2010年9月30日 第97回「今月の言葉」
監督:呉美保 主演:宮崎あおい 大竹しのぶ 桐谷健太 国村隼
●(1)今回の、この映画「オカンの嫁入り」を取り上げた理由は、大竹しのぶの再婚相手の桐谷健太演ずる研二の一言からです。彼はオトンとオカンを知らなくて、、スナックを経営していたおばあちゃんに育てられた。スナックの料理人をしていた彼が、ある日、いつまでも会えると思っていたおばあちゃんが、突然、倒れてしまった。 いつでも、また、会えると思っていた人と、ある日、突然、会えなくなるということは、理屈の上では誰でもわかっていても、実感として分かっている人は少ないのではないでしょうか。 もし、これが、実感として分かっていれば、私たちは、日常を、もっともっと幸せに暮らせるものと思います。わかっているようでわかっていないことがこれです。いつでも会えると思っていた人と、ある日、突然、会えなくなる・・・・・仏教で言う「無常」をさらに実感し、実生活に生かしていきたいと、私(藤森)は思いました。 そうであるならば、本来、すべては「有り難い存在」であるはずですが、好きと嫌いがあって、嫌いなものとは、なかなかうまく付き合えない悲しさが、私たちにはあります。現に、この映画でもそうです。宮崎あおい演じる主人公は、若い研二(桐谷健太)と突然、再婚すると言い出した母親(大竹しのぶ)を許せず、険悪な雰囲気、絶好状態になります。 しかし、その経緯を知らない娘は、徹底的にそれを嫌いますが、母親が危篤状態になりますと、全てを許して、オーケーします。いつまでも会えると思っていた人が、突然、会えなくなることを知ると、何でも「許したくなる」。 今、何かに苦しんでいる方、その苦しさは、いつまでも会えると思っている人が、ある日、突然、会えなくなるかもしれないと思っても、それよりも苦しいことでしょうか?それよりも辛いことでしょうか? |
○(2)<パンフレットより>
<STORY> 「月ちゃーん、おーみーやーげー。おーい、娘よぉ、起っきれーい」 このこと自体は、そう珍しいことではない。しかし今日はいつもと違う。陽子の言う「おみやげ」が、見知らぬ男だったのだ。 年齢、なんと30歳。そしてさらに驚いたことに、二人は3年も前から付き合っていたというのだ。母はなぜ、今まで話してくれなかったのか?なぜ、急にこんな勝手なことをするのか?全く理解できない月子。これには家族同然の付き合いをしてきた大家のサクも、陽子の勤め先・村上医院の村上先生も驚くばかり。と思いきや、サクも村上先生も、あっけなく研二を受け入れてしまう。 月子は生まれる前に、父・薫と死に別れていた。以降ずっと陽子と二人きりで仲良く暮らしてきた。陽子はずっと「薫さんは最初で最後の人やねん」と言っていたはずなのに・・・・・。 「これタラの芽?おいしい!」元板前だという研二の揚げた天ぷらを目の前でサクサクと音を立てて食べる陽子を、うっとりと愛おしく見つめる研二。 ある日、久々に陽子と二人きりになる月子。いったい研二の何がいいのか、聞いてみる。 「・・・・・白無垢着ていい?」 母親の白無垢姿をどうにも想像しがたい月子は、村上先生に相談する。が、真剣に悩む月子に、村上先生はサラッと、「まぁでも、めでたいことやねんからよろしいがな。母親の門出やねんから祝たりいな」と言い放つ。腑に落ちない月子。そもそも母は、村上先生と一緒になると思っていたのに。 村上先生こそ、どうしてこんなに余裕でいられるのか。そのことを問いただす月子に村上は、これまで誰にも話すことのなかった、陽子とのある秘密を告白し、月子を驚愕させる。そして自らの赤裸々な過去を語った上で月子に「素直に喜んだりいな」とニッコリと余裕の笑み。 月子の了承に、子供のように無邪気に喜ぶ陽子だが、その喜びは、またもあらぬ方向に・・・・・。 原因は、会社の同僚に受けた執拗なストーカー被害。電車で待ち伏せされ、駅の駐輪場での暴行沙汰もあった。そして何より、そのことを信頼していた会社の上司に揉み消された。それでも月子は「大したことじゃない、私は大丈夫」と自分自身に言い聞かせ、会社に向かった。だけど、電車に乗れなかった。足がすくみ、身体が震え、胸が苦しく、呼吸ができず、ホームに崩れ落ちてしまった。 この事実を受け入れられないままに月子は、1年という月日を、あれきり電車に乗ることもできず、この町の中だけで過ごしてきた。 朝、陽子と研二は、二人で衣裳合わせに行こうとしていた。が、出かける間際、陽子が突然、倒れる。緊急搬送され、診断の結果は、軽い貧血。ホッとする月子だが、次の瞬間、医師から告げられたのは、陽子が余命一年の癌に侵されているということだった・・・・・。 私が今、お母さんのためにできること。月子は、陽子を白無垢の衣裳合わせに連れて行くことを決意する。自転車を必死に漕ぐ月子に、しっかりとつかまる病体の陽子。やがて自転車は駅に到着し、月子は苦しい胸の高鳴りをこらえ、陽子と共に、電車に飛び乗る。 由緒ある神社の、静かな衣裳部屋。白無垢に身を包んだ母が、三つ指を突き、月子の前に座る。 |
○(3)<家族がひとつになる時>(川本三郎・評論家)
家族とは自然にそこにあるものではなく、それぞれが作ってゆくものなのだろう。いわば家族になってゆく。 闖入者ものというジャンルがある。平和な家族にある日、ストレンジャー(異人)が入り込み、家族のあいだに混乱を巻き起こす。ジャン・ルノワールの「素晴らしき放浪者」(32年)やパゾリーニの「テオレマ」(68年)などの傑作がある。 はじめ、この闖入者ものかなと思って見ていたが、この若者はいたって気がいい。礼儀正しいし、娘の「月ちゃん」にも気を使う。いつも「ごめん」「すみません」と明るく頭を下げる。何よりも料理がうまい。それもその筈、板前だったという。 母親と一緒に酔っ払って夜中に家に来た「研ちゃん」は行儀がいい。「月ちゃん」に気がねして、冬の寒いなか庭で寝たりもする。母親と「月ちゃん」が喧嘩した時、「月ちゃん」の部屋に行き、なんとかその心を静めようとする(あとでこの時、彼はとても大事なことを言おうとしていたことが分かる)。「研ちゃん」はたった一人の肉親である亡くなった祖母のことをいまも大事に思っている。祖母のことを「ばあちゃん」と呼んでいるのが可愛いらしい。そういえば「月ちゃん」「研ちゃん」「ばあちゃん」と「ちゃん」が映画全体をあたたかくしている。 母親は「月ちゃん」に、「研ちゃん」のいいところは、身内がなく苦労しているのにいつもヘラヘラしていることだと言う。この「ヘラヘラした」一見、軽そうに見える気のいい若者が母娘の関係を良くしてゆく。一種「まれびと」の役割を果たしている。 大阪が舞台だが、大阪ものにありがちなコテコテ感がない。「研ちゃん」のキャラクターなどうっかりすると騒々しくなるところだが、呉美保監督の演出は抑制が効いている。これが二作目とは思えないほど大人の落ち着きがある。「月ちゃん」が母親のことを「オカン」ではなく、「おかあさん」と言っているのもベタついていなくていい。 そのあとに衝撃がある。なんと母親が癌であると分かる。母親は余命わずかと知って、「月ちゃん」の引き籠り状態を心配した。それなのに「月ちゃん」は母親に突っかかってしまった。「研ちゃん」も母親が癌のことを知っていた。だからこそ、喧嘩のあと、「月ちゃん」に仲直りするようにそれとなく伝えた。 はじめのうちはいつも怒ったような宮崎あおいの表情が次第にやわらいでゆく。とくに入院している母親のために夜、「研ちゃん」がお弁当を作っている姿を見て、自分も手伝うところは心あたたまる。ここでも「研ちゃん」の「料理上手は幸せ上手」が効いている。 「研ちゃん」は「残りの人生、僕に守らせてください」と言ってプロポーズしたという。これを「研ちゃん」自身の言葉ではなく、母親が「月ちゃん」に語るという間接的な方法にしているのも大人の抑制がある。「研ちゃん」が直接言ったら少し気恥ずかしい。 念願の白無垢を着た母親が「月ちゃん」に「お世話になりました」と芝居がかったセリフを言ったあと、「一度、こういうの言ってみたかったんだ」とおどけるのもベタついていなくて笑いを誘う。このあたりも呉美保監督は大人である。 古いものを大事にしている。縁側のある日本家屋、炬燵、卓袱台、仏壇。そして母親の勤め先の医者が子供に教える、緊張をほぐすためのおまじない「つるかめ、つるかめ」。「月ちゃん」が引き籠もり後、はじめて電車に乗る時、母親は「つるかめ、つるかめ」といって励ます。昔の暮らしの知恵が現代を生きる人間の気持ちを強くする。 |
○(4)<濃密だからこそ厄介で、だからこそ暖かい母と娘の絆>(渥美志保・映画コラムニスト)
25歳から30歳へと向かう女には、転機が次々とやってくる。仕事とか結婚とか、人生を見つめ直し、決断せねばならない瞬間が山ほどある。そんな時期に頭痛の種となるのが、実は母親の存在だ。少なくとも私の周囲には、無条件かつハッピーに「母親がだ~い好き!」なんていえる同世代の友達はほとんどおらず、「・・・まあ、いろいろ大変よ」とお茶を濁す派が圧倒的である。母親はある部分で子供を自分の所有物ぐらいに・・・あ、怒られそうだからもうちょっとやんわり言うと、もう一人の自分くらいに思っているフシがある。特に同性である娘に対しては、そういった同化意識が強く働くらしい。ゆえに娘への思いはある種の自己愛で、自分の人生の成功や失敗を踏まえてコントロールしたがる。自分が考えた“幸せルート”を娘が着実に歩むことは、母親の幸せでもある。もちろん娘も、世間を知らないうちは、それに甘えて生きている。だが遅かれ早かれ「母親の幸せは娘の幸せでない」瞬間はやってきてしまうものだ。それは別の言い方をすれば、娘が完全に親離れして大人になる瞬間である。ハリウッドの「一卵性母娘」、エリザベス・テイラーとその母親を、つい思い出してしまう。元女優だった母親は娘を“世界一の美女”として売り出し、その人生を死ぬまで支配し続けたという。母親と娘が別の人間として幸せを見つけることは、その密着の強さゆえ難しいものなのだ。 さてここに、すごい密着度の母親と娘がいる。母親・陽子は妊娠中に夫を亡くし、女手ひとつで娘を育ててきた。25歳になる娘・月子は、外で働かず、家庭を切り盛りしている母は飲んで遅くに帰ってきて、家の前で「月ちゃーん、開けてー!」と叫び、娘はグデングデンの母を寝床まで引きずってゆく。料理を時々手伝う母の手際の悪さに、娘は「よしよし」というテンションで付き合ってやる。母娘の関係は、時に姉妹になり親友になり、恋人や夫婦のようでさえある。互いが互いにとってのあらゆる役割を肩代わりする関係で、母は娘の一番であり、娘は母の一番なのだ。こういう母娘関係を壊すきっかけを作るのはたいてい娘で、たいていが男か仕事である。だが月子はある事情からその両方から目を背けている。大人になりたがらない娘にとって、自分を一番に考えてくれる母のもとは何よりも居心地がいい。そんな日常が、ある日激震する。母親が恋人を連れてくるのだ。ダサいキンパツの兄ちゃんである。 陽子の行動は一種の荒療治、その裏には彼女が子離れせねばならないと決意した深い理由がある。でも「今日から一緒に住むから!」と突然言われても、娘が納得するはずもない。娘は「なんでそんな勝手なことするん?」と母を責める。 そういう母娘の関係が(そしてこの映画が)なんとも上手くふんわりと着地できた理由は、この一連の騒動をほどほどのいい加減さで見ていた見物人がいたからだろう。母娘と同じ敷地内に住む大家の毒舌バアちゃん、サクちゃんと、陽子の勤め先のお医者さんで月子が父親のように慕う村上先生の存在である。ふたりは、ガンコに子供っぽくブータレる月子に説教するわけでもなく、かといって味方するわけでもなく、煮詰まった気持ちが焦げ付きそうなところで、真剣に怒ってるのがアホらしくなるような力の抜けた関西哲学を繰り出す。ヘラヘラ笑いを絶やさない陽子の“ダサあったかい”恋人、研ちゃんもまた、その哲学の持ち主だ。面倒なことや悲しいことは、たとえ深刻ぶっていても何も解決しない。悲しみを孕んだ母と娘のややこしい関係は、母親でなくとも温かい“世間”の愛情に包まれて、大団円を迎える。 そして私は、再び「一卵性母娘」について思い出す。94年に母親が死に、エリザベスはそのショックからしばらく立ち直れなかったらしい。そして00年にイギリス政府から爵位を与えられた時、その場にいた全員に母親への感謝の乾杯を捧げさせて、言ったという・・・・・「母に、そして“許し”に」。母と娘の関係は、濃密だからこそ厄介で、だからこそ温かいのだ。 |
<文責:藤森弘司>
最近のコメント