2011年3月31日 第103回「今月の映画」
監督:ム・フーパー 主演:コリン・ファース ジェフリー・ラッシュ ヘレナ・ボナム=カーター
●(1)今回は「英国王のスピーチ」です。
下記の(3)で精神科医の解説を紹介していますが、この映画は、私自身の専門分野にピッタリの映画ですので、思いっきり解説したいと思って、かなり入れ込んでいました。 いつか、菅総理大臣がいかに酷い人間性かを総まとめしたいと思っていますが、何から何まで、政権延命のために悪用はするし、パフォーマンスはやるし、右往左往はするし、怒鳴り散らしたりする最悪、最低の総理大臣だと思っています。 私(藤森)のように醜い人間でも、あれほどの大惨事を目の当たりにすれば、なんとかしたい、少しでも、被災地の人々がよくなるように頑張りたいという、人間が本来持っているとされる「仏心」が湧き上がってくるものですが、菅総理大臣は、大惨事さえも、私利私欲に悪用しようとするのですから、ただもう唖然とするばかりです。 さて、そういった理由により、今回の映画「英国王のスピーチ」、思い切り、深層心理を説明したいと思っていましたが、残念ながら、パンフレットの内容を紹介するにとどめます。 その中で、ひとつ紹介したいことがあります。 <<<ジョージ6世は、幼い頃からずっと、吃音というコンプレックスを抱えていた。英国王ジョージ5世の次男という華々しい生い立ちでありながら、人前に出ることを嫌う内気な性格となり、いつも自分に自信が持てなかった。厳格な父はそんな息子を許さず、様々な式典のスピーチを容赦なく命じる。仕方なくジョージは、妻のエリザベスに付き添われて、何人もの言語聴覚士を訪ねるが、一向に改善しない。>>> <<<吃音は心の問題だと考えるライオネルは、プライベートについての無遠慮な質問をぶつけ、ジョージを怒らせる。決定打は、大音量の音楽が流れるヘッドホンをつけて、シェイクスピアを朗読させるという奇妙な実験だった。ジョージは「君の治療は自分に合わない」と告げ、足早に立ち去った。>>> <<<1936年、ジョージ5世が亡くなり、長男のエドワード8世が即位する。父の死に心を乱されたジョージは、自宅でくつろぐライオネルに会いに行く。診察ではなく友人との会話として、父と兄への複雑な想いと辛かった幼少時代を、初めて他人に打ち明けるのだった。>>> 以上の中に、「吃音」の正体と解決方法が隠されています。 上記3つの<<< >>>内の情報があれば、対応方法、つまり、心理技法は何が中心かが決まります。要は、厳格な父親から与えられたプレッシャーをいかに取り除くかが問題で、今の福島の「原発」と同じで、それに対処するための「深層心理の理解」と「技法」の問題です。 |
○(2)<パンフレットより>
<STORY> 一人の弱い男がコンプレックスを乗り越えて、 ジョージ6世は、幼い頃からずっと、吃音というコンプレックスを抱えていた。英国王ジョージ5世の次男という華々しい生い立ちでありながら、人前に出ることを嫌う内気な性格となり、いつも自分に自信が持てなかった。厳格な父はそんな息子を許さず、様々な式典のスピーチを容赦なく命じる。仕方なくジョージは、妻のエリザベスに付き添われて、何人もの言語聴覚士を訪ねるが、一向に改善しない。 エリザベスは、スピーチ矯正の専門家であるライオネルのもとへ夫を連れていく。オーストラリア人であるこの男は、何もかも型破りだった。診察室では私たちは平等だと宣言し、ジョージを愛称のバーディで呼び、ヘビースモーカーの彼に喫煙を禁止する。さらに、吃音は心の問題だと考えるライオネルは、プライベートについての無遠慮な質問をぶつけ、ジョージを怒らせる。決定打は、大音量の音楽が流れるヘッドホンをつけて、シェイクスピアを朗読させるという奇妙な実験だった。ジョージは「君の治療は自分に合わない」と告げ、足早に立ち去った。 だが、クリスマス放送のスピーチがまたしても失敗に終わったジョージは、ライオネルに渡された朗読の録音レコードを聞いて驚く。音楽で聞こえなかった自分の声が、一度もつまることなく滑らかなのだ。再びライオネルを訪ねたジョージは、その日から、彼の指導のもとユニークなレッスンに励んだ。 1936年、ジョージ5世が亡くなり、長男のエドワード8世が即位する。父の死に心を乱されたジョージは、自宅でくつろぐライオネルに会いに行く。診察ではなく友人との会話として、父と兄への複雑な想いと辛かった幼少時代を、初めて他人に打ち明けるのだった。 しかし、事態は思わぬ方向へと流れていく。かねてからアメリカ人で離婚暦のあるウオリス・シンプソンと交際していたエドワードが、王位か恋かの選択を迫られる。王にだけはなりたくないジョージは、励まそうとするライオネルと激しい言い争いになり、ケンカ別れをしてしまう。やがてエドワードは恋を選び、ジョージは遂に望まぬ座に就くが、大切な王位継承評議会のスピーチで大失敗をしてしまう。その夜、「私は王ではない」と泣き崩れるジョージを、優しく慰めるエリザベス。二人には分かっていた。助けてくれるのは、あの男しかいない。ジョージとライオネルは友情を取り戻し、戴冠式のスピーチは成功に終わる。 だが、本当の王になるための真の試練は、これからだった。ヒトラーの率いるナチスドイツとの開戦直前、不安に揺れる国民は王の言葉を待ち望んでいた。王は国民の心をひとつにするために、世紀のスピーチに挑むのだが・・・・・。 |
○(3)<COLUMN>
<英国王が抱える吃音コンプレックスは、僕たちの心の声でもある>(精神科医・名越康文) 「英国王のスピーチ」を観て、最後まで1秒たりとも退屈することのない、すばらしい作品だと感じ入りました。別に分かりやすいスペクタクルがあるわけではない。ある種、小さな物語なんですが、観終わった後には自分の中の価値観が静かに更新されている感覚がありました。自分は自分のままで、でも世界のすべてがどこか変わって見える・・・・・そんな感動を与えてくれる稀な傑作だと思いました。 この作品の最大の肝は、英国王という特権的な社会的立場を用意されたジョージ6世を、一人の悩める等身大の人間として描いていることです。彼は吃音コンプレックスを抱えていて、人前でのスピーチを満足にこなすことができません。そのことで、王の資格を満たせないという巨大な人生の壁にぶつかっています。これは僕たちにとっても、全く他人事ではないわけです。どうしても克服せねば先に進めない人生の課題に直面した時、生い立ちの中で心に刻まれた違和感や不全感に原因があると考えて、そこから解放を試みることは、人間が生きていくうえでとても重要な作業なんです。 映画で描かれるジョージ6世は、コンプレックスの檻に閉じ込められることで、少なくとも二つの可能性を閉ざしています。まずは自分の能力に、自分で限界を設けていること。本当は理想的な王になれる素質があるのに、それに気付けないままでいる。もうひとつは、人とのつながりですね。他者との間に心の橋が架かる、つまり友情が紡がれる可能性を、コミュニケーションの焦燥から自ら拒絶してしまう。この壁を突破するには、彼の存在を深いレベルで認めてくれる理解者が必要になってきます。 そこで登場するのが、治療者のライオネルです。彼は正式な免許すら持っていない、もぐりの施療家なんですけど、発音矯正において独自の天才性を発揮します。対比的に描かれるのが、最初に登場する権威的な専門医ですよね。彼は最新の治療法という名目で、ジョージの口にビー玉を咥えさせて喋らせようとします。これは今の僕たちからすれば馬鹿げたやり方に見えるかもしれないんですが、あえて負荷を掛けることで克服する力を高めるトレーニング法は、当時からすれば立派な科学的治療法だったのでしょう。でもジョージは、すぐに怒って医者を追い出してしまいます。 一方、ライオネルは全然違うアプローチを取るんですね。彼の卓越性は、「言葉が出てこない」という現象の裏側に、大きな感情の問題が巣くっているのを最初から見抜いていたこと。身体に起こっている異変の原因は心だ・・・・・ということを単なる情報としてではなく身に染みて、一つの“真実”として知っていた。だから強固な信念を持って治療に当たることができたのでしょう。 その治療の過程で劇的なシーンが出てきます。ライオネルはジョージにヘッドホンをつけさせ、大音量でレコードを流しながらシェイクスピアを朗読させるんです。そのおかげで彼は自分の声を聞かなくて済む。つまり発語をマスキングしてしまう。僕のような心理分析の立場からすると、このレッスンの一番大きな効果は「失敗を恐れなくなる」ことです。おそらくジョージは1語を発した瞬間から、言葉がつっかえる恐怖で、もう極度の緊張に襲われてしまうんですね。だから自分の失敗を感知してしまう状況を取り除いてやると、途端にリラックスして滑らかに言葉が出てくるようになるわけです。 この失敗に対する恐れは何を意味するかというと、一義的には「プライドの高さ」ですね。ジョージは過剰な自尊心の鎧で自分をがんじがらめにしている。その向こう側にあるのはもちろん劣等感ですが、さらにその向こう側にあるのは、いわば「怒り」でしょう。心理的には不安や恐れも怒りの一種です。それは不甲斐無い自分に対する怒りかもしれないし、あるいはライオネルにそっと告白した話から分かるように、少年期に父親から愛されなかった寂しさ、利き手や脚の矯正などを受けた抑圧への怒りかもしれない。そういった様々な負の感情が、彼の喉を潰しているといえるわけです。 だからライオネルは、ジョージに悪い言葉をいっぱい吐き出させるんですね。少しユーモラスにもみえるシーンですが、ジョージが「クソッ!クソッ!」と下品な俗語を長年のストレスを解消するように叫ぶ。でも彼はそのことで、自分の中にたくさん蓄積された負の感情に少しずつ気付けるんです。しかもライオネルがそれを全然否定しないことで、ジョージは親密ささえ覚える。そして独りでは渡れなかった、王としての大きな責任という橋を、ライオネルの助けを借りることで遂に渡り始めるのです。 ところが、この映画が優れて奥深いのは、ライオネルについての心理分析も組み込んでいることです。彼はずっとシェイクスピア役者になりたいという夢を持っていて、「リチャード3世」のオーデションを受けるんだけど、「あなたの言葉からは王の叫びが聞こえてこない」なんて酷評されて落とされてしまう。だからジョージを治療する過程で、自分がやれない“王”という役を立派にやり遂げてほしいと、彼に自己投影してしまうんです。でもジョージは非常に繊細な男ですから、自分がライオネルの自己実現の道具にされていることを敏感に察知して、激怒して去ってしまう。もちろん本当は彼のことを必要としているんだけど、素直になれません。ライオネルも、自分の余計な欲望のせいでジョージを傷つけてしまったことに、ひどく意気消沈してしまう。 しかし、やがてジョージが腰を上げるんです。「王の謝罪を待つ者は長く待たねばならない」なんて言いながら、ライオネルの診療所を自ら訪ねる。ここは僕の一番好きなシーンですね。大切な友情をつなぎ止めるために、ジョージは自分の見栄を、あんなに高かったプライドを捨てた。一人の人間として勇気を奮った。これぞ僕たち庶民でもできる英雄的行動でしょう。ある種、この映画の真のクライマックスと言えるかもしれません。 というのも、僕はこのシーンを観た後、人間は「他人の言葉」よりも「自分の言葉」に傷ついていることを改めて確信したんです。おそらくジョージもライオネルも、お互い離れている間、何度も心の中で自分を責めたはずです。その痛みに耐えられなくなって、ジョージは行動に出たのでしょう。外部から加えられる他人の言葉は、あくまできっかけに過ぎない。やはり自分で内的に反芻する言葉こそが、その人の運命を大きく決定するように思うんです。 そう考えると、この物語の中での吃音は「心の声」の象徴とも読めてくるんです。僕たちは誰もが心の中で絶えず不器用に葛藤している・・・・・つまり潜在的な吃音を抱えていると言えるのかもしれない。だから英国王の葛藤が身近なリアリティとして響いてくるのです。そして、その壁はいつでも乗り越えられる可能性があるんだ、と示すことで、特別な立場の人間の物語でありながら、すべての人間に勇気を与えるキャパシティを持った普遍的な作品になったのだと思います。 <なこし・やすふみ・・・・・専門は思春期精神医学、精神療法。近畿大学医学部卒業。大阪府立中宮病院(現:大阪府立精神医療センター)にて、精神科救急病棟の設立、責任者を経て、1999年に同病院を退職。引き続き臨床に携わる一方で、テレビ・ラジオでコメンテーター、映画評論、漫画分析など様々な分野で活躍中。2009年より京都精華大学人文科学部特任教授に就任。主な著書に「14歳の子を持つ親たちへ」(新潮社・内田樹氏との共著)など。近著では、「心がフッと軽くなる【瞬間の心理学】」(角川SSC新書)が8万部突破> |
●(4)平成23年3月4日、日刊ゲンダイ「話題の映画・見るツボ」
<英国王のスピーチ> 今年のアカデミー賞で作品賞、主演男優賞など4部門受賞の栄誉に輝いた作品である。受賞の理由は苦難を乗り越える英国王の姿が、大きな共感を呼んだからだろう。 彼の矯正の仕方がユニークである。音楽を聴きながらしゃべらせると、王子の言葉がすらすらと出てくる。卑猥な言葉を連発させると、滑らかな口調に変わる。 後半になると、国王になったばかりのアルバート王子の兄が、恋人の問題から国王を辞める事態が到来する。歴史の皮肉か、アルバートが国王になる日が来てしまったのである。 国民を前に、国王はどのように演説をするのか。ここから先は見ていただくしかない。ただひとつだけ注釈しておくなら、言語聴覚士が、英国の植民地であった豪州の出身者だということを見逃してはならない。 これは、作品の肝にあたる。つまり、差別を受けてきたであろう無名の男が、結果的に英国の歴史の節目で重要な役を担うのである。このちょっと皮肉めいた視点があるから、本作はただの国王の物語で終わらなかった。 |
<文責:藤森弘司>
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