輪の遺産』をもって、小説家になったような気がしている。
そもそもこの二つの作品は双子の兄弟のようなもので、『日輪の遺産』の中の一場面を切り取って拡大した部分が『地下鉄(メトロ)に乗って』に生まれ変わった。つまり真柴元少佐が、敗戦後の東京の地下を雄々しく走り続ける地下鉄の姿に感動し、祖国の再生を信じるというくだりである。その場面に書き至ったとき、このテーマは別の小説に仕立て直すべきであると考えた。

私を陽の当たる場所に導き出してくれたのは、七百枚余の兄ではなく、半年後に誕生した四百枚の弟であった。彼は翌年の吉川英治文学新人賞を獲得し、『蒼穹の昴』『鉄道員(ぽっぽや)』に至る道筋をつけてくれた。
しかし、兄たる『日輪の遺産』は置き去りにされていたわけではない。一九九七年になって講談社文庫に収録されるや、たちまち版を重ねて、弟と肩を並べるベストセラーになった。

実に仲の良い兄弟である。誕生から今日に至るまでずっと、控えめな性格の兄は弟を押し上げ続け、弟は尊敬する兄の手を握って放さなかった。『地下鉄(メトロ)に乗って』が映画化されたあと、やはり『日輪の遺産』が銀幕にのぼる運びとなった。父親としてこれほどの幸福はない。
弟の提(ひっさ)げたテーマは個の人生の恢復であったが、兄のそれはさすがに「日本の恢復」である。映画化の時宜を得て小説の心を伝えることができればありがたいと思う。

○(3)<INTRODUCTION>

「いつかこの国が生まれかわるために」

「マッカーサーの財宝、200兆円を隠匿せよ」
1945年8月、敗戦前夜に下された密命。


終戦間際の1945年(昭和20年)8月10日、3人の軍人たちにある密命が下される。マッカーサーから奪取した900億円(現在の貨幣価値で約200兆円)もの財宝を、秘密裡に陸軍工場へ移送し隠匿せよ――。
その財宝は、敗戦を悟った軍上層部が祖国復興を託した軍資金であった。
任務を遂行する3人の前に、20名の少女たちが呼集される。御国のため、健気に勤労奉仕する少女たちだったが、8月15日の終戦を迎えたとき、上層部は彼女らに非常きわまる命令を下す…。

浅田文学の原点、ついに映画化。

「鉄道員(ぽっぽや)」「地下鉄(メトロ)に乗って」「蒼穹の昴」など数々の名作を世に送り出してきた作家・浅田次郎。
1993年発表の「日輪の遺産」は、売り上げ部数50万部を誇る、根強い人気作にして、浅田自身が映像化を熱望し続けてきた。
「初めて自由に書いていいと言われ、書き上げて世に出した時、ようやく小説家になれた気がした」という、浅田文学の原点がついに映画化。
監督は『半落ち』『出口のない海』の佐々部清、そして『武士の家計簿』『ゴールデンスランバー』の実力派、堺雅人を主演に、更に中村獅童、福士誠治、ユースケ・サンタマリア、八千草薫ら豪華共演陣を迎え、スケール感溢れる感動作がここに誕生した。

戦後日本を立て直した日本人の矜持を今こそ見つめなおす。

1945年(昭和20年)の敗戦以来、日本は戦後の混乱期を乗り越え軌跡の復興を遂げてきた。高度経済成長、オリンピック、万博の開催、ついにはGNP世界2位に達した。終戦直後の焼け野原からは想像もできないこの復興の原動力となったのは、日本人の持つ勤勉さ、素直さ、そして何より未来への強い信念であった。
「マッカーサーの財宝を秘密裡に隠匿する」という歴史に隠されたミステリーから始まる物語に登場するのは、3人の軍人、20人の少女たちとその教師。立場も階級も異なる者たちが、敗戦間近という極限の状況において結束し、厳しい任務を遂行できたのは、「日本の未来のために」という一つの強い思いがあったからに違いない。そして、その思いがあったからこそ、この『日輪の遺産』で描かれているのは決して悲劇ではなく、勇気と希望のメッセージなのだ。
太平洋戦争開戦から70年。日本は今、終戦直後同様に復興へのスタート地点に立っている。戦争を繰り返してはいけないという祈りとともに、われわれ日本人がいかに揺るぎない信念を持ち、困難を乗り越え、成長を遂げてきたのか。日本人としての矜持を改めて見つめなおす時に立っている。

○(4)<STORY>

2011年3月
カリフォルニア州に暮らすマイケル・エツオ・イガラシは、回顧録の出版を前に取材を受けている。かつて通訳係の情報将校だったイガラシは、1945年8月30日以来、ダグラス・マッカーサーの傍らで終戦直後の日本のさまざまを見聞きしたのだった。
東京の森脇女子学園中等部では卒業式を迎えていた。例年通り、金原庄造と妻の久枝が、来賓として列席。だが、式の最中、庄造は「今、真柴さんに会った……もう命令は守らなくていいそうだ」と呟いて、息絶える。自宅に戻り遺影にする写真を探す孫娘の涼子が「どの写真も目付き悪い!」と言うと、久枝は「赤鬼さんだから」とほほ笑み、1冊の手帳を取り出して遠い昔の出来事を語り始める――。

1945(昭和20)年8月

《10日》 森脇女学校第2学年の女学生たちが勤労奉仕先の工場で草むしりをしていると、1週間前に特高に連行された野口先生が無事に戻って来る。
同じころ、近衛第一師団の真柴少佐と東部軍経理部の小泉中尉が陸軍省の大臣室に呼ばれる。大臣室には阿南陸軍大臣はじめ重鎮5人が顔を揃え、真柴と小泉は、負けが確定的になった日本の戦後復興のため、時価900億円の財宝を隠匿する極秘任務を任される。それは、ダグラス・マッカーサーが父の代から蓄えていたもので、山下将軍がマニラからひそかに運び出したのだった。真柴と小泉に、運転手兼護身係として望月庄造曹長も加わり、3人は逐次届く伝令に従うことになった。

《11日》 財宝は「決號榴弾」と書かれた弾薬箱に入れられ、南武鉄道・武蔵小玉駅に運ばれてくる。そのころ、級長の久枝以下20人の女学生と野口先生を乗せたトラックが多摩川を渡っていた。食事も宿舎も用意してくれる特別任務と聞き、少女たちは笑顔で「比島決戦の歌」を大合唱する。
彼女たちの任務は、弾薬箱を南多摩火工廠の三の谷の壕へ運び入れること。病弱なスーちゃんが用意してくれた「七生報國」と書かれた鉢巻をしめ、「本土決戦用の秘密兵器」と聞かされている木箱をせっせと運ぶ。明るく、健気に、励まし合いながら作業に励む少女らの姿を、真柴たちは心洗われる思いで見守るのだった。

《14日》真柴が朝の訓示で「明朝には各自帰宅できる」と話しているとき、B29が飛来してビラを撒く。「ポツダム宣言受諾/日本無条件降伏/戦争終ル」と書かれている。「これは敵の謀略である」と言い含める真柴に、マツさんが問いかける。「米国の女学生は今は学校に行っていないのでしょうか。(日本軍が米国本土に攻め込んだら)米国の女学生も私たちのような辛い作業をしなければならなくなって、大勢の人が死んで……戦争をやめるのは、決して恥ずかしいことではないと思います」と。真柴らは返す言葉を見つけられない。
そのころ、三角兵舎でひとり休んでいたスーちゃんが外に出て、ビラを拾い上げた。

日が暮れ、再び伝令が届く。「明日の玉音放送後、同封の薬物を貴官以下指揮班3名を除く全員に服用せしむる事――」。三角兵舎の暗がりで真柴に伝令を見せられた小泉は、命令の撤回を求めるべきだと主張。兵舎の奥でスーちゃんが寝ていたが、2人の会話は聞いてなかった様子だ。真柴は望月の運転で深夜に近衛師団司令部へ赴く。近衛師団は徹底抗戦の構えで決起という混乱の中、割腹自殺を図った阿南大臣は意識朦朧としながらも真柴に「(民間人を犠牲にしろなどという)下命はしておらん……貴様は人間らしく生きよ」と言い残した。

《15日》 朝、小泉に背中を流してもらった風呂上りの少女たちが、真柴たちに向かってとびきりの笑顔で敬礼する。望月と久枝だけは玉音放送を聞かずに風呂掃除をして過ごす。一方、玉音放送を聞いた少女たちは一様にうなだれるが、真柴が「この任務で見たものはすべて忘れろ、出発は13時とする」と、力強く言う。だが、スーちゃんは「本当に帰ってもよろしいんでしょうか」と、納得いかない様子だ。念のため、真柴と小泉が、今回の作業は機密事項だと改めて野口に説明する。

そのとき、小泉は薬物がなくなっていることに気づく。3人が慌てて飛び出すと、祠(ほこら)の前に19個の雑のうが並べられていた……。事態を察して壕の中へ駆け込む野口先生のあとに小泉も続く。真柴はその場で激しく嘔吐するばかり。そこへ、風呂場の掃除を終えた久枝と望月が現れ、壕の中へ行こうとする久枝を望月が抱きしめて止める。そのとき、壕の中から乾いた銃声が数発、聞こえてきた。

壕から、茫然としたまま小泉と野口が出てくる。小泉が、命令完遂のためと言って久枝に銃を向けるが、望月が制止する。そのとき、小泉が膝まづいて落とした銃を拾い上げた野口が、「大丈夫だよ、久枝。おまえなら、ちゃんとやっていける。しっかりとモームを書き写すんだぞ!」と笑顔で言って、壕の中へ消える。やがて、一発の銃声が鳴り響く。

※物語の結末に触れていますので、映画鑑賞後にお読みください。

1948(昭和23)年秋

望月は、小玉村の久枝の実家に身を寄せ、2人で農作業に励んでいた。そのとき、真柴が訪ねてくる。「別命あるまで相互の位置を掌握しつつ各自待機すべし」という、真柴、小泉、望月に向けられた命令を、解除しに来たのだという。望月は「自分、金を稼いで、あの山をそっくり手に入れてやる! 少佐殿の食いぶちぐれえ、何とでもしますから。あの森を守りましょう」と強く言う。少女たちのためにも、あの財宝を守り抜く決意をしているのだった。真柴は何も答えず、久枝からもらった干し大根を手に帰っていく。

真柴はその足で、5人の将軍の中でただ一人生き残った梅津元参謀総長が末期癌のため入院している病院に赴く。面会できるよう計らってくれたのは、日系アメリカ軍人のイガラシだった。病床の梅津は真柴に「長生きせい。それがおまえの任務だ」と言って、紙片を真柴に手渡す。そこには「幽窓無暦日」と書かれていた。

その3年前の秋、大蔵省の主計局員になっていた小泉は、マッカーサーにじきじきに面会し、大胆な日本経済復興案を提示した。時期尚早として取りあわないマッカーサーに対して、小泉は、財宝の隠し場所を教えると提案。だが、マッカーサーにNOと言われた小泉は、そばにいたイガラシの拳銃を奪い、自らのこめかみに当てたのだった。

2011年3月、カリフォルニアの自宅で取材を受けているイガラシは、「私が出会った、無名だが偉大な3人の日本人の話をしよう」と、病院に来た真柴と、マッカーサーに直訴した小泉のことを語り、「最後のひとりは少女だ」と、久枝のことを語り始める。財宝が見つかったという知らせを受けたマッカーサーが南多摩火工廠にやって来ると、勇敢にも門の前に飛び出してきた少女がいたのだ。両手をいっぱいに広げて立ちはだかり、「出てこい、ニミッツ、マッカーサー」と歌いだした。マッカーサーは少女を無視してジープを進めた。

2011年初夏、 久枝は涼子たちとともに米軍施設「南小玉レクレーションセンター」を訪れる。66年の夏、久枝が級友たちと働いた南多摩火工廠の現在の姿だ。地下壕の入り口はコンクリートで塞がれていた。かつて、マッカーサーはここに財宝を見つけたが、それを守るように並ぶ少女たちの遺骨を見て、永遠に封鎖するよう命じたのだった。祠に花を供え、手を合わせる久枝。一同が去ろうとしたとき、久枝が振り向くと、祠の前に野口先生と19人の少女たちが笑顔で現れる。久枝が泣きだすと、野口先生は「級長のくせに泣く奴があるか。久枝、おまえは仲間外れなんかじゃないぞ」と言ってくれる。

あの遠い夏、スーちゃんがみんなを説得する声が聞こえてくる。「みんな泣かないで。これはちっとも悲しいことじゃないんだから。軍隊が降参しても、この秘密の宝物さえあれば、いつの日か、日本は新しくなるの。弟や妹たちが飢えずにすむの。だから、みんなで鬼になって、この宝物を守ろう……ありがとう、みんな、わかってくれて……」
初夏のまぶしい日差しが、祠の上に木漏れ日となって降り注いでいた。

○(5)<史実と虚構の間から立ち上がってくる「人間の物語」>(悌・かけはし・久美子、ノンフィクション作家)

「出てこい、ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし……」

戦時中に流行った『比島決戦の歌』(西条八十作詞・古関裕而作曲)の一節である。本作のなかで、この歌を少女たちが歌う。敗戦後の復興資金とするための九百億円の財宝を、東京郊外の火工廠敷地内の洞窟に隠匿するために動員された、十三歳の女学生たちである。

戦後生まれの私がこの歌を知っているのは、戦争を経験した人たちの手記などで何度も目にしたからだ。ただし知っているのは歌詞だけで、実際に歌われるのを耳にしたのは初めてである。歌詞から想像していたのとはずいぶん違う、まるで唱歌のようなメロディ。こんなに明るい曲だったのかと意外に思った。
けれども映画を見終わって、思い直した。本当は明るい歌なんかではないのだ。戦意高揚のために、軍部が著名な詩人と作曲家に命じて作らせた歌である。明るいはずも美しいはずもない。それがあんなにもさわやかに響いたのは、まだ幼さの残る少女たちの屈託のない声と、澄んだまなざしのせいだ。

背筋を伸ばして行進しながら、彼女たちはこの歌を歌った。過酷な戦争の日々のなかにあっても、誰にも奪うことのできない輝きを全身から発散させながら。その後の彼女たちがたどる運命を知った後であのシーンを思い出すと、あらためて胸が熱くなる。

陸軍から財宝隠匿の密命を受け、少女たちの作業を指揮した三人の軍人のうちの一人、小泉主計中尉は、大蔵省の官僚となった戦後、占領軍総司令官であるマッカーサーの前で、この歌を歌ってみせる。そして「こんな醜い歌を、あいつらは姿勢を正して歌っていたんだ。まるで国家でも歌うみたいに」と言って泣く。

勝利を信じ、国の未来を信じ、文字通り命がけで働いた少女たち。その純真を利用し、踏みにじった巨大な力。しかし、どんなに踏みにじられようとも、けっして潰(つい)えないものがある。衝撃的な終わり方をするこの映画が、力強くすがすがしい印象を残すのは、そのことが、胸にひびくようにして伝わってくるからだ。

私は原作者の浅田次郎氏のファンである。昨年刊行された『終らざる夏』もそうだが、氏が戦争を扱った作品のなかで描いているのは、市井の人々の人生が、歴史と激しく交錯するその瞬間である。歴史に飲み込まれるのではなく、過酷な運命を毅然として生きる姿は、たとえ悲劇的であっても、私たちに力を与えてくれる。

物語の骨格は大きい。進駐軍が接収した日本軍の隠匿資金といえば、現在に至るまで何度も取り沙汰され、詐欺事件なども起こっている、いわゆる「M資金」を思い起こす人もいるだろう。また、山下奉文将軍がフィリピンから日本に大量の金塊を運ぼうとしていたという話が、戦後、まことしやかにささやかれたこともある。

ありえたかもしれない伝説を巧みに取り組み、大胆な構想によって壮大な歴史ドラマを描いて見せたのが本作だが、そこは浅田作品、史実と虚構の間から、まごうことなき“人間の物語”が立ち上がってくる。ほんとうのドラマは、登場人物たちのささやかな日常のなかにひそんでいるのである。

たとえば、終戦の詔勅がラジオから流れているそのとき、自分たち女学生が使った軍の風呂を懸命に掃除する級長の久枝。このシーンは、大きな歴史の流れのさなかにあって、目の前の日常を誠実に生ききろうとする“普通の日本人”の姿を象徴しているようで心に残る。そして、自分たちが使った風呂はきれいにして返すのが当然だという、その健全な心根が、彼女の思いがけない運命の変転につながっていくのである。

それにしても、非常時の少年少女はどうしてこんなにもけなげなのだろう。この春の震災のときもそうだった。正視するのがつらくなるほど、かれらは美しい。
日本の再生を信じ、懸命に生きた少女たち。歴史に名を残すことなく生きて死んだあの頃の日本人に、現代を生きる私たちは多くのものを負っていることに、あらためて気づかされる。

【悌久美子】ノンフィクション作家。06年「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(新潮社)で第37回大宅壮―ノンフィクション賞を受賞。同作は米・英・仏・イタリアなど世界8ヵ国で翻訳・出版されている。角川書店より09年「昭和二十年夏、僕は兵士だった」、10年「昭和二十年夏、女たちの戦争」を刊行。

○(6)『日輪の遺産』(佐藤忠男・日本映画大学学長・映画評論家)

どの国の軍隊でも命令の拒否は容易には許されないきまりになっている。旧日本軍はその傾向が極端で、常識で考えておかしい命令でも、それに疑問を言ったりすることにはたいへんな勇気を必要とした。捕虜虐待のような犯罪や、玉砕戦などいたずらに犠牲を多くした戦い方などの多くは司令部や現地部隊の上官などの無茶な命令を、下部の部隊や兵士たちが忠実に実行したところから生じている。

 『日輪の遺産』は、一見、宝さがしの冒険物語かミステリーのような体裁を持っている。しかしその核心のところには、良心のある者ならとうてい受け容れられないような命令を軍人は拒否できるかどうか、という、あまり考えられなかった問題が見えてくる。

太平洋戦争の開戦間もなくフィリピンを占領した日本人が、親子二代にわたってフィリピンの支配者だったマッカーサーの巨大な資産を日本に運んでおいて、これを終戦のとき、日本の再建の日のために、どこかに隠してしまった、というところから話は始まる。稀代のストーリー・テラーである浅田次郎の原作であるから、単純に宝さがしのエンターテインメント作品として見ても冒険に次ぐ冒険の映画として十分に成功している。しかし見ているうちに、画面の奥から吹きあげてくるただならぬ気迫に打たれて、これはそれだけの作品ではなさそうだという気持ちになってくる。そしてさいごには冗談まじりのような語り口の中に、言い知れぬ熱い感慨がこめられていることを見る者は理解するだろう。

マッカーサーの財宝を、東京から近いどこかの山中に隠すことを旧帝国陸軍の最高首脳部の将軍たちから命令されたのは、参謀将校である真柴(堺雅人)と、本当は大蔵省のエリート官僚だがこの仕事のために急に召集された小泉中尉(福士誠治)、そして百戦錬磨の望月曹長(中村獅童)である。この三人の軍人の命令を受けて運搬の作業をするのは当時の学徒動員で現場に近いところで働いていた二十人の女学生たちと、自由主義者的な言動で警察に拘置されたばかりの女学校の野口先生(ユースケ・サンタマリア)である。彼らの間の指揮命令関係のあり方がドラマの核心を形づくる。

真柴少佐は職業軍人として上官の命令には絶対服従で行動する。しかし、つぎつぎにとどく命令の中には人間として到底受け容れられない部分もあることに気付く。それでも命令は命令だと実行しようとするが、小泉中尉に忠告されて実行は止める。そして自分のその判断について報告しなければと思ったのであろう、戦争が終ってもなお、将軍たちに会いに行く。帝国軍人の多くにこういう人間的誠実さの気風があったら、軍国主義ももう少し格調の高いものになり得ていたかもしれない。

小泉中尉は当時の日本人としては例外的に世界の状勢から戦後日本の経済まで見通せる学識を持っているので、将軍たちの命令の理不尽なところは拒否する。こんな官僚が実際にいたかどうかは分からないが、あり得た人間像である。この理想的官僚が戦後の支配者マッカーサーとどう渡り合うか。

望月曹長は長い軍隊生活を命令に忠実にやってきた男だろう。その間、理不尽な命令に苦しんだこともしばしばあったのではないか。そしていま、そんな命令は無視しようという覚悟を決める機会に出会う。根が苦労人である彼はその後どう生きるか。

女学校の野口先生は戦争批判と疑われる言行で警察から痛めつけられた。しかし真向からの反戦活動をしたわけではなく、命令に従って生徒たちの戦争協力の作業を監督している。こういう自由主義者なら当時も確かにいた。しかし終戦のときに生じた悲しい事件に対する彼の責任のとりかたは崇高なまでに立派だ。こういうインテリがもっといたら戦後民主主義は軽んじられはしなかっただろう。

そして純真無垢な二十人の女学生たち。疑うことを知らないために彼女たちは悲劇のヒロインになる。しかし作者たちと俳優たちはそれを単純に憐れだとはしない。彼女たちこそが戦後日本の守護神であったという、意表をつく逆説的な解釈が用意されている。

命令と服従という軍国主義の根幹の部分にこの物語は巧みにゆさぶりをかける。そこから現実にはなかったけれども可能性としてはあり得たさまざまな例が示される。フィクションというのはこういう可能性の立場から現実を見直すものなのだ。佐々部清監督と俳優たち、スタッフたちは、じつに面白く、こうもあり得たかもしれない敗戦時の日本人の群像を描き出している。敗戦のとき十四歳で、少年兵として軍隊の中にいた私は、フィクションで現実を考え直させることの上手さにことごとく示唆を受け、私自身を作中人物の誰彼に置き直して考えると興趣のつきないものがあった。

○(7)<幽窓無暦日>
参謀総長・梅津美治郎が訪ねてきた真柴に残した言葉。「監獄の中に月日は流れない」との意味だが、真柴は「使命という監獄の孤独にただ耐えよ」と自分に向けた言葉だと解釈する。梅津は戦後、東京裁判に終身刑を言い渡されるが、1949年(昭和24)に直腸がんで病死。病床には「幽窓無暦日」と書かれた紙片だけが残されていたという。<メルボルンから東京までは長い道のりだったな。だが、これでペイオフだ。>
太平洋戦争の端緒、南西太平洋方面連合軍司令官としてフィリピンに駐屯していたマッカーサーは破竹の勢いの日本軍に押され、「I shall return」の言葉を残して、一時オーストラリアへと逃れた。その後、レイテ沖海戦などにより、再びフィリピンを奪還したが、オストラリアへの敵前逃亡はマッカーサーの自尊心を傷つけた。
1945年8月30日に専用機「バターン」号で厚木飛行場に到着したマッカーサーは、待ち構えていた記者団への第一声として、「借りは返した」と屈辱を晴らした思いを口にした。<治安維持法>
第一次世界大戦後に高揚した社会運動、とりわけ日本共産党を中心とする革命運動の鎮圧を標榜して1925年(大正14)に規定された法律。その後1928年(昭和3)の改正を経て、共産党員のみならず、その支持者さらには労働組合・農民組合の活動、プロレタリア文化運動の参加者にまで適用されるようになった。思想弾圧の手段として濫用された。

<御前会議>
大日本帝国憲法下の日本において、天皇陛下も出席して重要な国策を決めた会議のこと。

<ポツダム宣言>
1945年(昭和20)7月26日、ポツダムで、米・英・中(のちにソ連も参加)が発した対日共同宣言。日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したもの。軍国主義の除去・領土の限定・武装解除・戦争犯罪人の処罰・日本の民主化・連合国による占領などを規定。日本政府ははじめ拒否したが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て8月14日これを受諾した。

<国体護持>
天皇制の核心である天皇の地位・権威・機能を保持すること。

<軍票>
「軍用手票」の略。主として戦地・占領地で、軍が通貨に代えて発行する手形。軍用手形。

<恩賜の軍刀>
陸軍士官学校、陸軍大学などにおいて、成績優秀な卒業生に天皇陛下より授与される軍刀のこと。授与された者はエリート中のエリートとして「恩賜の軍刀組」と呼ばれた。

<山下将軍>
山下奉文(1885-1946)大正・昭和期の陸軍軍人(陸軍大将)。陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業(恩賜の軍刀組)。太平洋戦争開戦直後にマレー作戦(マレー及びシンガポールへの進攻作戦を成功させ「マレーの虎」の異名を得る。1944年(昭和19)、日本が占領するフィリピンの防衛戦を指揮、マッカーサー指揮下の連合軍の進攻に苦戦する中、終戦を迎える。戦後マニラで軍事裁判にかけられ死刑となる。終戦時に作戦行動のための資金を密かに埋めたという伝説があり、「山下財宝」と呼ばれている。

<All the world’s a stage, And all the men and women merely players.>
(陸軍省大臣室で田中静壱東部軍司令官が発する言葉)

「この世はすべて舞台、男も女も役者にすぎない」
――ウィリアム・シャイクスピア『お気に召すまま』第2幕第7場

田中静壱はオックスフォード大学留学や駐米武官の経験のある知米派軍人として知られる。その為、原作にも「流暢な英語をしゃべり」と田中のキャラクターが紹介されている。劇中では、物語の行く末を暗示する言葉として、シャイクスピア戯曲の中の名セリフを発する設定とし、その言葉が時空を超えて最後にイガラシの口からも語られることとなる。

<真柴、小泉、望月>
三人の軍人の立場と階級
陸軍の部隊は、平時では、師団が最大の戦略単位で、1個師団につき4個の歩兵連隊が組み込まれ、1万人前後の兵力を有した。また、1935年に内地を東部・中部・西部に分け、それぞれに防衛司令部を新設。階級は、将校(将官・佐官・尉官)、下士官(曹長、軍曹、伍長)、兵(兵長、上等兵、一等兵、二等兵)の順になっていた。

<真柴少佐 近衛第一師団情報参謀>
近衛師団は天皇と皇居を警衛する最精鋭の師団であり、所属する軍人もエリート中のエリートである。中でも第一師団は、本土決戦を前に作戦行動の為に東京を離れた第二、三師団とは異なり、最後まで東京駐屯の近衛兵の役割を与えられた。参謀とは作戦や用兵を担当する高級将校のことである。

<小泉主計中尉 東部軍経理部>
東部軍とは東日本を管轄とする軍組織で、司令部が管轄の軍隊を指揮・統率した。主計とは会計事務を扱う部署であり、大蔵官僚だった小泉はその経歴を見込まれて動員・配属された。

<望月曹長 座間501連隊>
本土決戦に備えて編成された連隊だが、名称は架空である。望月は中国戦線で名誉の負傷を負い、内地に転進後、配属となった。曹長は、特別な場合を除き、徴兵された一般兵が昇進できる最高位である。つまり、叩き上げの歴戦の兵(つわもの)である。

<出てこい、ミニッツ、マッカーサー>
久枝をはじめ、森脇女学校の生徒たちが歌う軍歌「比島決戦の歌」
マッカーサーは陸軍元帥ダグラス・マッカーサー、ニミッツは海軍元帥チェスター・ニミッツのこと。
当時は「いざ来い」の歌詞の部分を「出てこい」と変えて歌うことが一般的で、原作でもその歌詞を使用しているため、本編中でもそれに準じている。

比島決戦(ひとうけっせん)の歌  作詞:西条八十 作曲:古関祐而

決戦かがやく 亜細亜の曙  命惜しまぬ 若櫻
いま咲き競う フィリッピン
いざ来いニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄へ 逆落とし

陸には猛虎の 山下将軍 海に鉄血 大川内
みよ頼もしの 必殺陣
いざ来いニミッツ マッカーサー  出て来りゃ地獄へ 逆落とし

正義の雷(いかずち) 世界を撼(ふる)わせ  特攻隊の 往くところ
われら一億 共に往く
いざ来いニミッツ マッカーサー  出て来りゃ地獄へ 逆落とし

御陵威(みいつに)栄ゆる 兄弟(はらから)十億  興亡峡(わか)つ この一戦
ああ血煙の フィリッピン
いざ来いミニッツ マッカーサー  出て来りゃ地獄へ 逆落とし

JASRAC 出1109167-101

<七生報國(しちしょうほうこく)>
森脇女学校の少女たちが頭にまく、スーちゃんが作ったはちまきに書かれた言葉。この世に幾度も生まれ変わり、国の恩に報いること。

<サマーセット・モーム>
ウィリアム・サマーセット・モーム(1874-1965)は、イギリスの小説家、劇作家。主な作品に「月と六ペンス」「人間の絆」など。

<ヘッセ>
ノルマン・ヘッセ(1877-1962)は、ドイツを代表する作家。1946年にノーベル文学賞を受賞。平和主義を唱えており、ヒトラー政権下ではスイスで執筆活動を行っていた。主な作品に「車輪の下」「デミアン」「ガラス玉演戯」など。

<玉音放送>
天皇の肉声(玉音)を放送すること。1945年(昭和20)8月15日正午に放送された、昭和天皇による終戦の詔書の音読放送を指す。

<GHQ司令部>
ポツダム宣言の執行のために設置された日本の占領政策の実施機関、連合国軍最高司令官総司令部のこと。GHQは、General Headquartersの略。

<原作のモデルとなった多摩火薬製造所>
東京都多摩市と稲城市にまたがる米軍施設・多摩サービス補助施設は、かつて1938年(昭和13)旧陸軍造兵廠火工廠板橋製造所多摩分工場として開所、1946年(昭和21)に米軍が接収し、弾薬庫として長く使用されていたことから、「多摩弾薬庫」の名で呼ばれている。
1967年(昭和42)以降、米軍は弾薬の製造を中止し、昭島住宅地区ののゴルフ場を移設するなど、レクリエーション施設として整備。(プロダクションノート「浅田次郎が語る『日輪の遺産』の項に続く)

<文責:藤森弘司>

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