2011年5月31日 第105回「今月の映画」
監督:ダーレン・アロノフスキー 主演:ナタリー・ポートマン ヴァンサン・カッセル ミラ・クニス
●(1)今回の映画「ブラックスワン」は、アカデミー賞主演女優賞を受賞。この映画は強烈でした。「白鳥の湖」などと優雅な名前がありますが、主役を取るために、ダンサーがどれほど無理をするか、その極限を見せてくれます。
最近の体操(オリンピック種目)を見ていると、もうすでにやり過ぎだと感じるほど、技術は極限まできているように思えます。「床」にしても「鉄棒」にしても「鞍馬」・・・・・。以前、ウルトラCとかウルトラDとか言っていましたが、今は、どこまで行っているのでしょうか。 最近の体操は、ほとんどサーカスみたいに感じます。私(藤森)の目から見ますと、もうやり過ぎというのが率直な感想です。走るのも、投げるのも、舞うのも・・・・・人間は限界を求めてきたのかもしれませんが、もうほとんど極限に来ているのではないでしょうか。私から見ますと、凄いとか、素晴らしいと思うよりも、もういい加減やり過ぎで、体への負担の大きさの方が気になります。 横綱は、引退後、60歳の還暦を迎えると、赤いフンドシを締めて「土俵入り」をします。しかし、多くの元横綱は還暦を迎えられないようです。最近では、大鵬、初代の若乃花、名横綱の栃錦くらいではないでしょうか(他に1~2人がいるかもしれません)。大鵬は還暦を迎えられましたが、その前に「脳溢血」だったでしょうか、大病を患っています。横綱になるために、いかに体を酷使しているかを証明しています。 さて、今回の映画ですが、主役を取るためにもの凄い練習をするのですね。精神的なプレッシャーももの凄い。この映画に関しては、精神的プレッシャーの極限が幻覚にまで達してしまいます。こんなにまでして主役をやって、一体、人生にどんな意味があるのだろうかと老人(藤森)は考えてしまいます。事実、今まで主役をやっていた女性が引退しますが、若い女性に世の関心が移ることで、猛烈に荒れて、その挙げ句、道路に飛び出して車に轢かれてしまいます。 私たちは、どうしても目の前のことだけに気が向いてしまいますが、一生を考えたとき、一体何が、より重要な意味があり、何が、それほど大した意味も無いことなのかを見極めることがとても重要ですが、多くの場合、残念ながら、十分な年を取るまで分かりません。場合によっては、最後のときを迎えるまで分からないかもしれませんし、わからないまま一生を終わっているかも知れません。 若いときに、バレーの主役をやれるとはなんと華々しく、素晴らしいことでしょう。横綱になったり、ゴルフで優勝したりすることは、お金も体力も名声も、全ては、自分の掌の中にあり、幸福の絶頂です。俳優や歌手の一流になることは、夢のような人生です。オリンピックで金メダルを取れるのも本当に凄い。 例えば、理想的な家族と言われ、人気絶頂だった「若・貴兄弟の一家」は、今やどうでしょうか。お父さんの故・藤島親方は、部屋が絶頂のころには次のように言いました。「若い子を見れば、将来性がわかります」と。 長嶋一家もそうですね。亡くなった奥様が何歳だったかの誕生会は、天才・長嶋茂雄氏だけを除外して、他の家族が全員でハワイ旅行をしたようです。さらには、長男の一茂氏は、長嶋家のトロフィーや種々様々な貴重品を黙ってトラック一杯にして、新潟の資産家に何億円かで売ってしまったと週刊誌に書かれていました。 天下の美空ひばりさんも、難病だったか大病を患い、そして、石原裕次郎さんも大病で亡くなっています。人気歌手も自殺したり、若くして亡くなっている人が少なくありません。最近では、元キャンディーズの田中好子さんが癌で亡くなっています。 どんな世界でも一流、あるいは超一流になるには、過酷なほど精神的・肉体的に酷使しなければなりません。それを晩年まで持ち続けることは、ほとんど不可能だと言えるのではないでしょうか。菅総理大臣のように、還暦を過ぎて絶頂を迎えたら、それは断崖絶壁の一歩手前の絶頂ということもあります。 もしこのようなものだとするならば、人生、特別褒められる事もなかったし、良い思いをしたこともなく、優雅な生活をしたこともなく、実績も何も無いけれど、ひとまず家族は全員オーケーであり、(空)元気ではあるが人様に迷惑をかけずに、とにもかくにも生きている・・・・・こういう私(藤森)のような人間が合格点をもらえるのではないか・・・・・人生の一生を考えたならば、「無事是名馬」だと自画自賛したくなるような映画「ブラックスワン」でした。 バレーで、つま先で立つということは、足先にもの凄い負担がかかるのでしょう。主役の女性がバレーシューズを脱いだとき、足の指と指がくっついていて、彼女が手で指を離していました。 |
○(2)(パンフレットより)
<STORY> ニューヨーク・シティ・バレエ団の新シーズンのオープニングを飾る演目が「白鳥の湖」に決定した。意欲を燃やす芸術監督ルロワは、長年バレエ団の象徴的な存在だった名プリマ・バレリーナ、ベスが引退を決めたため、若く才能のあるダンサーたちの中から数名を選抜し、キャスティング・オーディションを実施する。 ルロワの前で精一杯の踊りを披露しようとするニナだったが、可憐で繊細な白鳥と自由奔放にして邪悪な黒鳥を演じるこの役は、極めて難易度の高い表現力を求められる。オーディション会場に遅れてやってきた新人ダンサー、リリーにも気を取られ動揺したニナは、ひどく意気消沈して帰宅する。白鳥の女王役を諦めきれないニナは、翌日、憧れのプリマであるベスからこっそり盗んだルージュを唇に塗り、ルロワのオフィスを訪ねる。 ニナに対して手厳しい言葉を浴びせるルロワだったが、彼が白鳥の女王役に抜擢したのは意外にもニナだった。ニナは念願叶ったその喜びを、最大の支援者である母親と分かち合う。 ハードな練習に明け暮れることになったニナは、次々と降りかかる不可解な出来事に心をかき乱されていく。そして、大役を担うプレッシャー、黒鳥になりきれない焦燥感に追いつめられ、耐え難い孤独感と苦悩に囚われていく。 翌日、リハーサルの開始時間を寝過してしまったニナは、レッスン場で衝撃的な光景を目の当たりにする。プリマであるニナのために用意されたパートを、リリーが素知らぬ顔で踊っていたのだ。しかもリリーは、昨夜ニナの家には泊まっていないと言い放つ。もはや現実と妄想の境目がわからなくなったニナは、リリーが白鳥の女王の座を奪い取ろうとしているのではないかという疑念に駆られていく。 |
○(3)長野由紀(舞踏評論家)
「白鳥の湖」といえば、バレエの代名詞のような名作である。その魅力は、まずはチャイコフスキーの音楽抜きには語れない。19世紀後半に書かれた彼の三大バレエの最初の作品であり(他の二つは「眠れる森の美女」と「くるみ割り人形」)、それまでのバレエ専門の振付家の音楽をはるかに超えた交響楽的な深みによって、バレエ音楽を“演奏会での鑑賞に足る”芸術作品としたのである。 なかでも「主題」と呼ばれる曲は、誰もが一度は耳にしたことがあるはずである。憂いを秘めて印象的で、場面に応じて何度も変奏されながらドラマに大きな起伏を与えている。本編で音楽を担当したクリント・マンセルは、まさにこの「主題」を中心に「白鳥の湖」の原曲に多彩なアレンジを加えているが、それが巧みな心理表現となっているだけでなく、一種のチャイコフスキーへのオマージュのようにも感じられることである。 その「白鳥の湖」の音楽が初めて舞台にかかったのは、1877年のモスクワのボリショイ劇場だ。ただこのときはバレエ作品としては特段の成功を収めたとはされず、作品の詳細も伝わっていない。それが歴史的な名作へと羽ばたく転機となったのが、チャイコフスキーの死後、1895年の全幕上演の成功だった。振付は、チャイコフスキーの三大バレエの全てに関わり、他にも名作を多数遺した巨匠プティパと、助手のイワーノフ。ことに、白鳥の羽ばたきを模した腕の動きはそれまでなかったもので、バレリーナ=白鳥という今に至るイメージを決定づけることになっていく。 20世紀に入ると「白鳥の湖」は世界に広まり、時代や文化を反映した様々な解釈がなされてきた。たとえば、物語の結末。1895年には「王子が誤って黒鳥オディールに愛を誓ってしまったため、オデットは絶望して湖に身を投げ、王子も後を追い、二人は永遠の世界で結ばれる」というものだったが、ソ連では「王子が悪魔を倒し、恋人たちは現世で結ばれる」というハッピーエンドが支配的となる。 欧米では逆に「王子の裏切りにより、オデットの呪いは永遠に解けない」とする悲劇の結末がいくつも生まれ、並行して王子をドラマの中心に据えるアプローチもなされた。1980年代には彼をマザコンと看破し、同時にスキンヘッドの男女の白鳥が乱舞するエック版がバレエ界に衝撃を与えた。“王子の物語”としてだけでなく、踊りの中心である白鳥をも男性としたマシュー・ボーン版はそうした流れの到達点ともいえるものだろう。プティパ/イワーノフ版からちょうど一世紀後の1995年に初演され、世界的なヒットを飛ばしている。 物語の解釈が多彩を極めてきたのに対し、エックやボーン以外のオーソドックスな演出では、ヒロインや白鳥たちの群舞の振付に大きな改定はなされていない。(本編でのベンジャミン・ミルピエの振付は、抒情的なグラン・アダージョ等に原典版を残す一方、「四羽の小さな白鳥の踊り」や終幕には大胆に改定を施すなど、伝統に敬意を示しつつ、オリジナルな力量を示している) なにより一人のダンサーが清純で淑やかなオデットと妖艶で奔放なオディールの二役を演じる伝統は、時に踊り分けの妙味をはるかに超えて人間の強さと弱さ、恋愛心理の神秘を垣間見せる。「白鳥の湖」というバレエの永遠の魅力を実感するのは、やはりバレリーナの至芸に触れる瞬間なのである。 |
<文責:藤森弘司>
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